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土をひと掴みして [生きるわけ]

<土をひと掴みして、見事に死んで

みせましょう。この喜びを誰に?

僕ほどに自分を知って愛した人は

いたのでしょうか。たぶん、或る友人

が言いそうなこと、書いたのは僕

だが>


青春に想いを込めて、書くようになったら

終りだと、思っていた。そうして、思い出す

こともないだろうと、その青春の日々の

希望にしっかり取り巻かれてみると、

ああ、オレは終わったんだな、と気が

ついてしまう。

気がつくのではなく、そう思っていた時は

まだ青春だったのに。現実に目覚める

なんて。なんて、トンマなことをしてるんだ、

とその訳もわからずに、思う。

そうして、僕はここにいることを思うと、

不思議だ。青春はきっかけを与えたが、

僕の原点ではないことが、はっきりする。

なぜなら、そこへ帰れないのだ。そこに

僕は自分の根を残してこなかった。

そうしてひとりであることの寂しさを

噛みしめると、人の親切がいつかの

ようにありがたいのだ。それらが生きる

意味だと思う人たちの気持ちも感じ

られる。それが生き甲斐であり、原点

だと感じて、人と生きようとする。そこに

人は戻ってゆくという前々からのその

道がまだ王道として生きているのが、

わかる。

そうして、それらがわかると、僕はまた

それらが俯瞰の彼方に消えゆく。また

それらから離れる自分を思う。

君に会えなくなる。そのせつなさを選んだ

自分を愛している。それほどに苦しみを

選ぼうという僕の自分はなんなのだろう。

単に不幸になりたいとかではない、この

すべてを手に入れようという、最大の野心

は最高の自己を定義し、そこに僕をはめ

込みたがっているのだろうか?

そんな浅はかで短絡な気もするが、

それだけでは説明できない。その

感覚がある。

それが、たぶん、僕の心を切り裂いた

永遠とか、無限とかの感覚なのだろう。

それに負けたくない、僕の、始めから

勝つことはできないし、永遠に勝つ

ことができないとわかりながら、それに

向かうサガ(性)の野心であり、長い

つきあいで、僕が半身化したせつなさ

ではないのか。

それが可能ではないことがわかって

いるからこそ、できないことにこそ戦い

を挑んでしまう、隠せない性質がある。


考えなくなって、どれくらいだろう?

君を愛したのは、いつの日だったの

だろう? 

こういう日が来るのは、知っていた。

そして、やせ我慢して過ごして、次の

全体の世界に移れるのも、経験して

知った。それが半無限をループする

ことだった。

それは闇の一部であり、地獄の一面で

あるという、もう一つの人の意見も正しい

気がするよ。

それが僕らの認識の限界であり、陥り

そうになる陥穽か、水たまりか、それを

跳び越えて、僕は自分というわずかな

ものを、捨て続ける。続けてきた。

創造と想像は、こういう世界では紙一重

だと言える。そして、それは単一ではなく、

創造が加味すると現実が出来上がり、

想像が加味すると、僕らは夢に遊ぶのだ。

紙一重の入れ替わりをするが、創造は

想像ではない。想像は創造のエネルギー

は造り出せない。

それはそれを解明するなら行き過ぎた

野心だろうが、子供のように最高の

楽しみを見出しているなら、海浜の砂

でお城を作る子供と変わらないのかも

しれない。

それらが複合して、協力し合い、喜び、

反発し合い、刺激になって、怒り、僕の

生きる気力になっているのだろう。

僕らの心は一筋縄ではいかないから。

僕が自分を愛するのは、そういう自分を

憎めないという意味合いで、直接自分を

愛しているかどうかは、自信がない。

それは僕の優しさなのだろう。それに

包まれることで、優しさが循環して、自分

の一部になり、また僕の人間を形成して

ゆくのだろう。

これがもしかしたら、今まで「僕は終わら

ない」、と言い続けた、書き続けたその

理由なのかもしれない。



ほら、こうして僕は自分を理由づけして、

自分の思う方向に導いてしまう。僕が

悲しみのせつなさに対していても、充実を

感じている生命感が、この太陽感なのだ

ろう。ポエムとかではない。僕には、いつも

陽が当たっているのだ。

これが信念になるほど、僕は自分に刷り

込みをしたのだろうか?なんと能天気な

自分であることか。(だとしたら笑える?)


謎々は、もういいだろう。

散策したい危険で、青い葉の広がる世界

が僕らの前にある。土を一つかみで、何万

の微生物と何億の量子宇宙が、・・。 

今はそれで十分。

                                          8. 7

:::
もう10日前に書いたことが、今になって

こうなるんだな、と納得する。

もう精神の進化的な前線から引退する

とした。認知症とかひどい物忘れの重ね

とか、になったらブログそのものも信頼

できなくなるだろう。

それは注意力と記憶がもう危なくなって

いることだからだ。それに入り始めた

兆候に過ぎないが、新しさに前進する気

は覆せないが、少し後退しようと思う。

もう、引退の予告のようなものだと

知っているので、そう遠くではないだろう。

過去の記事で書き残したことを書いて、

もう終わりにしようと思う。準な認知症に

なるか残りのメモを書き終えることが

どちらが早いかだが、多くのメモが残って

いるのでまとめきれないだろう。

でも、もう前進しないブログはしばらくは

書くだろう。日記だから、その部分は

同じだから。僕はいつも少なくとも

気づくのが早い方なので、実際には

いつのなるかわからない。平均、

個人的なことなら半年くらいは早い。

時代だと、10年から20年くらい早く

気づく。家族間での殺人が起こる

家庭崩壊を大学のレポートで書いた

が、無視された、無理もない。実際

の事件が起こり始める30年も前の

ことだ。

しかし、ソ連崩壊の時には家族旅行

に出かけていて、予兆もなかったし、

肩透かしで、こういうこともあるんだと

思ったくらいだった。未来はいつも

不安定で肩透かしなものらしい。

この記事も気が早いのかもしれない。

                 8 . 18

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