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明治からの四方山話、+第2章 未来デザイン [明治]

飛び切り、個人的な感想を、記憶に

頼った当てにならない話でしていい

だろうか?そう聞かれたら、それは

まずいな、と答える。碌なものしか

ないし、誰もいない部屋に盗みに

入る?そんなような話だ、これから

書くのは。答えは落胆するだろう、

という落ちだ。だジャレではない。



西郷(せご)どんはNHKの大河ドラマで

林真理子の原作で作られたが、よく

書かれてはいるが、一つ物足りなかった。

西郷吉之助の人間の大きさと呼ばれて

いるものが出ていないのだ。

女が書いたからだ、と言うと、女性蔑視に

なるのだろうかとも考えたが、男としては

西郷の西南戦争でも彼が戦いたかった

だろうな、だから、青年たちの説得に

こらえきれなかったのだと見ている僕は

ドラマに戦いに血が騒ぐ男の本能が見え

てこず、これも物足りなかった。

武士の気概という、無駄に見える精神が

幕末には充満していた。勤王浪士はいつ

新選組に鉢合わせして、刀を抜くかわから

なかったので、なにが怖いか、という話で

聞かれると、死ぬのが怖いとは決して

言わなかった、武士の恥だった。それで

下駄の鼻緒が切れるのが怖い、と言った。

斬り合いともなれば、下駄は脱いでしまう

のに、鼻緒が切れたら布の端切れを

使って結び直すのが面倒だ、と可愛い

ことを言ったのだ。

坂本竜馬は物騒なので、師の勝海舟に

護衛をつけたらしい。人斬り以蔵だった

とか。

実際、刺客に襲われて、以蔵は素早く

斬り殺したが、海舟は殺さずとも、とか

言ったらしい。それで以蔵は、先生、オレ

が斬っていなければ、先生が死んでいま

したぜ、と答えたらしい。(小説?)

海舟は殺さずの精神を言いたかったの

だろうが、現実は殺さずんば、死がある

のみ、という状況があるのも、確かだ。

現実は精神論では通じないことが多い。

学力は深かったが、性格剣呑で、法螺

吹きとも高杉晋作に言われた恰好づけ

の佐久間象山も西洋かぶれの反発を

買っていたので、勤王の刺客に襲われ、

背中を見せて斬られ、死んだが、武士

が逃げを見せたというので、幕府からは

なにか家格か?なにか、下げられた

らしい。

それほど武家は名分に対しては原則

主義で厳格だった。

もちろん、それは原則論が通じるお裁き

が行われてのことだ。巷はそうではない。

ただ江戸時代後期の武士の肩見は狭くて、

刀を抜くことは、御家断絶につながる行為

だった。

ある藩ではフランス船が攻めてきた時には

負けて、藩の命令で戦った武士たちに罰を

与えろ、とフランス側から要求があった。

その理不尽な要求に、その藩士たちは

涙を呑んで従う他はなかったらしい。

切腹を命じられた。藩のために戦い、藩から

その戦いのために自ら死ぬことを命じられ

たのだ。森鴎外がドキュメンタリータッチで

書いている。見直してみるとそれは「堺事件」

のことで、土佐藩の話だった。

フランス水兵の上陸でその狼藉でトラブル

になり、水兵が一人殺され、水兵側も短銃を

放った。水兵を追いかけていた土佐藩の

二人の隊長がとっさに決心して、兵卒に

撃てと命じて、結果、フランス側は13人、

死亡した。これに抗議したのである。

ふたりの隊長も命令なしで反撃した

かどで隊士もろとも切腹を命じられた。

その前にも町でも狼藉があり、藩士

も町民も腹に据えかねていたので、

自然な成り行きでもあった。(なんか、

沖縄の米兵のレイプ事件などの狼藉

を思わせる)

これからが凄い。

フランス将校や兵士が見守る中、切腹

が行われるのであるが、「武士」である。

並みの精神の持ち主ではない、その

理不尽な鬱憤から、ある者は腹を切って

から、その自分の内臓を引っ張り出して、

千切り、フランス兵に投げつけたらしい。

これにはフランス兵も驚くだけでなく、

吐き気がして皆、切腹の会場から逃げ

出してしまったらしい。その後の者は、

罪はそのままだが、切腹は免れたの

だろう。

これをどう見るかだが、僕はしてやったり

と喝采したい方だ。残酷とか、気持ち悪い

とかは、軟弱な神経にしか思えない。

男にはそういう処があるが、こういう

感覚も精神もわからなくなって行くの

だろうな、とも思えるのだった。

西郷の「敬天愛人」も若い頃、学んだ

中国の儒教やその他の思想のごった煮

の書物「近思録」からの影響だったろう、

それは彼の理想精神であった。

「敬天愛人」そこから鹿児島に西郷神社

が祀られ、彼は神さまになったのだ。

現実はそうはいかない、死に場所を

求めることと戦いという命のやり取り

に身を捧げたいということはたぶん、

彼の中では同じであった筈だ。

人間の大きさは、竜馬がうまい例えを

残している。西郷は大きな鐘のようで、

小さく叩けば、小さく、大きく叩けば、

大きく鳴る、と。それは彼の「自分の

容量」が底なしで人を受けいれるのに

制限がなかったことを示している。

(敬天愛人の=人を愛す)

気にするほどの小さな自分をもって

いなかった。宴会で険悪な喧嘩が

始まった時には、自分の金玉を

さらけ出して、それにろうそくの火を

かざして、(熱いのが)我慢できるだけ

待ってくれ(?)、とか言ったとか。

周囲はあっけにとられ、喧嘩どころ

ではなくなったという話だ。九州人は

物や動物も人並みに扱うようなところ

があり、変人だ。僕が営業をしていた

頃にも九州の浅黒い男がいて、公園

で猫に話しかけて営業をした、と話し

ていた。西郷も川を流れる下駄に

どこへ行くですか?とか話しかけた

エピソードが残っていて、猫に話し

かけるくらいは当たり前らしい。



人間精神の幅・範囲を超えている。

それが一度死んで生き返った西郷だ。

彼がいなければ、明治維新は徹底して

戦われ、また行われなかっただろう。





第2章  未来デザイン


科学というのは手法のことだと思う。

真実も、いや真理でさえ無関係だと。

科学は科学の世界を数理の概念で

映し出すが、それは常に現実と乖離

している。と、幾度も書いてきている。


数学はその内実の世界の正しい論理

を想定して、正しくなるように設定され

たが、そう区切っても、それを展開させ

ると、数理自体が現実に近づこうとして

おかしな概念を次々に含めるようになり、

ついには理解不能になる。

数理は数理自体に還元されるのが

本来なので、人間が数字に置き換え

られないのと同様に、固有の区画は

人間に適応できない。数理は現実に

近づければ近づくほど、また近づけ

ようとすればするほど、矛盾をきたして

理解できなくなる。心はそれを質・量

共にあいまいな結びつきや飛躍に

よって数理を超えてしまう。アルゴリズム

は初め一部の関連を結びつけ、次に

経験学習によって、その範囲を広げるが、

その全体を固有の因数で結びつける

のは変わらないので、人間の直感とは

無関係な、無機質な連想に関わって

いることになる。機械の発想と人間のする

発想は異なる。手品で超能力に見せる

ことはできるが、どれほど速くても、計算

にはその過程があることに変わりない。

人間にはその全体をシフトしてしまう展開

としての飛躍がある。全体と一部を交換

するにしても人間は自然な体と心の知能

がその選択をするが、機械はそれを誘導

する「自己」がない。

AI にあなたの好きな曲はなんですか?と

尋ねたら、AI は何と答えるのだろうか?

答えたとしたら、そのAI に自由な発想は

できるのだろうか、好みがあることは

すでに優先事項が決まっていることで、

正しさではない、その意味は理解でき

るのだろうか、AI が自由を理解するのは

心もとない。

もしも、機械がその人間の自己を複製

するなら、できたとしても、それを理解

した人類からたぶん、将来、自らの知性

を全体で進化(突然変異)させ、残りの

知性も同じように進化してしまうはずで

ある。

可能性は新しい感覚の獲得という可能性

かもしれない。新しい感覚が生まれると

いうことは、それによって役立ち、必要

である、そういう事態や事実に対応する

ということで、それは新しい世界の分野が

もう一面で誕生することである。

これまでの五感の世界が統合・修正

されることになる可能性が非常に高い。

そうなってみないと何がどうなるかは

詳細は予断を許さないが、想像の外

のことが起こるはずである。

例えば、これまでの経典や聖典と呼ば

れるものを廃棄して、新しい考え方や

教条のようなものを思想する人間が

現れる。既存の概念・常識では理解

できなくなる。

新しいブッダであり、孔子・ソクラテス

は必然なのかもしれない。その聖者

たちのイメージは根本から古くなると

いうことだが、僕らの心の秩序が変化

してしまうことは、俄かには信じがたい。

だが、刷新というのはそのことを指す

のだろう。


< そして >


明治なら藩が消滅してしまう廃藩置県

の実施にあたる。しかし、それも中央

集権体制という外国からの借りもので

あったが、 ・・・。 

民衆の中には廃藩置県で天皇がぼた

もち?をくれると勘違いしていた者も

いて、いろいろあらぬ噂があったようだ。

情報が自由であるように見える現代に

あっても政治(日本は敗戦による米国

からの洗脳事情)がからむと、情報統制

が必ず起こる。

科学も思想や体制という概念分野であり、

その実行・実施は現実による混乱が引き

起こされることになるのが、今までの

歴史の常である。

未来もそれは変わらないに違いない。

 
::

この稿と、「自分の在り方・・・・」(追加)と

「曇り空・・・・・」(詩なのであまり追加ない)

の3稿を交代でくり返し、同時に書いて

いる。とても楽しい。この稿が最も追加が

多い。

まだどれを先にUPするのか、決めて

いない。
                   6.15


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