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心の発生の準備と、問題への姿勢:概知の~探る5. [思考]

3000年の集大成とか言い出したら、大変な作業になって「出雲大社への旅」を書くどころ

ではない、となったのは認める。でも、それは想定内なので、大変な作業は最初から

わかっていたし、先へ進めば進むほど作業は楽になるので、「出雲~」についても書ける

時間が取れるだろう、とは考えていた。ただ3000年は最初、大きい網で捕えなければ

ならないので、多少のゴタゴタがあるのは仕方ない、ということ。

まだその内容には入れない。重要ではないが急ぎのこと、雑用もそうだが、そういうことが

日常で増えると、そうそう放っておくわけにもいかなくなる。それで最近では夜勤明けでも

帰って来て寝て、起きてからも休むだけでなく、書く時間が取れるように、生活を変えて

来ている。そうすると、フルタイムで働くサラリーマン以上の仕事量になるが、やむを

得ない。自分で選んでいる。

考える、というとふつう人は計算するか、論理思考をすることを思っている。評論家の

大家だった小林秀雄は考えるを人間の気の行為のひとつと捉えた。それは心という

感覚や複合した直感で対象と切り結ぶことを意味した。思考のようにそれをレッテルを

貼って理解したという(概念化)ではなくて、考えることがすでに生きる行為として

対象を経験するのだ。

まったくボーリングゲームをしたことがない人が、それを見て玉ころがしてピンを倒して

なにが面白いのか。馬鹿じゃね、とか考えるのが机上の論理とかいうもので、実際ボール

をころがすと、ピンが先頭のが倒れれば、ほぼ全部倒れるだろう、くらいの思っていた

のが、思うように倒れない。やっているとストライクを取るのはそれなりに技術が必要で、

思ったより難しくて面白いことがわかる。

映画で血がドバドバでも見ていられるが、実際の交通事故現場で運転席の血の飛び跳ねを

見ただけで気持ち悪くなってしまうように、経験して考えることと考えてだけで判断する

ことは、まったく理解の深度が違うのに気づく。

僕はこれを応用することを見よう見まねで自然に覚えた。

それで本を読んでもその実際を見に行っても、まるで考えることをしない。その場では

ただなにがあったかを、全部見る、聞く、感じる、味わうということに徹する。

そして、帰って来て、または体験を終えて、または沈思を終えて、それから書く。

書くということが考えるということまで高まれば、これがスムーズにできる。

僕はこれを無意識への出入り感覚を使ってしているらしいが、誰でも意識するか

していないかで、していることだと思う。それでこうして、今考えながら書いて

いるので、会話のように話題があちこち飛びやすい。

考えたことをまとめようとか、書いたことをあとで推敲しようとか、思わないので

書きっぱなしでほぼ公表する。一度は見直すので明らかな誤字・脱字とか言い間違え

とかは気づいたら直す。が、文章を別の意図に変えることはしない。その時思ったこと

をその場で文章にしたのだから、「その時」を残すのが書くことだと思っている。

現在、近年まででふつうの推敲文章は長いことやって来て、還暦近くからこの文章・

書き方に辿りついた。それがブログを3年やっているうちに身についた。

だから、僕はまさに、「今」考えている。

僕に悩みがわずかしかないのは、たぶん、日頃考えずに生活しているからだ。

ものごとに一喜一憂しないからだろう。それの考えにしろ、感覚・感情にしろ

依(よ)って来るのはどこか、なにからかというのを、浸透するように眺める。

むしろ、おぼろげにまとめるように見る、呆然とした認識(考えの一部)が入る。

突き詰めて考えるのは後だ、書く時だ。


「心の発生」という面白い着眼点から進むと、僕らの人間の問題の原初からの

暴力から文化への流れや体の本能への服従から自由へと変化して行ったことで

人間の問題の半分以上が解けてしまう気がする。それに気づいてはみたが、

漢字の「心」の発生からそれを導き出すのは、眺めているうちに無理なように

思えてきた。いろいろ学問的な見地から様々な意見が言えるので、それを

放り出すためには、心と意識について、堅固な自分なりの認識が必要だと思った。

僕は以前は、意識は認識不可能だと考えていた。今でも、不可能と可能との間

をさ迷っている。それを早急に解決しようとは思わないし、できないと思える。

それでまず、古いものからだから、その第1段として提出しながらどこまで

浸入し得るかを試してみたい、とそこらあたりの見当をつけている。(次回から)

日本の言語学からもその起源について面白い発見があるかもしれないので、

あたってみる。

今のところ、次の本が資料である。

 「言葉と病い」    豊水武盛・著       (言語学と精神分析)
 「神々の沈黙」   ジュリアン・ジェインズ・著 (古代文明への多彩な認識から)
 「身体感覚で論語を
      読み直す」 安田登・著        (漢字の成立)
 「心の起源」     木下清一郎・著 中公新書 (生物学的見地)
 「意識の川をゆく」 オリヴァ―・サックス・著  (心理学者の晩年の感想) 

 ここで疑問が出れば、カントの純粋理性批判に赴くのかもしれないが、

 それはまた古代に近くもどってくる時の次回に、となる。

前回端折った”問題への誤った姿勢”について。

くり返すが、問題を前にすると僕らはすぐに答えを求める癖がある。試験、

試験で苦しめられた後遺症かもしれない。(笑)

数的、数学的、論理的、論理的抽象のそれぞれの問題は、純粋に頭の問題である。

僕らが主に悩まされるのは、そうではない。人間関係、恋の悩み、子どものしつけ

とか、思うようにいかないこと、不倫、パワハラとか現代問題への応対がわから

ないとか、いじめ、不登校など病気についても何をどうしたら、はては何を信頼

したらいいか、etc これらの尽きない悩みは、ほぼ心の問題だ。

まず僕らは問題そのものがわからない。苦しみを気持ちで捉えているだけで、

問題が正確になにとなに、どれとどれがどうなっているかがわからない。それは

問題が見えていないことを示している。当然、問題を説明できない。ルールとか

常識?で多くは相手が悪いとか、わかっていないから悔しい、ということに。

悩むというのは基本、僕らが問題を誤解していることから起こる。問題が見え

ていないことから誤解が生じて、誤った判断をするので、どうにもできない、

どうにもできなくなると思い込み、悩むのだ。

だから、答えは問題そのもので、通常はその中にある。社会的問題でも第三者が

必要とされるのは、この問題がどういう問題かを冷静に調べる必要があるからだ。

僕らの個人的問題もその点は変わらない。

正しい姿勢は、その問題そのものを検証することに尽きる。まずそれを前において

いつから、どのように起こったのか、どうしてそうなったのか、自分で記憶と

その時の相手やものの気持ちの動きを考慮しながら、どういう経過を辿ったのか、

ひとつひとつ思い出す必要がある。人には人の意外なこだわりや考えがあるから

自分の気持からだけ考えていては、それは自分のプライドを忖度しているだけで

一向に相手の実情に辿りつかない。

数時間考えてもわからなかったら、翌日考え直す。それでダメなら相手と話すのが

いいのだが、それはできない事情であることも多い。

半分以上答えが見つかるのは、自分の考える習慣を打ち破るしかない。問題を

見つめるだけで、その時々で気持ちを入れないで、考えを入れないで、つまり

感情的にならず、すぐに答えを見つけようとしないで、問題事項と対峙する。

黙って、退屈なままそれでも問題を注視する姿勢。(ひとりになれる静かな時間・

場所のこと)

これは実施して慣れればいいことで、今、それでなにがわかるの?とか

聞くことが、もう違反である。焦りだ。最初は時間がかかる気がするが、慣れる

と、問題から答えが出てくるようになる。この不思議も体験して納得する。

これですべてではない。肝心のことは答えをどう応用して行動・行為にして

解決への方法に結びつけるか、である。

友人と話をするのも、その沈坐という準備を終えてからでないと、友人の考えに

振り回される恐れがある。あなたがなにかそういう頼りになるものを、すでに求め

ているから。

苦境の時に教会の看板を偶然見て、キリスト信者になる人もいる。信仰の道も

あるにはあるが、逃げる形で入信するのは、歪んだ結果をもたらすことになる。

友人も宗教も、あなたを知らない。それらはあなたではないから。少しずつでも

問題への正しい姿勢を取れるようにならなければ、偶然取った箸でどんな料理にも

対峙してしまう。スープが出て来ても、箸でなめるだろう。これが私の役目だとか

誤魔化して。あなたの問題は、実はあなたが一番よく知っている。それを見れば

いいだけなのだが ・・・。


:-というところで。
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