SSブログ

窯から出るまで [陶磁器]

まず、ひとつ整理しなければならない

分析のための点がある。

秦野の教室で自分のこしらえた小花瓶

が突然、ものを突破したことだ。ある

集中があって、その粘土のデザインを

見ていたのだが、形というものが

あった。

それは花瓶が花瓶に見えていたのでは

なく、形そのもの、というわからない

ものだった。その「もの」のほうから

襲われたような感じ、それが近い。

それは美しいというようなものでは

ないだろう、今思えば。

そこには新しいものであるかのように

形そのものが自分が何であるかを示し

ていた。そして、それを受けること、

感じることがそのまま感動だった。

今に気づいたのは、僕は眼を開いて

瞑想のポーズをしたことはない。

だから、瞑想が来たときはいつも

瞑目していたのだ。

その花瓶を見つめていた。だから、

眼を開いていたので、これが瞑想

ととても良く似た現象だと考えた

ことなかった。

眼を閉じるのは見える光景に注意を

奪われないようにするためで、そう

しなければならない事項ではなかった。

だから、瞑想が形を通してきたとし

ても、気づきにくかったのだろう。

なぜそれを言うのか、それはそう

考えると納得しやすいからだ。

僕は呆然自失していた。それは自分を

失うという、瞑想のための準備に適っ

ている。五感が働かなければ、また、

なにも考えない状態になれれば、いい

のである。

つまり、僕はその無の世界からの観照

を受けたと考えられる。そこで形の

この現象界(現実)での五感に照らされ

た「もの」という感じではなく、僕ら

には五感を通した経験である「もの」

ではない、新しいその「もの」(花瓶)

を見たのである。だから、ものがそう

いうように見えたのは初めてである。

それがまるでその花瓶を透過したよう

に感じたので、そう書いたが、多分、

違う。ものを突き通すというのは言葉

の彩とか表現で、実際はそこにあった

ものをソノママ感じたのだ。

だから、僕はそれをものの美だと思っ

てしまったが、それはものの無意識

な形であった。

そう解答すると、その後に僕がそれを

次の粘土の形や、陶器に形になんの

感動もなくなって行くという過程が

わかる。透過したと感じたので、目の

前のものではなく、その形の向こう側

を見ようとしてばかりいた。

それで見れないので、だんだん落ち込

む、という段階を辿ったのだ。

これも美という妖しいものの落とし穴

のひとつなのかもしれない。落ちて

みなければ、なかなか上達していか

ないような、つき合いなのだろう。



秦野と練馬の二つの陶芸教室に通って

いるが、どうしてその必要があるのか。

それは秦野では手びねりで粘土が中心

で、練馬では初めから磁器を目指して、

電動ろくろで磁土を中心にしている

からだ。

粘土と磁土とは性質が違うので、土

の練りも違う。磁土は少しの鉄分も

嫌うので、窯も清潔さを要求される。

一緒に焼けないのである。


その土の練りというのは、どちらの

教室でも重要事項として教えられて

いる。初めは気にせず、聞いていた

だけだったが、その土の粒子の肌理

というものがいざ本焼きで焼成した

時に割れやすいか、空気が爆発して

しまうか、を左右するものなのだ。

その練りの方向によっても、ろくろ

では回転方向に合わせないと、粒子

がばらけるような方向では、空気が

入りやすくなる。と、なかなか職人

の技なのだ。

練馬で磁土のほうがよく練らないと

ならないとかで、菊練りというやり

方で片側、最低100回ずつ計200回と。

しかし、秦野では片側30回だと言う。

秦野では磁土ではないので、それ

より少なくていいらしい。


その菊練りが大変。見ていて真似すれ

ばいいだろう、と簡単に考えていたが、

僕の器用さでも一部しか真似になら

ない。

やがてわかったのは、右手と左手で

それぞれ異なる動きをしないといけ

ない。力の入れ方も右と左で異なる。

というイレギュラーなので、ともかく

相当かそれなりの練習量が必要。目安

は3か月だそうだ。

100均ショップへ行くと、とても違和感

に襲われる。そこそこの茶碗や湯呑や

皿などがきれいに仕上がっていて、陶器

を生活用品で使うのなら、それで足りて

しまうからだ。手に取っても、重さも

適当でよくできている。工場生産だろう。

磁土を練る機械もあるだろうし、型に

流し込んで、大量に焼くと聞いた。

僕は菊練りの練習をキーボード打ち

が重なった所為で、左手首が腱鞘炎

になった。高齢者には、菊練りの

機械が必要らしい。

ともかく、体力が要る。それほどに

手間暇と体力、多少の資金も居る

陶芸は贅沢な趣味である。そして、

完全に不足しているのは、そういう

陶芸の価値に対する意識である。

日用品という安価なもののネック

があって、高額なものではない、

という固定観念が日本には、いや

世界にははびこっている。

陶芸教室に通って自作を売っている

人もいるが、一つの茶碗でも作成の

時給を引いても、ひとつ5000円の

原価だろう。労働時給を考えれば、

1万円で売っていいものなのだが、

そんなに高いものを買わないだろう、

と世間の固定観念がそう言う、の

ではないか。

練馬の先生はすべて東京の芸術大学

の卒業生で、中堅作家の人が多い。

それでも芸術作品でひとつ3万から

5万くらいだろう。まったく気づいて

いないが、それでは安すぎる、とい

うことだ。

芸術であるからには、日本では過去

の偉い先生の作品しか高値がつかない、

と考えられているので、陶器市場の

関係者も新人への(意識しない)投機

の要素が足りないとは思っていない

ようだ。

投機も闇天井になるのは、金持ちの

自己満足に堕しでしまうが、健全な

市場を作ることもできるはずだ。

中堅作家の作品が5万円では情けない

次第だ。

磁器の場合は削りの仕事が多いので、

粗削りと本削りの2回行われる。

焼成にしても3,4か月に一度くらい

なので、作り始めてそれが焼成されて

出来てくるのは、平均3か月に1度?

くらい。体験教室でも1か月くらい

先になるはずだ。

それでも焼いてみなければどうなる

か、どういう模様になるかわから

ないことが多い。自然との掛け合い

なので、ある程度までしか計画通り

にならないし、また登り窯などのよう

に計画通りにならない焼成窯のほう

が出来上がりの予想以上にいい景色

(模様・色など)が望めるので、作家

の好みに拠って窯を使い分ける。


最近、僕のものも窯から出てきた。

自分のものは評価するというのは

難しさもあるし、評価することが

自分の気に入るように感じたよう

にしたいので、ほぼできないと

思うのだが、ただ気に入った処が

あればいいと思うのだ。

その控えめな観点からは、僕は

すべての(三作品)で色合いが

気に入った。

試作品1-1.jpg

猫?である。

タヌキだと言う人もいた。

が、僕にはこれをリアルな写実的

な猫作品にはしたくなかったので、

こんなもんじゃあない、と。

試作品2-1.jpg

歪んだ一輪挿し。

意外に、狙っていた色合いに仕上がった。

これを手作りでやっていくのは、時間が

かかり、ろくろでやりたいと思った。

試作品3-1.jpg

これも色が織部の緑風で気に入った

が、飯茶碗に合わなかったと反省した。

自分の飯茶碗は別に最近出来たので、

30日には持ち帰れる。


なので、ただの(使わない)器として

見ている。


美については分析では関われないので、

これからもどれだけのことが言える

だろう、と思う。自分の評価が絶対

どころか、それに近いものでもないと

しっかり自分でも思えるので、精神

から遠い作品には口をつぐみたい、

と思うのだが、・・・。 




nice!(10)  コメント(0) 

nice! 10

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。