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「令和」に群れようとする虫と鳩 [心理]

「虫」は魑魅魍魎などの妖気や心理分析の象徴に使われる。「鳩」は平和の有名な象徴で

あり、またハト派という政治での穏健派の象徴でもある。また、ノアの箱舟では、大洪水

により破壊された地球に現れ始めた陸地の印を、オリーブの葉で持ってくるのが鳩で、

新天地の知らせ、その使いでもある。

新元号は元号である。テレビでその号外に群がる群衆を見て、思った。元号は知れば

足りるもので、号外として獲得するものとは思わなかったので、ここには僕と共通する

日本への心情があるのか、と考えてしまった。

その号外の取り合いで、端が破れ、しわくちゃの号外をインタビューに答えて、

「取れて良かったです」と言っているのに、また驚いた。家の家宝にするのではない

ようだから。また、将来歴史の証拠として高値で売るのでもないのだろう、質が

悪くて。

そこにはやはり、根っこのある群集心理が働いていて、意識せずに突き動かされて

いるようだ。いつの時代も変わらないものなのだ、と感慨まではしないが、ふーん

と凝視する。

科学者的な見方をすると、これはつまらない現象だで終わってしまう。が、これは

科学的・化学的現象ではなくして、歴史的、歴史としての現象なのでそれで終わりに

はならないし、できない。

これはそれほど真面目で、真剣な話題ではないのだ。言葉は大仰になっているが、

時間の長さと積み重なった僕らの心を示しているにすぎない。

レコードがまた流行り出したらしいけれど、そういうことに含まれている僕らの

古く、新しいカンのようなもの、それについて。


今の明仁天皇は特別な道を歩かれた。・・少し急ぎ過ぎた。


チャールズ・ダーウィンは「種の起原」によって自然淘汰説を説いてから、のちに

「人間の由来」で二つの予測をした。ひとつは人類の進化が始まった場所で、地球

上に生息している哺乳類はかつて同じ地域で生息していた仲間と近似関係にある。

ゴリラやチンパンジーは類人猿に似ており、アフリカにいるから、人類の遠い

祖先はアフリカ大陸に生息していた可能性が高い、と。

ふたつめは二足歩行、道具を作る技術、大きな脳という人類の大きな特徴は、

いっせいに現れ、セットで連鎖的に進化した、というもの。この仮説は明解な

シナリオであるため人類学の発展を支える柱となった。(「ヒトはいつから人間

になったか」リチャード・リーキー:著)

ダーウィンから20世紀にかけての科学者はホモ・サピエンスの特殊性を確信して

いる者ばかりだった。それでこのふたつめの仮説は受け入れられて、人類の発生には

超自然的な力が働いていると考える方向で研究が進められた。

反対にアフリカ人類発生説は、まだ初期人類の化石は発見されていなかったので、

ダーウィンの推測によるもので、科学者に指示されなかった。

面白いことに、他の科学者に指示されなかったアフリカ発生説は正しく、指示された

「セット」で進化した説は、1970年前後からの生化学(分子遺伝学)からの研究

で否定されることになった。しかし、その論争は10年も続いた。

ここでのポイントは科学者たちがなにを人類の基本に見ようとしたか、認めたかったか

という点に尽きると思う。科学者たちは暗黒大陸と呼ばれるようなところから、人類が

始まったとは、考えたくなかったのだ。それは人間の尊厳を損なう気がしたのだ。

同じように、セットで進化したのは超自然な力、つまり神の意向が働いたのだと

考えたかったから、指示されたのだ。それこそ人間の誕生にふさわしいではないか、

と。ここにあるのは自分という人間へのプライド・誇りである。大きくは聖書の

影響である。子どもの頃から、親、教会、大人から、つまり社会から受けた感化

なのである。

そこで元号にもどってみよう。明仁天皇が象徴としての役目を果たすため、福島の

被災地、戦没者の墓などに頻繁に訪れ始めたのは記憶に新しく、僕らはその姿に

感謝の念を覚えた。

僕は若い頃は天皇の存在は見なかった。そういう人が日本にいる、としか感じ

なかった。当然、興味もなかった。だが、テレビを通じて天皇の姿に感謝だけ

ではないある投影が感じられた。そういう人間天皇に転換した姿を見て、逆に

天皇という日本の歴史的位置・地位というものを胸に沁みて感じられるのだ。

これは思ってもみなかったが、日本に天皇を抱いてきた熱くなるような誇り

であり、感激だった。天皇が自分たちの代わりに日本を代表してくれている

という感謝もありながら、それを支え、もしかすると越えてもいるかもしれない

尊厳を感じるのだった。

この日本人としての胸の熱さはここから来るのだな、と思った。この誇りに

海外から日本が褒められるとわけもなく嬉しくなる、そういう衝動の動悸が

隠されている。そして、思うのだ。これはダーウィンを指示して間違えてしまった

科学者たちと同じパターンの誇りであり、プライドではないか、と。

恐い。

これは1300年に及ぶ日本人アイデンティティ成立のための大化の改新前後から

のマインドコントロールに相当するではないか、と。日本人のヒステリーとも

言える伊勢神宮へのお蔭参りやええじゃないか、などはそういう心根が狂喜乱舞

したのでは、と考えてしまう。

と言うのも、僕はこの狂喜を喜びをもって迎える気持ちを持っているのを、無視

できないし、このルーツという芯を手放すのは、よし、としないからだ。

元号の号外に群がる者たちに同じ血が流れているのではないか、と思え、そこに

無意識な天皇崇拝の芯を感じるからだ。これは僕には個人問題に置き換えること

ができるが(今ではないが)、一般命題としては群集心理になるのだろうか、

それで収まるような問題なのだろうか、と。

今言えるのは、これは僕ひとりの問題ではない、という微妙な気づきのことでは

ないだろうか、と。

どうだろう、僕らはほんとうに天皇の子であるだろうか?

精神の子孫でもあるのだろうか?

僕らはそれに群れようとする虫なのだろうか、それとも鳩なのだろうか?

それとも ・・?

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