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時間について、再び? [観察]

時間は非存在か、という題の本があったと思うが、どうだろう?

時間がそこら辺に落ちていないのは確かだ。今日の時間は痩せているね、

とかの声も聞いたことはない。

まず時間のそれについての前に前提条件を決めておこう。僕らの何かに

ついての感覚がある時、その感覚の出どころは尋ねないでおこう、という

ものだ。そこから疑ってしまうと、なにも進まない。

時間への感覚がふつうに正しいものならば、時間はないと言える。非存在

というわけだが、非存在というのは「存在している可能性をにおわせる」

ので正しい言い方ではないだろう。

大事なのは「ない」というあり方になる。いかに「ない」と言えるか。

そうすれば僕らの時間感覚はただの錯覚になる。それをうまく感じれば

いいことになる。

では、どうなるか。まず時間は物質にしてもなんにしても、或る質を

持っていない。数字と似ている。「1」がどこにも落ちていないし、

これが「1」だと1に関することはそれを示せばすべて当てはまる、

という「1」は現実世界のどこを探しても出てこない。ただ、数字は

印刷されたものや看板など、液晶画面など目に触れる機会は多い。

ために社会での市民権を得ている。まず学校で教わるし、計算は

この世で生きるのに最低限、必要な技術だから。

時間を測るものは時代によって変わった。最近までは水晶の分子運動

を振り子のように応用して、秒を決めていたとか。現在はもっと

微妙な振動を利用しているらしい、素粒子だろうか。

僕らが時間を知るのは、すべて運動による。時間という間隔はどこ

にもないからだ。時計なら針の指す方向と針の運動である。デジタル

なら液晶の数字が一定の感覚で数字が変化する。それも電子運動や

数字のパネルをめくるモーターなどの動力による運動だ。

太陽が昇って沈むように見えて、一日を感じるのは見ているのは

太陽の動きや位置であって、時間というものではない。

100m走で世界記録が出ても、ランナーの姿は見たが、その

走る運動は見たが、時間は見たことがない。これが北極や南極に

行けば、半年は太陽が沈まない、または出ない、という白夜などが

見られる。僕らは時間の感覚を少し失うだろう。明日がいつ来るか

わからないからだ。

もしも、今に時間的な間隔という、まさに時間のことだが、ものが

あれば、放たれた矢は的に当たらない、という事態は正しく存在する

だろう。それは矢を放つと、的に当たるまでにその半分の距離に

到達するまでに半分の時間がかかるから。そして、半分に達したら、

次の半分の距離の半分に達するにも、4分の1の時間がかかるから、

という具合に半分に達するまでに半分の時間がかかるから、そして

常に距離には半分の距離があるのだから、矢はその微妙な的の手前

で止まってしまうように見える、という問題だ。時間が存在するなら

この事象はあり得ることになる。

実際にはあるのは運動だけだ。だから、矢は放たれると、的に当たる

まで止まらない。これは現実に合致する。だから、「現実が間違えている」

か、「時間がないから」のどちらかを選ばなければならない。

僕らは矢が的の手前で止まっているのを、いつも見逃しているのだろうか?


あとは自分を納得させるのに、自分の時間の感覚がただそういう気がする、

というところまで観察をして、よく考えて(確認して)みることだろう。

明日は僕らがなにかの数字をめくったりしない限り、僕らはその日になった

と意識できない。それは今も「今は今だ」という感覚を取り戻すことかも

しれない。年月日の数字は僕らが約束事として、自らで決めたものだ。

だから、カレンダーの1月1日は来るが、明日はその日が来ても、明日は

「明日」なのだ。どこにも行かないし、来たこともない。
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