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よう来なんしょ(出雲大社) [旅]

出雲大社にドライブで行ったのが2013年と知って、いささか感慨である。  

4月出雲(島根県)、6月初めには熊野古道(和歌山県)と続けて行ったので、  

過労で持病が起きて、(初)入院という事態に。あの頃か、というわけ。  

この旅をいつか書くつもりだったが、もう6年も経ってしまった、ということで  

そろそろか、と。入院直前にこのことを書いた文章を見つけた。以下:-



「 上野国立博物館                   2013.6.17 ?

 正式には東京国立博物館という。美術展や書展や小音楽祭なども催されて

いるので、上野公園は文化に触れるには施設がそろっている。それぐらいの理由

でふらっと出かけてみたが、縄文時代や弥生時代の考古学の掘り出し物にも

会えるのではないか、という期待もあった。もっとも、ささやかな淡い期待では

あったけれども。

 それくらいの暇つぶしの気だったので、事前に何も調べずにさがみ野駅から

相鉄線に乗る。東南アジアの旅以来、その場のカンや行ってから目的を決めると

いう「お出かけ」のパターンが多い。それはロスタイムを一概に無駄と考えなくなった

ことに依っている。日々の生活にすでに組み入れてなければ、「余裕が大切だ」と

いうことも、無意味な念仏に過ぎない。

 上野では特別展「大神社展」が開催されていた。建物の2階で見られる。正面

の広い階段を上り、順路をぐるりと一周して出口に。そこは上ってきた階段に

もどるしかけになっている。さして見るものもなく、ぐるりと一周を歩いて出て来て

しまった。映画館にはいったのだが、映画が30分で終ってしまったような具合

だった。

 建物は一棟だけではなく、他に常設展や資料室、広い展覧グッズの売店の

部屋などもある。ぶらぶらっと流す暇もなく、特別展の真下が平成館考古展示室

だった。何でもアメリカのスミソニアン研究機構のデザイナー、ジョン・ゼルニック氏

による展示のデザインだとか、それはどうでもよかった。そこには縄文期から江戸

期までの掘り出し物から陶器や瓦など、特に縄文から弥生期の銅剣・銅鐸・銅鏡・

埴輪・土器が国宝を交えて豊富に並べられていて、見る者を狂喜させる。もちろん、

そこで小躍りして狂喜したのは、僕ひとりであったかもしれない。
 

 展示グッズコーナーで
                                         06.17
 銅剣・銅鐸・銅鏡、そして縄文土器はもちろん、埴輪や勾玉など以前はこれほど

つまらないものはないと思っていたものを、1時間はかけて注視してきただろうか。

人生で初めての経験だった。なぜこれらの大昔のものが僕の心を引くのか、展示品

に見入りながら、頭の片隅ではおおいに謎に思えた。

 まだ充分に若い頃に西洋絵画展にのめり込んだ時期があった。絵画を理解する

楽しさを充分に味わったが、それと似ていた。しかし、見るものは絵画よりも単純に

見えながら、そのストーリーはなかなか見えてこない。問題は言葉の綾でなく、

そこにストーリーがあるのを感じることだった。これが歴史の一側面なのかもしれ

ない。今までの歴史というものを確信したその精神的な中心を、この具体的な縄文

から弥生のあやふやな時代に、現実に応用できるかどうかが鍵となる。これは少し

重いトライになる気がする。

 しかし、招待状はもう受け取ってしまった。それはこういう訳である。平成館考古

展示室で喜んだ僕は、展示品をまとめて紹介した写真入の本を求めた。大抵の

美術展なり博物展にはそれらをまとめて載せた本が出口あたりで販売されている。

それを探したが、展示室の近くでは置いてなかった。そこで別の続き棟と思うが、

そこへ回ってみると、いろいろなグッズが豊富な資料と共に販売されている広い

売店室があり、そこで目当ての本を探し当てた。売店室は100人くらい入れる

教室ぐらいの長方形の部屋で、壁に、狭い中二階の資料本棚まで回るスロープ

がある。スロープは車椅子でも登れるくらいの広さとゆるい角度のもので、一度

直角に曲がると次の角が中二階である。売店を見下ろす側が低い本棚になり、

そこで「日本の考古ガイドブック」を見つけ、それが考古展示室の丁寧な案内本

だった。ところが、話しはここからでその本の真向かいの壁にポスターが貼られ

ていたのだが、そのひとつが島根県立古代出雲歴史博物館での「出雲大社展

(特別展)」だった。

 なぜ旧十月は島根が神在り月になるのか?出雲大社とは何か?その当時の

邪馬台国との関係は?次に勢力を伸ばしてくる大和王朝との接点や経緯はどの

ようなものだったのか?

 卑弥呼は弥生文化の頃で、縄文時代は世界的にも古く、長く弥生文化との明確

な分岐は確定されていない。縄文から弥生へ、北九州の邪馬台国群と山陰の

出雲王国群の時代、次に大和王朝の時代へ、そして聖徳太子へ、太子の死の

後に大化の改新が起こり、大宝律令が制定され、そのすぐ後に「古事記」と

「日本書紀」が成る。「古事記」は神話の物語なので非常に古いイメージを持つが、

出雲の王国時代からは400年も後に完成した大和王朝の天下取り物語という

比較的新しい書物なのである。

 このポスターを僕は招待状として受け取った。何しろこの上野へ何の準備もなく来な

ければ出会わなかったし、まず「大神社展」なるものを知らなかったし、見つけて

平成館に入らなければ考古展示室も見なかったろうし、ガイドブックも探さなかった

だろう。本を見つけた処でポスターにも出会わなかった。でき過ぎている。

 しかも、展示の開始日がその上野へ行った翌日、明日からだった。明日から開催

です、というのは「よう来なんしょ」ということだ。いつでもいいではなく、明日から

だから早めに来なんしょ、ちゅうことだ。心は決まった。

 出雲への旅は生涯で稀に見る快適な旅だった。片道12時間の運転、休憩を入れ

て15時間のドライブだったが、いつもの運転疲れを感じなかった。そればかりでない

のはもちろんだが、快適・痛快は本筋ではないので省く。  」

IMGP0583 (2).JPG

出雲というのは、大和人が日本に入ってくる前からいた人たちで、古事記で有名な  

大国主命の話が全国に伝わっていたらしい。熊野大社や須佐神社など四大神社の  

大元がここから発祥している。和歌山の熊野大社もそのひとつで、祖先のような

ものか。   

大和人がある事情でこの出雲を征服したことになって、それを神話で残すために  

新たに天照大神を創作して祭り、伊勢神宮に収めた、という経緯がある。歴史は  

作り物だから、古くなれば既成事実として認めていくのが、慣例になっている。  

そこらあたりも書くものと思っているが、 ・・・今のところは。   


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