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自殺論から鳳凰をホームで待つ [自由]

ふきの葉1.jpg

フキである。

偉くもないが、ツヤブキもあって、

似たような葉っぱだが、艶がある。

どちらも食用らしい。林の深い公園で

見つけたので、確認してから採集して

食べるか、と思って一枚葉っぱを摘ん

で来た。

フキノトウは終わったのか、なかっ

たが、間違いなくフキだった。ところが

フキはうちにすでにあった。見せてくれ

ると、確かに同じだった。

それが今晩は食卓に出た。なかなか

うまい。苦みも少ないし、筋も取った

らしいので、食感もよかった。


考え事を話そう。

自由というもののあり方も定義らしき

ものも書いたし、過去に整理したのだ

が、それと離れて、自由とはなんだろう

と思った。それは感慨でもあった。

どう転んでも起き上がってしまう、起き

上がり小法師(こぼし)ではないのだが、

宇宙の無重力状態に似てなくもない。

それも自由な状態の一種なのだろうか、

と。

突然、急に昨日は自殺について考えた。

友人のことについてが、関係している。

彼の直観が僕の到着点のどこか一点に

は刺さっていると考えたことがあった

が、それを認めるのはもっと確かめて

みないことには、俄かに決めていい

ことではなかった。

それがその当時よりはわかる過去の

文章を送って来たので、こちらの理解

不足だと感じた。その時に僕の心の底

のバランスは崩れたようだ。

自動的に自分を守るのが自我防衛の

本能のような機能だから、それが働い

たのだろう。

僕は追い詰められた気分になった、

と思う。それがほんの一部の理解でも、

全部の理解だとしたらという命題が

なぜか始動したのだ。拡大解釈なの

だが、それでもそれに対抗するには?

という指令が下ったのだろう。

「A couple of years の始末」

はその状況下で書かれ、その決意を

促されたものだった。と、書いてから

わかった。

それは翌日になると、精神衛生の方法

論だとわかった。実際に自殺する気に

ならなければそれはわからなかった

だろうし、実際に一時的にすっきり

したから。

自我というのは自分を決して見られ

てはならない、と至上の命令下に

縛られているのではないか。そして、

いままでも言ったように、ないこと

(無存在)を知られないことの理由を

百も千も持っているのだ。それが存在

理由の支えであるのと同時に、その

まま存在理由に成りおおせているよう

なのだ。

この時に殊勝にも哲学者ショウペン

ハウエルを思い出して、彼の自殺論を

読んでみようと思った。

「意志と表象の世界」が代表作らしい。

そこに面白い文が載っていた。自分が

生きたいために自殺を選ぶのがありきた

りの自殺だが、例外があって、それは

意志を完全否定するようになると、

あとは禁欲者が食を断って、死に至る

方法だろう、というのだ。それが唯一

だと。

これは前に僕はブログで似たような

ことを書いた。お金の問題でだと思っ

たが、お金が無くなったら、それで

いい、あとは食べられなくなって、

死んでしまえばいい、とそれを自然

だという意味で書いたのだが、ショウ

ペンハウエルもキリスト教の関係で

禁欲者を例に挙げたのだろうが、

それは関係なく、餓死というのは

意志を捨てた時には、完全な自殺の

方法であると。その禁欲者は2回

断食をくり返し、1回目から回復

してから2回目の断食で5日目に

亡くなったらしい。



僕は真剣に自殺を1,2年後には

決行する、と言っても難関があって

それを克服しないと難しいが、とも

かくもその決心をした。誰もがする

覚悟であるが、その心理状態から

自分を俯瞰するのが僕の常法である。

一日が経つとその余裕ができて、

心理的に行き場がない状態では死ぬ

のが自然だと見えた。ではそれが

正しかったのかというと、そうで

はない。それは生きる行為の問題

であって、生き方が正しいかどうか

の判断とは違うからだ。

結局、僕は自殺はパロディ以上には

演じられもせず、自分を騙し続ける

のも無理な話だということ。

簡単に、生命を超えることは無理だ

と思う。としても、考えではいくら

でもそれを否定して、逆らえるだろ

うが、それはありきたりの自殺の

場合であって、僕には縁がない。

だから、こういう風に自殺という

悲喜劇も現実ではなく、空想劇に

しかできない、そういう状況が

あるというのが、僕がある(存在の)

場所だからだろう。

そういうことを静かにわかり始め

ると、自由とは何だろう、という

台詞が出てくるのだ。

突然のようで、自然な経緯があって、

僕はこういう自由のあり方に感心

するのだ。感心するのは、飛躍すれば

そこにつながるからだ。

荘子は鳳凰の背に乗って、世の中を

いくつも下にしてしまうその際限の

ない広い翼で飛んだ空想をしたの

だろうか。一度でもこの劇の中に

あった者は、ありきたりに死んで

しまうことは決してないだろう。

食が無くならない限り。



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