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こころとは何か :概知の新天地に迷い込んだ、探る その8. [思考]

心はいつ生れたのか? と、言葉は簡単だが、僕は「いつ」が知りたいのだが

それよりも問題なのが「心」だという次第になってきた。なにを「心」だと

捉えることがそもそもはっきりしない。

僕らはこころがあるのを知っているし、直に触れていると感じている。楽しい

のも悲しいのも、心があってのことだ、と。僕らは心を所有しているはずなの

に、むしろ所属しているだけであって、所有物のように自由に扱えない。

命令されるわけではないが、1時1分からは楽しく、1時2分からは悲しく

というようには、心を変えられない。気持ちは時間を必要とするし、それは

頭で切り替えても必ずあとでその気持ちの反動があって、完全に切り替え

られたわけではない。

こころは古代ギリシアとかの昔は腸や腹のことだったらしく、ギリシア語の

原語はそれを使っているらしい。それから胸に移ったのだろうか?それも

変な話で、なにか理由があるのかもしれない。

ともかく調べていると、生物学的に、漢字発生では、進化の過程では、と

その専門分野に引き寄せて専門家の意見があるので、逆に信用できない。

それは僕が泌尿器科の持病で病院に行った時に、ちょうど泌尿器科は休み

の日で、代わりに大腸科の先生が診察に当たって、泌尿器科の検査を

まったく無視した。その上、便が止められているから、腹に穴を開けて

排出する手術を言いだした。持病だから、そのことを言うと、超音波の検査

を加えた。それで僕の言う持病がわかった。

つまり、手術などはまったくの誤診だったのだ。一言の謝罪もない。人の

腹を開けようとして、それが誤りだとわかったにも関わらず、患者に

教えてもらったにも関わらず。ああ、医者は当てにならない、といつも

ながら思った。専門分野以外で診断を考えられないのだ。(6年前)

そういう経験をしているので、本に書かれているからと、その筋の権威でも

おいそれと専門家の意見でもすぐには信用する気にならない。

法律でもそうだが、その大まかなことがわかっていないと、弁護士に何を

どう質問するかもわからない。そういう状態で裁判に臨んでも、相手方が

内密でこちらの弁護士を懐柔してしてしまうことがあるのを、親戚の離婚

事態で経験した。

ともかく、自分でおおまかにでも判断できないことを専門家に頼んでも

あまり、いい結果は期待できない、と思うようになった。法律は、だから

事態をどう考えようとするかは、刑事法と民事法ではどう対応が違う

ということからも、僕らの常識ではないその考え方はわかるようになった。

そこで「こころ」だが、それがあまりにふつうにわかっているものと、自分

でも使っていたので、実際にこの問題にぶつかると、意外に難しいと

知った。こころの定義が、自分の中にはない、と知った。なんとなく使って

いた言葉だった。

残念なのは、ここである一定の水準の自分で納得できる答えを出さないと、

まったく専門家の意見を判断できない、ということだ。腹に穴を開けられて

はたまらない。(笑)


こころとは何だろう。

今の形は脳による”思考”、その世界である”精神”。それと古くからの”感情”中枢。

それが人それぞれで分かりにくいように、さらに”感覚”の違いはわかりにくい。

”直感”は僕は、それは思考・感情・感覚などのように(厳密には区切りは

見いだせないが)一分野というものではなく、記憶を中心に思考が補佐

して、感情や感覚と組み合わさって、一種の飛躍・昇華を行うものだろう。

思考が思考の飛躍を行うと、直感が直観という字に変わるのかもしれない。

こころには眼に見える形も、機械によって見る形(映像)も見出されて

いない。どうにも捉えどころがないものだ。

なので、どうなってそれがあるように意識されたのか、また、意識とこころ

はどう違うのか。または意識は心の部分なのか、その反対か。違うとしたら、

その発生はどちらが先に発生したのかも問題視されるだろう。

ま、ここらでお手上げなのだ。本を読んでも調べても、まるで無駄にはなら

ないだろうし、ヒントは拾える、と思うようにしても。

半世紀もただ心を使うだけではなく、内面を探っても来たので、なにも

手掛かりがない、というわけでもない。が、思ったよりは面倒な作業で、

今のところ、なかば、答えが自然に思い浮かぶのを待つより、手はない。

なかば、自然(環境)との交流で刺激があるはずだ。

でも、実はほんとうにわからないものを探す時は、手探りで、霧の中を探る

というのが正解な方法なのだ。なぜなら、それはたぶん、まだ誰も発見して

いないからだ。それは新しく見つけ出す必要がある。本に書いてあるはずが

ない。あれば、もう確定な説として、今さら考えることもないから。

本は資料として使うのに価値がある。答えは期待できない。


「心の発生」をテーマに進んできたつもりだったが、ここで一番大きな

障害が立ちあがった、という報告になってしまった。つまり、これの

ほんとうにある真実は、これはどんなに変に思えようと、

答えは眼の前にある、ということだ。

ニュートンのリンゴの木はどこにもあったはずだ。でも、万有引力の発想

はニュートンに生れた、というように。

なので、自然(環境)に出て行くのには相当の理由がある。僕らの日常は

すべて人工、という答えに囲まれている。眼の前のパソコンもスマホも、いや

鉛筆から消しゴムまで、なにからなにまで人がこういう物があったら、とか

こういう便利さやサービスがあったらいい、として出来上がって来たもので、

つまり生活のための答えがすべての加工品・人工物なのだ。答えには

すでに目的からの結果しかない。歩いても、何しても、何を見ても街や都会

という答えばかりだ。だから、自然という人間のために生れたのではない、

人工の少ない、太古から存在して来た環境からのほうが、新しい答えは見つけ

やすい。考えてみれば、簡単なことだった。

僕らはいつも古い答えに囲まれて、古さの中で新しいことを見つけようとして

いる。あなたは75億人分の1で最先端なのに、そんな古さの中に答えがあると、

思えるのだろうか。

基本的な考え方や気持ちや原則さえも、取り払わないと眼の前に気づか

ないのは、そういうことで、知らない間に1000年単位の祖先から、親から

洗脳されているのが僕らではないだろうか。そうすると、ここにも心の発生を

知る必要が生まれている、と思えたりするのだが ・・・・。
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Hide

また寝られなくなるが・・・
心に言葉は必要ない・・・か?おやすみ・・・
by Hide (2019-04-15 03:16) 

ようしゅう

いつも飛躍したことを喋っています、陽秋です。
僕の期待でも、意図でもないのですが、心に混乱を
招いてもおかしいことではありません。
僕自身が迷いが好きなので、どんどん追及する過程
にあるっちゅうわけです。これから具体的になってきますが、
そうなると面白くなると思います。
期待しないで、ご期待を?!
by ようしゅう (2019-04-16 17:53) 

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