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目的のある読書と目的のない読書 [読書]

自分が自分の人生の主人公であるのを  

実感するのは難しい、と考えてもいいと  

感じられるようになった。  

少し前まで、ほんの数年前までは、その緊張の  

連続からもう逃れてみたいと、淡い願望を持って  

いたのが夢のようだ、それで正しいのだろう。  

この状況は。

しあわせは瞬間に訪れるもので、それで  

なおさら、甘さは格別だった。おやつで飴を  

なめるようなもの。 

愛でなければ支えられなかったのだろう。  

それから比べてしまうので、幸せはおやつの   

ようなものだった。 脱出できてからは、しあわせ  

であるのは日常のこと、当たり前のことだった。  

恐らく、貪れば、幸せはあふれるほど湧いて来る  

にちがいないと、思えるのだった。精神の洪水を  

経験してからは、おやつを貪ろうとは思わなくなる、

自然に。精神的に?虫歯になってしまう。  

だからといって、その半世紀が不幸で暗い時代  

だったとは言えないし、思ってもいない。何度も  

出てきてしまうことになって後悔しそうになった  

のだった。  

悪い時代というのは、僕の場合は通じない、それ  

は感じたことはない。僕がこうなるためには、必要   

なことだった、そのために必要な試練があった、と  

いうことだった。  

よく鐘が鳴る時代だった。それを聴くと、僕は夢の  

世界へ出かけた。僕を呼ぶ鐘なのだ。 過去の或る、

チャーミング・ポイントへと、僕は命の雨や、泉を見た。

初めはそうだとは気づかずに、過去の温かいもの、  

そういうやさしさを感じただけだったが、10年、20年  

の内には、鈍い僕でもわかってきたらしかった。僕の  

中には無意識下を歩いた経験が積まれているが、  

それが五感や心や体の感覚に顕現はしないから、  

常に隠され、溜まったままになっている。

たぶん、そういうことなのだ、僕が書き続けるのに 

なにかに背中を押されるように感じるのは。  

それが書かせる。それが僕をひとりにして歩かせる。  

それが夢を生きるという、僕独自の意味なのだろう。  

現実には僕は楽をしたいから、全部やめて、山へ  

行ったり、虫や雑草の生きる居場所を探したいし、  

海にもぐって、夜はバーベキューでもしたい。  

皿や湯呑を作りたいのだが、今日はその陶器用の  

土で歯を作った。前歯が差し歯で、数か月で取れる  

のでうまく嵌る隙間を作って、簡単には外れない  

構造にした。乾燥させて、焼成して、色付け、また  

焼成して完成だが、やってみないとちゃんとしたもの  

ができるものなのかはわからない。まったくだ、陶器で  

一番最初に造るのが「歯」だとは想像もしなかった。  

Bプランがあって、その歯を鋳型で歯医者に持って  

行って、技術者にセラミックで同じものをつくってもらい、  

それを医者に接着してもらうというプランだが、このほう   

が現実的だ。陶器の自己製の歯がどれだけ嚙む力の 

強さに耐えられるか、危うい。  


僕らはどこまでも広がる。果てなく、どこまでも歩いて  

行ける。だから、僕がひとり呆然とする時。気を許して  

いると、あれもこれも、あの分野もこの分野も、あの  

始末もこの始末も、あの意味もこの意味も、あの思想も  

この思想も、その進むべき道を探って、四方八方に  

広がってしまう。もう手が付けられない。だから、静かに  

広がるそれらを鎮静させて、収めてゆく。それはすべて  

一度に辿ることができないことだから。鎮まるのをじっと  

待つ。それから、今に戻ってくる。できることを、今から  

すればいいから。いつもここからしか進むことはできない  

のだ。論や思想を唱えても無駄だ。   

ここからは各人のやり方がモノを言う。  

僕の考えは、前から言っているようなもので、例えば、  

俳句を人生に例えるようなものだ。五・七・五の17文字  

しかない俳句に人生を込めよ、と言われたらどうするか。  

そういう想定をいつも日常でするのが僕のやり方だ。  

朝なので   歯を磨くのだ  朝歯磨き   

という俳句を作ったら、無駄だと思う。朝も歯磨きも  

同じ言葉を二回も繰り返して、なにも表現するのでも  

ない、という二重に無駄をしている。  

だから、例えば、読書でも目的の読書と目的では  

ない読書に分けてしまう。目的の読書は研究のためとか、  

何かを追及して、またはなにかを調べるため、知るため  

という読書は、ほぼ読まないで読む。何度も書いたが、  

オックスフォードかどこか有名大学の教授が論文を  

書く学生に教える初めの読書法だ。その本の、その  

論文のエッセンスは20から30%のページ数の箇所に  

書かれているから、それを見つけよ、というものだ。 

初めにとか、最後にとか、目次とかをまず最初に注目  

して、重要個所を見つける。そこから推測して、その  

ページをパラパラして、何が書いてあるかを数秒で掴む

(飛躍して言ってるのではなく、やっているうちにできる  

ようになる)そうして大量の本から、資料の本とその  

エッセンス個所を見つけてしまうのだ。  

例えば、ロシアの文豪トルストイは「戦争と平和」を書く  

ために3万書という本を読んだ?と言われる。小さな  

図書館ができるほどだ。そうして、当時の風俗や貴族の

衣装などまで調べたそうだ。3万という本を通読して  

いたら、単純計算で1日1冊でも82年以上かけないと  

読み終わらない。だから、トルストイも速読か、ポイント  

だけ読む技術を知っていたはずだ。「戦争と平和」は 

書かれたのだから。  

目的の読書は、まず最初はなぜこの本を読むのか、 

という目的意識がはっきりしていなくては成り立たない。  

それは畢竟(ひっきょう)、自分はなにをしたいのか、  

という根底の意識をしっかりつかむことに他ならない。  

もしも、そういう意識がないのならば、それは目的の  

ない読書で、ふつうに小説などを読んで味わい楽しむ  

ことだ。人生を傍観者として、そこに自分を重ねたりして  

ロッキングチェアに揺られることだ。楽しむのだから、

ゆっくり1ページずつ、最初から読み始めて、展開を  

楽しむのだ。優雅なことだ。  

それで間違えていけないのは、目的のために他人の  

書いたものを懇切丁寧に、1ページずつ読むのは  

合理的でなく、無駄であることだ。人の頭には基礎から  

積み上げて、高みを目指すという理想があるが、現実  

にはそんなものはない。人生はそのためには短く、本は 

その分野だけで何万冊では足りないくらいある。150年  

もかけて読んではいられない。それで現代ではどうしても  

すっ飛ばして、30%だけで読んでしまい、エッセンスを  

盗んでしまうというテクニックが必要だ。  

そして、本の70%を捨ててしまうという経験は、その人を  

強くする。できることをするというのは、そいう無駄を切り  

捨てることが必要で、それは自分の意識を切り裂くこと  

でもあるから。勇気がいる。  せっかく買った本を読まず

に見捨てていくなんて、と思う人はなるべく図書館で本を  

借りるなど工夫すべきかも。

ベストセラ-などの要約されたものを集めて、読めるアプリも  

あるが、それがいいという人もいるだろうが、人間力を信じる  

なら、自分で努力してそのエッセンスを嗅ぎだす力を自分の  

ものにしてしまったほうが、後になってアプリに頼らず、効率  

がいい。僕はそれがどれだけか計測はできないが、ある  

超能力じみたものがそれに関わっていて、僕も経験している  

だろう、という感触を持っている。例えば、極端には、辞書で  

開いたページにずばりその目的の英単語が出ているような  

もの。そういうことが起こりやすくなる。次第に当たり前に  

なる。人によって、三日、3か月、・・1年、‥3年、7年の人も  

いるかも知れない。   

僕は運転仕事が長く、15年も足の運動をサボって  

いて、階段登りで息が上がったのに驚いて、運動を  

始めたが、普通の体力に戻すのに結局、7年かかって  

しまった。それでも軽いランニングができるまでになった。  

それでもありがたいものだ。高齢になると、(初めて)  

わかる。 



のんびりと読書はいいものだと思う。だが、僕にはまだ  

無理なのだ。そんな時期ではないと、もしかしたら、  

そんな時期は来ないのかとも思っている。それは僕が  

それを強くは望んでいないからだ。僕の性格が僕の  

運命だ。そこまで僕は裸の自分を見てきた。裸に  

ならない限り、僕らは裸の王様だ。  

なので、裸の王様は裸の自分が怖いが、裸の自分に  

怖いものはない。

テーマが反れたので、またに。
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