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ピークを超えて見えてきたもの [自分]

楽になった。熱も下がったが、ブログへの期待感

も、取れてくれたので、肩の荷を下ろしたようだ。 

が、書くほどの集中力を支える筋力が疲れたまま。 

風邪は治ったが、持病の回復には内臓の炎症  

なので、出歩いてもなんともないが、なにかに 

集中しようとすると、急に体が鬱になる。心では

ない。体の筋肉が鬱を発生する。僕らはそれを

心だと勘違いする。精神トラブルの場合はまた別だ。  


持病は38,5℃とか39℃とかでると、もう完治まで 

10日かかる。今回はそこまで行かないから、1週間

だろう、まだ4日だから、本当に楽になるのはまだ

2,3日先だ。 

人はトラブルを抱えたり、障害に悩むと、自分の

苦しみばかりに気が向くから、自分のことばかり

喋るようになる。病気にまでなると、毎日はそれ

への恐れから、自分の外側の世界で何が起こって

いるのかに注意が向けられないので、お喋りを

聞く側に回るか、発言が少ないか、しなくなる。

障害者同士だと小さなことで、それもどうして 

そんな些細なことでと不思議になることで、口喧嘩

になったりする。


パソコンが壊れるというのは、久しぶりだが、生活

が不調になる前兆だというジンクスがある。僕の

場合はそれで、今回もその通りにスト-リ-は

進んでしまった。いつもなら即パソコンを買い換え

てセキュリティやアプリなど設定を急いで、無駄

な時間を減らそうとするのだが、急いでそうする

ことはないと、急に決めてしまった。だから、本当は

今頃、パソコン立ち上げ・復旧にセッティングから

設定へと頭を熱くさせている頃なのだが、まだ

早いと待っているのだ。 

自意識がこの世という、0,00001%の世界なら、

残りは99,99999%があの世の世界だ。この世は

あてにならないと、僕は言った。では僕の自分は

どうすればいいか、追い詰められてしまう。この

世の正義も善も、愛も法律もあてにならないのなら、

どうすればいいか。 

その時に分かることではない、分からない世界

が、その膨大な世界が見えない闇として残されて

いたら、・・・。一か八か、飛び込んでみるしかない。

それが僕が潜在意識に丸ごと飛び込んだ真相

だった、そういう状況だったと今にしては思う。


自分はそもそも投影だから何かの影でしかない。

それはひとりになることがもともと不可能な存在

だからだ。

疲れるが、せっかくここまで来たから、書こう。  

子供が自己を確立させる年頃になると反抗期

が現れるが、それは親が愛情が過剰気味な

場合だと強く現れるのは、その子の中で成長

した自分が親によって埋没してしまうのを防ぐ

ためだ(最初の自己防衛?)。そして、子供が 

まだ自己が確立するかなり前だと、親しい

家族・親戚などが帰ろうとすると、泣いて帰ら

ないで、と帰る人を喜ばせるのも自己がまだ

未熟なためにその正体を隠せず、現している

からだ。

笑ったり楽しんだりしてその人たちに感情移入

して、その人たちと急に別れるのが分かると、

悲しいのは自分と別れる気がするから。

感情移入した相手も自分に思え、それと

別れるのは永遠の別れに感じる。泣く。

それはまだ慣れていないし、この先もほぼ

意識しないで生き続けるのだが、この時は

まだ赤ちゃんの自我なのだ。そして、親とも

別れなければならないのだが、それは自然

から生きる手段も目的も獲得しながら、自然

と共に、それが家も命も奔弄される脅威で

あることがあろうとも、生きる定めにある。

それがその現実に向かわねばならない自立

になるのだが、それは自分が描いた世界の、

この世の写し絵という仮の世界の自立で、

いわば、自分の世界の中の自立なのだ。

その意味では仮の自立と言える。それは

困難が波のように懲りずに何度でも襲って

くるように感じるし、実際のこの世を同じ

パターンで写し取る。皆それを同じに見る。

リアルに迫る必要があった時にその人の

内面でその違いが鮮明に、また内容が

あいまいになる。裁判の進行・模様を見る

ようなものだ。何が事実か、証拠を並べた

だけでは信用できないことが多く、僕らは

DNAとか肉眼で見えないものまで使って

事実を固めようとする。

自分という存在は自立ができないのに、

知でそれを概念の別わくで作り上げる。

それは仮想でも他に総合での認識手段を    

持ち合わせないから、人間という生物は

その鏡に自分を見る。初めは見て認識して 

触ってみて、そこにあるので、感覚ではなく、

認識を信用する。 

それが確固たる自分の虚像になり、時間・

年齢とともに強固にする。老人の頑固さや

意固地さ、狭量さや短気さというものが顕著

だったら、それはそれまでにその人が依存

してきた認識が心に食い入り根になった

不可抗力のせいである。


自分はひとりではないのではない。そういう

自分は確かにひとりだけではなく、大多数

がそうだが、本筋はひとりになることが自分

の存在理由として、つまり孤立して、隔絶して

ひとりであるという状態になることが、元から

不可能だからだ。

孤立感や隔絶感は感情的に自分の死を潜在的

に知らせるだろう。それが僕らの人恋しさや

寂しさを発生させる理由だ。


できないものはできない。こうしたら、(即席の

考えで)少しはできるんじゃないかというのは

「できない」ものではない。

自分と知は合わせ鏡に映ったそれぞれを、

ひとつにする運動(自分)と分離する(分離

して、統合してまとめる)運動(=思考)として、

無限に鏡の中に映し出す。それが戯画で

あり、片側の鏡だけでは存在できないのを

知らずして、また無意識下で知っている。

だから、僕らは瞑想を通してしか、気づく

きっかけを得られないし、またそれでも

半無意識的にでも感じることしかできない。

知性はあっても、感情が中心で強いなら、

知性(亜・自分)から自分を知ることはできず、

感情は自分に取り込まれた場合に(または

その逆の場合も)強い自尊心やプライドを

発揮する。この世の仕組みではどうにも

自分を知るようにはできていない。

それは精神の物理的な問題で、いくらでも

考えたからといって変えられることではない。

この仕掛けは不毛に見えるが、そうでもない。

僕らは恋愛すべく、恋愛して、争うべく、争う。

戦争は単純ではない。人と人との争いごと

ではない。社会の仕組み国の仕組みを悪用

して、自分の手を汚さずに快楽(金儲け)の

ために人々の労働で形になったエネルギーや

資源を集中して大量に奪い取るためだ。彼ら

は主に銀行家や超富豪やそれぞれの分野の

権力者たちだが、彼らは前線から離れた安全

地帯で指揮する。自分が一度でも初年兵から

戦場にまで参加してみれば、歴史に戦争は

こうも生まれなかっただろう。戦争で味わう

苦しみも悲しみも、その凄惨さも空しさも、

彼らには無縁だからだ。経験しないから、

笑って見ている。

実際に感じることはないから、いくら儲かる

かだけ計算している。そういう連中も自分

が分かっているのではないから、協力し合い

ながら敵対するそれぞれがお互いに振り

回すか、振り回されるかしていて、彼らは

彼らで賭けをしている、僕らの命という駒で。  


群集心理も僕らがそもそも自分に振り回され

ている自分という世界に無自覚で嵌まって

いるのでなければ、起こり得ない。同じ方向

へプライドが感情で雷同して、知性の判断を

停止させるか、皆と一緒に扇動された判断に

巻き込まれる。

赤信号、みんなで渡れば怖くない、と言った

のは北野たけしらしいが、言ってみれば底辺

はそういうことだろう。それが日常で見たり

聞いたりできるものなら、冷静な人もいる

だろうが、それが非日常な事件では頭の中

の混乱した情報に身を任せることになってしまう。 

それよりも周囲の意見に併せたほうが安心

な気がしてしまう。真の自立がそこにないから、

そうなる。僕らは自分とは自立していると思って

いるが、それは日常的な生活の中でそれを

考えているからだ。危機の時に本来のひとり

ではいられない自分がそこにいる。



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