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過去を語る:自分を測る [自分]

昔みたいに  ひとりで 泣いてみたい

と 思うが  嘘だとわかる

悲しみ じゃ

もうできないこと だからだ

人のことならともかく  自分のことで

泣くことはない  だろう、とも思えない

自信じゃない   構える 必要もない

昨晩は 肋間神経痛に なった

胸から なにかを吐きたくて

職場の外に出た  夜の浅い 側溝に

酔っ払いのように  嗚咽するが

出るのは 空気しかない  

肋骨が分かれる 骨の中点が 痛くなった

なんだ、これは と思ううちに

苦しくなってきた

それで  その痛みを 思い出した

肋間神経痛!  時々ある

冷えた時にあるが  それにプラスした原因が

あるのだろうが  それがいつも わからず終いだ

痛みは  市販の風邪薬で  15分で

緩和して しまうが

取りつく 苦しみは  そのままだ

それでも 大したことはない

落ちつく

これは 癖になってしまっている

苦しみには  すぐ 対応してしまう

最短で  最良は  知らなくても

適短で 適良な 治療を  施す

すぐ 集中するので  苦しみを味わう 暇がない

感覚は  治療中に 続くが

それについて 感想したことはない

考えない

一度 経験したら  それをくり返しても

得るものはない

新しい 苦しみではないから

そう  反省してみれば  僕は  精神で

小さくも  大きくも  苦しみに 陥ったら

その距離を  測りはじめる

その質量を  測りはじめる

それは できる

自分という精神と  等価のものに

比較ができるならば

そこから  自分の状態を  抜き出すことができる

その実験で  結果というもたらされたもの、

それは 日記でも 随筆でも 絵でも  音楽でも

なんでもいい  自分のうちから  現れたもの(表現)であるなら

それを 見つめ  初めて 考える

それは 問題であり、答えである という形を

している  いつも

でも  簡単なのに できないのには わけがある

通常では 僕らは  ”自分”と比較にあるものを 持っていない

自分は ただの言葉ではないし

自分の知性で 考えることは  自分に対しては

役に立たないからだ

知性は  感情から考える人もいれば

感覚から考える人もいる

直感は  それなりに誰も持っているが

知性は その中心に合わせて  姿・色を変える

そのそれぞれのコラボ関係は  自分のうちの知性では

解けない  残念ながら  

ふつうに 外からの客観を 必要とする


僕は  19歳で 一度  死んでいる

それが 臨死とか  疑似の死だと

わかったのは 20年後

死んだ教訓はあったが その意味を 知るのは 

さらに 20年後に 無意識に  ジャンプ?

あるいは 飛びこむ?という  離れ業をした時だった

個人的に  人生で最大の 恐怖だった

無事に もどれないと 知っていたかのように

覚悟しなければ ならなかった

そういう瞬間は  なつかしい

死を  決心するのは  そう何度とある、

ことではないから

おかしい(笑)  おかしいのだ

今から 思い出すと  そんなに 恐怖だった

自分が  子どものように  思えて

あれほど  真剣に 悩み、迷ったのに

(決行!)

それからが  ほんとうに  世界が 開かれていった

40年も かかった  僕は 頭のいい 人間ではなかった

すべてのピースが  埋まるまでは

その小問題の 結果を 小停止させ

待った  その他の 傍証・証拠が 固まるまで

どんな考え方でも できるようになるまで 

自分の考え・世間の言われていること・常識や常套句に

なっていることに  明らかに 三者三様の

誤解と理解が  得られるようになるまで

一度は  頭がオーバーヒートする 経験をした

エンジンと 同じで  思考停止になり

頭が働かない 鈍い感覚に 陥ったのだ

それから  同じ回路は くり返さないようにした

ひとつ ひとつ  クリアしながら  進んだ

ある程度  整理が進んだら  発想や 直感が

自由に 来るようになった

僕は  頭がよくないのを 知っていたが

決して  それを 自分に刷りこむことは しなかった

あきらめたら ジ・エンド  

だから  最後まで  これで終わりだと 思っても  

さらに  食らいつく  もうダメそうだ と見えたら

すぐに それを  心から打ち消す  

ともかく 破れかぶれで  終わりを 認めない

だから  必ず  結果を出す  ということに。

こと精神の問題に関しては  なぜか

妥協しなかった  引いても 後で やり直す

臨機応変さも あった  直球ばかりではなかった

途中で  友人から  自分はバカだと 紹介すると

楽になるのを  学んだ  そのセリフが

使えた時に  4,5回使ったが  自分を告白するのは

楽しかった  はじめだけ ちょっと勇気がいるが・・



今夜は  ネットで 「悟りとは 考えないことだ」 という

のがあった     なるほど、  それも一理

または 本質であり  側面でもあり  さまざま、

という気がするが  ・・。

還暦を過ぎて  バンジージャンプを  することが

とても健康的だとか  心臓にいいとか

思えない

したことがないから  する というのが

十分な動機になるくらい  僕は  人のやらないこととか

経験したこのないことを  やってみたい

強く 惹かれる  というのは  あっても

僕は  それを 必ず  やってしまう

人は 面と向かって  バカとは言わないだろう

面と向かっては ・・・。 だよね

自分を  そこに 置いてきた

知性も  そこに 置いてきた

自分からは  考えない

知性だけからは  考えない



今の僕は  うまく 言えない

考えるのなら  どんなにでも  言える

どんな言い方も  不十分になる  

なら  無知を 楽しんでいる、という言い方は

どうだろう

雰囲気としては  そんな  感じなのだが

知性がないのではない  知性が あわびになった、

そんな 固そうな  柔らかそうな  なんとも


また 自分を 迷宮にしている、とも

そして  迷宮には  興味をなくし かけて

捨てようと さえ している

ああ  過去のことだった

今が  気になって

どこまで  話したか

僕が  僕の バックドアを つくっても

それが どこへ通じているのだろう

通じているから  どうなのだろう

答えは  なにかの  変形ではないだろうか

解決は  なにかへの  変化形ではないか

それが うまく当て嵌まるには  それなりの

工夫や タイミングが  あるだろうが

それは  それで 済んだとか

終わりになるものでは ないのではないか

だから  どう生きるかが  大切になる

そういう 奇妙な 繊細な  泳ぎ方のように

どうするかが  重要になる

僕は たぶん  それに 体を 合わせようと している

気持ちを  捻じ曲げても  合わせようと

感覚は どうなるか わからないが  合わせようと

この 上下のない 世界を  泳ぎ切ろうと

なにも  決められないのだ

ああ  またしても  答えを出してしまったね  自分

まだ  海水が  引いている というのに



古い映画が  終わろうとしている みたいだ

暗いままの 館内で  おまけの映像はないかと

坐ったまま

君は  明るくなるのを

待つのか

なにも 確認するものは なくなった、と

確認したいのか


さあ  外へ

外光の まぶしい  世界へ

さあ ヘロー !

I need You  now !

You need  Me now !


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