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30分の、短い独言 (自分の正体) [自分]

Stance は3~4の意味がある言葉だが、どれも当てはまるという 

ことでは、スタンスに替わる言葉はない。それはそもそもの僕の 

スタンスを示す。  この世について解題しようと決めたのは、いつ 

のことだったろう。そう遠い昔ではない。だが、それがはっきりしない 

のは、「自分の内側で構築されていくことから反射されること」を描く 

ことと、自分が皆の誤解の迷妄の中に導かれ、それがなにか視界に 

現れる時、逆に自分が照らし出されるのには、気づいていないことだ。

それは年単位での出来事で、姿を現した。今はその人混みの中で 

掻き分けて進もうとしていたが、急に視界がよくなって、過去に 

引き戻された。 

そのことで打ちのめされるような過去に見舞われたのではないが、 

そこで自分の元々のスタンスを思い出し、むしろ、呼び覚まされる気が 

するのだ。と言っても、個人的な内面のことなので、説明が説明に 

ならないのはしかたない。 


やはり、人混みを気にしていては進めない。また自分のスタンスを 

取って、律儀に構えるべきだ。だからと言って、以前と同じような 

ものにはならないだろう。  

またもとに戻るだけだ。それはパターンのことで十全に元に戻るのは 

不可能で、つまりできないことだから、そこは明日のこと。明日は 

明日に考えればいい。 

皆がわかっている(と思っている)ことを、今まで使われてきた平坦な 

言葉ではただくり返し、もう録音済みの言葉が鳴るだけだ。皆が 

自分で解釈してきたように、すぐに理解した気になり、その中身を 

反省もなく聞き捨ててしまう。そこで今までとは違う意味合いから 

焦点を当てたり、違う雰囲気から醸造したり、見る角度が違うと 

どうなるか示したり、とやる。それは気づいてもらうためで、答えや 

僕の意見を言うためではない。 

そんなもので埒があくのなら、誰も苦労しないだろう。何度気が 

ついてもらえれば、それを実行するだろうか、ということも気にできない。 

それが確かにできるのなら、セラピストにでもなって努力したほう 

が成果が見込めていいはずだ。 

祖父は医者だったので自分にその素質があるのは、クリニックの 

世話人仕事で経験したが、医者などの福祉方面は自分の仕事では 

ないとわかった。なぜわかったかはわからないのだが、はじめから  

そうだと、その時その場で確信した。 

例えば、あなたが好きだ、理由はわからないが、好きなのは確かだ 

ということに、よく似ている。 

僕は自分が医者にはならないと知っている、そういう自分だ、と。 

もう少し、理屈をこねたくなってきた。 「我、思うゆえに我、あり」 

とはデカルトのコギトとして有名だが、その逆バージョンは 

「我、何も思わず、そこには我なし」となるだろう。  

僕らの常識は朝、目が覚めて世界は存在している。だから、僕が 

いなくなっても世界は存在し続けるだろう。だから、僕が自分を 

思うことは、自分が存在していることの証明のようなものだ、と。 

そのことは「思う」ということがポイントになっている。 自分という 

中味には体という物質だけではなく、そこから派生する心も 

存在する。しかし、体は心が従わなくても、ケガで傷を負うと

痛い。血が出ると、勝手に痛い。体には体の秩序があって 

脳に報告する。心が痛いと思うから、血を見て痛いのではない。 

そこが面倒。

ダーウィンの進化説が基本、ほんとうなら類人猿の前は動物 

としての猿から分化が始まったのだろう。(ちなみに、USAで 

2001年ごろ、世論調査を行ったところ、進化論を信じると 

答えた人は40%だったそうだ。他の人は相変わらず、聖書 

を信じ、神が人間をこさえたもうたものなのだ。州によっては 

学校で進化論を教えないのも、納得がゆく。これが欧米の 

内奥の心理・心情で日本人の独特な道徳感からは理解し 

がたい。北極にも近いアイスランドだったか、地下の温泉を掘る 

のには国の許可がいる。途中の地中に妖精が住んでいないか、 

調査する必要があるからだ。法律で定められていて、ちゃんと 

妖精省みたいな役所もある。これも理解しがたい。だから、 

習近平が・・・余談、略 ) 

話が長く、端折ろう。動物が自分を認識するだろうか?猿は 

鏡に写った自分を「自分」とは認識しない。いろいろやって 

相手が無害の動く存在とわかって気にしなくなるが、それを 

「自分」とは認識したか、疑わしい。それで人間から認識する 

心が生まれたことがわかる。心の前に体があった。 

人間が地球上からいなくなっても、世界は存在しても、人間の  

心は物質的には存在しない。だから、自然状態では「自分」 

は存在しないことがわかる。つまり、人間だけが自分が 

存在していると、思っている。確かに、それは知性から生まれた。 

それで認識力としての知性がない状態では、僕らは自分を特定 

することができない。重度の狂気の状態も同じだろう。 

動物が狂気の状態ではないのは、明らかだから、「自分」は 

知によって(仮想として、想像として、概念として)心に作られた 

ものだとわかる。その仮想の意味で「コギト」は正しい、とわかる  

が、それなら、その反対命題の「我、何も思わず、そこには我なし」 

も正しい、というのがわかる。仮想や想像なら、なんでもアリ、だ 

からだ。


では、自分とは何か?それは知がこさえた、僕らの社会的な属性、 

というものだ。名前とか、性別とか、癖とか、出身校とか、鼻が曲がって 

いるとか、いないとか、いくら年収があるとか、会社や役所で出世した 

とか、プライドが知の裏にいるから、他の自分への評判に関わるもの 

すべてが気になるのが自分で、あらゆる人間の性格や表情の形容詞・ 

名詞、社会的状況を固有に集めたものだ。 

問題は、「自分とか自分らしさ」が「人間として本質のものではない」と 

しっかり自覚できるかどうか、ということ。

僕らはその点が、ほぼあいまいなのだ。批判ではなく、気づいて 

ほしいのだ。  自分のそういう属性を全部、嫌というほど確認する 

なら、それがたぶん、90%以上になったら、自然に弾ける。 

その時、自分の=その人のあり方が登場することになる。  

これは予言ではなくて、そういうものだからだ。しかし、単純には 

行かないかもしれない。やはり、途中の壁があるから。襲い来る 

どんな自己嫌悪(その時、世間を恨み、批判し、他人は汚い人間 

に見えて、嫌悪するが実際は深層心理の闇のことで、日常の僕ら 

には関係なく、濡れ衣だが)にも耐えて、その先の自己を認めて 

肯定までこぎ着けなければ、ほんとうに自分を好きにはならない 

だろう。 

それは世界(世間とかいろいろな)に対して態度が変わる、ことを 

意味する。それは自分の人生が変わることだ。もしも、変えたいと 

思うなら、の話だが ・・。 


30分以上、時間を取ってしまった。


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