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言い訳にしかならない事情 [日記]

「概知の新天地に迷い込んだ、それを探る」シリーズは今、頓挫している。

漢字の心の発生と臓器の心の発生という可能性を考えていて、シュメール

文明についても考えてみた。シュメールは紀元前7500年くらいか(?)

そこに始まり、前3500年の頃に都市文明を築いている。漢字の発生よりも

相当に古い。ここで心と意識が発生はズレていたのではないか、という疑問

が出た。その疑問の前に、そもそも心の発生を臓器や脳に直接尋ねてみても

意味がないのではないか?心が仮想であるなら、例えば、痛みが神経に生じた

としても、神経組織を取り出して、これが「痛み」だとは言えない。かゆみ

もさわやかさも神経が伝えるなら、神経は伝える器官以外ではない。(厳密に

はそう言えないが)

だから、臓器から発生したという答えを得ても、それは心の発生の真の

解決にはならない。心が生じたきっかけ・事件などの動機があるはずだ。

痛みにしてもそれを心地よさではなく、「痛み」とした理由があるはずだ。

そう考えるなら、心の発生にも理由があるはずだ。

そうすると、初めから考えたのはそれらの研究の論や本などを読んで、

それをどう考え、どうまとめるかというアプローチは崩れることになる。

なぜなら、今述べた視点ので書かれた本は、今のところ、見ていないから、

それは「まだ誰も考えていない」からだ。

シュメール文明がどういう意図で作られたかという、新しい視点で考える

必要がある。そこまで根源的な問題になるとは思わなかったが、どうも

まったく新しい学問をつくる勢いでないと、今後の進展は望めないのでは

ないか、という地点に来ている気がする。

心と意識の分かれた発生の可能性ということも併せて考えると、どうも

出発点に立っただけということのようだ。

来年2月からエジプトやトルコなどに旅程を立てている。現地での視察が

少しは役に立つかもしれないが、その間に書かれた心の発生についての本が

なぜ中途半端か、疑わしいか、ということも少しは説明したいと思っている。

それにしても、もう少し感触を確かなものにしておきたいので、この

シリーズはしばらくお休みする。番外編は、気まぐれに登場するかも

しれない。  では
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