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知の憂鬱を逆転する手前のこと [夜想]

1週経って、3日ほど休んだが、疲れが取れない。 

また風邪を引いた。だるさだけが気持ちいい。 

集中はできない。だるさだけが心地いい。 

できないのがわかるから、楽にする。その手抜きが 

快適なのだ。今は他に、何も言うことはないみたいだ。 

言いたいこと?  

なんだろう、こうなってみると、そんなものがこれまでにも 

あったのだろうか?と捨て鉢な気持ちにもなる。と言って 

捨て鉢に合わせるとしても、そのままの気持ちでいよう 

とは思っていない。  

こういう風に体のだるさがふつうになる生活が来るのなら、 

それはもうそれなりの生活をしなくてはなるまい、と思い、  

それも気が抜けていいものだ、と。 

そうしてみると、生活は何でもいいのじゃないのか?と 

思いたくなる。頑張れるから、頑張るので、もう疲れて  

どうもなくなったら、手を抜いたままでいいではないか。 

今日は仕事で訪問の帰りに伊勢佐木町辺りに骨董品屋 

が一本の通り、商店街にあって、茶碗や動物の陶器、皿と 

漆器に眼を吸い寄せられるようだった。値段の格安な 

宝石入れがあって、まあまあの造りになっていたが、 

宝石の趣味はなかったので、買わなかったが、損をした 

気になった。5つのグラス型の湯呑(陶器)もあって、 

それぞれが渋い色合いで味のある湯呑になっていた。 

それはよくできていた色合いで、欲しいと思ったが、 

自分でも作れる、と思う気持ちが買わせなかった。 

やはり、損をした気になった。 

もう一度は来る予定なので、営業時間を確かめて 

おいた。仕事帰りで間に合う、が、その頃まで気が 

変わらないか、確かな自分ではない。  

で、思った。その陶器の美に惹かれるからといって  

それがなんなのだろう?と。  

そして、逆に美に惹かれすぎることが必要なのか、 

そういう嵌ることがしあわせで、ある意味、必要なのか? 

と疑問が浮かんだ。  

が、僕は悩まない。それが問題なのかどうかも、そこで 

立ち止まるのをやめてしまった。結論を出さなくては 

ならないようなことではないと、一瞬考えたからだろう。


そうすると、極論が浮かぶ。 :::::

陶器はそこに美を閉じ込めたつもりなのだろうか? 

それは偶然の火の作用も手伝った、自然のいたずら 

とも言えるものだ。(作家が自由に模様など造れるもの 

ではない)僕はそれを自分の手で求めたい。経験したい。 

何が起きるのか、ガラス工芸をした時のように自分で 

確かめたい。その気持ちが強すぎるのだろう。 

本は最も知識欲を刺激して、これもあれも読みたい、 

知りたい、と思わせるものだが、死んでいる。過去の 

ものだ。ウルグアイの貧乏大統領が言ったように、人を 

しあわせにするのは同じ生き物だ、というように本は 

生きていない。 いつでも同じことが書かれている。

その点で最大に知的表現物だ。生き物ではない。 

知的満足をしあわせだと言うのなら、ある意味、食べ物 

の満腹感がしあわせであるようにしあわせなのだろう。



それでも僕は本を(他人の考え)を信じていない。自分と 

同じであるようだと、自分の考えをすぐさま修正しようと 

さえする。この極端さは僕の追求が、自我の究極は 

すべて自分なりの考え方というものが存在するという、 

信仰にあるのだろう。知的、とはこの誤った信仰にある 

のではないか。一種の完璧主義で、ある程度の意識範囲、

意識層では同じに並んだ考えも、そこから昇華すると 

それぞれその人独自の考えに色彩変化する、というものだ。 

それには正統なものも、錯覚もあるのだろう。それでも  

それが人、個人の独自な極みなのだ。 

僕はそういう考えでこれまでやって来たのだろう。だから、 

人の本などを読むひまがあったら、自分の無意識の世界を  

辿ったほうが無尽蔵に考えを拾ってこれるはずだ、と考える 

のだ。人の発見の100の思想ではなくて、自分の内に100 

00000000000000000000000000

000000000000という目もくらむ驚くべき思想

が眠っているはずだ。 

そのヒントは、確かに創造の扉を開いて、一瞬のヒントと 

して実際に感じたではないか。  

僕の根拠はそこにあり、いつも手が届かない。理想論で 

終わるばかりだ。そうだろうか? この世界の混乱は 

この思想の混乱のまま、僕は僕の世代の常識のまま、 

なにも変えられないのだろうか?   

また、自分の小ささ、力量の不足に、はるかに広大な 

真理を前に、ため息をつかなくてはいけないのだろうか。  

この心やさしい夜のシンフォニーを聴きながら、それに 

酔うだけで満足しなくてはいけないのだろうか?  

まだラッキョウの皮をむき続けなければいけないの 

だろうか。  

僕の思想の歩みは驚くほど、過去の本の思想の後を  

追う展開という影がつきまとう。それとの違いを説明 

するのが微妙さがあって、時間の遅れを取る。 

彼(著者)もそう考えていて、僕が思ったようにその考え 

を踏襲するから、同じ考えを持ったと言えるように見える 

が、実際にはそこからも少しねじれるように違う見解が 

ある。それを研究している暇はないだろうし、そういう 

趣味は僕の繊細でありながら磊落(らいらく)な性格で 

無理だろう。  

本について僕が否定的なのは、それは主に古典として  

認められているからだ。その思想の究極の部分という 

ものは、結局は理解されないのだ。それが多い。 

なので、人々が理解しやすい通俗な考えがそれに 

まとわりついて流布されているという具合であって、 

実はそういう古典は僕らの解釈によって変えられてしまう  

ものとして、認められていて、そのまま誤解がそれを示す  

という悪循環になっている。だから、古典は次第に名前 

だけで実際には読まれない書物になっている。 その意味 

では世間では古典は3種類あると言える。謎の一部を 

個人的に解釈したもの、次に学者が半理解で流布した 

古典の通説、最後にそこから人々が理解しやすいように 

通俗になったもの。最後のものが、一番多い古典だ。

僕はモーツアルトの交響曲は全曲聴いたが、彼の曲は 

1000曲以上、誰がそれを聴いただろうか?と小林(秀雄) 

も書いていたが、それと似ていて、書物の古典もそれが 

理解できるくらいなら、自分で思想の宝を自分で発見 

できるということがわかってしまう。スピノザも、デカルトの 

哲学原理を解説したが、それまでであとは自分の思想を 

発展させるのに務めた。デカルトに拘泥していたら、10数年 

後、スピノザの「エチカ」は書かれなかったかもしれない。 

僕には無意識を発見したフロイトは人の心の根を発見 

したと思い、それの因をリビドーに指定したが、ユングは 

それを否定して、自分の独自の道を進んだ。 

僕には二人が取った違う道はそれぞれ正しかったと思う。 

結果をひとつに絞れるほど小さな世界ではなかった、 

無意識は。というのが真相だろう。二人とも(読めばわかる) 

沈着冷静な考え方をして、慌てず騒がない。フロイトは 

戦争中でも少数の生徒に教えを続けている。 

心理学には毒性があって、役に立つ部分だけではこれに 

対抗できない。まだ力不足なのだ。それで分析心理を 

深入りしながら健康に心を保つという方法は、いまだ 

残念ながら、開発されていない。アドラーも他の優秀な  

医師も亜流に流れている。全体はまだ見えていない。 

人の感覚は様々で、機械や抽象などへの愛で、三角や 

球体などの幾何学的なものへの愛もある。科学に携わる 

者は数式の単純化への美しさに囚われやすい。ある 

数学の先生は油絵も趣味で描いていたが、星ではない 

球体を描いて、全体も幾何学的で、自然さは感じられ 

なかった。 

ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」は有名だが、

その完全無双さに彼自身が疑問に思ったのだろう。 

また新しい(知の視点でない)視点からの思想を展開し 

始め、それは終わりを見せずに展開していった。  

最近、マルクスは「資本主義」という言葉を一度も 

使っていないという本を少し読んだが、僕らの知る  

マルクスとはなんだろう?と思わせるものだった。 

古典を知るものは本当にいるのだろうか?と考えて 

しまうような感じで、それは僕のこれまでの思惑通り 

に僕の煮詰めた常識世界を自分で突き崩すという 

計画と、マッチするように同じ様相をしていた。 

それは現代をも崩壊させるヒントを内含していそう 

だった。実際に、すべての考えはその破壊と創造 

の躍動のうちにすでに含まれているのだろう。 

それを個人がどういう形で対応して、自分の思想に 

育て、形を与えるかというのが、僕らのこれまでの、 

そしてこれからもの、知の歴史的内容のすべてでは 

ないか、という気がしている。

これは昔、もう少し狭い世界の予想で描かれた想像 

と同じタイプの世界を予見していて、古い思想を 

見ているようだ。と、気がつかされる。

知は己のうちに閉じ込められても、それを細分化する 

ことはできるから、どんどん煮詰まってゆく。これは 

おかしいと人々が全体的に気づけば、逆転して、 

新しい思想を望めば、そこに偶然がその発見を促す。 

それを実験のように見なせば、大きな装置で世界規模 

の席巻と浸透で、僕らは新しい道を見出せるが、それ 

には大きな展開が必要になる。楽しくはないだろう。 

が、やりがいはある。 


::::
こうして書くに任せて自分の考えを覗くと、まだまだ 

一部分を書くのがいっぱいという処で、それに手足を  

つければ、あれもこれも説明できる、とは想像できても  

実際に書けるというわけではない。ただ自分のやろう 

としていることの見やすいポイントを手に入れることが 

できる。   21.7.16

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マカオのホテルの尖塔
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