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僕の心の奥底には穴があった [日記・思考]

このところ人に会う機会が多い。と言っても、機会をつくっているのは

僕だ。気になる人にはやたら、会いたがる。どうしてこうなるか、今日も

埼玉県まで出かけて、帰って来てみてから、わかった気がする。

人探しをしているらしい。これについては秘密主義でまだ話せない。

自分のしたがっていることが、願望と言おうか、明確になってきたようだ。

また少し、じっとしてみようと思った。目的がわかったのでこちらから

動くのではなく、そういう人に出て来てもらえばいい。

時間もまだたっぷりあるようだ。

それには自分がそれについての準備をもっと整えておくに限る。これを

先を急いでもいざという時に、準備がまだ不足と気づくのでは遅い。

今日はそれに気づくお出かけだった。うなぎをごちそうになった。


何がどうというのではないが、だんだんピースがはまっていって、ひとつ

の絵をそこに浮かび上がらせ、見せてくれるという、そういう感じがする。

こういう感じは10年以上前の日々ではなかったものだ。そこではなにを

するか考えることは、それのための計画を作成することで、いついつまで

にというところから逆算して、では一カ月でどれだけ仕事量をこなすか、

一か月でどれだけ進ませなければならないか、ということばかりをして

いた。完璧主義の誤算には気づいていたので、計画は大雑把になって

いたが、そういう柱の必要は感じていた。

それでその頃は書くのに大変な苦労をしていた。結論ありき、ということ

からはそれまでの文章はその結論のための構成や組み立ての部分になる

から、書いては書きなおす、というのをくり返していた。それで疲れて

しまって、書く仕事は向いていない、と感じていた。それでもその中で

文章を考えることで、たくさん書くことで得られたものは多かった、と

思う。しかし、時間は過大にかかった。

それまでにも、(この10年は除いて)瞑想はしていて、それが何かは

わかったので、マラソンのようなスポーツの日課としてするようなこと

でもないのも知っていた。心を落ちつけるのに効果があるが、それは単に

心身の健康効果であって、瞑想とは無関係だ。瞑想は訓練とか習慣とか

技術というものから、まったく離れてしまうことだ。手探りしてもいけない。

では、なにもできないではないか。それ、正解である。坐って、無になる。

なにかが来たり、起こると、わずかでも期待してもいけない。


この世であてになるものがなにもない、という意見はなかなか受け入れ

られる意見ではない。が、僕はそれを信じているし、そうならざるを

得ない経験を踏まえた結果として、そうなった。なので、それは当然の

ふつうに事実なので、僕の個人的意見ではないと思っている。

でも、英語しか知らない人に日本語で語っても理解はされないように、

それを理解してもらうのはたやすくない。初めは不可能だと思っていた。

それでも、ノーベル賞学者の物理学の朝永振一郎さんが、随筆で物理学

の教科書では一部の整合性があるところだけ取り出して、全体でも整合的な

ものだという書き方をしているが、整合していない部分は見捨てられて、

書かれていない、という教科書のおかしさを語っていたので、それから

この世を構成している数学や科学が、僕らが教わったものとはほんとは

違って、それほど整合なものではないと様々、調べて行くうちにわかった。

そうしているうちにも、それが内容もそうかは読んでいないが「世の中の

99%は仮説」とかの本も出ていた。(それはそれを読んで論証しなければ

なにが書いてあるか、とは言えないが)

また、その論証も究極では微妙でもある。数学で有名な学者が「数学こそが

無矛盾性の完全真理である」、という証明をしようではないか、と世の数学

者に提出した論文があった。そして、その考える命題を与えたのであるが、

ゲーデルという天才数学者が完全性は証明することが不可能であるという

「不完全性定理」という論文を書いて、数学の完全性を打ち破ってしまった。

それは数学は自分で自分の完全は証明できないというものらしいが、その

定理の理解は難しいらしく、論理哲学では天才のウィトゲンシュタインでも

その理解には誤解があったと説明されている。天才が誤解するほどの定理を

一体誰がほんとうに理解するのか、それを誰が判断できるのかと僕は思うの

だが、そこら辺りが微妙なところだ。


こうして世の中の秩序に見えていたものが瓦解してしまうと、頼るものが

無くなってしまうのが困ったことだった。瞑想の奥には無意識がある。

たまにそれに遭遇しても、瞑想の形はそれを受け入れる準備をするために

静かに坐る、というものでそれをすれば結果が得られるというものではない。

ところが、あるきっかけがあって、無意識に飛び込んで、すぐ帰って来よう

という実験をしたことがあった。その時は瞑想が適ったので、心の底に

それらが出てくる穴のような(感覚のもの)があるのがわかった。

それは未知で、危険なゾーンに思えた。が、世の中の羅針盤を求めていた

僕は、他に頼りになるものがないように思った。そこに生活の指針を求める

ということさえ、どういうことか判然とはしなかったが、その窮地に活を

求める、と決意した。ただ、他にないからという、脆弱な動機ではあった

が・・・。

最も予想して危機を感じたのは、死なないまでも精神が壊れてしまうのでは、

というものだった。僕は9年前にこれに成功して、生還した。と言うのも

大げさであるが、当時は冗談ではなかった。

ともかくも、そこから次第に自分の考えに左右されずに、自分の考えを

自在に書けるようになって行った。考えの依るところを気にしないように

なって、自由に意見や感想が楽に出せるようになった。これも肝心の

経過の具体な説明を省いてしまっているので、理解しづらいところだ。


世の中が壊れる、という表現はそれまで社会秩序というものがしっかり

したものだと思っていたのが、実は違っていたと決定的に知った時に

起こるもので、それは自分の心に起きる現象だ。社会は依然として

いい加減なままに、いい加減な社会としてはじめから、そしてこれ

からも、そこにある。だいじょうぶだ。

僕らが死と見ている、思っているものはそれは死の世界でもなければ、

死そのものでもない。死を含んで、それ以上のものであるが、それは

あの世とかを含んでいないと、僕には自分の経験に依るものから推定

すると、そう見える。今はまだ、それについて議論をするのは早すぎて、

TVタックルの宇宙人は地球にすでに潜伏しているか、みたいな議論に

なってしまう。

これは動物の、人間にはない感覚が発見されてから、というように

或る別な未知の感覚が映し出すものが伴わないと、それについて話す

ことはできないと思っている。


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