ナンガを追う 2. [山岳]
ナンガ・パルバートがどんな山なのか、メスナーは
書いている、::
「すでに1895年、アルバート・フレデリック・ママリーが中央部の
岩壁を登る最初の試みを企てた。それは八〇〇〇メートル峰
を目指す最初の攻撃だった。」
「ママリーはベースキャンプをディアミール渓谷に移し、最初は
二名、次は一名のグルカ兵ポーターを連れて攻撃を開始した。
しかも、まっしぐらに主峰を目指して登ったのである。」
「だが、ラゴビルが高山病にかかって退却した。それからしばらく
して、ママリーは二名のグルカ兵を伴い、ナンガ・パルバート北
山稜にあるディアマ・シャルテ(キレット・切り立った鞍部)を横断
しようとして行方不明になったが、ママリーの捜索は失敗に
終わった。
ママリーが姿を消して以来、ナンガ・パルバートでは時が静かに
流れた。」
「もの寂しい頂には烈風が咆哮した。農夫たちは理解を越えた
この巨大な山の姿に、伝説めいたことしか考えつかなかった。
それ以後、誰ひとり頂上へのルートを探そうとする者はいな
かった。」 ::>
それから1913年にイギリス人旅行家チャンドラーがまわりを
歩いたが、山塊には近づこうとしなかった。
また、1930年にはドクトル・ヴィロー・ヴェルツェンバッハがナンガ
の登攀計画を立てた。実現しなかったが、彼に代わり、1932年
にヴィリー・メルクルが新しい遠征隊の指揮を引き受けた。新雪
のため行き詰まってしまったが、彼はルートに確信を持った。
それで二年後に大遠征隊を発足させた。9名の登山家、
1名のベースキャンプ管理者、3名の科学者と2名の輸送
指揮官、35名の最も優秀なシェルパと、驚くことに500人
になるポーターを集めたのだ。
ジルバープラトー(銀の雪原)と頂上直下で最後の攻撃を
行おうとしていた遠征隊に吹雪が襲いかかった。退却。
3人のサーブ=ヴィーラント、ヴェルツェンバッハ、メルクル
と、6名のシェルパが疲労死を遂げるという悲劇に終わった。
1937年にはひとつの雪崩が16名の命を埋めてしまった。::
<神々の玉座を目指す突撃>ルドルフ・スクーラ著
(本中内の引用)
<イギリスの登山家のあいだではすでに、あまりにも膨大な
、あまりにも金のかかるエヴェレスト(連峰)登攀に反対する
動きが現れていた。>
<ナンガ・パルバートを目指す闘いはかなり以前から、大胆
不敵な山の仲間が集まった自由な冒険といえるものではなく
なっていた。資金の投入を見てもわかるように、それは当時
のドイツ国家の関心事だったのである。> ::>
1939年にはママリーの直登ルートとディアミール側のルートが
探られたが、ドイツの二つの小遠征隊は、雪崩の危険と落石
のため、断念してしまった。メスナーは「ただ技術的な難しさ
ばかりでなく、この壁の持つ客観的な危険にもただならぬもの
があったのである」と注を入れるように書いているが、ただならぬ
ものという抽象的な言い方をしているだけで、それは説明されて
いない。
ナンガが征服されたのは、それから14年後になる。1953年ヴィリー
・メルクル記念遠征隊のチロルの男ヘルマン・ブールがほとんど
不可能なことをなし遂げた、と。::
「1895年から1953年までに二百以上の遠征隊がヒマラヤと
カラコルムに送られたが、わずかに三つの8000メートル峰が
征服されただけだった。当時の登山家は耐久力もあり、驚くべき
勇気も持ち合わせていたが、装備は重く、まだ経験が乏しかった。
第二次世界大戦が終わると、合成繊維によるザイル、衣服、寝袋、
テントが登場し、軽金属のカラビナ、ハーケン、酸素吸入器、
シュタイクアイゼンも作られた。それから15年のあいだに、八〇〇〇
メートル峰十四座がすべて登頂されたのである。」 ::>
ヴィリー・メルクルは、遠征隊の力を信じていた。::
ヴィリー・メルクル著 「ナンガ・パルバートへの道」
<ヒマラヤで何よりも大事なことは、非常な意志力発揮するのに
瞬間的な衝撃力が必要ではないということだ。(略)それよりも
むしろ、絶えざる忍耐能力、絶えず闘いに備えているという
心構えが大事なのである。ヒマラヤで最も肝心なことは、同じ考え
を持つ仲間たちの協力であり、個人的な名誉心でなく、一つの
偉大な目標に役立てようとする共同動作なのである。>::>
メスナーは初めからそれを信じてはいず、個人の力の山の
征服がヒマラヤでも可能だと思っていた。::
「こうしたことを、ぼくはやたらに読まされたものである。だが、
ぼくには気に入らない。ぼく自身は、終始きわめて個人主義的
な男だったから、このようなやり方に親しむことはできなかった。
だから以前のぼくには、八〇〇〇メートル峰を狙う人達の熱狂
ぶりが理解できなかった。だがやがて、ナンガ・パルバートを
自分の眼で見た時、それがわかった。」::>
わかったのは、「このナンガ・パルバートが、」僕が登るべき
最初の八〇〇〇メートル峰だということだ。これがメスナーと
ナンガの出会いである。彼は”見て”、わかったと言った。だから、
実際に会わなければ、それに引き付けられることはなかった
と言うのだ。むしろ、彼は山に誘われたのだ。ひとりで登れる
ものなら、登ってみろ、と。 ::
「ぼくはまたディアミールの斜面を見上げた。戻ってはきたが、
ずっと上のほうまで行ってきたのではない。山の挑戦は依然
として行く手にあった。独りでやろうという考えを忘れてしまう
ことはできなかったのである。」::>
そして、彼はいったん、帰国を決める。::
「 ゆっくりと夜の帳(とばり)が降りてくる。少し歩いて空気の
匂いをかいで天候を確かめたり、夕べのそよ風の中にたたずむ
とき、ぼくにはいつも、この大きなスケールがひしひしと感じ
られるのだった。この山は、ぼくには無限に大きなものに
思われた。この山がひとりの人間によって単独で登られるとは、
いくら考えても信じられなかった。失敗に帰したのはすべて、
ほとんど無限の中で独りいることに耐えられなかったぼくの不安
と無能のゆえだったのである。」::>
巨大な山岳というものを前にした時に、人は同じ感興に入る。
彼は単独でやる、という挑戦以外には考えられないと言い、
またひとりで登れるとは信じがたい、と言う。言い方は矛盾
して聞こえるが、それは山へ向かう激しい闘志と山の威容
に感激した感情が同時に起こっていること、それを別々な
場所で別々な考えや気分を味わうことが許されている時に
発言しているからだ。だから、ナンガを見た時にわかった、
と言ったのだ。山は目の前にいるのだ。::
「
「あした故郷へ帰ろう。たぶん、二度とここへは来ないだろう。」
と慰めるように自分に言い聞かせる。峰々の上空に最初の星
が瞬きはじめると、山々には澄みきってひんやりした気分が漂う。
マゼノの支稜の鈍く光る白い万年雪の円頂とガロナの山並に
囲まれて、西の地平線に褐色の森のある山が見える。あのあたり
からぼくはやってきたのだ。炎熱と埃の中を数日間山麓を進めば、
ギルギットにいちばん近い飛行場に着けるだろう。」
「 「飛行機はしばらく出ないかもしれません」と事務所では言った。」
「予期に反して、一日遅れて最初の飛行機がやってきた。」
「 ぼくの眼にはいきなりはるかに遠く雲表にそびえるナンガ・
パルバートの頂がとび込んできた。パイロットはぴたりとナンガ・
パルバートの方角に機首を向けた。」
「山塊の下の部分は霧の中に消え去っているが、上のほうは
何もかもはっきりと見える。ぼく達は稜線上を南に向かって
飛んだ。突然左手にディアミール斜面が見えてきた。ぼくの心の
中のすべてのものが震えた。興奮してはいなかった。何かが
ぼくの体内を貫いて走ったのだ。ぼくは、自分がこの壁に強い
きずなで結ばれていることを感じた。ぼくの心は完全に壁の
中に入っていた。壁がぼくの中に入ってきた。ぼくがここへ
また戻ってくることはわかっていた。不思議な力がぼくを
立ちあがらせてくれる。誰かが「ティケ」と言っているのが
聞こえるようだった。ぼくは自分自身を取り戻していた。
飛行機は前山を越えて南下していった。ぼくは後ろを
振り向き、一心不乱に眼を凝らす。だが、もうナンガの姿は
なかった。」::>
なぜ、メスナーは孤独に遭遇して、それに耐えられないと
悟ったのか。それは自分(というもの)が壊れてしまった瞬間
だったろう。今、ナンガを追いかけてみて、この部分がそれ
だとわかる。夏目漱石が修善寺の大患で30分間死んだように
メスナーの自分もこの時死んだのだ。彼がナンガの前で
「この山は、ぼくには無限に大きなものに思われた。」のは、
偶然ではないだろう。彼は無限と交叉したのだ。最初の
経験ではそれに耐えられないと思うのが通常だ。それは
気分なんかではなく、酸素の薄さから来る幻覚のような
ものから生じる錯覚でもなく、ナンガがメスナーを認めた
ことなのだ。僕には手に取るように、壁に張りついている
その岩の感触がわかる。そして、そのなんとも言えない
厳粛な空気の張りつめた感じ。山に登るのはその高さでも
なければ、労働でもない。ある神々しい無意識な瞬間に
出会う、そのために山男たちはそれに惹かれて、引かれて
いることを知らない。気づいても、瞑想的な感慨があるだけ
なのだ。どれほどの屈指の男たちが山から戻ってこなかった
だろう。エベレストで亡くなったマロリーも言うようにそれでも
”そこに山があるから” だ。
書いている、::
「すでに1895年、アルバート・フレデリック・ママリーが中央部の
岩壁を登る最初の試みを企てた。それは八〇〇〇メートル峰
を目指す最初の攻撃だった。」
「ママリーはベースキャンプをディアミール渓谷に移し、最初は
二名、次は一名のグルカ兵ポーターを連れて攻撃を開始した。
しかも、まっしぐらに主峰を目指して登ったのである。」
「だが、ラゴビルが高山病にかかって退却した。それからしばらく
して、ママリーは二名のグルカ兵を伴い、ナンガ・パルバート北
山稜にあるディアマ・シャルテ(キレット・切り立った鞍部)を横断
しようとして行方不明になったが、ママリーの捜索は失敗に
終わった。
ママリーが姿を消して以来、ナンガ・パルバートでは時が静かに
流れた。」
「もの寂しい頂には烈風が咆哮した。農夫たちは理解を越えた
この巨大な山の姿に、伝説めいたことしか考えつかなかった。
それ以後、誰ひとり頂上へのルートを探そうとする者はいな
かった。」 ::>
それから1913年にイギリス人旅行家チャンドラーがまわりを
歩いたが、山塊には近づこうとしなかった。
また、1930年にはドクトル・ヴィロー・ヴェルツェンバッハがナンガ
の登攀計画を立てた。実現しなかったが、彼に代わり、1932年
にヴィリー・メルクルが新しい遠征隊の指揮を引き受けた。新雪
のため行き詰まってしまったが、彼はルートに確信を持った。
それで二年後に大遠征隊を発足させた。9名の登山家、
1名のベースキャンプ管理者、3名の科学者と2名の輸送
指揮官、35名の最も優秀なシェルパと、驚くことに500人
になるポーターを集めたのだ。
ジルバープラトー(銀の雪原)と頂上直下で最後の攻撃を
行おうとしていた遠征隊に吹雪が襲いかかった。退却。
3人のサーブ=ヴィーラント、ヴェルツェンバッハ、メルクル
と、6名のシェルパが疲労死を遂げるという悲劇に終わった。
1937年にはひとつの雪崩が16名の命を埋めてしまった。::
<神々の玉座を目指す突撃>ルドルフ・スクーラ著
(本中内の引用)
<イギリスの登山家のあいだではすでに、あまりにも膨大な
、あまりにも金のかかるエヴェレスト(連峰)登攀に反対する
動きが現れていた。>
<ナンガ・パルバートを目指す闘いはかなり以前から、大胆
不敵な山の仲間が集まった自由な冒険といえるものではなく
なっていた。資金の投入を見てもわかるように、それは当時
のドイツ国家の関心事だったのである。> ::>
1939年にはママリーの直登ルートとディアミール側のルートが
探られたが、ドイツの二つの小遠征隊は、雪崩の危険と落石
のため、断念してしまった。メスナーは「ただ技術的な難しさ
ばかりでなく、この壁の持つ客観的な危険にもただならぬもの
があったのである」と注を入れるように書いているが、ただならぬ
ものという抽象的な言い方をしているだけで、それは説明されて
いない。
ナンガが征服されたのは、それから14年後になる。1953年ヴィリー
・メルクル記念遠征隊のチロルの男ヘルマン・ブールがほとんど
不可能なことをなし遂げた、と。::
「1895年から1953年までに二百以上の遠征隊がヒマラヤと
カラコルムに送られたが、わずかに三つの8000メートル峰が
征服されただけだった。当時の登山家は耐久力もあり、驚くべき
勇気も持ち合わせていたが、装備は重く、まだ経験が乏しかった。
第二次世界大戦が終わると、合成繊維によるザイル、衣服、寝袋、
テントが登場し、軽金属のカラビナ、ハーケン、酸素吸入器、
シュタイクアイゼンも作られた。それから15年のあいだに、八〇〇〇
メートル峰十四座がすべて登頂されたのである。」 ::>
ヴィリー・メルクルは、遠征隊の力を信じていた。::
ヴィリー・メルクル著 「ナンガ・パルバートへの道」
<ヒマラヤで何よりも大事なことは、非常な意志力発揮するのに
瞬間的な衝撃力が必要ではないということだ。(略)それよりも
むしろ、絶えざる忍耐能力、絶えず闘いに備えているという
心構えが大事なのである。ヒマラヤで最も肝心なことは、同じ考え
を持つ仲間たちの協力であり、個人的な名誉心でなく、一つの
偉大な目標に役立てようとする共同動作なのである。>::>
メスナーは初めからそれを信じてはいず、個人の力の山の
征服がヒマラヤでも可能だと思っていた。::
「こうしたことを、ぼくはやたらに読まされたものである。だが、
ぼくには気に入らない。ぼく自身は、終始きわめて個人主義的
な男だったから、このようなやり方に親しむことはできなかった。
だから以前のぼくには、八〇〇〇メートル峰を狙う人達の熱狂
ぶりが理解できなかった。だがやがて、ナンガ・パルバートを
自分の眼で見た時、それがわかった。」::>
わかったのは、「このナンガ・パルバートが、」僕が登るべき
最初の八〇〇〇メートル峰だということだ。これがメスナーと
ナンガの出会いである。彼は”見て”、わかったと言った。だから、
実際に会わなければ、それに引き付けられることはなかった
と言うのだ。むしろ、彼は山に誘われたのだ。ひとりで登れる
ものなら、登ってみろ、と。 ::
「ぼくはまたディアミールの斜面を見上げた。戻ってはきたが、
ずっと上のほうまで行ってきたのではない。山の挑戦は依然
として行く手にあった。独りでやろうという考えを忘れてしまう
ことはできなかったのである。」::>
そして、彼はいったん、帰国を決める。::
「 ゆっくりと夜の帳(とばり)が降りてくる。少し歩いて空気の
匂いをかいで天候を確かめたり、夕べのそよ風の中にたたずむ
とき、ぼくにはいつも、この大きなスケールがひしひしと感じ
られるのだった。この山は、ぼくには無限に大きなものに
思われた。この山がひとりの人間によって単独で登られるとは、
いくら考えても信じられなかった。失敗に帰したのはすべて、
ほとんど無限の中で独りいることに耐えられなかったぼくの不安
と無能のゆえだったのである。」::>
巨大な山岳というものを前にした時に、人は同じ感興に入る。
彼は単独でやる、という挑戦以外には考えられないと言い、
またひとりで登れるとは信じがたい、と言う。言い方は矛盾
して聞こえるが、それは山へ向かう激しい闘志と山の威容
に感激した感情が同時に起こっていること、それを別々な
場所で別々な考えや気分を味わうことが許されている時に
発言しているからだ。だから、ナンガを見た時にわかった、
と言ったのだ。山は目の前にいるのだ。::
「
「あした故郷へ帰ろう。たぶん、二度とここへは来ないだろう。」
と慰めるように自分に言い聞かせる。峰々の上空に最初の星
が瞬きはじめると、山々には澄みきってひんやりした気分が漂う。
マゼノの支稜の鈍く光る白い万年雪の円頂とガロナの山並に
囲まれて、西の地平線に褐色の森のある山が見える。あのあたり
からぼくはやってきたのだ。炎熱と埃の中を数日間山麓を進めば、
ギルギットにいちばん近い飛行場に着けるだろう。」
「 「飛行機はしばらく出ないかもしれません」と事務所では言った。」
「予期に反して、一日遅れて最初の飛行機がやってきた。」
「 ぼくの眼にはいきなりはるかに遠く雲表にそびえるナンガ・
パルバートの頂がとび込んできた。パイロットはぴたりとナンガ・
パルバートの方角に機首を向けた。」
「山塊の下の部分は霧の中に消え去っているが、上のほうは
何もかもはっきりと見える。ぼく達は稜線上を南に向かって
飛んだ。突然左手にディアミール斜面が見えてきた。ぼくの心の
中のすべてのものが震えた。興奮してはいなかった。何かが
ぼくの体内を貫いて走ったのだ。ぼくは、自分がこの壁に強い
きずなで結ばれていることを感じた。ぼくの心は完全に壁の
中に入っていた。壁がぼくの中に入ってきた。ぼくがここへ
また戻ってくることはわかっていた。不思議な力がぼくを
立ちあがらせてくれる。誰かが「ティケ」と言っているのが
聞こえるようだった。ぼくは自分自身を取り戻していた。
飛行機は前山を越えて南下していった。ぼくは後ろを
振り向き、一心不乱に眼を凝らす。だが、もうナンガの姿は
なかった。」::>
なぜ、メスナーは孤独に遭遇して、それに耐えられないと
悟ったのか。それは自分(というもの)が壊れてしまった瞬間
だったろう。今、ナンガを追いかけてみて、この部分がそれ
だとわかる。夏目漱石が修善寺の大患で30分間死んだように
メスナーの自分もこの時死んだのだ。彼がナンガの前で
「この山は、ぼくには無限に大きなものに思われた。」のは、
偶然ではないだろう。彼は無限と交叉したのだ。最初の
経験ではそれに耐えられないと思うのが通常だ。それは
気分なんかではなく、酸素の薄さから来る幻覚のような
ものから生じる錯覚でもなく、ナンガがメスナーを認めた
ことなのだ。僕には手に取るように、壁に張りついている
その岩の感触がわかる。そして、そのなんとも言えない
厳粛な空気の張りつめた感じ。山に登るのはその高さでも
なければ、労働でもない。ある神々しい無意識な瞬間に
出会う、そのために山男たちはそれに惹かれて、引かれて
いることを知らない。気づいても、瞑想的な感慨があるだけ
なのだ。どれほどの屈指の男たちが山から戻ってこなかった
だろう。エベレストで亡くなったマロリーも言うようにそれでも
”そこに山があるから” だ。
2020-11-02 00:38
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