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街もコロナも 夢の中 [夢]

考えない練習、という題の本を見たことがある。 

この人も考えすぎる人なのだ、と思う。  

思わず笑ってしまう、そんな題も見つけるが、 

なぜか手に取って、読むことがない。 

99%は仮説、という題も「そうだよな」、と共感

するが、中身がどうなっているかに 興味が

いかない。 

なにも買わずに、街へ出る。目の前の駅には

手前に車道が一本通っていて、それを横切ら

なければならない。なので、そこでは左右の車

の流れから、今渡ってしまうか、信号機のある

横断歩道まで歩こうか、と必ず考えている。

思えば、同じ場所で同じ考えを巡らせている。 

それを考えないで、すぐに右へ折れて歩くとか、

左を選んで歩くとか、したことがなかった。 

家に居ても、そうだ。 

階段を上る時、考えて勢いをつける。下りる時も

勢いをつけたほうが緊張して疲れない、と考えて

スタスタ上り下りしている。 

そう思うと、習慣で同じ考えを一瞬にしている。

それが儀式のようでもある。

自分が動く時は、なにをするか目的に合わせて、

それに必要な思考をする。街の道路や、家の構造

が一定の形式なので、それに合わせると、同じ

考えしか出て来ないのだろう。  

ゼンマイのおもちゃが止まったら、またゼンマイを

巻く、その瞬時の考えはただ必要だから生まれて

いるようだ。  

朝起きて、歯を磨く、とか。そういうものは考えなく

ても、わかっているもので、それを伝えようとは

人は思わない。  

徒然なるままに、という文学が出てくると、様相は

変わって、なにか情緒が揺れるのを、人は自然に

期待する。文学的とか、詩的な、というその入口

だからだろうか。  

「神無月の頃、(覚えていたのに、もう忘れてしまった)

来栖野(?)というところに分けて入り(?)はべりしに、」

という「徒然草」の文を学校で暗記したのは、いつだった

ろうか? 

「この木なからましかば」という兼好の落胆と嫌悪の句

が、やけに印象に残っている。 


昼間も書けるし、それで昼間から書くことも、時にあるが

やはり、夜のほうが落ち着く。それは街の時は夜には

静かな喧噪ともいう、層があるからだ。 

静かな、というのは音がしないというのが、その意味

だろうが、山に深く一人で入り、夜になると、まったく

音のしない夜が訪れる。それは島の家でも同じだが、

静かすぎて僕らの脳は音を創り出してしまうようだ。

シーンという音に似て、その余韻だけが聞こえる、

という音ではない音がその静けさに聞こえる。

それは頭の中で鳴っているのだろう、と思うし、

事実そうなのだろう。でも、それは聞こえるのだ。

僕は静かな環境には、長い間いなかったのだ、と

反省してしまう。

僕らは環境に慣れるし、それを自分に取り入れる。

夏にお寺さんでは蝉が裏山で、よく鳴いた。

部屋の空気が蝉のジー、ジーという音で占領されて

うるさいのだが、同じ調子で鳴くので、雨音に似て

やがて慣れてしまう。2,3日も宿泊すると、蝉の鳴き声

は相変わらずなのに、まったく気にしないで生活して

いる。 

都会ではやや郊外でも、深夜には遠くの電車の走る

音が聞こえたりする。そうして、静かだな、と思うのだ。

いつも考えるのが習慣になっているので、音の比較で

静けさを捉えている。僕は都会人だと思うのは、そんな

時だ。そういう反省が生まれると、また山へ行きたくなる。

山で生活したくなる。ただ登って、降りてくるのは、もう

いいという感覚でもある。

僕は、山へ入ると、たぶん、気を交換する。リフレッシュ

する。そういう呼吸をしたい、と思うし、そういう呼吸を

する。ただ我を忘れて、深呼吸をする。

考えることを、忘れる。 


本を読むな、というのは一般的な意味でだった。

デカルトは当時の学問がアリストテレスから発展

させたスコラ哲学でできていたことを見抜いた。 

科学的見地はまだ未明の16世紀だった。デカルトは

教科書の思想の根底を感じたのだろう、だから、彼の

感覚で「すべての書は読まれたのだ」、すべて

読んでも意味がないと知った。そこで兵役に出た。

ある晩、三つの夢を見て新しい学問に目覚めた。

ガリレオが宗教裁判にかけられた危険な時代

だった。そこでデカルトも「世界論」を印刷するのを

やめてしまった。出版は亡くなってからだった。 

親の遺産があったので、一人の従者を連れて、

世間という学問の場へ乗り出したのだ。目の前の

社会や世界がどうなのか自分の眼で見るのだから、

師匠も教科書もない。20年間、ほぼオランダのなか

を転々として、あまりフランスに帰らなかった。

ドイツ、フランスなど30年戦争の最中であったし、

それはデカルトの死の2年前まで続いていた。

それでもデカルトは数学を、それまでの幾何学から

まったく別の見地から、代数を編み出していた。

その一歩はX軸とY軸のグラフから、右をプラス、

左をマイナスにあてた。それで数学は格段に便利

になった。現代数学の基礎はここから始まった。

定数a、b、c、・・ と変数 x、y、z はデカルトのを

そのまま使った。変数 x、y、z はそれ以上増え

ないので、アルファベットの最後にあるので都合

がいい。定数はいくつも使うが、増えてもa、b、c、

から使えば20個以上あるので問題ない。合理的に

考えられているのだ。かくして、500年も使われ、

この先もデカルトの記号が使われるだろう。

ニュートンが科学の扉を開けたのも、デカルトの

代数があったおかげだった。物理と天文と代数

がそれぞれを証明して原理を説いた。

この世の書物を読むのはそのすべての考え方で

あっても、現代では印刷技術が発展したから、

爆発的に本は出版されている。すべてその根底を

読むにしても時間がかかり過ぎるだろう。

どうしてデカルトは世間を学問の鏡に見立てたのか? 

それは学問がコチコチにスコラ哲学を基本に固まって

いたからだ。そこからは自由な発想は生まれない。

交通渋滞でともかく、他の道を行っても時間は同じくらい

かかってしまうのだから、渋滞を我慢しよう、というのと

似ていて、誰もがしない抜け道探しをすることが、必要

だと感じたのだろう。バカな道を選んだのだ、それこそ

が合理的だと考えて。誰もが行かない道こそが、誰もが

気づかない発想の場面に出会える道に違いない、と。

なにかと常識的な発想をしていれば、世間の通念に

支えられ、安心安全だと感じるのは、今も昔も変わら

ない。

僕らは社会で人との付き合いを最も大事にするが、

僕ら日本人は世界の人と付き合うわけではないので、

郷に入れば郷に従う、で国際結婚とかになるとそれ

なりにやっていくしかない。しかし、いつまでもスコラ

哲学で学問が支配されてはいなかったように、日本

という一地域が世界を支配することもないし、相手国を

理解しなければならないが、そうもならない決断の場面

に時代で出会うことにもなるだろう。


夜は 更けゆく。  

これから寝て見るのが、夢なのだが、僕は今でも

この三波のなかでも、コロナという夢を見ている気が 

している。感染者数という数字だけが踊っていて、

僕の周辺では、誰ひとり感染者がいない。島の知人、

家庭で、友人たち、子供夫婦やその孫たちにも、誰

ひとりいない。座間で累計168人くらいでは見ないほうが

当然なのかもしれないが、ニュースで一時重篤になった

話をインタビューで見るくらいだ。それはほんとうなの

だろうか、というとんでもないと言われるような気しか

しない。

昨年は9月に島で岩場で落ちて、死に損なったが、

入院もせず、神奈川に帰ってから、10月にすぐ、持病が

起こった。これも1週間で退院したが、事後が悪く、

ぶり返しが多かった。人に「病気の神様の指示」とかいう

話をしたが、首をひねっていた。言葉は正確ではない、

それは不幸な運が背後にある、とかを「わからないもの」

としてだから、それをわかりやすく「病気の神様」と

名づけたのだが、彼には比喩ではなく、そのまま神様

として思われてしまったらしい。面倒でその誤解も解か

なかったが、この持病の5,6回のぶり返しには悩まされ、

我慢の生活を強いられた。回復したのも、年末だった。 

そうしたら、1月にはコロナがはっきりしだして、僕は

横浜の仕事を3月初めに辞めた。何の関連もないが、

こういう我慢には向かない僕は、自粛の練習ができて 

いたと認めなくてはならない。持病が起こらなければ、

コロナ自粛をしていたか、と考えると、できた、と

自信をもって言えない。(では、病気の神様は僕に

予行演習をさせたのか?それはないだろう、ある

だろうとも。そう考えやすいが・・)



病気の神様も夢なら、コロナも夢ではないか。 

そうして、今年も暮れるのだから、これも夢なの

だろう。そうしたら、今晩、急に車検が切れている

のに気がついて、現実に引き戻されてしまった(笑)。


感染しても無症状な者というのは、僕みたいに



コロナは夢の中なのではなかろうか。
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