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透明に近い豊かな暗闇 (独り言) [独言]

ハロウィーンパーティ、したことない。 

興味もなかった、今も昔も。それより、自分の状況を 

気持ちと共に整理してみたい。いつもの独り言だが、 

僕は独断専行していないか、チェックする気でいる。 

なにかを書くわけではなく、こうしてつぶやいているだけで 

なにかを、気にしているなにかがはっきりしてくる。 

それを心にとどめながら、異なる情緒を書いてゆく。 

そうして心は二重の舞台を演じることで、落ち着いてゆく。 


猫は元気だ、まだ。野良猫の寿命は短いのだろうが、 

いつ生まれたかわからないから、予測はできない。 

彼女と同じような自分なのか、と尋ねることがある。 

しかし、野良のように人間の男の大人を警戒する 

ように、僕はなにかを警戒する必要はない。彼女は 

動物の心だから、警戒するからといって、孤独である 

というのではない。狼の遠吠えはやけに悲しく聞こえるが、 

猫の寂しい鳴き声というのは、人の話にも聞いたこと

はない。

僕はこの孤独がよくわからない。その寂寥感を感じたく 

ないがために抑えているのかとも、と思ってみるが、心は 

答えてくれたことがない。そんなに自分を甘さに浸して 

自分が人間性のある人間だなどと、演出する気負いの

ようなものはどうでもいいし、自分の弱さは知っている

つもりだ。人の間に入って仕事や労働を遂行しなければ 

いけない時に心を引き締めて、余裕を見せながら、油断は 

しないで反撃の準備は怠らない、というようなことはもう 

うんざりするほどやってきた。

夜の外に出ると、外気が暗く、涼しい。まあまあ空も晴れて 

いて、雲が少ないので星も適当に見える。山では満天の 

星を見たので、その百分の1の星でも、見えているほうだと

承知している。だが、星が観察できるくらいだ、というような 

ことは、やはり二の次で、この星に抱かれるかどうか、だ。 

一瞬、星に包まれる。それだけで記憶が蘇り、あとはその 

記憶の感興に包まれるのだ。だから、今心は閉じ気味だ。 

初めて星に包まれた晩は凄まじいもので、星空の中にいた。 

その空を見上げているのに、感じているのは、星々が 

僕を包み込んで、星たちから見られているようだった、と 

いうことだ。僕にはそれが決定的な瞬間で、何度かあった。

星を観察するように見ている時は、それは自分であり、 

また知というものの行為だった。それは星と一緒になった

感興が覚めてから、わかることだった。僕の感覚ではそれが

正覚だと感じた。 星たちと一緒だと、命が惜しいとか、孤独 

だとかはただの雑念で、幸福や自在感があって、それらを 

まとめた自由の感覚があった。すると、それが素晴らしい 

人生の”時”だと如実にわかるのだ。 そういう過去を思い 

出した。 島でや、山頂では星があり過ぎて、大きい、小さい 

の区別がつかないので、星座などは見分けられないくらい 

だった。

それで、地上のここでは星空には期待しない。わかりやすい 

南十字星*とかオリオン座とか探す。見れば、即見つかるのが 

北極星だ。近くにそれくらいの同じ大きさの星がいないので、

すぐに北極星に引き寄せられる。そして、どうして北極星は

すぐに見つかるのだ?と少し、不思議に思うのだ。

今晩は北極星を探す星のほうが見つからないと思ったら、北斗

七星のひっくり返った柄杓が見つかった。柄杓の最後の二つの

星の距離を4倍くらい伸ばすと、そこに北極星がいる。 小学校

で習ったような気もするが・・。 

満天の星はほんとうにゴージャスで、街のイルミネイションが 

ゴミのように思えるくらいだ。数えると、全天で二万くらいの星

がチカチカ輝いている。見ようとすると、あまりに遠いためか 

距離感が掴めないで、そこにあるようにも、ずっと遠くにある 

ようにも見える。それって、どこにあるのかわからないことなの 

だろう。それでますます星に魅入られるように見入る。 

十分に心が開くと、(実際にはあり得ないが)意識のない心と 

星とが友達であるような全体感に包まれる。

(もう僕は裏の心で自由を泳いでいる) 

心を開放し続けると、ある時点で穴が開くのかもしれない。 

が、そうなることはなく、その手前で僕らは我に返ってしまう。 

我に返ってしまう、という常套句もよくできた言葉でこれは

自分に帰ってしまうという意味だ。それまでは自分から離れて 

いたという事実を示している。感興というのは、そういう自分を 

断ち切った状態に横たわった世界であるようだ。 

僕はそういうことを、よく言われる「自然との一体感」という 

言葉を使わない。嫌いなのだ。我に返って「素晴らしい夜空だ」 

と言葉を頭で使った瞬間に、9億9999万9999の豊かな感興の

情報は消え失せ、1だけの言葉に集約されてしまう。豊かな

事実を無意識に捨ててしまっている。それほど現代では感興

にとどまることすらが難しいのだ。

はしゃぎたてない。騒がない。愛の性質とか傾向を知ると、 

喜びを抑えることをする。低刺激で、静かに喜ぶ。 

葬儀で泣きじゃくる子供は可愛いが、同じように大人が 

したら、冷たい眼で見られる。涙をこらえている人を見ると 

知らずもらい泣きしそうになる。もらい泣く。どうしてか、 

悲しみを抑えるほうが悲しみをあふれさせて、周囲の人に 

伝播するのである。もらい泣く、というのもよくできた言葉 

である。 愛も似ているところがあり、喜びを抑えると、自然

に笑みがこぼれる。げらげら一人で笑いまくっていたら、 

狂っていると思われてしまう。 

こうした感興の後にその余韻を尋ねると、自分がどこにも 

いなかったので、今まで「僕はどこにいるのか」と散々言って、 

書いてきたのだろう。どうもその感覚を現わそうとした感嘆詞

らしい。


僕はどこにいるのか。なぜ僕だけがしあわせなのだろう? 

この自然との共感はいつも一人の時が多く、他の人が 

しあわせじゃないと言っているのではないようだ。僕は 

たぶん、死と共に孤独にある時にしあわせを感じることが 

できる独特な一面があり、その意味では仏教的なのかも

しれない。 

宮沢賢治とか、南方熊楠とか、あと誰だったか、臨終の時 

に大輪のハスの花だかを見ながら、静かに息を引き取る 

という話を読んだことがあるが、それがふつうに子供っぽい

空想話に終わらずに、だんだん美しい話に思えてくるから、

長く生きていると、人は変わるものだと思う。



*南十字星は和歌山県の最南端や沖縄などで見ること 

 ができる。

                 10.29 ハロウィンの頃
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