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こころの知的解釈 :概知の~探る その10. [知の思考]

ここで僕の「心」についてのおおまかな(知的)見解を書いておこうと思う。

その統一見解は僕にとっては不可能に思えるので「知的見解」と断っておく。

一応説明すると、心について感覚で捉えると、僕には未知の部分が多くて

書けるまでに至らない。まず、これから見解を語るにしても、その知的見解

はあくまでも知的にわかりやすいので、伝えやすいことになる。それで

書き出すことにしたが、感覚的説明からすると、知的見解はかなりあやしい

ものになる。思考も感情も感覚も渾然一体になってしまう態のものだ。

そういう感覚的な断面から見たものを知的に整理して見解をつくることは

できると思う。まだそれらしいものを論文、記事、書籍、雑誌で見かけた

ことはないので、気がついても誰も、その難しさに手を着けないのだろう。

前置きはもういいだろう。

これは「過去を語る:自分を測る」の記事の一部を解題する形で書かれて

いるが、全般ではこころの説明になっている。


珍しく、自分の書いたものをブログ記事”全体”で解題する。

僕の頭では常識になっていても、もう3年も書いて来ての

ことだから、昔々の記事になってしまっていて、僕の見解も

微妙に異なっているのかもしれない、と思うと、これは

自分のためにも復習しておいたほうが「良かんべぇ」と

なった。

人間の細胞は約37兆個の細胞でできているのが、最近の

研究結果だそうだ。受精卵は1個の細胞なので、それが

46回分裂をそれぞれくり返すと、37兆になる。2の45乗に

プラスαというところ。その増殖過程でいろいろ何になるかの

機能が決まって行くらしいが、そこはまだ研究中なのだろう。

この37兆という数はぱっと見て、わかる気がするが、現実に

1秒で3個数えることができたとして、数えるとなんと40万年

かかるらしい。時間を戻す方向なら、今の文明文化もどこかへ

いなくなってしまう。

次に心のあり方(存在として)は即物的ではない、と誰もが感じ

ながら、それを特定でないことも経験で知っている。この経験は

前提としてある「知識」で、知が働くと同時に、意識と心が即、

立ち上がる。もの心がついてから、そのくり返しで僕らの心に

固定された。

その話をちょっと覚えておいてもらいながら、”準”本題に入ると、

心はどこにあるのか、ということ。僕はどこでもいいじゃん、と

思ってるけれどもそれでは納得しない人も多いので、考えとして

は説明になるものと。

それは心は脳から生れたという、主に脳科学、精神科学系の

学者と、心は臓器(消化器系の胃や腸、または心臓)から生れた

という内臓系の学者とがいる。さて、どちらからか、と僕らは考えて

しまうが、それは無用なのだ。結論として決定的でないものを、

それらだけが候補だとするのも、あやしいからだ。

と言うのは、まず心は脳にあるにしろ、臓器にあるにしろ、物質では

ないということだ。ここから離れなければ、どこにあるかとか、どこから

生れたのかという問題には慎重になったほうがいい。いずれナノ技術

の展開から、新発見があって肩すかしを食わされる恐れがあるから。

では、心は物(物質的計測の可能なもの)でないのならば、なんな

のか。これが正しい問いだ。

答えは、まだ誰も知らない、だろう。誰もがそれを経験して、使用して

いるとさえ思っているのに、なんだか知らないのだ。でも、恥でも

なんでもない。電気の性質や法則は知られているが、電気は「何か」と

答えられる科学者はひとりもいないから、それと同じだ。単純なことで

わかっていないことは、気がつくと多い。これが「わかっていない」とは、

教科書では書かない。

でも、基本的なことはわかっていないことが多い、ということはイメージだけ

でもこれは固定化して置いた方がいい、と思う。これから話を進めるのに、

その固定化は役に立つからだ。


僕は、こう考えた。例えば、木片を燃やすと、燃えて炎が上がる。

木片は物だが、炎は酸化による化学反応現象だ。それを物=脳

や臓器から生れる炎=現象と考えれば、わかりやすいのでは

ないか。木片(脳、臓器)から生れた現象が炎(心)であれば、それ

が存在している形象が違っても、かまわない、というものだ。

だから、燃え尽きれば炎も消えるように、人間が死んだら心は

消えてしまう。(実は、そうではないように見える話も多いが、

それは記憶という信号がものに転着する問題で、別なことになる

ので、今回は割愛)。


では心の内部のことに移る。

脳の内部が神経シナプスによってさまざまな反応があり、その

速度もケタ違いで、僕らの想像を越えているのは知られている。

心も同様だろうとは、想像がつく。説明のためにはそのイメージが

必要だ。昔から認められた領域が3つある。思考・感情・感覚が

それだ。それが表面に現れたものとしてイメージしやすいので、

ここでもそれを使おう。

ここで思考・感情・感覚がそれぞれある、というのは肝心なこと

ではない。複雑で問題なのは、それぞれの関係性で、2つ3つが

重なって同時にいるのは、心の内部ではいつものことだろう。

この時によく言われるのは、理屈っぽいとか、感情的だとか、

センスがいいとかの言葉にその人間の中心な心の傾向が

現れることだ。理屈っぽいのは思考中心型の人間と呼べばいい

のか。感情は伝わりやすく、わかりやすいので「感情的」と言う

だけでなんのことかわかってしまう。感覚も同様に考えればいい

だろう。思考中心とか、感情中心とか言っても、それで他の

要素がなくなってしまうわけではなく、その中心を補佐したり、

修正したりで、同時にあって、補佐している。と言って、物では

ないので色の青と赤が混ざって、加減で紫や赤紫、青紫に

混ざり、変化する。その時に、その中心は動かない。

思考型は変わらずに思考(概念とその操作)から考えるし、感情型

は感情的に気持ちの動きのままに考える。

今の韓国民は感情型なので、法(思考)の正しさを重んじ得ない。

気持ちを大事にして、大切なので、法的正しさよりも気持ちが

こうである、というほうを正しいとする。お祭り好きでもある。

思考はもともと、知性のものである。知識・認識・意識は思考の

分野と考えるのが妥当だろう。僕らの自分は意識によって成り

立っている。夜に眠ると、意識は低下して働きが落ちる。

夢を見ても名前や行為が安定せず、支離滅裂になりやすいのは、

そのせいだろう。意識が自分自身に向かう時、それを特に「自意識」

という場合があるが、僕らが目覚めている時はほとんどこの自意識

が働くので、僕らが考える行為をしているのは、自意識が働いて

いるからだろう。

この自意識がさまざまな概念という概知としたものを駆使して、組み

立てたり、組み合わせたりして問題を見極めしようとする行為を「認識」

と呼んでいる、と考えられる。

そして、その結果として明文化されたり、常識として認識されたり、

されるものを「知識」と呼ぶのだろう。

思考は気持ちのように、心に根を持とうとはしない。それで他の

感情や感覚とは自由に結びつくことができて、化学反応のように、思考

による思考の直観とは別な「直感」となるようだ。

思考による直観とは、プロが盤上の将棋を見てひと目で十数手先の詰み

の手が見えるのと同じ。年季のもの。途中の手をいちいち読まずに、

それがわかる。

気持ちの直感はその雰囲気だけで、気持ちの嘘・ほんとを見分けて

しまう。感情型に特有というわけではないが、多い傾向。

感覚型は説明が難しい。最も伝わりにくく、他人の感覚は学習できない

し、まさに感覚的であるので、繊細だからだ。それでなのか、直感は

一番鋭い。そういう人が多い。なんでも色と形に還元できる、という人も

いる。

そして、そういう人で繊細な認識ができにくいと、すぐに本質に辿りつき

やすいがために、思考や感情をおろそかにすると、ふつうにわかりやすい

論理的な説明や、または感情的な表現ができないことにもなる。


次に心にとって最も重要な「自分」について。

(心はたぶん、無目的につくられたものではない。それは別方向なので、

同じく割愛)。

自分は知性とともに現れた。と、僕は考えるが、まだこの半世紀を振り

返ってもそれに合わない事象なり、現象なりには出会っていない。

と言っても他人の心を覗けるわけがないので、これは想像の域を

出ない。僕の内部の自分を無(意識?)から観察すると、そうなる。

ここでは僕がそう想像する理由だけ説明する。動物には人間の知性

というものは備わっていない。イメージは言葉から映像や気分など

を想像できるが、動物はまったく別な感覚でそれに代わる生存への

必要を満たしているようで、人間知性のように概念をつくり、それを

操作して別な構成にしたり、工夫したりはできない。概念ではないもの

で、それをするかもしれないが ・・。

イメージは知の認識によって生まれる。認識の親は意識で、この意識

は自意識なので、自分がないとイメージも生れない。心には思考の他

にさまざまな情意・感覚帯が渦巻いているが、認識の「区切る」という

機能によってあらゆる感情・感覚のほとんどは直接対象に関しないもの

については捨てられ、必要なものだけが分けられ、言葉(名前)をつけ

られ、それが何というもので、役に立つか立たないかなどの情報を分析

して利用される。

この訓練のために学校の知的教育が必要になる。(感情も感覚も内部の

区切りができないので、変化も多用で、整合性(=思考性)という安定を

得られないので無視されている。そのために社会の方向は思考向きに

一方通行になっている。ほぼ必然だろう)。

それは高度文明社会ほど、その素早い認識作用が必要になるから。

電車の時刻表を見つめて、ホームで10分も突っ立っていたり考えている

のは、通常は許されない。一人二人なら邪魔にならないが ・・。

この認識作用は現実から、現象を切り離してそれを抽象化(概念・観念)

する。それで知性はもともと現実離れしていて、非現実の領域に類する

ものだ。例えば、考えだけの無益さを、「机上の空論」とか批判する言葉が

ある。


さて、ここらで俯瞰しないと(まとめる)、混乱して来ただろう。(僕もだが)

主要なテーマは人それぞれが中心を、思考や感情や感覚などに持ち、

しかもそれらがコラボしたりするので、ほぼ無限の性格や性質の人間が

いる、生まれ続けるということ。で、思春期の自己の完成に向けて親から

生れ(民族とか貴族性やら庶民性)やお国柄や言語、習性・習慣を学び

社会的に自分(というもの)を形作る。自分は知性でもあるので、現実では

ないのでA国で生れたA国人でも赤ん坊なら、B国人にB国で育てられたら、

B国語を話し、ほぼ半分B国人になってしまうように、自分ははじめから

何かに固定されていない。その環境の色に染まるのである。

つまり、自分はそれを形にする枠という鎧を持ち、その中に社会的自己

をつくったり、入れ替えたりする。その鎧が自分を守る役目をする。そういう

自分を僕らは「自分」と考えるのである。

実はその意味では遺伝子からの引き継ぎや成長過程で得られた経験・記憶

から自分という記憶が形作られている、と考えているが、記憶だけではない。

記憶は体の細胞にも蓄えられるので、自分がそうだ(=自分だ)と思われる

ものをそう決めつけているだけで、「自分は心のように境界や区切りが

つかないものだ」というのが、正確なところだろう。自分が自分だと思っている

記憶や知識があるが、それはいい加減なところでは正しいが、厳密に

規定しようとすると、あいまいで煙のように頼りないものだ。

思春期を過ぎてからも僕らは成長する。

子どもの頃から僕は同じ名前の人間であるけれども、子どもの自分を

今の自分とは考えていないし、違うものと思っている。だから、僕らは

同じ自分でいることは不可能で、常に変わりつつある生き物だ。体も

変化し、心も変化する。同じ環境で過ごすならば、親からの遺伝子に

よる体・顔の変化や心の中心型の変化はあまりしないので、これが

その人の性格や性質と他人は位置づける。根なしの知性が大きく

変りやすい。あの人は変った、と言う時はその人が考え方を変えた

ために、行動も変化をこうむり、性格が変わる。

僕らの過ごす日常は、実は少しずつ僕らが変化している日常でも

あるはずだ。でなければ、僕らは子どものままに違いない。

この成長部分を僕らの自意識はオンタイムで確認できない。それ

は「今」に関わっていて、僕らは行動している時は、意識は知性から

は切り離されている。それで「今」を知性で俎上に載せたり、料理して

咀嚼したりはできないのだ。これは心の未知の部分として、常に

現在として存在する部分だ。

やっと本題に近づいた。僕らが他人に発見する新しい性格という

のはそういう部分かもしれない。くり返すが、自分では自身にそれを

発見することができない。それで僕らは100%自分を発見することは

はじめから不可能であることが分かる。まだ生成中のものが自分の

中に未知のものとしてあるからだ。

では僕らが自分を理解するという時にどれだけの自分が理解できると、

言うのだろうか。僕らの中心が思考や感情、感覚に依っているだけでも

3パターンある。この時、他のパターンはその中心に寄ってくるものとの

区別はつけていないだろうから、ふつうでも理解しやすいのは元から

未知の部分を除いて、30%くらいだろう。それでも感情の関連性から

は理解できないが、感情を感じるのはたやすい。そういう感性による

理解を含めれば40-50%くらいだろうか。年とともに体験が数・量とも

に増すので、言葉に現わせないが違いがわかる理解も増す。年代に

応じてこの数字も変化する。それでもざっくりと自己知というものを

自分(主観)で考えるものを100%とすると、客観では60-70%

くらいに落ちると考えるのが(平均としては)妥当だろう。 

だから、自分で自分のことが完全にわかっていると思うことも、自分は

自分のことがまるでわからないと思うことも、どちらも愚かなことだが、

人はどちらもそう極端には思っていない。そこでいい加減なところで

相手を信じたり、疑っていたりする。こういうことは通常では避けられ

ないことなのだ。僕らは変化する自分、社会、自然環境というものの

中でどうしようもなく、苦しみ・不運・不幸・災害という一端(誤解ない

ように、一端である)に出会うようになっている。

善意の(あるいはお人好しの)子どもは悪意を知らない。その時に

出会った悪意を理解しない。理解するのはまだ先のことなのだ。

その時、子どもの心に悪意は存在していない。そのままでは困ること

になる。悪意に気がつかないと、善意への甘えが利用され、悲劇を

生んでしまうからだ。この成長過程がそれぞれの両親や家族環境で

とても異なっている。そこにはもともと自分が備えていない矛盾や逆説

な思考や、さかしまで耐えがたい感情や、魔法のような理解しがたい

感覚というものがあって、そこには僕らの心の底に眠っているものも

あるだろうし、もともと人によって備わっていないものもある。

それは微妙なものにとどまるのが多いとはいえ、ないわけではない。

そこまでお互いの心をすり合わせた時に、お互いの理解が生れるの

は、かなりの時間と意見と、認めるべきは認める精神があったから

になる。それを求めるのは理想的なことで、あまり現実的ではない。

僕らは社会がどんなにルールで区切って物事を秩序化しようとして

も、感情も感覚も割り切れる性質のものではない。

だから、社会的に絆という象徴を創り上げる。僕らは仲間で、とか

兄弟だとかで気持ちで結びつく方が、現実的で集団や組織を

作りやすい。絆はその気持ちの上だけで存在する。夢を掲げる

わけで、理想を掲げるのは必要なことで、現実のルールだけでは

きつくて、長持ちしない。夢なら、ゆるくていい加減だから、ルール

ばかり、時間の拘束、人工的、結果ばかりというきつい社会には

合うのだ。潤滑油ではない、無意識に対抗しているものだ。

以上、いろいろ言ってきたこれらが以下の詩の作文の背景に

なるもので、理解すればそのまま解題になる。



(「過去を語る:自分を測る」から)

「 僕が  僕の バックドアを つくっても

それが どこへ通じているのだろう

通じているから  どうなのだろう

答えは  なにかの  変形ではないだろうか

解決は  なにかへの  変化形ではないか

それが うまく当て嵌まるには  それなりの

工夫や タイミングが  あるだろうが

それは  それで 済んだとか

終わりになるものでは ないのではないか

だから  どう生きるかが  大切になる   」  


自分への答えも、社会への疑問も、自然への対応も

すべて変化する物事への変形を、または変化形を促す

もので、僕らはそれをどうするかが問われる。

あなたならその答えをどうするか、というのがほんとうの

問いだ。あなたはどうしたいのか、それをよく知っているのか、

あなたも含めて、短い時間に、長い時間にそれぞれはすべて

発展、衰退、逆転、惰性に、変遷する。あなたは休憩を挟んで

常に問われ続ける。それはそれに適応するためにそれに立ち

向かう限り、それは新しい発見をもたらす。それがない結果は

まだ結果が出ていないことだ。

ある臨界点を越えると、物事の質が変化してしまう。それが

世界、あなたの世界が変わることだ。これは劇的なので

はっきりとわかる。どこがどうというのは、僕も「不完全」という

性質のまともな人間なので、僕に関してだけわかる。僕の場合

は劇的だった、と。

人間性・人間らしさという言葉は、善意( goodness ) からつくられ

ている。嫉妬や残虐を人間性とは呼ばない。ただ野生動物から

区分して人間性と呼んだわけではないだろう。


長くなった、 読んだ方はご苦労さま。







                         4.27 ~ 5.2(6-7h/3days)
 
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