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今一番大事なもの +解題 [愛]

(今回は長いよ、2つを1つにしたから。適当に)


今、一番大事なこと、それはなんだろう?と 

自分に問いかけてみる。必要があるからでは 

ない。今、思いついたからだ。 

そうすると、なんと考え込んでしまう。自分が 

なにかがこうありたいとか、こうしたいと、 

それが自分でそう思うのが標識にちがいない 

のだろうが、基準を絞れないので、止めどが 

ない。

この街、この地域、国の自然、世界の山岳、 

海洋とか想像を馳せると、それらがすべて 

必要だと考えることで、それは地球がなけ

ればならないということで、それこそは空気 

が、光が、太陽が、ということになって、収支 

がつかない。それにそれは生存に必要な 

十分条件で、自分が大事に、の以前に 

必要なものだ。  

そうか、そういう意味では大事なものとしては

特にない、となる。考え込むのも無理はない。

たぶん、そういうことでは、人としては寂しい 

のだろう。そう思われる筈だ。そして、それも  

また、どうでもいいことに思えてしまう。 

僕は自分に戻ってきても、そこに自分らしい 

なにかを見定めることができにくいようだ。 

なにかが実際に、直接的に起こってみて 

行動なり、物事に必要なものが生まれる、 

というのが今の自分の標準のような気がする。

さして、面白くもないから、自分のことはどう

どうでもいいように思えるのだろう。 

創造の扉を開くのも、それほど自分にとって 

重要事項ではなくなったらしい、となれば、 

やはり、寂しい話なのだろう。芸術も文化も  

なんだかなぁ、という感想になる話だからだ。 

そう、やはり、自分が出てこなければ自己 

実現(なんのことかよく分からないが)とか、 

人生達観とか、頂上目指すとか、ゴールに 

一直線とか、人生無常とか、我田引水とか、 

則天去私とかも言えない、思いつきさえ 

しない。それはそれに対する自我があって 

こそ言えることで、無とか去就とかへの

想い、愛への想いさえ、自己をまず意識で 

立ち上げなければ、成り立たない。精神的に 

バカとか、愛だけの人とか、素直だけの人 

だけが、なにも思わずという場所にいるの 

だろう。

僕はそういった意見からすると、どこにいる 

のだろう?僕の外野としては少年から青年 

にかけての記憶が熱く、冒険心が周囲を 

経(へ)巡るようだ。内野(内面の芯)として

はなにもないようだ。 尊敬すべき系統とか、 

伝統とかあるのは知っているが、それよりも、 

・・と思ってしまう。なんだ、やはり、大事な 

ものがあったじゃないか、と。

それはそれでいい。確かに、と思う。だが、そこで、  

ではそれは何々です、と言えるか、と言ったら、 

僕はなぜか停止してしまう。その答えの前に 

「自分」の意見がなにになるのか、そこそこの 

思った程の役にも立たない、意見とは 畢竟

(詰まるところ)その人の立っている位置の 

複雑な角度の傾きではないか。 

と言ったら、19世紀に流行った「虚無思想」 

ではないか、と言われるんだろうな。

確かに違いを説明はできないだろう。それで 

はこうして書いている意味がないので困る 

のだが、・・・・・・・、どうしたものか。  

虚無には虚無の感覚が襲い、空しい感情に 

も襲われるのだが、それは淋しい人になり 

おおせるだろう。

寂しいか、・・ それを感じない理由は慣れた 

からだろうという根拠のない理由しか挙げ 

られないが、実際どうなのか、よく わからない 

のが実情だ。僕がふと一人でいる時の顔を 

見ても、寂しそうだと言う人はいないだろう。

と、観想するが。

なんともまとまりのない話をしている。たぶん、 

これでも’僕はなんなのか’、という話をしている。 

もう自分ではない僕はなんなのか、という話を。 

すると、こうなる、・・自分ではないものは

なにものでもない、・・・、だから、・・・・・・

その先がわからない。

その先がわからないのだ。先がないのかも 

しれないし、あってももう生物的な感覚・超視野 

では捉えることができないとか、僕らが想像する  

領域というとらえ方が、もう知性の人間のもので 

あるから、古臭いのかもしれない。  

僕ら人間って、もう古臭いのかもしれない。 

僕らで価値として滅びないと考えているのは、 

たぶん愛なのだろうが、誰かこれを食ってる 

奴がいるんじゃないの?自己矛盾がいろいろ 

それぞれの大事なものをお互いに争うように 

自我を体のシステムで生物的に恋愛や憎悪 

で、戦争や平和の格差の葛藤で争いを起こ 

させて、悲しみに寄るものもなく、すがるもの 

で人間に愛を生ませる。その愛はどこへ 

行ったのか。 

僕らの手元に残ったのか? 

いや、死のゾーンに包まれて、ふつうには接触  

できないようになっている。 なぜか? 誰かに 

とって、相当価値あるものだからではないか?

なぜか愛は死に包まれて、死を突破した者に 

しか愛を出会わせない。そして、死を突破した 

者に歴史を作らせる。

西郷隆盛が無名だった30歳で最初にしたのは、

勤王の僧、月照とともに死ぬことだった。 

斉彬が亡くなった時に殉死しようとして、月照に 

止められた。今度は月照が藩の企みで殺される 

ので、船から身を投げるのだが、その時、西郷も 

一緒に死んだのだ。ただ西郷だけが奇跡的に 

助かってしまった。西郷は愛の人となりながらも、 

維新の道をさまざまな矛盾を抱えながら、突き 

進むことになる。西郷は死んで甦ったから、維新 

の立役者になったのだろうか? 

この世のシステムを部分部分の真実ではなく、 

全体ではっきり見るのは誰だろう?僕だろうか? 

僕の他に誰か来るのだろうか?見たとしても、 

どうなのだろう?  

囚われの愛が事実なら、誰かどうにかできる 

ものなのか?期待の持ち過ぎか? 

では、一番大事なものはなにか、などと 

気の抜けた問いをするのは、やめよう

ではないか。

僕らの愛は誰かが食っている。この20年 

僕に住み着いた疑問は、考えに考え続け 

たが、特に近年の6,7年も、変わることは 

なかった。

だから、誰か一人くらいここにきてくれ。

待たないが、一応は待つよ。

いま、大事なものは、喉を潤す水の一杯だ。 

やけにストーブが熱い。・・ 消そう。 ・・・。

ファンヒーターでなく、昔の石油ストーブ 

だから、消すと臭いって。 

知らないよね ・・。 



解題 ::

誰かが愛を食ってる、という突然の話は迷惑な話だ。 

それは読者にとってもだが、一番は僕が迷惑だという 

話なのだ。10年以上も隠してきたのに、パソコンが 

イカれて慌てたのだろう、半無意識化では書いて 

しまった。僕に、自意識な僕に断りもなく(?)。 

説明事項が格段に増えてしまった、急に。  

その話をするためには、どうしてもそれが理解 

できるために 長い前提になるお話をしなければ 

ならない。

どうして隠してきたかは、ごく当たり前のことで、 

その仮説についての確証が得られていないこと、 

いずれ傍証だけで説明するにしても、まだまだ 

地固め的な証拠が必要だったことだ。僕の証拠 

というのは、三つのことを総合判断して、それが 

統括したものが、その三つの事例に当てはめても 

満足いく信憑性があることをいう。  

その三つとは、一が論理解に耐えること。二が 

世間の言うことや常識にあること。三が歴史に 

例が見つけられること、であるが、統合判断 

したものが正解の場合は、二の所謂、常識は 

そのことが誤解されて常識になっていることが 

すぐに見て取れる、そういうものであることだ。 

この三つに対して、解として納得いくものが、

初めて確信になる。それを僕は長い間、大事

にしてきたが、最近、信頼度を9割くらいに

下げた。 1割は、新しい事実や新しい判断が

出てくる将来の可能性に残した。かくして、僕が

100%確信するものは、何もなくなった。ゼロ 

である。 

それは自分に対してである、他人に対しては 

そうではない。その土地、その地域、その組織、  

その国の常識に沿う。それは僕らが、好意を 

もったり、一緒にいると気分がいい人に対して 

話したりする態度と、そうでない相手とでは話す 

態度も違うように、自然な区別の範疇になると 

思う。知人は他人という家族~半家族だが、

まるきり知らない人はふつう、赤の他人だろ、

という話である。日本で家を留守にする時 

には、鍵をかけるよという話である。そもそも 

鍵を持ったこともない国民もいれば、カナダ 

のように家に鍵をかけないで出かけてしまう 

国民もいる。まれに中学生に部屋を荒らされ 

たりするらしいが、あまり気にしないのだろう。 

欧州のどこか忘れたが、知的障害者や統合 

失調症の者、1万人くらいと日常生活を一緒 

にしている地方都市があるらしいが、ものが 

なくなったりは、しょっちゅう起こるらしい。

あまり気にしないのだろう、そんなので怒って

いたら、共同で生活などできなかっただろう。

清潔・きちんとした好きな日本人には耐え

られないだろう。お国柄、という奴か。どうして 

そういう生活になったのか、興味深い。 

話はどんどん崖下にズレ込んでゆく。 ・・・・ 


僕は愛を発見するという経験を前提に話して 

いるが、土台、愛は発見するものなのだろうか。 

それは愛の一種なのだろうか、という疑問も 

ある。そこでは僕の見た愛についてしか語れ  

ない。 

大きな誤解は誰もが愛を知っていると思って 

いることだ。それはごく一部を知ったかもしれ 

ないが、知っていると言える程度のものでは 

ない。生命に直結しているので、僕らは愛を 

まず直感して、感じることができる。そして 

その甘美に心打たれる。そして、その記憶を

死ぬまで(それ以上?)保持したいと希(こい 

ねが)う。で、自由にならない。 

敵を知り、己を知れば、百戦危うからず、の 

孫氏のごとく、自由にならないのは、愛を知ら 

ないから、ということだ。それで敵に奔弄される 

のだ。  

愛がどこかにある、ということは、僕も聞いたこと 

がなかった。失恋をするのはきつい。思春期前後 

の恋愛は、すべて体の起因によって生じるもので 

精神的なものではない、と僕の見解は教えている。 

体のホルモンが生じて、そのバランスが最初は 

取れないので、気持ちの制御が効かずに、相手 

を性的に求めるが、それに気づいていない。 

好きだ、 惚れる、惹かれる、という誘因は性の 

目覚めに起因する。その上にちょこっと僕らの 

個性や精神性が乗っかるだけで、恋愛の本性

は種族保存の誘因であって、それが基本になる。 

次に有意義なのが、愛を感じ、生命に直結する 

道筋が精神的に開かれることだが、僕らは 

それを自我が邪魔する。それに気づく程の者 

ならば、その相克に悩み、婚約と婚約破棄を 

くり返すなど、若き天才芸術家にはその例が 

多すぎるほどある。

体の分泌バランスも安定し、精神も安定すると、 

恋愛はその精神の傾向に従い、駆引きと損得の 

知性が幅を利かせるようになる。

愛は異常なものだ。ロシアでは相手を想い続けて 

50年も離れ離れになりながら、出会い、互いに 

一回も結婚せず、それから一緒に暮らしたという 

実例がある。半世紀もものにしないところが、その 

強さ・凄さである。また現実を見る人は、そのまま 

会うこともなかったろうに、と考える、愛の弱さ 

である。それが愛だ、ではなく、それも愛だ、と

いうくらいのことだろう。愛には「絶対の」という言葉 

が使えない。 ただ抱括するのではなく、現在 

進行形で抱括し続ける。宇宙が膨張し続けるのと 

よく似ている。 

再度、断るが、これは僕が出会った愛を前提に 

して話してるので、もしかしたら一般的な愛のこと 

ではないかもしれない。  

ここから話すと、あとどれくらいで肝心の話に 

追いつけるのか、見当もつかない。先を考えずに 

話すことにしよう。 

愛について感じたことを書くのは詩を書くのと 

一緒だ。それはそれぞれの男女のそれぞれの 

感じ方を被露することであって、そこから愛の 

法則じみたものが出てくる訳ではないというのが  

妥当なところで、交通事故ではないが、自家用車 

とトラックが衝突したのと、自転車が軽トラックに  

接触したのも同じ事故だが、その例からすべての

事故について述べることができないように、愛を

当たり前に感じることと、その在り方を知ること 

はまるで異なったこと、石鹸とシャンプー 

のようなもの(?) だ。(それも違うな)

  ‎










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