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御伽草子としての愛と死の位置 [愛と死]

おとぎ話としての「愛と死の位置」は、とあることを考え

ていて、発想した比喩だ。机上の空論と同じで、観念に

過ぎないので、内容はない。それなりに継ぎ足しは

するが・・・。

孤独感というのは、まだ自分を知らない(母と区別しない)

幼いころから、あった。その頃は、自分がないようなもの

だったから、孤独に傷つけられる心はなかった。 

それでも感情は割り切れない、理不尽さを子供心ながら

も感じるものである。

多くは満月の晩に、心がむなしく、締めつけられどう対処

すればいいかわからず、ただ耐えることを覚えた。それ

は1日ももたず、去ってしまうからだ。小学生から、中学生、

高校とそれは続いた。

それがわずかな記憶につながった。 


僕の孤独はいつも隣にいて、それをむなしさとして意識

していた。J・クリシュナムルティの本に出会ったのは、

結婚してからだろう。彼の無味な言葉を理解するのは

大変だった。翻訳の言葉では伝えきれていないものが

あって、それを見出すのは、小林(秀雄)の時と同じで

彼の言う瞑想を模倣し始めてからだった。(経験して、

ナンボ。)


それができるようになった時に19歳の体験は一種の

擬死体験だったのだと感じた。インドの、死を体験した

瞑想者(インドでは聖者)の話に当て嵌まったのだ。

それは答えだったが、今は半分の答えで、もう半分は

正解へのヒントだった、と考えている。

ともかくそれはその時、死だとわかった。世間で言う、

死という一般的な自己防衛から来る感覚であり、考え

だった。それはもっと意味を持っていたが、全体像は

今でもわからない点を残す。

 (ここで余談を挟むが、チャイコフスキーの交響曲第5番

 を聴いているが、驚くことにその第1楽章はベートーヴェン

 の第五へのオマージュだろうか、と思うほど特に第五の

 第2-3楽章に似ていて、パクリに近い、と言ってしまえる。

 楽曲の感興が同じなので、導入として使った点で、やはり

 ベートーヴェンへの敬意か?)

19歳にその空白が僕の心と交代する出来事があって、

記憶の空白は、自己の一時的な消滅によってもたらされ

たものだった。今はそれがわかるが、どうしてそれが「自分

を信じるな」という聞こえない言葉を僕に聴かせたのは、今

もって謎だ。 

こんな調子で書いていては、いつまで経っても本題に

入れない。

ともかく、半世紀はそのむなしさが隣から去ることは

なかったが、愛が僕を支えたのだと思う。それが言い

難いのだが、誰に愛されたのかとか、どんな形か、という

ことが示せないし、想像でしか説明できない。

そのむなしさは例えれば、眼を閉じて何も聞こえない

世界にいるよう。そこは誰一人いない。話そうにも、声も

聞こえない。氷のような雰囲気が、空気のように張りつめ

ている。後にも先にも何もなく、沈黙の声だけが聞こえる。

絶望しようにも、その望みという一切が許される、空間が

ない。共有する者がいない。何に絶望していいのかさえ

知らされない。鋭い針で細すぎて痛みも感じないが、

それで心臓を突き抜かれている、そう想像させる痛み

だけがある。それは苦しみ以上なのだろう。救われない、

という一点があまりにもはっきりわかる、感覚する、実感

する。

(ただ、死の側である自分からは、救われるも、救われないも

そもそも無関係で、そこに人として意味や意義をかんじること

はない。救われないからどうだと言うんだ?と、開き直って

いる。)



僕が今晩、郷愁を覚えていたのは、そういう過去の厳しい

心の状況だった。あまりに長くて、苦しみということも忘れ、

ただ耐えることに工夫と専念して、過ぎるのを待つ。

それがなつかしく、そこに帰りたい、と。しかし、そう思い

ながらも、想像が現実に近づくと、やはり拒否したくなる。

厳しすぎる。それを支えたのは、くり返すが、愛だろう、

としか思えない。では、本題に入ろう。


僕に断りなく自己を突破させたのが、19歳の体験だった。

しかし、それを意識するには知らないことが多過ぎた。40年

かけて還暦を過ぎてから”無意識というもの”に人生の羅針盤

を任せる決心をしてから詩のような散文(作文)を書きながら、

愛が何度も寄り添って来た。はじめは洪水と激流にのまれて、

しあわせだったが、実情は大きく通り越えていた。なにも望む

意欲もなくなり、ただただ満足だった。   ::何度も書いた。

その蜜月の2年間が過ぎようとする頃、そこから自立することを

考えた。

どうも調子が出ない。

<僕の感想・説明なんかどうだっていいんだ、勘弁してくれ。

観念論だよ!>

<あ~~い~。>      気を取り直して::


はじめに自己を突破した時、それは体験を死として自覚

した時のことで、それから20-25年も後に無意識の中に

愛のゾーンと死のゾーンがあるのがわかった。見えない

感覚でしかないがそれはどちらも巨大すぎて、想像でも

捉えどころがなかった。その位置関係がどうにか掴めた

のは、その2年後くらいだろうか。愛は死に包まれていた。

境界もなにもわからなかった。

その位置関係の話だ。

空に例えよう。空は大気圏だ。しかし、低気圧と高気圧がある。

地球を人間とするなら、空を眺めて、この高気圧・低気圧の

部分が「愛」だ。8000mより上空は人間が生きられない

上層圏で、死の領域だ。愛は僕らと同じだから複雑で、

しあわせの高気圧をもたらすが、悲し涙の低気圧も

もたらす。低気圧はそれ以上になると、吹雪や嵐を

もたらして、人間を襲う。時には大勢を殺してしまう。

高気圧は長く続くと、日照りをもたらし、作物を枯らして

人間を飢えさせてしまう。しかし、太陽は雨の日でも

いつでも低気圧の雲を上層に突破すれば、そこでは

晴れている。

この大気圏は地球から比べれば、地球を包む薄皮

まんじゅうのようにうすっぺらだ。そこに人間の体積

から比べれば、果てなく広がると言っていいのが、

大気圏の世界だ。

僕は空気の薄い死の層(ゾーン)の端まで、と瞑想内

で行ってみたことがある、一度だけ。そこからは闇が

あるだけ。つまり、僕の体質や生き方ではそこまでが

限界だと思わせた。宇宙の闇が広がっていて、大気圏

で宇宙線や直の紫外線などから守られていない。

比喩ではなくても、僕らとは感覚と生存環境を絶する

世界、不可触領域なのだろう。闇ではないが、その

イメージは避けられない。

大気圏の愛の上に死、愛と死の上に、大気圏を抜けて

空気のない宇宙の闇という比喩だ。僕はそれを

確かめた日から調子を崩して、三日間は気分がすぐれ

なかった。それで自分の向こう側の探検を切り上げたら、

僕の隣にいた半世紀のむなしさが心から縮み出して、

今は希薄になりつつある。(心の穴が小さくなったようだ。)

これを喜んだのが1年くらい前だろうか。そして、現在、

そのむなしさを長年の友のようになつかしんだのだ。

解放されたはずだったのだが、そのむなしさがなければ、

あの緊張と集中はなかったように思える。なつかしさは

いつもセンチ(感傷)のことで、過去の自分を振り返ること

で僕はその極度の緊張に耐えていたスーパー自分を

なつかしんだだけなのだ。過去の相手(虚しさ)と自分

(孤独)、その自分を立てるのは相手がいるおかげだ。

なつかしさはそういう相乗り効果なのかもしれない。

コロナの自粛が始まる前に、孤独になりたいと感傷

したのは、この前哨戦だったのでもあるかも。




*愛のその生成のシステムは、たぶん一部なの

だろうが、想像はついた。それが正解かどうかは

あまり意味がない。他の人が発見して、公表すれば

いいだろう。僕はただ、以前人間が創ったものだと

言った、それをくり返しておく。(それが基礎だが、

旧約の彼が関わっていそうで、そうなるとそこは

微妙で、まだ調査不十分、まったく不分明。)

                         11. 15-16


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