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アリと気に義理す 1. [アリ]

アリとキリギリスはイソップ寓話で、それをもじって 

題をひねり出したが、さしたる魂胆はない。  

近くの駐車場へ行く途中で、そのまた途中の駐車場  

からアリが車道へ列をなして行くのを見つけた。  

初め、車道の群れを見つけたのだが、それに続けて、  

アリが歩道にも群れて列をなして、それが砂利の 

駐車場から続いていたのだった。 

車道のアリは普通ではない、100匹を越える群れで  

ほぼ全員で多少右往左往しながら、進んで少数が  

戻ってくる、という編成。 

が、車道である、車が来れば轢かれてしまう。その  

先頭集団は先っぽがぐるぐる回りながら、行進して  

いる。黒だかりになって。  

僕はちょうど車道へ出て、そう時間が経っていない  

時に通りかかったらしい。車が来たが、一台で通過  

した時にはアリはまだ片道車線の真ん中を越えた  

ぐらいで中央にも達していなかった。タイヤに潰された  

アリは数匹だろう。そのまま中央を越えて、反対車線 

に先頭が進んでしまった。これはもう、こちらも反対 

車線も轢かれるだろう、となった。数台の車がアリを  

轢いてゆく。こりゃダメだ、と見ていたが、先頭は  

そんな中でも反対側の歩道に辿り着いた。  

こちらは悲惨だ、轢かれたアリは黒い塊に見えた。  

動いていないからすぐわかる。中でも黒い丸に見えた  

のは、そこに何かあるのか、と思わせたので、見に  

行った。が、そこに虫の死骸とか、なにかあると  

いうのではなかった。  

なにかを探しに行ったのか?そこでアリの巣から  

出てきたのだろうから、戻るアリの後をつけてみた。  

駐車場に入り、石の間を歩く一匹のアリをつけた。  

そのうち2匹なった。視界の中でかろうじて見て  

取れる。が、2匹は連絡を取るでもなく、離れた  

ままでそれぞれが右往左往しながら、結局は  

同じ方向を進んでいた。ところが、停車中の車と  

その隣に隣家の小庭があったが、そこに入る  

でもなく、2匹バラバラに進む。そこで諦めて  

しまった。戻ると、まだアリは歩道にも、車道  

にも、車道は少しだが、ウロウロしていた。  

反対側の歩道に渡って、先頭集団を探すと、  

いた。階段を下りると団地になる、その手前の  

歩道の上で塊に歩き回っている。  

60匹くらいいる。用事で行くところがあったので、  

アリの観察を切り上げた。  

何だったのか?  


3-40分で帰ってきたので、またそこを通って、  

経過を見たが、まったくなにも残っていない。  

車道に出てまで目を近づけたが、アリの一匹の  

死骸も見つからない。車の底に起こる風で  

吹き飛ばされたのだろうか。反対の車道にも  

行ってみたが、もう移動した後で、見つけるのは  

無理だった。  

中途半端だったので、観察は何の結果もない。  

アリが車道を渡る。轢かれるに決まっている。  

その通りだ。それはでも、人間の立場から見た  

結果で動機は何も説明しない。巣の引っ越しなら  

女王アリがいたはずだが、それはいなかった。  

大きな死骸の獲物がいたのだろうか?それも  

車道の反対側に? 昼間、夕方近くにもなって  

それだけの大移動をする理由はなんだろう、 

という疑問は解けない。しかし、どう見ても  

平均の、平板な移動ではなかった。  

僕はその始まりも終わりも見つけられない。  

アメリカの砂漠には大移動するアリがいて、  

他のアリたちとの諍いもあるが、天候との  

戦いもある。それにはそういう理由があって  

謎もあるが、まったくわからなくはない。  

そういう本を2,3冊は読んだが、その知識  

だけでは、このアリたちの移動は当てはまら  

ない。そこで終わりだろうが、知識があると  

この移動にも理由があると疑えない。必ず  

アリの社会の独自の文化・行動の生態理由が  

あるはずなのだ、と。  

そして、それがまったく空白であることに人間と  

アリの隔絶感を感じてしまう。たかが、アリでは  

ないか。知らなくても何も困らない。    ・・・・

本当にそうだろうか。  

僕は、困ったことに、そうは思えないのだ。アリの  

所謂、文化じみたごとがわかるというのは、人間  

とは隔絶した感覚に違いない。すると、それが 

そのままで人間には役立たなくても、そこにまるで  

別格の社会、空気も支配系も全く異なる世界の  

体系があるということが、そのまま人間を文化を  

社会を照らすのだ。それは間違いない。  

だから、僕にはそれが抜けてしまっていることに  

僕なりの危機感を感じる。大げさなのだろう。  

それは ’もしかしたら’、という危機感だから、今  

切迫したものではない。  

それでも僕は考えてしまう。なぜなら、僕が出会う  

もので未来に関わらない無駄な出会いというものが 

あるとは、今の自分については想像できないからだ。  

それほど僕はなにかに切迫している、という感覚、  

それは当たり前のように時間を超えているからだ。  


何かが心でも現実でも起きて、それに誘われるなら、  

それが嫌なら断ればいい、そういう通常の態度で  

対応してもなお惹かれる時がある。この時は、嫌とか  

は無視してその場に対応する、従って行動する。  

なぜなら、答えは後からわかるからだ。それが  

どれほど不思議だろうと、生活の指針になっている。  

つまり、起こることのすべては僕と無関係のことは  

起こらない。死ぬときは必ず死ぬ、生きる時は  

どんなに絶望的な状況でも偶然がいくつも重なって  

奇跡的に助かってしまうという山の教訓は、今も  

生きている。生きていることが生かされていることと  

重なり合っている。それは他力ではない。自力が  

尽きる時に、そこまで必死にやった時に、なにかが  

起きるだけだ。それを信頼してはアウトなのだ。  

まったくそれをあてにしていないで、忘れ去っている時、  

助かった時にあとから思い出すような情熱の後に  

希望はなかったことを知る。自分はなにも希望して  

いなかった、それほど今にいた時、それが無我という  

ものなのだろう。それは潜在意識だけが知っている。 

僕や僕らは知ることができない。  

なんとなれば、そこにアリの生態が横たわっている  

のでは、という具合に気にかかってしまうのだ。


アリとタイヤ.png

団子を持つアリ。(タイヤは迫っている)
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