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つまづくと書ける兆候:日記 [日記]

不安は恐怖から生起される。それは昔

からよく知られていること。

今の状況は不安と平安の境目がはっきり

しないし、あいまいな領域があり、その

ために不安も平安も一緒に存在すると

いう矛盾じみた状態なのだが、ともあれ

平安の位置に心身をふつうに寄せるので、

矛盾も感じず、その両方を平安側から

眺めるという具合だろうか。

そういう自分を意識すると思うのだが、

やはりある意味での不思議さを感じる。

こうして自分のことを書き続ける動機も

あいまいだし、何らかの意図が、僕自身

に、あるいは他の遺伝子の記憶とか、

共感覚のようなシンクロがあるのか、

わからないが、そういうものを疑う。

憶測でも、意識の最先端であるならば、

それはこれまでの書いた通り、僕らの

予測のつかない毎瞬に変化を被って

いる進化の微妙な過程が考えられる。

それがなければ、僕らは成長しないし、

子供から大人にもならず、思考も感情も

感覚も影響を何物からも受けないので、

知的障害者のように歳も取らないだろう。


それを証明するためにこうして、毎日の

思考や生活の変化を書き綴っていると

いうのも、書いている理由になるという

気がしている。そして、それを信じて

いないもうひとりの自分がいるのも

事実だ。そうして、自分を活かし、生か

す方の意識の状況に中心を置くのだ。

その意味では功利主義に見えるが、生存

はそれを基本に必要な掟や法則ぐらいに

までと思っているだろう、と自分でも

確信している。


アメリカの製造業都市で駅が上にあって、

鉄骨の組み合わされた階段を登ってゆく

光景にはなぜか、(労働者階級の)生活

の匂いを感じて、日本にはないそのむき

出しの階段を忘れられないのだが、それ

に忘却されない理由を見出せないのも、

またよくあることだ。


ここでつまづく。珍しいが、最近はもの

をよく考えていないのだろう。その

ストックがないので、書くことが無く

なってしまうのではないか。何を書い

てもいいから、と思っても、実際には

「何事か」を書くのだから、そこには

どんなに微妙でも恣意がある。

ふつうは善を書く、楽しさを書く、

驚かせることでも社会で想定内のもの

を書くに決まっている。決まってはい

ないのだが、僕らはほぼそれに従って

いる。もちろん、無自覚にだが。・・、


この社会・世間に合わせて、その性質に

寄り添い、評価が得られるような恣意が

必ずある。それが社会的性格で、僕らの

受けた教育はそれを刷り込むようにでき

ている。

それが人間の知性がすることの本質から

十分に想定内で推測できる。未来の姿を

どんどん重ねてスケールや技術的デザ

インを組み合わせたものだ。

それも宇宙にでも出れば、多くの人が

人生に対する考えを変えてしまうほど

の経験が得られるのだが、それにしても

最初期の頃でなるべく少人数で体験する

必要の内で、だろう。残念ながら、誰

でも宇宙に行けるようになると、僕らの

頭は概知感で新しい経験の未知さという

新鮮なエッセンスをすぐに隠して、

忘れさせてしまう。レコードやCDで

同じ曲を聴き過ぎると、最初の頃の

感激がなくなってゆくようなものだ。


初めから予測していたのは、ものごと

の様相がわかればわかるほど、それらが

密接に結びついていて、世界の複雑さは

その内容が混乱しているのに反比例して

そのひと眼は単純なイメージに収束され

るだろう、ということだった。

むしろ、それを予測しながら、解明に

向けて実験を繰り返してきただろう、と

も言えることだ。

そして、それは誤らなかった。世界は

そういうい様相を明らかにするのを

止める様子はこれまでにはない。

それは世界を理解する、という思考的な

ものよりも体現する、という自己に

反射的に与えられるような表現・実現を

要求し始めるものだ。わかるのなら、

それを説明するのではなく、それを

生きろ、人生で表せ、というわけだ。


しかし、すべての恣意や意図にはその

恣意内、意図の内というあらかじめの

限界範囲が存在する。スケールがその

人に応じて(自然な)決まっている。

理屈だが、限界は限界が小局でそれ

ぞれにあるから、大局では限界は破る

ことができ、その意味で限界は存在し

なくなる。

その微妙な仕掛けがあるのだが、ヘーゲル

はそれを概念を生命原理にまで信じて、

止揚(アウフヘーベン)という機能に

まとめて説明したようだが、概念が

固く信じられたので、読者はその意味を

そういうように解したが、微妙な昇華

の炎については見逃す結果につながった

ようだ。その点をキルケゴールやニーチェ

などが表現しようとしたが、カントから

止揚しようとしたヘーゲルの問題はカント

の超越的意識の前提という命題ですでに

現れている。(カントは三大批判書を

書いているが、その中心の「純粋理性

批判」は四度だったか、書き直している、

という。)

この摩訶不思議な「超越」を説明が

不可能なことから、逆にどういう説明

の方式も存するという逆説にあって、

あらゆる言葉哲学が可能になって

しまっている。


僕らはそれからどこに居るかというと、

まったく雲をつかむような有様で、

それは僕らが現代という環境に包まれ

それに順化して、その意識も持てずに

現代という特殊な一点から歴史を考え

ているからだ。

カントの「超越」もヘーゲルの「止揚」

もその中味は時代の環境の中身を知る・

感じるという直接的なもので、推考

した概念事項ではないのだ。

誰がするのか知らないが、そういう人は

いつも現れる。遠くの時代の風を或る

時間の間隙から感じ取って、その内容に

ついて語れる、ということが。今も

いるだろうが、その人がそれを伝える

のに適切なセンスや才能を備えている

かとなると心もとないので、少しは

待たされるのだ。

ブッダは2600年も現れていないし、

音楽のモーツアルトも200年以上も

現れていない。まだ余分な遺伝子は

それぞれの人に十分余裕があるので

現れるのは、確実なことだ。

必要は発明の母、ということがあるが、

ことの始まりはそういうことになる

のだろう。

陶芸の東京の先生と他の人との雑談で

器のなに(美?)について「好き好き

が半分だけれど、後の半分がいいもの

だとすれば、なにがいいものか、わか

ればわかるほど、わからなくなる」と

言ったのが、先生には非常識に聴こえ

たらしいが、それは世界の複雑さが

わかれば、ますます錯綜して、わから

なくなることを言ったものだ。

僕らがわかることを前提になにかを

規定する以上、わからないものは

それをはみ出すもので、実際にはさら

に増え続けるのは必定だと僕は、思う

のだ。


そういう、考えるとかくも不安定で、

気持ちは安定した空気が支配する、

そういう矛盾を帯びた二重の生活環境

を想像できるだろうか。見えない

意識の環境とかいう状況を想像する

のは、健康にはよくないのではないか

と思っている。

僕はますます、集中して積極的に

思考・追及する生活からは離れて

行く気がしている。

現代にも自然に共存する意識の

生活法はあるだろう、工夫次第・

実行次第・試行次第だと思っている。

それははっきり眼に見えるものでは

ないと。



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