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コロナに近づきたい朝もある [コロナ]

朝の5時。 

ブログを書くことが、この時間、どういうことなのか、今いち 

わからない。 書いていて、徹夜になってしまったのは、幾度も 

経験しているが、書き始めるのが、寝れない夜明けという  

パターンは寝たくても寝れない、珈琲を飲んでしまったもどかしい  

眠気を感じる。 ま、どうでもいいことだ。  



日本の精神の中心に入れるものなら入りたいのだが、それらしい  

状況がどうにも、ない。それがあれば、直接それを手繰れば、なに 

かしら手ごたえを拾えるのだが、”ない”のだ。 ひとつ浮かんだのは、 

大和魂と日本文化にはどこか共通点がある。それは軍人の言う 

「大和魂」でもなく、庶民の「日本文化」でもない、という気がする。ただ 

それぞれのその個性を外してしまって、庶民の生活に根差してしまった 

習慣・習俗には軍国ではない「大和魂」の残りと、見たままの日本文化 

ではない庶民文化・習俗の残りとに、共通になるヒントがあるようだ、 

と考えた。  

それはヒントとしてあるのではなく、それがヒントだと気づくこちら側の 

気づきが必要なことで、見たり、聴いたり、読んだりでそれが直接  

教えてくれるわけではない。 例えば、町工場の金型工場にその 

職人魂とやらが残っているかもしれない。旋盤工場や金型工場には  

なぜか同じ職場の精神的匂いがする。例えば、である。 

また外人が日本の盆栽や漆工芸に魅入られて、弟子入りしに日本を  

訪れ、中には3か月で習得して帰国するつもりが、結局20年も修行 

しなければならなかった、という人もいる。彼らはその日本工芸の  

魅力を直接話すことができるに違いない。輪島は漆で有名だが、  

その昔、漆はJapan と呼ばれていたほど日本の代表的なものだった。  

今は伝統にあぐらをかいて、時代に追い越されて、衰退の一途にある。  

そこらあたりは外人にも聞きたい。 思いついたのは、まだそれだけで 

健やかな形になるかどうかもわからない、モヤのようなものだ。 



ともかく、文化人の書いた日本論とかの記述がそういうヒントには  

ならないだろう、という(なんとはなしの)直感があるだけだ。  

それは作家・評論家などが日本に押しつけた泥ダンゴのような 

もので、調べて、洗っても、ただ崩れてもとの土に戻ってしまうだけ、 

せっかくの自分の考え・直感が泥に汚れてしまうだけ、ヒントを拾う 

のに一番苦労する方法だと、「自然に」考えてしまうのだ。  

「日本論」などと表題を自分でつけづらい、つけられないものが 

世間という巷から掘り出せれば、それこそが成功に近づけたことで、 

少しはまともなものが書けたと言えるのではないか。いささか  

逆説的で、あまのじゃくに聞こえる言い方かもしれないが、それが 

ようやっと出て来た”日本”の兆しであってみるならば、それも  

致し方なしと思うゆえんである。 



街に出たい。東京を歩きたい。 今は叶わぬ望みだ。  

コロナに近づいて、日本の匂いを感じたいが、今は地方で回り道が 

必要なのかもしれない。平成25年のように、東京上野の博物館で、 

明日から始まるというおよそ60年ごとの出雲大社大遷宮がある、 

というポスターに出会えると楽なんだが ・・・。 

まだまだ来年以降の、先の話なのだろう。  



*コロナが自粛で完全に終息することは、あり得ない。  

第2波、第3波が来なかった感染症の例は歴史上、ない。 

だから、2年、3年続くのが、当たり前。ワクチンはコロナと  

共存しましょう、というお互いを守る妥協策で、コロナの  

解決策ではない。インフルエンザが今も流行するように。 

東京200人超えるな、と4日前だかにメールを送ったところ。  

なので、例えばそれが400人、1000人に増えても驚くような 

ことじゃないんです。恐れることじゃないんです。 

それがコロナの現在です。


( 7.10 に、別ブログで載せたもの、もう十日前になってしまった)
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