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脳の優秀さを信じますか? [習慣]

眼が覚めると、3時に近かった。

エアコンがまだついていた。

2時間タイマーにしたので、

まだ2時間経っていなかった

のだ。

階下で喉を潤し、戻って来ると

エアコンが切れていた。今、

2時間が経過したのか。布団に

横になるが、長い経験から、2,

3時間で寝ざめた後は、大概、

寝られた試しがない。今回も眼

が冴えてくるのがわかった。


僕らはどうして眠らなければなら

ない生物なのだろう。あるいは

動物なのだろう。

夜の間に寝て、体を休めることが

理由に挙げられているが、心臓は

止まったら、まず大量の酸素を

必要とする脳がやられてしまう

から、脳に血(酸素)を送り

続けるために心臓は動き続ける。

それにしても、考えてみれば

誰もが一度は寝ている時間は

膨大で、人生の無駄ではないか、

と思ったことがある。

そうなのだ、心臓が収縮の一往復

のあいまで一瞬一瞬止まって、

それが心臓が休んでいる時間だ

というが、それなら人間が歩き

ながら、右足から左足に切り替わ

る瞬間に休んで寝てもいいでは

ないか。心臓にできて、どうして

睡眠もそういう瞬間を利用して

休むようにならなかったのか。

そういう進化はあり得なかった

のか。

これもロシアだと思ったが、

詳しい記憶はない。ある老婦人

が食べないし、寝ないし、それ

で平気で生きているというので、

科学者がそれを確かめたという

話があった。2週間ほどだったと

思うが、その老婦人を観察して

本当に眠らないのか、本当に

何も食べないのか、調べてみた

が、寝た様子も食べる様子も

見せなかった。

それではそれが証明されたの

かというと、24時間付きっ切り

というわけではなかったので、

ちょっとした隙に寝たり、食べ

たりしていたのではないか、と

いう疑いから科学者は抜けられ

なかった。つまり、彼らには

そんなことはあり得ないと、

まず決めつけていたから、

始めからそうではない理由を

探していたのだ。それでは

いつまでも結果が出るはずが

ない。まず「そんなことは

人間にはあり得ない」という

結論ありき、から出発してい

るからだ。

健康状態も良好だったらしい

から余計に疑われたのだろう。

観察など初めから無意味だった

のだ。

昔から食べず寝ずの人がいる、と

いう話が時々話題になるが、1,2

時間の日光浴でそれが可能とか

なので、太陽エネルギーを直に

吸収できる特異体質なのだろう、

とか推論されたが、もっと徹底

して監視できる家と部屋でその

観察実験を行うべきだろうと

思う。

しかし、本当の処は真実だけが

知りたいという、科学や世間常識

に囚われていない実験実施者が

必要なのが、実情だろう。

今日ではプレートテクトニクス

理論に組み入れられているが、

地球物理学者のウェゲナーが

唱えた大陸移動説は長い間、

学者には無視されていた。

アフリカ大陸と南アメリカは

大西洋を挟んでいるが、その

両陸地に共通の時代の化石が

見つかっていたので、学者は

大西洋に細い陸地が古代には

存在していた、と考えた。

今考えれば、海の侵蝕もなく

存在したというのがおかしな

話なのだが、大陸が移動すると

いう発想は妄想にも思えたら

しい。理解しやすい理屈を人は

好むようで、地動説が一般の

常識ではなかった時代が長かっ

たのも有名な話だ。

僕らの知識はどんな知識も過去

の経験に基づいたもので、それ

で僕らの日常の予測も日々の

経験から生まれた以上の、例え

ば60年に一回くらいの頻度でしか

起こらない天変地異は常識になり

得ない。それだけならいいが、

一定の常識が一定の時期に古く

なると凝り固まって、正しい

指針として人の頭を支配してし

まう。日本の土地神話があって、

50年間値上がりが続いたもの

だから、人々は土地はこれから

も上がり続けると、なんとなく

信じていた。それで僕も、値下が

りが始まる前に、土地が値下がる

という表題の本が出ると、驚いた

ものだ。

高い家・土地を買うのは、その頃

はそれが値下がりしないという

前提があったからだ。それで売る

時はうまくすれば買った時よりも

高く売りさばける、という現象も

一部で起きていたからだ。


知識は情報が整理されて固定化され、

一応、正確だったり、正しいものと

されることだ。そうしないと流通し

ないし、学校で教えるのに、毎年

変ってしまうようでは困る。

ところが、歴史を見ればわかるよう

に当時の常識はその頃の正当な知識

であって、現在でも通用するような

ものはあまり残っていない。それが

百年、千年単位での見方の常識だが、

それはわかっているつもりでも、

僕らの脳は固定化に従うようだ。

例えば、座右の音楽というものは

その人の心の琴線に響いたもので

あって、時を選ばずよく聴くものだ。

それでも50回、100回と聴くうち

には最初の新鮮な感動はない、と

感じている自分がいる。

やがて年齢とともに忘れられて、

十年も経って偶然聴いて、始めに

聴いた頃を思い出したりする。


それほど脳は連続して聴き続ける

ことに耐えられない。それは脳が

そういう性質をもっているからだ

ろう。正しいと認めたことはそこ

を固定させてしまって、それが

変りつつあるという目の前の生活

の推移も見なくなる、そういう

現象が起きる。

それを危機感がないと批判するの

はた易いが、起こるべくして起き

る、脳の生理現象だと、自然な

ものだと頭を切り替えるのは

た易いだろうか。

歴史や事象を観察すればそうと

わかるし、またそれを知っている

から、そうと知っているつもり

だが、いつしか固定の古さを好み

出して脳につられて、常識に安心

を求め、また安寧していないだ

ろうか。

そこだけを言うならば、僕らは

妄想化する脳という機能に頼り、

また囚われてしまう欠陥生物なの

かもしれない。

IQのような数字が僕らを定義する

なら、その中心は僕らの自分とい

う“判断する“「知」であり、知は

もちろん自分を誇らしく定義する

だろう。僕らの機能がそうなって

いるのだから、HSPとか病気に

近い人でないと気づけないのかも

しれない。

堅苦しくも、それがきちんとした

推論であるのならば、19世紀に

ヒステリー患者が激増したこと

と同様に、現在で神経症患者が

認知症とともに激増している現状

も解明されそうもない、根源で

ある生命維持の叡智が健康を回復

しようとしてもがいている時代の

症状とも思えてしまう。


脳はだまされやすい。例えば、

眼球はすぐものに対して焦点を

合わせることを習得しているの

で、その焦点をズラせることに

よって立体的に見える絵を3D

に見るのには苦労する。いつも

のようにはいかないからだ。

いつものようでは、そこに立体

画があっても、それはあいまい

な模様か、デザイン画に見える

だけで少しも興味を引かない。

目の前にしながら、ただ焦点

(常識)が違うだけ。

いつもこうして見ているんだ、

いつもだ、何十年もだ、なにが

いけない、放っておけ、と言う

輩があなたであって欲しくはな

いが、・・・。

ともかくも、僕らは初めは物事

を子供のように無心で見つめ

たい。

聞こえるものを心で聴きたい。

何がそこにあるのか、何が起こ

っているのか、または何が起こ

ろうとしているのか、知識の

詰まった脳を使役して考える

のは、それからでいい。半端な

学者のようにのっけから知識で

語ろうとしないことだ。

それは古くからこう言われた、

こういうことだという固定観念

を押しつけ、撒き散らすこと

になる。いずれそれらの多くは

ゴミになるものだ。

未来と未知は、いつも今、眼の

前にある。今日は若い鳥学者が

小鳥が泣き声で単語で文を作り

会話しているといったニュース

を見て、感心した。それは生活

で直接危険や大事なことは声の

音調を変えて、その対象(蛇と

か鷹とか)やその時必要な行動

を呼びかけるもので、彼らが

優雅にものごとを概念化して、

それを話し合うといった、人間

特有の言語概念というものでは

ない。現実の生活に密着したもの

しか単語にも文にもなっていない。

似たようなことをするからといっ

て同じ内容の現象だとは限らない。


まとめ :

脳の優秀さを信じますか?もちろん、

信じて、すでに信じている。ただ

これしか自覚的な判断機能がない

のでそのように思われているが

体にはまだ他にそういう機能も

あること、またそれらとは別に

“世の中に充てになるものは何

一つない“、という自然の理法も

ある。

とか、いうことで、・・・。

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個性や人格は感性のパターンなのか? [個性]

以前から気がついていたけれども、

しっかり突き詰めなかったのは、

やはり自分のことだからなの

だろうか。

読書が苦手だというのは、何回も

書いてきたので、うんざりだろう。

中古書店でも買うのは少なくなっ

たが、その所為か、行く理由が

呑み込めるようになった。

書店に行くのは夢を感じるためだ

と随分以前から知っていた。

けれども、それが自分の気質に

左右されていたとは、最近の気づき

だ。

書店で好きなのは、背表紙の題名

から流れて来る本の恣意や思想、

考えという雰囲気が好きでそれら

を眺めるのが趣味です、みたいな

ことだと思っていたが、そうでは

なく、それよりもここを訪れる人

が本を求めてくるわけだから、その

意識が信号のように書店の中で渦

を巻いているのだ。

その渦の匂いが好きなのだ。

それは本に対しての主に夢を見る

方向だから、ちょうど図書館や

大学の研究室のように学問を尋ねる

空気があるのだ。

その夢を共有したいがために、書店

に足が向くのだ。コンマ数%しか

読み切らないのに、なぜわざわざ購入

するのか、無駄ではないか、という

反省文が心で読まれているのを聴いて

いるのだが、好きなものは好きなのだ。

何千冊買っても、やはり家では積読に

なり、手に取らない。

図書館では興味のある本をその日に

借りて来るが、返却日の二週間が

経っても、ついに読まなかった、とい

うのは時々あるのではなく、ほぼ借り

る度にそうなる。なんのために借りる

のか、ということで、わかっていない

のだ。今日、興味を持ったら、今日

借りる。が、なぜか読まないのだ。

それでも借りたのではない別の本を

部屋で眼にして読んだりするが、

10ページも読んだら、それは特別な

日で、よく本を開きました、ブラボー砦!

とか言ってもいいくらいなのだから、

それほど僕は読書に退屈してしまう。

困るのは、これを読んでおけば、先々

役に立つのが、頭ではわかっている

つもりでも、実行には遠く及ばない

ことだ。もう嫌いとかではなく、一種

の病的な体質だと考えるくらい。

まれに資料読みで集中して、200頁

以上の本を小1時間でざっと読み分け

してしまうが、あとでもう一度詳しく

読んでみよう、などと思っている。

そう考えているだけで、それを実行

したことは、まずない。

読みたくなければ読まなければいい

のだ。基本、それで済ますことが

できるので、それで発見するのは

自分の自閉症的な病的な気質だが、

それが治せればと思ったことがない。

それは自分のことをすべてとは言え

ないかもしれないが、どうしても

逆らえない性質があると認めなけれ

ば、理解が届かないからだ。

まるで心の生理であるかのように

よくないとは知りつつも、自分の

思うように、またはストレスの無い

ようにやらないと、気持ちが悪い

のだ。ただの我儘とか、根性が足り

ないみたいな、叩き直せるものなら

いいのだが、そんなことでは一時的

にできるのだが、やはり違うと感じ

るのだ。

あまりに困るので、数十年もすると

そういう自分を認めざるを得なくなる。

他人を変えられないように、自分の

個性はそれがホルモンとか神経とか

からの影響だと、変えることが無理

なのだ。

そうやって自分を尋ねると、性格やら

性質とか気質と言ったらいいのか、

そういう有象無象が心から分類されて、

分離はしていないが、矛盾した性格と

なって10人くらいは自分を数えること

ができるのだが、他人はどうなのだろう。

僕にはそれが複雑には見えないし、誰

の中にも認められるのじゃないか、と

思っている。

それらが区別できるからといって人格

が分裂しているわけではなく、ふつう

に一人前の分量の人格がひとかたまり

にある、と感じている。

そういうものに人はタブーとかを感じ、

信じているのだろうか。そうなると、

それが平気で頭は使い方で八つくらい

に分けられるし、そのすべてに優秀な

人はいない。それは不可能らしく、

記憶力のずば抜けた障害者がいるが、

なにかに異常に飛びぬけていると、

対人でのコミュニケーションがうまく

できないといった、社会性が阻害され

るようだ。

あまりに細かく心理的に人間を分析

結果で捉えようとするのは、よくな

いようだ。それは分断されたイメージ

で捉えられるからで、僕らは人格を

ひとつのものと見做し、かなり曖昧

な状態で人とつき合うことを選んで

いる。それがつき合いにはストレス

少なく、便利で合理的だからだ。

裏の性格とか想像するらしいが、実際

にはそんなものはなく、建前と本音に

しても建前で言える本音であり、社交

上隠したほうがお互いに都合がいいから

隠すのであって、それを晒せば、建前と

同じ土俵に上がってしまう。

本音も変わる時があるから、そういう

本音を強いて知ろうとするのは品位に

欠けるし、お互いに害を及ぼすときは

そういう条件や環境が整うとそうなる

のが自然だと知っておくだけでいい。

それでも人は人を心から信じたい、と

思うだろう。70%だけ信じるという

のは、ふつう人は得意ではない。

そこは信じるなら曖昧に全部信じてし

まう、ただ自己責任分だけ意識して

おけばいいのだろう。

そして、心の狭きは自分の壁を見な

いし、越えもしないので、次第に人

を信じることに欠けて来る。お金

だけを信用する。認知症になったら、

それさえも思い通りにならず、救え

ない。お金ばかりでなく、自分をも

救えない。

しかし、意識も死ぬわけではない。

誰が看てくれたかは、態度や言葉に

は出さないが、不思議に知っている。

時に死ぬ間際にそれまで文句ばかり

の義理の母が最期に急に病状が回復

したかのように看護してくれたお嫁

さんにお礼を言ったそうだ。そうい

うこともある。


僕は見えない自分に随分助けられて

きたので、何某(なにがし)という

姓名をもった自意識の自分はあまり

信じていない。それよりも無意識下

の自分とでも言ったらいいのだろうか、

彼のほうが僕よりも頭がいい。

僕の望みの狭い要求を、かなり全体で

考えて、僕よりも上等な結果を出して

来る。なので、その結果に驚くのは

僕のほうなのだ。そこまで考えていな

かった、君に任せていたほうがいい

ようだ、といつも思わせられる。

それがいいことなのか、よく判断に

載せられないが、事実はそうなの

だから、僕はまず、非日常の思い付き

や発想を簡単に捨てられない。一度

確かめる必要を感じざるを得ないのだ。

ともかく、僕は日に日に考えなくなっ

ている。

これはできることなのか、できない

ことなのかを考える必要はない、どち

らでもいいのだ、無意識下でわから

ない自分を無条件に、まず信じる。

検討をして、それが彼からか、そう

ではないかの判断から始めるのだ。

これはブログの書き方と同じで、

思いついたまま書いて行けばいい

のであって、何を書くつもりなのか

と過去に戻って検索や推敲したり、

その意図を探る必要はないのだ。

終わりまで書きっ放し、これが僕

のブログだ。

明かな文章上の間違いしか、後で

直さないので、大抵文章は少し

増える。よく文章を削る、短くす

るのがいいとか言われるが、それを

したことはない。

そして、書き終えた、と完璧に思っ

たことも一度もない。誰かと会話し

て、ああ完璧な会話だったと、後で

思ったことなど誰の経験にもない

だろう。それと変わりない。

僕はあらかじめ、テーマを決めて

それを網羅して結論を出すように

書き始めたことはないのだ。


確かなのは、無意識下の自分と

自意識下の自分とは言葉の上で

分けられるだけで、それを分離した

二人だと明確に感じたことはない。

僕は「僕の個性」というよりも、

僕が「個性」なのだとでも言った

ほうがより正確に自分を表している

と感じる。

例えば、水は化学変化で1.液体

にも2.固体にもなり、3.気体

にもなる。もっと高温で電離して

荷電粒子の、4番目のプラズマの

気体に変わるらしいが、変っても

化学記号は分子だからH₂O は変わ

らない(ほんとか?)。


心は様々な形態をとってそれぞれ

に変化した感情や思考・感覚など

を流動させているようだ。

その主なパターンが他人にその人

だと、認められるような個性の

主だったひとつの違い(感性)

を発揮するのだろう。

それは神経障害者でも、病的な

閉塞性、その特徴による性格は

あるかもしれないが、それぞれ

の人間の個性は変わらないから、

面白い。この人格の個性という

統一感はどこから来るのだろう?



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I'ts All Right すべてよし [批判]

人間関係は不自由なほどしがらみ

や絆が生じている訳で、そのほう

が幸福度が高い、と思う。

僕は冷たく、それをそれだけと

する。それで満足が得られるので

はないから。気持ちが大きく、

深い生存のあたたかさを与えて

くれるのはよくわかる。それで

活かされた瀕死からの生還した

場面は僕にもあったから。

でも、それが人生で一番大事な

こととは思えないのが、僕の中心

であり、性根なのだろう。僕に

最も大きな影響を与えたのは、

サバイバルで九死に一生という

窮地を乗り越えた時の感激・感動

だと思う。それで危険のまったく

ない平穏な日常生活はとても退屈

に思う。生に感動し、死に直面し

て感動する、という実際に自分に

起こるドラマが好きだ。

人は望めば与えられる、という

楽観論が運命にあるので、こう

いう感動は人は経験したことが

あるのだろうか、という稀有な

体験は多いと感じる。

ただそれは振り返ると、体力や

気力や神経が丈夫で元気な頃の

話だ。

今は外で他人と緊張を要する、

それが楽しいことでも、作業を

するとそれだけで微熱が出るよう

だ。たいしたことにはならないが、

そこで無理が効かないというのが、

現状だ。自分の体を宥(なだ)め

ながらでないと、持病に発展して

発熱してしまう、と考えている。

微熱は夏に弱い。体がそれだけ

でも寝を浅くして、2-3時間で

眼が覚めてしまうからだ。

それが続くと不眠という状態に

なってしまう。

こうなってしまうと、人生に

発展方向は望まなくなる、そうい

う覚悟をするようになる。それは

弱気になるのではなく、我慢とい

う慎重さを強いられるのだ。

だから悔しいが、無理をしない。

その無理をして乗り切るのが、

楽しみの一環でもあるのだが、・・。



・・・・明らかに、書きたくなく

なってきたのだろう。愚痴を書い

てもある程度は放っておいている。

前は輝きだけ、新しい刺激とか、

そういうものを書くことに集中した

が、今、それを自分に課すことも

なくなってきた。

いつも気分で坐って書いているの

だから、もう何を書いてもその気分

だけが主人公で、なにか人に役立つ

ことを殊更、書こうとはしなくなり、

それは無理をしないことでもあるが、

そういうこと自体がしがらみに感じ

出した自分がいる、ということだと

思う、最近だ。

何を書いても自分だ、というのは

自分の見方や主張という主観からの

ものだということを言うものだが、

僕はそれ以前に自分の言葉になっ

てしまって、ここに僕が居る、と

いう以外のことがあるのだろうかと、

自分でも疑問に思うほどの自分空間

を想うようになった。

実は、「それは何か」と尋ねても

いいくらいの、その先があるのだが、

うまく説明できないので、いつも

ここからは書かないで、スルーして

いる。



それをまとめると、書いているテーマ

を除いて、僕はどうもそのどうにも

書けないものをしょっているので、

いくら書いても書き切れることがなく、

そのためまた、いつも書けている、

ということになっているとも言え

そうだ。

こんにちわ、ハッピーな皆さん!とい

う気分が底にはあるが、それと対比し

た自分の憂鬱や悲しみを書きたいよう

だ。それは憂鬱や悲しみが愛に変換し

たり、ノスタルジーをもたらして、

泣きたい気分にさせてくれる一級の

材料だからだ、栄養と言ってもいい

のかも。

こうして斜(はす)に構えていないと、

椅子から落ちそうなのも、自分の個性・

癖である。姿勢が悪いのも、そのほう

が楽だと思っているからだ。


天国は あるだろう 

僕らが望んで 長く長く

待っている ものだから 

天国は ないだろう

それは 別な形で 

僕らを うんざりさせたり 

嫌な気分に させる 

迷惑な  隣人かもしれない 

それでも 

天国は  天国で  

それでも 僕らは お互い人間だと

お互い やさしい気分に  なり 

彼らを  許そうとする 

そんな時も  あるにちがいない 


そういう僕らの 恣意は 

僕らの意志だから 希望でも

あるのだから 

そいつに 必ず  騙されるに

決まっている 

そして、塩に 混ざった 

わずかな  砂糖に とても 

異常に 喜ぼうとするのだ 

それが 自分を活かす 

栄養だから 

僕らは  騙され 溺れる 

必要があると 

言ってる かのようだ 

僕らは 自分に必要なものを

しっかり 知っていて

それを 吸収する 

だから それを反省しよう 

なんて  とんでもない 

僕は  癖が 必要に 

入っていて  聞き心地の 

悪い言葉を  吐かないと 

落ち着かない 

もっと癖が悪いと 

ネットで 勝手な誹謗中傷する 

ばかな 輩になってしまうの 

だろうか 

そうに違いない 


そのブレーキは どこに あるのか 

そんなものがあっても 

尻の穴に 栓をしたように 

落ち着かないの だろうな 

僕らの なくて七癖は 

そうやって  隠れているのだろう 

バカらしいが マイ・スイート・

ロード なのだろう  

剣呑で ご苦労様なこと だ


時々 バックミラーや 

歩いていて街中の 鏡に 

偶然 自分の顔を 見る 

今までなかったが  初めて

苦痛を 秘めていそうな顔が 

そこにあった 

どんなに 苦しいと思っても 

大抵 事実は  鏡の顔で 

平気な 顔をしていた 

それは 成長と 言えるのか 

誰かの 同情を 買って 

しまうのではないか 

どうやら  君だけではないぞ 

そんな顔を  しているのは 

安売りしては  いけないぞ 

コッケー 

しっかりしろ 

自分を  わかってもらおうなんて 

しかたなく  弱い人間の

特徴だ  

自分を  出して平気なほど

強くなる 必要もない 

中途半端だ と自分を 

思うほど  正常ではないか 

正常の 意味は  問わない 


その人にとって  坊主さえ 

殺さなければ 大丈夫だと

考える 殺人鬼(ロシア)の

正常さは  そんなもの 

僕らは  あまりに多くの事実を 

見る気がして  事実を見る

正常さを  失う 

簡単な 答えはない 


ハードだ、生きるのは  

そういう人もいる 

だから  楽過ぎる、生きるのは

そういう人が わずかでも 

いるのは  不思議ではない 

自由を満喫して あまり 

声に出さない  遠慮して 

そういう人も  いるわけだ 



それで僕らは  人にどう

見られるか 

気にする  気にしすぎるの

だろうか 

それは 枠の外の 僕が 

わかる 範疇にない 



わかるのは 

ものの占めている  存在という 

在り方が 

わからないだけだ 

どうして  形のある 陶器は

精神の 腹を  満たすのか 



そこには 何を詰めても 

教育とか  裁判とか 

哲学とか  神とか 

健康とか  科学一式とか 

歴史の裏側とか  音楽とか 

茶道とか  マナーとか 

まとめて 文化とか 

文明とか  ・・・

つまりだ  人間の営為という

ものを 

詰め込もうとしても 

弾かれてしまう 

そういう 逆説が 

僕らの好み という 気まぐれ

ナノかも知れず 



ある朝 玄関を 出て  

外を  歩いてみると 

過去が 見えるようなもの 

未来を知ったような 

昨日の行動を 思い出す 

何気ない、・・・。 



空気が  青く 

黄色にも光って  胸を 

刺すように 

なんだ  生きてるじゃないか 

と 思い出すかのように  

今を  見つめる  

目の前の  すべてが 

ただものではないと  想えない

のに  すでに それを

知っているかのように  

呼吸している 自分が  いる 



脳が バグるなら 

僕の 等身写真の 看板が 

バタバタ 限りなく 

倒れ、 風を 起こしている 



僕らは 何に拠るのか 

拠らないのは むなしさだと 

想像しているのか 

実際に 知っているのか 



僕らが  1万匹もの 蛍が 

一斉に シンクロして 真っ暗に 

また明るく 明滅する 奇跡の夜に 

感動するのは  どうしてか 



さらば  君たち 

僕は スピリチュアルとか 

信じない 

盲目が 象を 触って 

太いとか 細いとか 

柔らかいとか  硬いとか 

部分の誤解を 

巻き散らしているようなもの 

無駄に 想わないのだろうか、

個人的な 観想だけで 

単に 側面の考えなのだが 

考えは 事実じゃないし 




見ているかい 

ここにいるよ 

よく 見えるかい 

ハンバーガーなら 

うまそうかい 

君の おとうさんに 

なれば いいのかな 

ハムエッグなら つくれるが 

亡くなった人が  恋しいかい 

そうか 

そういうことも  あるんだ 

そこは  きつく  結んだ

ほうが いいんだ 

遭難なら  前もって 危険を 

読んでから  出発する 

そういう意識が  必要 



まわりを  見渡してよ 

見えるものを  数えて 

見えるものが  見えなけりゃ 

考えに 気が向いてしまうなら 

山には 登らないことだ 

下界で  溺れていることだ 



時間の存在が  ほんとうに 

遠いなら 

僕らは 時間を 気にしないだろう 

それは 約束の時間観感覚での

数字の看板に  他ならない 

時間のない生活は 怖いだろう 

慣れたものを  失うのは  

なぜ  恐怖なのか 

なにも 変わらないのに 



1ヵ月が  あれば なにか 

できる 

1日があれば  なにか 

できるだろうか 

1日が  なにもできないならば 

それが30回あっても 

変らないではないか 

と思っても 

僕らは  時間を 貯金のように 

蓄えていると 

思って いるのだろう 

時間が  あれば 

ほんとうに  いいのだが 



夜明けが  始まる 

静かに この身を 抱きしめて 

今 を 感じたい 

唯一  確かと 

考えるものが 

一番 そばにあるのに 

手に入らない 



気がつくと 

手に入った 過去が 

記憶に  残った 

では  今は?

そうなのだ 

意識する処は 

今が  いない場所なのだ 

自分は 

そこに  いられない 

君の  人生は 

つまりは

夢に 終わるのは 

そういうわけ だ 



我を 無くすだけでは 

やっていけない 

ただ もう少し 

我を なくす恐れに 

飛び込む 回数を 

増やすだけでいいん だが 



さすがに 

あくびが 



子供の頃  給食に 

期待したことは なかった

それよりも 脱脂粉乳に 

憤慨していた 

あの遠い時代 より 

僕らは 豊かになった はずなのに 

なぜ  給食でしか 腹を  

満たせない  子供・家庭が 

あるのか  

おかしなことには  すべて 

それなりの ちゃんとした 

理由がある 

全体を  なにかが  支配して 

いなければ 

戦争とて 起こる 

はずもないものを


それで  どうして 

It's All Right なのか
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砂漠の死と 自由の顛末 [自由]

いよいよものを書くのも佳境に

入ったのではないかと、その

終末観に感じて思う。

これがコケ脅しに潰えるのを

思いつつ、自由について考えた

過去の痕跡を自分の無意識の

どこかから拾って来るのも、

また一興ではないか、と考える

次第。

自由については今まで、平たく

ベタに無制限の自由は不自由で

あり、自由であるには制限を設け

て初めてその範囲内での自由を

満喫したり、味わったりできる、

とした。大筋も本筋もそれでいい

し、間違ってもいないが、しかし、

それの実行とも言える体験版と

なるとどうなるのだろう。

自由を求める意味合いは僕らの

生活編ではどういう形を受け入れ

るべきなのか。

HSP(Highly sensitive person )

=環境感受性あるいはその気質・

性格的指標である感覚処理感受性

が極めて高い人たちのこと。

HSPは最近流行っている言葉だが、

米国では精神病も神経病も同じ神経

から派生するものとして、一括して

しまったように自閉症などの症例

から特徴的なこれらをHSPと区切っ

たのだろう。

僕の見る処ではHSPと自閉症は紙の

裏表のように似ている。自閉症とい

う引きこもりじみた症状で表すか、

自己否定的な生活法で臆病になるか

で表現法が異なるので、それを

呼び名で変えただけではないかと

思える。

米国では5人に一人がHSP らしい。

それで80%の人が気づかず、認め

なかったので発見が遅れたとでも

言っているのだろう。

HSPは細かいことに気づき過ぎる

ので、思考が複雑に深入りしやすく、

その場で結論を出せない傾向にある。

共感性も高いので、相手の意を汲ん

で必要以上に同意を与えてしまう

傾向がある。

そのため常に自分が傷つきやすく、

生きづらく、早くに我慢を学び、

それでは解決策にならないので、

ある時点から自分に閉じこもり、

自分を守ろうとする。それが自閉

症の始まりではないか。


ここでややこしいのは、僕の場合

は自由を求める傾向が異常に早かっ

たことだ。それにはHSPの感受性の

傾向がそれを促進したということも

考えられる。

この2,3日で得た着想によると、

僕の思想から来る自由への求め方と

このHSPからくる自由な生活の自分

本人としてのあり方というのは、

自然にそこに集約されるのではない

かということ。

小学生ではすでに先生を疑っていた。

先生は何も知らないのにどうして偉そ

うに教えようとするのか、というその

教育姿勢に対して信用していなかった。

次に俳優という職業に対して、他人を

演じるのは自分を押し込めて他人の

人格を真似するのだから、自分の人生

とか生きざまに反するもので、無駄な

ことではないかと思った。なのでその

小学生の頃は先生と役者には絶対なる

まい、と思った。それは今も理由は

増えたし、深くなったが、それほど

変わっていない。

今はもっと酷くなったと言える、なに

せ何者にもなりたくないのだから。

それが一番自由だから。

そうすると、それは最も人生からの

逃避が成功した形にもなるのではな

いか、と疑念があるが、否定はでき

ない。それは実社会に生きる側から

の正当な見方であると思いつつも、

闇の無限さに同調してみての反省

がなければ、この姿勢・態度への

正確な理解は示せないだろうと思う、

のも事実だ。

もう逃げようもないものに取っ

掴まっているのだから、僕は僕の

自由な生活を目指すだけで、社会

的にどうのこうのは、まったく関係

ない想いだ。ただその僕の生活に

関わった人がそのために迷惑を

かけられたり、不幸を背負いこん

でいるのなら話は別だ。

今の処は不安定ながらも調整は

取れている。それを気にするのは

も少し先のことだろう。



自閉症という病気はあるらしい。

それも実際には見ていないので、

ドラマやニュースで知るくらい

だが、40歳でもまだ引きこもり

をしている人がいるというのは、

知って驚いた。

抜けられない人もいるのだ。

僕は自閉症というその特徴の

1,2か2,3か症状があるが、

僕がその時に困るだけで生活に

支障は出ない。これを自閉症

気質とでも言うのだろうか。

誰でもうまくいかないことで

憂鬱になったりすることがある

ように、それが長期に渡ったり

しないように(渡るなら病気だ)

病気ではないが、長い時間の

騒音や荒々しい場面には耐えら

れない。短時間なら、冷静なので

(昔から定評がある)対処して

解決できる。

しかし、一度その精神的緊張を

してしまうと、固持ができず、

酷い時は2,3日は休息が必要に

なる。還暦になってから、5年

くらいはそれまで通りに逆療法

で二日酔いに迎え酒の要領で、

生活が煮詰まって退屈に耐えら

れなくなると会社を辞めて、

海外へ出向いた。観光ではない。

歴史の地を訪ねたのだが、ほぼ

知らない国への一人旅で緊張で

苦しむのがわかっていて、苦しむ

ために出向いたのだ。これが迎え

酒の意味だ。

今の日本での生活状況が苦しいの

なら、もっときつい外国へ行って、

日本へ帰ってきたら、心が楽に

なるように、きつい国を選んだのだ。

そして、1ヵ月も旅行するつもりで

行き当たりばっ旅を香港から東南

アジアでしたのだが、目的のマレ

イシアのカンボジアのコタキナバル

へ着く前に半月で疲労困憊して帰国

した。

怖いと思う事は一度もなかった。

帰国してから、調べているうちに

地雷地帯の近くを歩いていたとか、

あとで危なかったと思うぐらい。



このめくるめく54年というものは

同様に生き苦しくあったが、その

底の深さに比例するように、非常な

喜びがあって、日常の興奮を上回っ

ていたので、貴重な経験と言えるの

だろう。百人は似たような体験をし

た者がいるはずで、もっと多いかも

しれない。

が、それは比較にならない。自分で

理解しえない部分があるので、お互い

に会って、その共通の話をしても、

それぞれ自分というサングラスを通し

て見たり、感じたものだから、HSP

でもないと繊細な話題ではお互いに

違和感を感じてしまうだろう。

だから、それが前もってわかる人が

そういう人たちには多いから、一人

でいることを好むか、気の合う仲間

とだけで過ごす人が多いのだろう、

と推測する、たぶん、大きくは

間違いないだろう。



自由については語ることがもっと

十分にあるが、あまりに感興が

異なるので、現実感が得られない

ので信じてもらえないか、誤解さ

れるだけだろう。そういう実験も、

亡くなったが母とか家族に話し

てみて分かったので、今更それを

持ち出そうとも思わない。

わからなければ、僕らはスルー

する、それが自然だ。

前回柔ちゃんで柔道対戦をしていて、

相手の上から、横から、四方から

見ていると、インタビューで語って

無視された話をしたが、それはよく

ある話で、例えば、右手と左手を

別々に動かして別な作業をする人

は、学者でもいる。大森貝塚の

発見で本も書いたモースがそうで、

器用に両手を別々に使ったそうだ。

不思議なのは、どういう意識の

持ち方をしていたかで、僕らは

ひとつの作業で一つの意識でしか

集中できない、と思われている。

日常経験ではそうだが、例えば、

宮本武蔵がそうで、二刀を使って

両脇の敵に対して、別々に戦った。

そうでなければ、誰も二刀流と

いう名を認めなかっただろう。

また、それほどの生来の器用さ

がなければ、実際、いなかった

のだろう、武蔵は二刀流の後継者

を育てていない。養子にした伊織

でさえ剣術は教えず、算盤や事務

の学問を教えた。武蔵は剣の時代

は終わると読んでいた。後継者も

無駄になると考えたのだろう。

手術中に死の境をさまよううちに

自分が手術台に載せられ、手術

されている様子を俯瞰で見ていた

という患者の話は、臨死体験の話

としてよく聞く。

特に柔ちゃんは試合の前にだい

たい故障している。その故障を

押して出場して金メダルを摂る

のだから、なにか不思議な力が

あると思いたくなる。ただ一般

の人よりも試合という特別な状況

の時だけ、意識がいくつかコント

ロールできる、ということかも

しれないが、・・。



その不思議な感覚に僕の自由は属し

ているのかもしれない。

闇は無限に落ちる井戸にも似て

いる。終わりがない。そして、

やがてすぐに落ちる感覚も失う

だろう。

宇宙空間のようなもので、上も下

もない。中心がないから、どの

方向へ落ちようと、進もうと同じ

ことだ。

すると、感じるべき孤独という

ものはなくなる。孤独は進む方向

の上でどんどん広がり行く無限の

感覚に支配される。それは限られ

た空間で普通に感覚できるもの

ではない。それを超えてしまって

いるからだ。

僕らが限られた存在であるから、

それに対応した存在に対してしか

感じない。

葉っぱやおもちゃは限られた空間

にあるので、僕らが感じるのを

許すが、無とか無限とか永遠など

というのはもはや戯言に過ぎない。

僕ら人間の感覚する対象という範囲

を超えてしまっているから。



僕は洗礼かのように、無の世界に

19歳で突入させられているから、

その気がつかなかった激しい

ショックから人生を組み立て始めた、

という気がしている。

闇には精神だけでも、到底住むこ

とができない。そこに僕は「自分」

がその防御機能を使って場所をこし

らえたのかもしれない。安心できる

場所として核シェルターのように。

外には出れないが、そこから壁一枚

で闇を感じることができるように。



無限の自由は不自由に行き着く状態

の最初だ。やがて気づく。自由の死を。

そこで究極の孤独とも言える場所を

そこに作った。時々懐かしくて帰る

場所がそこなのだ、という気がする。

その限られた空間の孤独の場所が

つまり、自由の場所だというわけだ。

これが僕の望みで、計画だったろうか。

そうとは思えない。むしろ、これしか

できなかった、僕と無意識との苦肉

の妥協策ではなかったか。

これを聞いても、誰もそれが自由を

感じさせる場所とは映らないだろう。



自閉症気質の部分、重ねて天才では

ないが天才タイプ、重ねてHSPとか。

しかし、子供にも孫たちにも神経

障害者はいなかった。問題を起こし

て苦労の種になるという話は周囲に

多く聴くが、僕には見舞われなかった。

なので、貧乏(日本で貧乏になるのは

難しいが)でも困らない。

つまり、気ままな自由という日常生活

はなぜか保証されている、今の処。

しかし、もう彼らの問題は彼らのこと

になるだろう。高齢者の親に頼ろう

とは思わない。葬式代(保険)は残し

ておいてと言われるくらいだ、笑。



ほんとうに僕らが100%得られる自由

というのは心の自由くらいだろう。

それでも難しいと思われているだろう。

たぶん、僕はそう考えた。初めはそれ

を芸術や美術などのアートを創出する

ことに求めたが、それらは理想の没落

とともに姿を消した。

そう思いだしてみると、現在では僕は

自由の中に何かが居そうだ。その秘密

が今、秘密なのだと現れた気がする。

たぶん、黒幕は生命の神秘とか不変の

愛とかいうやつらなのだろう。

それがどういう関係に結びついている

のか、または新手が加わっているのか、

秘密だから今わかるわけもないが、

感じるだろう。そこにしか手がかりが

ないことを。

そうして僕は精神の自由を100%手に

入れた、というわけだ。

寿限無・寿限無・ナントカの・・。

これは何だろう。名付けられたこと

もない、当然理解の外にある、この

状況は、 ・・・。

強い自我が自分を支えている、のを

深淵で感じるようだ。それは狂気に

陥るまいとするもう一つの狂気だと

も思える仮説だが、・・。

これでも僕は動かない。ここにいる。

すこしも、私はどこにいるのか、と

感じない。

もう言葉では限界だ。



稀にしかない瞬間というのはある

のかもしれない。

事実というものは決して言葉に

ならないのは奇妙な仕掛けだ。

それは言葉が弱いと、役に立た

ないのではなく言葉で理解する

範囲がいつも誤解・曲解・空想

の中に浮かんでいるからだ。



さらば、友よ 

君は 僕の自分だ 

もう 戻れないのだろうか

いつか  消えてしまうのだろう 

僕は 誰かで あるのだろうか 

空想ではない  居場所として 



さらば  僕よ 

それで いい  

君が 満足ならば 

自己満足と 言われてもいいが 

感じないものを 

どう感じれば いいのだろう 

砂漠の 日照りで 乾燥死だろうか


なら


それで  


いい




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生活はすべて人生のリアル [生活]

ブログを書くのに、昔のブログ

を書いていた頃を思い出す必要が

あるとは予想もしなかった。

過去にどんな曲を聞いていたかを

思い出すことから始めなければ

ならなかった。喋るように書くの

は変わらないが、いろいろなテーマ

を考えることはないのは相変わらず

だが、なにか新しいことが書けて

後で楽しく刺激が得られるのだろ

うな、とは最近思えなくなってきた。

夏バテが一番堪えているだろう。

表現には心の底から突き上げるもの

を拾い上げるのに、かなり集中する。

力技なのだ。

そこにはそれでも地平がある。

音楽のように流れ出るものは、確かな

何かなのだが、その確かさが失われて

ゆくのだろう。

夏バテだけではない、力の衰えを感じ

る。そこへ向かう時の意識の長い舌の

ような伸びるものが感触がうすくなり

つつあるという、それまでがわから

なかったものだから、今更、失いつつ

あるものも何かはわからない。

今の欧米のソフトロックなどを聴いて

いるので、時代の感覚はないが、

ビートルズも同じように聴いているの

は、ずいぶん時代がかっているな、と

思う。1960年代も21世紀もただ音楽

として聴いていて、他の古い曲は聴き

たくないようだ。一時期はビートルズ

にもうんざりして聴きたくなくて、

聴かなかったのだが、最近は復活した

ようだ、それにしても、物心がついて

から半世紀という長い時代の流れを

経験するとは思っていなかったので、

こういう感想をする自分を珍しい

動物でも見るように見つめる。



青春というのもわからない。生きづら

かったのが障害者の一部の反応でも

あるのだから、一般の過去の青春と

かの思い出への反応とは違うのかも

しれない。

しかし、少しずつだが、歴史の一角が

感じられてくる。逆に、人はこういう

ように思い出を自分と絡めて時代の

一角に寄り添い、一体化するのだろう、

と広がって来る。

そう、なつかしい自分というタオル

ケットにくるまれるようだ。ホテル

カルフォルニアなどこんなに明瞭な

メロディ、ギターの切れがいいとは

思わなかった。

そういう懐かしさをあふれさせて、

その中に溺れるのだろう。そうでな

くては思い出に浸るというに、なら

ないのだろう。と、いつもの癖が

出てしまう。

よくスポーツで生徒を優勝などを

目標にして、生徒をまとめ上げ、

皆の気持ちが一致することで、これ

が真の教育だとぶち上げる先生がい

て、本まで書いているが、そうだ

ろうか。

皆で練習してお互いに励まし合って、

とかそれは気持ちいいに違いない。

目標に予定調和としての気持ちの

まとまりという一体感が想定されて

いるからだ。

しかし、これは楽しみの一環では

ないか。悔しくて泣くのが、また

頑張ろうという気にさせるが、それ

はやってきたことがわかりやすい

絵を描いたからではないか。これ

は人生の一部の情熱の活かし方で

はあるが、とても人生を教えるよう

なものではない。パロディやカリカ

チュアなどであり、いいとこを抜き

出して表現した点では、歪めたとも

言える。

それは僕らの音楽の求め方にも現れ

ている。音楽は特にポピュラー音楽

は大勢で歌えて、合唱して、皆で

気分を盛り上げるようにできている。

また、そういう時に僕らは音楽を

取り上げるのだ。

そういう雑多な音に僕らの記憶が

詰め込まれ、思い出の歴史盤が頭の

中に出来上がる。

僕らはいろいろな楽しみを持つので、

音楽の果たす役目は人生において

大きい。その曲を聴いて時代の一角

を再び演出して描き出すことが

できる。

が、よく見れば、それは仮想現実だ。

僕らは夢に生きなければならない

時間が必要なので、そういうものを

夢に託すのだ。

そして、それらはくどいが、人生で

はない。善悪とか、思想とか、主義

で見ようとするが、それは視野を狭め

ていることで、木を見て森を見ない。

僕は車を運転するが、快適だと思っ

たことはない。こうして狭い箱の空間

に押し込められて、死と隣り合わせで

神経を使わなければならないのか、と

思う。車のコマーシャルでもどの車も

四角いのでたいしてデザインチェンジ

になっていないのだ。細かい処を変わ

ったように宣伝しているが、僕らは

教育されてそれでも車は格好良いと

思い込まされているだけだ。

特に航空機などは搭乗時間で待たされ、

乗っても景色は雲ばかりだし、せい

ぜい足を伸ばしてくつろぐだけで

長時間も退屈でビデオを観るか、

寝るのが関の山だ。

文明社会で便利になったと思って

いるが、僕はそう思えない。大阪

まで東京から1時間で着くように

新幹線が進化しても、そんなに急ぐ

必要があるのだろうか、と思う。

速ければ速いほど途中をぶっ飛ば

してしまうのだから、例えば、

8時間で日本を一周したからと言っ

て、日本を理解したというつもり

ではないだろうに。そんなことを

言いそうな感覚になりそうで、・・。


僕らの体の占める体積の感覚が

僕らの世界感覚を占めてしまって

いる。オリンピックでもわかる

ように体には限界がある。または

オリンピックの選手のようには

走れないし、投げられないし、

運動はできないから、特にそう

思う。

うまく説明できないが、現実と

夢という二大対立のものがある

というのは錯覚だと思う。

あるのはリアルさというもので、

それは現実にも夢にも、双方に

あるものだ。それは出会うもので、

それまではなんとなく考えてい

たり、空想していたりで、僕らは

見ようとしない。

柔ちゃん(谷亮子)のオリンピック

での戦いの後のインタビューが記憶

に残る。

彼女は上からも横からも四方から

相手を見て、隙を見つける、とい

うようなことを発言したのだが、

インタビューする側も驚いたの

だろう。理解不能だったから、

それについて何も尋ねないのだ。

それはどういうことか、聴かな

いのだ。自然にスルーしてしまう

のが、僕らが新しい、未知なこと

に出会うと反応する態度だ。

聴こえても聴かないから、スルー

してまず覚えていない。リアルさ

に対応できない、適応と言ったら

いいのだろうか、できない。

そして、可能な限り思い出を気に

入った風に記憶を染め上げる。

これがふつうに行われていること

なのだが、しかたない、と言える

ほどに習慣になったようにも見え

る。

僕らが自分を守って、弱味を見ない

し、記憶もスルーする生活はいつ

から築かれたのか知らないが、それ

は僕らがとどのつまりまでは自分を

知りたくはない、そういう弱さから

来ているように感じる。

エゴ、エゴというが、見たことは

あるのだろうか。いいエゴとか、

悪いエゴとか区別しているのでは

ないだろうか。それは構わない。

ただそこにリアルはないという

ことを認めなくなってしまって

いる自分本人には気づけないこと

がいつまでも知られないままだと

いうことだ。

これで説明になっただろうか?



たぶん、なっていないと思う。

自分から身を乗り出すように

リアルに首を突っ込む姿勢に

ならないと、ほとんどものごとは

僕らにやって来ない。僕らは道筋

を初めに考えついて、ゴールを

決めてしまう。電車に乗るのと

同じだ。行き着く場所は誰が乗って

も同じだと気づかない。それは

頭の中の駅名から駅名へたどり

着くことに他ならないのだが、・・。

僕らに必要なのは山で遭難しない

ために知識を豊富にすることでは

ない。

それはほんの一部だ。実際には

遭難したら何が起こるのか、それ

が現実的に想像できる山への

最低限の経験と、例えば冬山では

汗をかいたらどんなに面倒でも

着替えることなどだ。そういう

鉄則を身に着けることだ。ただの

知識では汗が凍って凍死してしま

うケースが実際にある。それが

リアルってものだ。

ベテランは経験が豊富だから、それ

をよく知っている、というもので

もない。常にどんな事態が起こるか

わからないのが自然なのだから、

長年の経験という自然に比べたら、

比較にならない短時間で未知の未来

を測ろうというのは、もはやベテ

ランではない。それがリアルの現実

だ。

経験で必要なのは知識(必要知識は

ふつうにある)とか時間の長さを

経たということではなく、リアルに

対しての姿勢なのだ。

僕には人生はリアルでできていて、

その現実も夢も同じように厳しく

も、美しくも見える。



(くどくなってきたから、ここらに

しよう)


2023.8.27
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善悪の枠はなにも超えない [善悪]

人は自分の成功例をよく覚え

ていて、失敗は早く忘れようと

するのか、その成功例から自分

の正しさを組み立てようとして

いるのを感じるのは、僕だけだ

ろうか。

それで自分の意見でも疑う傾向

があるのは、自分の内では想定

内のことで、当たり前な感覚に

なっている。(自分を理由もなく

信じるなんて!?)

それが僕が闇に教えられたことで、

そのまま出発点ともなった。

20代の時には光り輝く神秘を見た

が、解釈しようとはしなかった。

見ている非生命の金属(金網)や

鉱物(家壁)が心のなにかとコラボ

して、内面的にとでも言うのだろ

うか、或る晩からその時間に毎日

光り輝き、僕は最初、非生命な

金属とかのものでも生命があるの

だと思った。

それはあまりにも心に温かく、

しかも錯覚では説明できない、

明確な映像だったし、それは

僕を活かそうとしている、命の

輝きを間違えなく伝えてきたか

らだ。毎日のその夕刻の時間帯

だったので、僕が毎日その時間

に幻想や夢に囚われたというの

は、なんとも不可解で、不可能

なことだった。どういう心理的

事実かはわからないが、僕の

心に写ったという事実は変わら

ないだろう。

考えれば、僕の心理的憂鬱を

疑うこともできるだろうが、

その生命を感じさせる神秘は

目晦ましだったとしても、それ

は僕に適応するように調理され

ていただろう。だとすると、話

はややこしくなる。そういう

現象を僕に見せたのは誰だった

のか、何だったのか、その訳は?

という新しい問題に発展してしま

うからだ。

それが心に展開された現象である

のははっきりしている。それは

幸福感に満ちていたからだ。失恋

後の憂鬱が2年続いた後だったの

で、僕は訳もわからず、ただそう

いう事実だけを受け止めて、それ

を解釈するのは誤解を増やすだけ

で、無駄なことに思った。それで

今でもそれがどうだったとか、考え

たことはない。ただ、僕の身に

起こったこと、それだけだ。そし

て、似たようなことはそれで終わ

らなかったから、

もっと慎重になった。わからない

ことに自分(の意見)を挟んでは

いけないという考え方をいつから

か、するようになった。

これはある意味、重い出来事だっ

た。

僕らの考えでは、一番には正しい

ことを指摘してやりさえすれば、

相手がそれをわかって訂正する

だろう、と考えることだ。これは

大方、失敗する。

正しいというのは、絶対の正義や

正則のことだろうが、それは夢で

あって実際には、僕らという各々

自分の意見が絶対だと思う正しさ

があって、食い違うのだ。

これは考え方の土俵の違いもあれ

ば、多くは僕らがその正しさの

種類や限界を見出すまで考えを

拡張し、その正しさの限界範囲と

適応世界を自分で定めるまで考え

込まなければ(陶冶)、細かい

現実に対応できるほどには役に

立たない。

足し算がわからない子供を叱る

母親のようなもので、こんな簡単

な事がどうしてわからないの!と

ヒステるが、「足すとはどういう

ことか」というのは新しい概念を

教えることで目の前の花や象と

いうものの名前を覚えることとは

全く違う考え方だ。

気持ちを信じる人にはこれに似た

傾向が顕著で、同じ人間ならなに

が一番大事か、気持ちだろう、と

いうことが金個条になっているが、

世の中は白黒だけではないから、

グレーゾーンを無視しがちだ。

人間は同じだ、という気持ちの

持ち方はある、が、その大事さ

だけではないものもあるのも

事実だ。

俺たちは果物(人間)だ。同じ

ではないか。と、バナナが言う。

ミカンも賛成するかもしれないが、

国が違うとかなり考え方の傾向

も異なってくるのも周知のこと。

それぞれ育った環境や出会った人

たちが違うと、その影響で考え方

は異なるのが普通だ。

同じ果物だ、ではかなり複雑な

現実社会では後々問題が起こり

そうな妥協案しかできないだろう。

そして、考え方や何々主義という

思想的統一でまとまるのも、実に

危ない話なのだ。

それらはその問題に応じて、分けて

考えられるべきで、気持ちや一つの

思想でまとまるべきではないのだ。


さて、ここで考えてみよう。どうし

て僕らはひとつにまとまることが

善だと考えるようになったのか。

それは「わかりやすいこと」が

ひとつ、もうひとつはその方が

人民を統治しやすいからだ。それ

は政治の統治教育という当然な

話になるので、「わかりやすい

こと」のほうを説明しよう。

僕らが仲良く協力し合い、助け

あって生きようということが

僕らの心のなかであまりに当然

に考えられていないだろうか。

少なくとも、それは理想だが、

正しいことでそういうふうに

できること、そういうふうに

なることが善いことに違い

ない、と思う事はしっかり心

の底にあるのではないか。

これは僕らが衣食住を分業に

して、それぞれに配分して

生産したものを寄せ合って、

社会を発展させてゆく、という

営為に一致しているからだ。

これが社会全体で公平に平等に

配分されて、うまく紙幣も回っ

て皆が満足すれば、大成功な

のだろう。

現実はそうなっていないし、

歴史を辿ってみても、地方で

一時的に成功した例は多くある

し、小さな部族では文化的にまと

まっているが、全体で小競り合い

や内戦などがなかった時代など

はない。百年もの戦争で疲弊し

きっている。

それをもって、それを批判すべ

きだろうか。だから人間は、とか、

だから権力はとか、批判の矛先

を向ければいいことだろうか。

それはある程度は、必須で必要

なことではあるが、根元の謎を

残したままにしてしまう。



こう考えたらどうだろう。お互い

の協力や助け合い、そういうものを

社会に必須で必要なものである、と

いうことを認めるのだが、それは

そういうことで認めるのであって、

それが本当は善でも絆でもない

ことも認めるべきだと言ったら、

どう想われるだろうか。

それが善だから、正しいことだから、

美しい人間性だからそうすべきだ、

ということを疑ってみたら?という

のだが。

僕らの真心はある。それは疑えない。

しかし、それを善だと認めさせる

のは、それに囚われることであり、

縛られることに結果、繋がってしまっ

ているのではないか。

これは僕らの問題だから、それぞれ

で考えてもらう問題だと思う。

これを展開させるのは、すぐには

必要ないと思うので、時期を忖度

してみる。


>>>>>>>

そう言えば、持っていても読んで

いないがニーチェの「善悪の彼岸」

は似たようなことを考えているの

だろうか。長いので、なかなか読む

気になれない。その後で個人的な力

の思想を展開したという印象だが、

そこは違うな、と感じる。ま、

あまり、読まないで印象で書評を

してはいけない。
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人間の能力の未来 [能力]

錬金術というのは賢者の石を

作る目的があったらしい。

その賢者の石というのは、今

いち何かわかりにくい。

簡単に言うと、どうも魔法ら

しい。不老不死とかなんでも金

(ゴールド)に変えてしまう、

魔法そのものの石というのを

作りたかった。その経緯も面白い

が、今は横道に逸れてしまうの

で、次期にしよう。

錬金術もどんでん返しがあって、

長い歴史で追及された錬金術の

金づくりが化学的に完全否定された。

それを決定したのは科学者ボイルで

彼はアリストテレスの四大元素論と

また錬金術師たちの信仰していた

硫黄・水銀・塩の三原質論を打ち

砕いて、近代化学を打ち立てた。

錬金術は夢だった。

ところが、250年と少しして、それ

までできないと思われていた元素の

変換が実験によって確かめられて、

水銀や白金からでも金が生成される

可能性が示された。そして、現在、

放射能が残るなどの問題を抱えなが

らも金は生成され得た。

錬金術は復活したのだ。トトロでは

ないが、夢だけど夢じゃなかった、

のだ。(ただし、コストはまったく

合わない。ゴールドに変換すれば

するほど損をする)

では話題は切り替わる。

藤井竜王・名人が7冠を達成している。

この藤井が連勝連勝で出てきた時に

藤井はAIを(当時はコンピュータ将棋

をと表現)研究していると、ブログに

さらッと書いたが、どう書いたかも

忘れたが、数日前の対局での解説で

そこら辺りが出てきたので、その通り

だったと確認できた。

以前から言うように、人間はコンピュー

タ将棋に勝てない。将棋は盤のコマが

9×9で限られている。ルールもそれ

ほど複雑ではなく、それぞれの駒の

動きも決まっている。だから、ここは

計算が成り立つ世界だ。それで計算力

が重要になるゲームだ。なので計算力

では半端ないAIが人間よりはるかに

優れているから勝つのは当たり前。

では現実にコンピュータと対戦して

コンピュータが将棋連盟の棋士に

負ける例があるのはどうしてかという

と、コンピュータの側でも、スーパー

コンピュータを使うわけではなく、

ある程度容量が制限されているから

だ。本来の力である容量を制限され

ているので、プログラム技士は闘い

を前半・中盤・後半・詰め、と容量

を振り分けてプログラミングしていく

のだ。

なので、どこに力を注入していくかで

振り分け配分が違うので、それが勝敗

を左右するし、時には後半で二歩は

禁止という初歩的設定をポカで忘れる

こともある。人間の棋士はそのプログ

ラムされた将棋ソフトと3か月の練習・

研究期間を与えられるから、それに

集中できるあまり忙しくない若手の

棋士がソフトのミスを発見しやすいし、

ソフトの癖を掴みやすいので、高段者

よりも段が低くても、コンピュータに

勝ったりする。

なので、スーパーコンピュータが相手

なら、名人でも相手にならない。

ところがそこへ登場したのが藤井聡太

だ。

これは想像だが、藤井は初めからコン

ピュータのAIが悪い手とされる手を時々

打つのを見逃さなかったのだろう。

普通の連中は長い間の歴代の名人などの

棋譜を研究してきて、それを信頼して

いるので、AIも時には悪手を打つものだ、

ですます。藤井はそこを考えた。なにか

ある、と。そこで自然にAI 相手に将棋

を指し始めた、といった処だろう。

そして、彼はAIを真似るかのように

読むスピードを増した。読む深さも

とことん読んだ。そして、いつしか

藤井将棋が出来上がった。

そうしたら、相手は見たことのない手が

どんどん指されるので戸惑い、ためらう。

過去の棋譜になかったのだ。対応した

ことがないのだから、そうなるだろう。

かくして、その遅れと臆病さが大事な

一手を先攻できなくする。勝敗はその

時見えていたのだ、藤井には。

それが48連勝とかしていた頃の藤井

だったろう。

そこで話が終わるなら、くり返しを

書いただけだ。そうではないのは、

そこに新しい光があったからだ。

まず、藤井の3一銀だ。

ある対局で藤井が指した手だが、解説

のTV画面にはその盤面での最善手が

AIによって示される。その3一銀が

最善手どころか5番手以降にもまったく

出てこない、コンピュータがよい手と

してはじき出さなかった手なのだ。

周囲は驚く。誰も予想しないし、AI 

も予想しないとなれば、騒然とする。

この3一銀に対応できなかったのか、

相手は負けてしまう。

AIは4億手から5億手を読んで、

最善手を表す。だから普通に考えれば、

3一銀は悪手と思われてもしかたない。

ところが、あとで検証したのだろう、

コンピュータに6億手を読ませた処、

突然、今まで出てこなかった3一銀が

最善手で出てきた。6億手まで読むと

それがよい手であると計算されたのだ。

これはもう神話だろう。

いかに藤井の頭でも6億手が読める

はずがない。が、結果、彼はそれを

指している。どうして指せたのか、

そこが問題だ。

闇の一手だったからだろう。闇は

もちろん、わからないことの例えで

もある。そして、実際にわからない

ことの、そのものでもある。遠回し

の言い方になってしまう、それが

僕らが未知だとしている感覚とか、

才能などの本質や方向のことだ。

藤井と指す棋士が言うのは、藤井を

相手にして、彼がより速く、より

深く読んでいる気がする、と言って

いることだ。彼ら棋士同士は頭の

使い方は同じような周波を有して

いるはずだ。同じ計算を盤面で常に

使っているから。

そこで感じるのだから、まずその

速さと読みについては正鵠を得て

いるのではないかと思う。

それはコンピュータの読みの雰囲気

ではないだろうか。藤井はコンピュ

ータのように考えているのだ。それ

がどういうことか、日本棋院の棋士

たちは全国から集まった天才たちな

のだから、それさえわからない僕ら

がわかろうというのは無理な話だ。

だから、ある程度比喩的に進めない

と、何も進まない。

3一銀と棋士の藤井への感触から

比喩的に想像すると、藤井はAIの

計算作法をなんらかの時と場所で

得たように思う。それは頭で理解し

たという通常の理解の仕方や認識

ではなかっただろう。AIの将棋の

計算方式からなにかを無自覚に

見つけ出し、それに乗り移ったと

考えると、藤井が6億通りの結果が

3一銀として出せたのも可能性が

ある。

AIの弱さは数字ではなく、感覚や

情に交えて比較・飛躍する問題で、

時代を超えたり、最善手ではない

行動をする歴史問題に弱いのはそこ

からくる。(数年前の東大入試だっ

たか、そこで失敗してAI は不合格に)

藤井が示したのはそれ以外かもしれ

ない。その可能性はいつでもある。


藤井はAIの思考法の塊を別な、計算

ではないやり方で吸収した。そこか

らでも読みながら、突然に最善手が

現れるようになったとでも言うべき

だろうか。

真相は文字通り闇の中には違いない

が、そこには人間の能力の新しい

可能性が秘められているとは言えそ

うだということだ。

例えば、スティーブ・ジョブスが

スマホで世界を席巻したが、世界

がアナログ思考でボタンをひとつ

ひとつ押すスタイルで携帯ホンを

認識していた時に、彼は直感的に

画面の表面操作だけで機能動作を

可能にした。つまり、ジョブスは

人々の常識の思考という当たり前の

認識世界に針一本の穴を開けたのだ。

そこから新しい認識が入って来て、

世界はスマホ一色になってしまった。

彼は知っていた、というより、信じ

ていただろう。ある、新製品のパソコ

ンを発売する時に、その3週間前に

なっても主要ソフトの具合がうまく

なかった。発売直前である、彼は

3週間でそれをやれ、と言った。

実際ギリギリで間に合ったらしい。

ふつうの経営者はそんなことはし

ない。会社の存続自体に影響を及ぼ

すことだ。しかし、彼はそういう

ことを何度も!乗り越えてきている

から天才と呼ばれている。

これは世界を変えるには、僕らの

認識をひっくり返す針の穴を実行・

実現すればいいことを物語っている。

そうは見えないだろうか?

では藤井はどうだろう、その将棋界

は?

人間の考えた100年前からの歴代

の財産である棋譜はコンピュータ

思考を取り入れた10代の少年に

いとも簡単にひっくり返されてし

まった。人間が名人が100年考え

ようとも、将棋の可能性が無限大で

ある以上、人間たちがしてきたこと

は全将棋世界の15%?いや10%?

いやもっと少ないのか、ともかく

偉大な棋譜への尊敬とはまた別に、

ちっぽけな偉大さに呑まれること

なく、可能性を新しい道で追及できる

ということである。これまで将棋界

の人たちが権威を持ちすぎて、AIに

真に驚かなかったから、精進を怠った

と言われてもしかたない。羽生氏が

藤井はウサイン・ボルトでひとりで

すべての世界記録を塗り替えてしまっ

たと述べている時点で、彼は過去の人

だ。それ以上なのだ。コンピュータ

思考なるものは存在しない。今までの

考え方・認識からAIの棋譜を学習する

のではないのだ。その革新の点が見え

なければ、失った7冠のひとつも戻っ

てこないだろう。


僕はそのことが人々がこの3000年から

4000年に培ってきた偉大な文明文化が、

それは宗教から哲学・科学の認識に同じ

ように古い認識に染まって、なにかが

違って、真に新しさが登場しても、眼

の前にしても人々の眼中にない、とい

うことになっているのを見る。

あとはまたくり返しになるから、言わ

ない。僕らはこの世界で偉大だが、

宇宙や意識を含めた全的な世界では

少しも偉大ではないことも十分に

認識しなくてはならない。


>>>>>>>>>>>>>

僕は現実には器のひとつもつくれない。

できたものは、できたものにまかす

しかない。なぜこうも不満なのかも

わからない。気にしてもしかたないが、

・・・・。
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見える?見えない いる?いない [生きるわけ]

こうして坐っていることが、それを

直に話題にしようと思ったことは

なかった。今、それは変に思えた。

今までは自分に反発を起こさせる

ような、挑発をしたのだけれど、

それがどういう効果があったのか

を別にしたとしても、坐った時は

まぎれもなく書き繋いで来たのだ

から、それはふつうに特別なこと

だと自分でも認めていいではないか、

と確信した。それが初めてのこと

だった。

何を、例えばそれが何かに拠って

いなくとも、因果とか世界とか、なに

か命題を示さなくとも、どうもいい

のではないか。それが心の写しとい

うものではないか。

この心ひとつがあれば語るに困る

ことはなく、いつでも片隅にでも

引っかかった言葉のひとつで、それ

は自分の中にあったものだから、

なんらかのテーマを従え、そこに

戸愚呂(とぐろ)を巻く蛇のような

ものではないか。つむじ風のように

軽いものかも知れない。

これはこれそのものが語るに十分な

ものを備えているということなの

だから、ただ話すように語ればいい

のだが、そこに概念的なテーマがあれ

ば、もっと歓迎されるのだろう。



恐らく、ものを読むということは、

少なくともひとつは絶対なことが

ある気がする。それは落ち込むよう

なことは読みたくないし、まったく

期待していない、それどころか避け

てしまうだろう、ということ。

それについて語るのはやめよう。

さんざん話してきたし、また同じ

処についてくり返しになりました、

というのではつまらない。

もっとも、いくらでもくり返す必要

がまた一方であるのも事実だが、

それを詳しく語るにも資料読みが

必要だ。

ずいぶん前に「旧約聖書」を印象

読みしたが、驚くべき、期待しな

かった結果だった。あれは何だった

のだろう?

それは旧約聖書を読む必要に迫られ、

日本聖書協会の「口語訳 聖書」を

読もうとしたが、旧約部分だけで

1300頁ちょいある。読み通すのは

かなり困難と感じたので、見るだけ

にしようとした。ほぼ読まないので

ある。それはまず通し読みをする前

に印象付けとして、前頁をめくって

眺めようとしたのだ。1頁を3秒で

区切った。

3秒間眺めたら、次のページへ進み、

また3秒間眺める。そこで気になる

箇所があった時は、数行を読む。

読まないのは意外につらい。眺めて、

次、眺めて、次をくり返すと、速い。

が、それでも単純計算で、1300頁

× 3秒 = 3900秒。つまり、

1時間以上かかる。ところが、実経験

では30分くらいにしか感じなかった。

西洋の本や小説、評論を読むと必ず

聖書から引用された隠喩が出て来る。

その意味合いがわからず、とうとう

覚悟を決めて、聖書に手を出した

ものだが、このあと聖書をちゃんと

読むことはなかった。これは今でも

不思議だが、その頭に入るはずもな

い読書法で旧約聖書、たぶん細切れ

で数十ページは読んだ、の印象が

わかるようになった。

僕は絵を見るのに相当きつい時間を

過ごしたので、視野は広い。今、

眼の前に見ている、確実な範囲より

もそれから外れた視界で意識して

いるはずがなくても、本の棚(書店

で)を見ていると、見ている場所

から30cm位離れていても、目に

飛び込んだようにその背表紙の文字

が来る。それでどこにあるのか、

周囲を探さなくてはならなくなる。

その広い視界も一役買っているかも

しれないが、旧約に登場する神に

ついてはあと少しずつ部分読みを

するだけで、その印象は捉えている

のがわかった。もう、西洋の翻訳本

を読んでも旧約を取り出して調べる

か、と考える瞬間もなくなった。

眼、だけでこれだけの容量を広げら

れるのだから、その他の五感も僕ら

は閉ざし気味であるのは明らかだと、

僕は思う。

僕は概念を否定したいとは思わない。

ただあまりに頼り過ぎで、もっと僕ら

の生命上で肝心な点を僕らが日常に

見過ごしてしまっているのを、まさに

見過ごせないだけだ。

その頼り過ぎは科学の成功による勢い

が強いためそういう論理的思考・能率

的思考が教育に都合がよいため、長い

習慣と制度によって固められてしまっ

た所為だが、今やその視覚の方向から

すべてを眺める考え方と思想が定着

してしまっている。人間とは、と問わ

れると、人間性ではなく人間工学で

考えようとする。そのためにそれが

現実という闇のバロメーターであり、

支配者(現実)に対して消化不良を

起こしており、実社会での衣食住は

もとより、インフラや娯楽にまで

不適応を及ぼしている。

それに気づけないほどなので、皆、

部分部分で対応しかできていない。

それではもぐら叩きのようなもので、

一時的解決しかもたらすことができ

ない。

自閉症というのは、個人的には面白い

病だ。押し付けられるのが苦痛で10年

も引きこもるとか、誰か闇から手を伸ば

しているのかと思うくらい、・・・これ

はだいぶ横道が長いので今はやめる。

オリバーサックス著の「火星の人類

学者」で取り上げられた患者の一人、

テンプル・グランディンは女性の動物

学者で社会的に成功している人で、

彼女はまったく人類のひとりとも恋愛

することができない。彼女の書いた

自閉症患者による自閉症を説明した本

を、気になった人は読んでみるといい

だろう。


あるなんの学者だったか、彼は妖精を

信じていた。シャーロックホームズを

書いたコナン・ドイルもその昔、イン

チキの合成の妖精写真にだまされたの

は有名だが、それくらい欧州では妖精

はふつうに信じられている。

アイスランド?だったか、その国で

は驚くことに妖精のための法律がある。

各地で温泉が湧くのでボイルするので

あるが、そのボイルする前にその穴を

開ける地下に妖精がいないことを証明

しないと許可が下りないらしい。マジ

で妖精が信じられていることだ。迂闊に

ヨーロッパで妖精を子供じみた話だと

笑わないほうがよい。変な目で見られ

るのは、あなたのほうだ。


なぜ、旧約の神の雰囲気・思想な様子

が読まずにわかったのか。なぜ、欧州

では人は妖精を見るのか。

学者の話だった、彼はある時眼を痛め

て、数か月か、目に包帯をして光を

見なかった。そして、医者にもういい

だろうと、包帯を外した時に部屋に

妖精が飛び交っていたのを見たそうだ。

詳しくは知らないが、2,3日は見続け

られて、その後消えたそうだ。

これは信じることによる、心の強制の

投影現象と言えそうだが、どうも完全

に否定して打ち消すには、いるとも、

いないとも証拠は出てこないようだ。



僕はもう一度、読む必要もあるので、

その前に1頁3秒の印象読みを「聖書」

で再トライしてみるべきだと考えて

いる。


人は何を見て、何を見ないのか。それ

には厳然とした理由がある。そこに

浮かぶテーマは、人は信じたものを

(錯覚・幻覚を問わず)見てしまう

こと。

では、僕らが見ているものは、ただ

の幻か。そうではないだろう。物質

の分子の壁がある。仮想現実に生き

ているとは(映画・マトリックス

のように)、思えない。それは以前、

言ったように僕らがまず特に意識し

ないで、生きているのを信じている

ことだ。自分がゲームのコマのただ

の電子信号による死なない加工品だ

とは思うことはできない。それは自分

が死んでいると言うようなものだ。

信じている限り、自分は存在して生き

ている、と誰でも思っている。

それが信じていることだ、無意識に、

無自覚に。そこに確たる意味・理由は

ないだろう。

では、何があるのか、

それが僕らが生きようとする理由だ。

説明できない、衝動のような、生存

していればそれでいいのではない、

なにか、だ。


Have you ever dug it ?


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この世はそれを必要としなくともいいものとしてある [この世]

どうも演劇の島村抱月と画家の

岸田劉生を混同していたきらい

がある。「麗子像」の絵が有名で

教科書かどこかでお目にかかって

いる。二人とも号が和名なので、

印象が似通っていたから混同した

のと、それほど興味を引かなかっ

たからどちらがどちらでも、

よかったのもある。

なんでも鑑定団をまた偶然見るこ

とになった。途中まで見たが、強い

印象を受けたのが、岸田劉生の漫画

だった。はがきの裏やなんか、そう

いう正式に描いたものではないが、

その妖怪に水木しげる風でもあるが、

リアルがあった。どうも実際に見た

のではないか、という気がしている

と、本物で50万円の値がつけられた。

鑑定団は故人の作で、それが本物か

どうかで値段を評価する番組なので、

いたずら書きでも高値になる。それ

よりも岸田劉生で彼のことが知れて、

興味を持った。

だいぶ病気を全身に抱えていたそう

で、胃潰瘍と尿毒症で39歳で亡く

なっている。70枚以上の娘の写生画

を描いているが、同じ麗子が二人も

三人も登場する構成になっていたり

する絵もある。

人物は潔癖症で、病的な神経質で

トイレでペーパーを一丈(約3m)

も使ったりする。これは知的障害者

の管理でそのホームをチェックする

仕事ではそういう人がいて、よく

トイレを詰まらせていた。ともかく、

ゴロゴロとペーパーを回す音が続き、

終わらない。長く出さなくても大丈夫、

とか言っても、素直に聞いたことは

ない。

また、癇癪もちで気に入らないと、

あたり散らすなど、胃潰瘍ともに

夏目漱石に似ている。

テレビでその作品の紹介があって、

そこで「道路と土手と塀」が出て、

その空の抜け方にこんなに見えた

のか、と印象が一遍に変わって

しまった。妖怪の印象もこの絵が

保証している、と思った。

リアルなのだ。こういう空は日本には

ない。日本の空気は湿気が多く、薄

青い空になる。これは外国の空だった。

しかし、観たのだ、と思わせる。

このリアルさはそのままで、天才なの

だろう。印象派やゴッホの絵に感動して

そこから油彩に入り、ゴッホ調が多かっ

たが、次第に岸田の和の油絵が出来上が

った。と言っても、娘の無表情な不気味

な絵にこだわった理由はなんだろう。

道と坂と塀-1.jpg

:道路と土手と塀::

ものを突き通すことはある、とこういう

絵を見ると、やはり思わざるを得ない。

しかし、こういう想像は単純なあれか

これかに陥るのだろうか。

見通す眼は闇を見る。それは闇という

暗さではないが、視覚では確認できない

ので、どうしても暗いイメージになって

しまう。リアルさが現実を見る眼では

どうも暗い闇に導かれるのか、妖怪

とかを想像してしまうのかもしれない。

インドでは神様は伝統的に長い歴史

を持つので、生まれた時から生活に

沁み込んで、そういう生活の中で

ガネーシュとかの象の神様と一緒に

人は育つ。

本名ガダハ・チャットパダヤーナは

後にラーマクリシュナ(有名な伝統

の神の名前)に改名し、インドで認め

られた聖者であるが、どうしても神様、

カーリー女神だろうが、を見たいと

願った。相当、煮詰まるまでいろいろ

学習・修行したのだろう、ある夜?神を

見れなければ死ぬという決意をして瞑想

に入って、そして、諦めて(途中だが、

ここが大事。もうだめと真剣に思わな

ければ、実現しない)、死のうとすると、

そこに女神が現れて、一体となった。

彼はそれまでの勉強もあったのだろうが、

聖者になり、ヒンドゥー教の改革を行った。


人は死ぬまでに思い詰めて、もうこれ

までと諦めることができた瞬間に、

どうも死の装置が働くらしい。チベット

では「死者の書」ではその死の迎えが

来ること、その直前にすることを細々

と教えているらしい。

体では、スポーツで最大限苦しくなると、

体はそれを死の手前と自動判断して、

自分で解消できる分の快楽成分を中枢

神経に送りこみ、急に楽にしてやる。

(近年、それがドーパミンとされて

きたが、ドーパミンは何かが起こると

期待させる物質だそうで、ワクワクだが、

快楽物質ではないとわかった)

僕の経験では、プールで500mも泳い

だ時にそれに見舞われた。体が勝手に

泳ぎ、手足は勝手に動いているよう

だった。もうこの後何時間泳ごうが

決して疲れはしない、という異常に

リラックスして、ハイテンションな

状況を味わったことがある。

ランナーズ・ハイも同じ原理だろう。

僕らの体も心も主人の「自分」の死

を感じると、勝手にハイになる作用が

働くのだ。神でも何でも見たいものを

見るし、あこがれや希望のものを作り

出して、それと会話さえし始める。

僕には幸い、そういうものを信じな

いので、現れるようなことはないようだ。

と言っても、解釈に困る神秘やその手

の現象は何度も見ている。信じてしま

うほどの感動があるので、信じる人が

いても別に違和感はない。僕はそれ

を今でも検討課題として、確実なもの

として真理的には信じていないだけだ。

信じたくもないが、なにせこの世はそれ を必要としなくともいいものとしてある

のが正しい状態だから。


キリストも人々が信じないと、信ずるこ

とのない者たちよ、と嘆いている。

コップ一杯の葡萄酒で多くの者の腹を

満たした逸話は、たぶんほんとうだろう。

それくらいの気の誘導ができなければ、

メシアとしての指導はできないだろう。

そして、それのダークな面では、頭か

神経かがコントロールされて、ジョン・

レノンを殺したり、安倍晋三を殺傷し

たりするのだ。信ずるものは救われる、

とか言うが、なにをどう信ずるのか

それを誰が判定するのか。裁判所では

もう事が終わっている、遅い。


僕は闇から、創造の門を見出して、

会話のように結末を想定しないで、

話すように書く、という僕の書く感覚

も引き出すことができたので幸運だっ

たろう。もう8年?になるか。こんな

にも文章を書き続けるとは思いもしな

かった。苦労ばかりの文章を書く職業家

にはなるまい、と諦めたのがよかった

のか。


闇では美しいものが美しいわけではない。

反対に、醜いものが醜いわけではない。

そのどちらでも認める容量が大事な時も

ある。そういう判断は気持ちに破られる

こともあり、知や情、体や心の感覚の

ひとつが主人公だということもないのだ。

が、僕らはほとんどそれらのひとつを

中心に選んで、他人や環境との不適応を

日頃から常に迫られている。

ともかく、うまく誤魔化せればそれで

よし、というのが僕らが認めている、

仕事以外ではそんな余裕はないよ、と

いう習慣である。ので、人生を能率で

測るのもまた自然な過ちにも陥る。


誰も疑わない。自分が他人のように

おかしい、とは。異常ではなく、オリ

ジナルなのだと思いたがり、そう思っ

ている。

僕は社会から乖離しての個人の行く先

を確かめようとして、死に損ない

失敗して、愛の助けを借りて自分との

借財を返し続けて、それが終わった時

に社会人がわかった。オリジナルなど

一人もいない、世間が実質上で勝手で

いい加減なものだと、あてになるものが

ひとつもないと確かめられて、そこから

世間の人間を見る眼が反転して、照射

されて社会に生きるために社会に沿って、

それはたとえ不適応でも寄り添って生きる

群像だった。そこで不思議に僕は孤独に

ならなかった。ほんとうに僕らは、(言い

たくないが理解困難だから、)平等だと、

安穏に生きることができると、知った

から。

僕らは大事な処に手を加えて改良する

性質を備えていないのではなく、そう

せざるを得ない性質・常態を理解し

にくいことが(=理解できないような

処が)あり、また生来そのようにでき

ている。

そこが不理解の中心になる。闇の中心の

ような処に立つと、台風に目があるよう

にそれが見える。それはそうだろう、

そのために命まで賭けて、激嵐に突っ

込んでくる、船も飛行機も、また人も

いない。

僕が子供の頃から火事・地震・雷・

豪風などの天災が大好きだったのは、

偶然だろう。その人にはその人の

道ができる。僕は高い山に登った時

のように道を曲がり、より高い場所に

出れば出るほど、見える景色の同じ

場所が違って見える新しい展望に

感動して、ともかく追及を止める

ような性格にはならなかった、なれ

なかった。

他人も同じ道を辿れば同じだと考える

のは、馬鹿げている。そういうはっきり

した時間軸も過去も未来も存在して

いない。

のど元過ぎて暑さを忘れる、というが、

少し違うが、やっと坂道の頂上(峠)

が見えて、これからその向こうにどん

な景色が開け、どんな道を行くのか、

そういう自分が楽しみだ、という処

まで、別な次元に感じるが、また来た

ところだ。

これまでの多くの道があったが、どれ

も覚えていない。振り返れば、自分を

時に慰めるために、しっとりと水に

浸かるように過去を振り返る必要が

あったが、なにをしてきたか、など

そんな余裕はなかった。人生は油断

ならない場所だ。人はそれで、反対に

年齢や老化とともに人を信じ失く

してゆく。それは反面自然だが、もう

反面はもっと大きな展開を、そういう

世界を見る必要がある。

人を信じれないのは当たり前では

ないか。神様ではないのだから、

必ず、過ちを犯す。だから、そうで

はない部分を公平に判断に加えるべき

だ。それは虚しい結果に終わらない。

そう生きるのも。僕ららしいからだ。


彼が(ある種の)善を信じるなら、

それは危ない。僕という自分も他の

善を信じているからだ。たぶん、その

土俵とか、環境・文化レベルという

さまざまな土台が異なる。そういう

世間の事情を面白いとそれを、面白い

と思う。それも善ではなかろうか。

僕らは宗教でも思想でも風俗でも

伝統でも、その内容にはたとえ表面

は不完全でも中心には完全さがある、

と信じ、信じてきた。



僕はそれを充てにできないと、いう

より他に信じる方法はないと思う

ようになった。僕が完全でない以上、

僕なりの正しさがここにあるが、完全

なものはどこにもない。そして、人は

なんとなく気に入ったものを指針に

するのを知っている。また、それを

ある程度秤にかけてどう賛同を得ら

れるかも知っている。そして、完全さ

の抽象性に怯える。

怯えないためにはふつうの社会人が

都合がよい。怯える必要はないが、

ふつうの社会人はどこにも見つから

ないだろう。僕らの迷いはそういう

風にして限りなくつむじ風を起こし

続ける。

台風の目は普段、見たくないからその

自分の見たくない方向にある。僕らは

自ら見ないようにして、一部の過去の

情報・書籍・映像から自分の道を導き

出そうとしている。それは外部にある

社会で生きるのに役立つことで、僕ら

の心は休まらない。

だから、死んだこともないのに、死ぬ

ことを恐れる。それは痛いことや苦し

いことの延長線上に、この先にはもっと

怖くてつらいことがあるという想定に

過ぎない。想定なら、それが天国・

極楽であっても同じように空想になり、

とんでもない誤謬を抱えて生きること

になる。

わからないものを見ないことで、すでに

なかったこととして認める処に着地する。

その時点で指針は指針ではなくなって

いる。

僕らは交通事故を想定して毎日を暮らす

ことはないだろう。社会を暮らすことと、

自分の心と暮らすことは同じことでは

ないから、まったく別な生活法・レベル

の工夫が必要になる。


ここでまた出発点に戻ってしまった。

あとはそれぞれの実験的な、自分の行動

を常に反省する、その上でまた行動する

ということにかかっていると思うのだが、

僕の場合は僕の読む本を心に独自の指針

として、常に「壊し続ける」指針として

造るしかなかった。(網紀のように覚え

るためではない)

毎日、心の中心も芯も動こうとする。よい

時もあれば、そこに坐れず、うまく行か

ない時もある。こうして書き残したこと

も、それなりに役立つ時もあるが、実際は

静かな行動や小さな冒険の行動にかかっ

ている。書いているだけでは勇気は試され

ない。それでは心が錆びてしまう。

::という伝統的な古い意見は正しいと

思う、この頃だ。



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生きているオリジナルティがある? [オリジナル]

オリジナルというのは、ほんとの

処は何をいうのだろう? 

オリジナルという特別なオンリー

という感じはすぐに掴んでいる

つもりであるが、それはほんとうに

何に対して、どう特別だというのか。

個性という言葉が低俗化して、ただ

の人と人の性格の違いをいうように

なってからは、個性のどうしようも

ない社会への、組織への、お仕着せ

への反発心は薄められてしまったが、

天才を見続けると、個性的な人ばか

りで、個性が強過ぎた場合は、容易に

集まりから孤立し、受け入れられなく

なるそういう性質を感じることが

できる。

そう思うのも、人間を考えると、そう

いう境界線がどんどんなくなって

くるからだ。境界線と言ったが、この

境界線が引ける理由というのも、怪し

いし、詳しく説明しようとすると、

こちらも訳がわからなくなってくる。

言葉は飽くまでも、例えのために使っ

た抽象を指さして、その方向にあるの

を見せようとした「例え」以上のもの

ではないからだ。

適当な言葉でもそのまま腑に落ちる、

となんでも即に理解・納得できる

ものではない。

それをそのまま「わかった」となると、

とんでもないことになる。それでは

言葉で何を言っても、理解・納得には

遠い処にしか着地できないのだ、と

言っているようなことだからだ。

文章を50年も書いてきて、それなりに

表現や文意に苦労してくると、言葉の

使い方でどんな考え方をしているから、

こういう言葉の使い方が出て来る、と

いうことまでわかる。まで、という

より、それが普通のことで、特別だ

とは感じない。むしろ、書いている

本人がそうとは気づいていない場合

のほうが多い。それはしかし、やはり、

立場の異なる土台があるから、自分の

立場から見た部分はいつも正しくなる。

それは絶対正義とか、絶対真理とか

では、もちろん、ない。時にはそれが

誰も知らないことなら、誰もそれを

信じないということがいつも起きる。

では、自分の立場を離れて、より距離

を置いた客観性からの立場が加わって

いたら、その意見なり、言いたいこと

の正当性はどうなのだろう。

残念だが、それを判定する基準が、

個人的であり、実験で証明できない限り、

想像上の正しさという、曖昧な領域に

はいる問題になってしまう。

僕らは決めた地点から別の地点までを

目標に歩いたり、交通機関を使ったり、

自ら運転して行ったりするが、まず

間違いなく着くことが多い。と同時に

ニュースで毎日誰かが、そうは行か

なかったのを知る。事件や事故が起きて、

誰もが普通のことが普通に行えなかった

のを知る。こうした大きな事件・事故は

数少ないが、やはり、自分の周囲を

見回すと、体のどこか故障したり、

神経科に通っていたりする人が必ずいる。

交通事故を目の前で見た時には、なにか

茫然としてしまう。高速を走っていて、

反対の車線で車がこちらに向かって突進

してくる。高速だからではない、車は

クルクル回転しながら、だ。

サイドミラーで分離帯に追突したのが

見えた。ある時はバイクに乗った男が

分離帯に衝突した。その時、体が放り

出され、壁に首が当たり、ヘルメット

ごとぐにゃりと曲がった。「あ、死ん

だな」と思う。

瞬間に映像は流れて行った。2秒も

経つと、今の出来事が現実だったの

かと信じられない気持ちになる。

あり得たことなのか。


そして、死を恐れない自分を不思議

に思う。多くの者が生きて、生き残り、

生き続ける。それが普通なら、それ

でいいではないか、と考えるが、僕は

明らかに納得していない。

死ななかったから?それもあるだろう。

しかし、少し違うと思うのは、死なな

い回数が多すぎることだ。

冒険好きな性格もあり、どうしても

知りたい、とかどうしてもそれを突き

止めたい時には死を賭してしまう、

やけにあっさり死の淵に飛び込んで

しまう危険な性格だ。もちろん、危険

を察知する感性も人並み以上だと思っ

ている。

それでも還暦の60歳までは生きてい

ないだろう、というのが客観的に見て

も常識な判断だった。生命保険など

長い間入らなかった。

矛盾しているが、健康オタクで自分の

体の傾向と対策はいつもしていた。

(たぶん、明晰な意識で経験するのが

正しい経験で、そのためには健康が

必要だと知っていた)

それで集中しすぎて、気づいたら限界

でバッタリ倒れるといったことは何回

かあったが、5年くらい前からは回避

できるようになった。

これまでの50年は自分の死の自覚か

ら始まってその死のゾーンを超えて、

宇宙の話題のダークマター(暗黒物質

=宇宙を満たしているとされる謎の

物質、未解明)ではないけれど、闇の

世界に渡りをつけようとしている、

していた、あまりに情報量が少なく、

海岸で目当ての砂粒ひとつを拾う

のに、1, 2年とか、亀の遅い足取り

どころではないので、飽きてしまっ

たし、体に無理が効かなくなってきた。

それで陶器などをつくっているのだろう。


それでも開いた世界とは、その通路を

狭めはしたが、閉じたのではなく、まだ

わずかに交流はある。こうして書くこと

ができるのがその証明にもなっている。

僕が獲得した感覚で言うなら、僕らが

いかに想像力を働かしても、そこに届く

ことはない、ということ。前にも書い

たが、僕らの想像・空想・幻想の概念

で永遠を形作ろうとしても、それは

永遠の入り口に過ぎないことだ。それ

も概念的に理解することはできるが、

その世界への実感にはなり得ない。

気をつけたほうがいい。ほんとうに

その入り口から覗いただけで、呼吸

困難を覚えるから。

僕は長い年月を通して、慣らして行っ

たから(それも後から気づいたのだが)

日常的に対応・適応できるからいいが、

ちょうど3000mの高山へ急に連れて

行かれるようなもので、空気が薄くて

体は適応できなくて、高山病になって

しまうようなものだ。

思えば、僕はそういうことをしてきた

のだな、と回想するわけなのだ。それ

が不思議なのだ。

あそこでも、あの時でもよく死なな

かった。・・と、ただの愚痴になって

しまった。



どこかで家庭・組織・社会・世間に

沿わないと僕らは生活できない。

そして、それは固定された状況では

ないのだが、そういう状況へ意識的

に追い込まれるのが、僕らの大切な

常識というものなのだ。どこで常識

が大切なのか、どこで常識に外れ

ないと、方向を、自分の道を失うのか、

それを見ることはできる。要はこの

国内も国際もその人間の本質の事情と

絡めてみれば、概念でもわかる。ただ、

概念だけだと、やはり自分の立場の

世界に落ちてしまうことになる。それ

だけの全世界の俯瞰を得るにはどう

すればいいか。

それが課題だろう。いつも変わらない。


森林の公園で丸太のテーブルで書道

の本を開いていたら、蟻が上って来た。

頁を閉じて、押しつぶす危険があると、

教える。潰さないうちにすぐに開いて、

蟻が慌てるのを見る。もう一度。

まだアタフタやっている。結局、4,5

回そんなんことをくり返して、蟻が

開いた時に吹き飛んだ。とても納得

して本から去ったようには見えない。

彼らには俯瞰という機能は備わって

いないようだ。

だから、知能遅れだ?そうだろうが、

ミミズが迷っていた時に、根気よく

気配だけを送って、土のある方向を

示したら、ミミズがジグザグだったが、

結局はこちらの示す方向に正確に辿り

着いたのだから、どんな未知な機能が

あったのか、彼らの世界には知能遅れ

では片付かない、謎の選択感覚が

あるのは確かなことに思える。

なぜ、謎に興味があるのか。それが

目の前にゾロゾロ行列をなして来る

からだ。否定もしようもない事実と

して、僕らの感知しにくい世界が

あるのを知らせて来るからだ。


僕から日本社会に挨拶をしておこう。

それなりに参加させてもらってますが、

うまい位置に、うまい気候、うまい

国土と、なぜ日本を選んだのかわかり

ます。

オリジナルは英断に必要でしょ、それ

が金字塔でもあるのだから。そこら

あたりを付き合わせてもらって、

歩いて行きますか、ー 日本の道を。



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