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柳宗悦の眼 僕の眼 [眼]

一昨日、蒐集物語という文庫本を手に入れた。 

著者は柳宗悦で、読みは「そうえつ」で通っているが、 

ほんとうは「むねよし」だとのこと。 

字ズラの古めかしさから、風神雷神図を描いた俵屋宗達とか、 

蒔絵で有名な尾形光琳とかの、江戸時代の工芸家・芸術家 

ではないか、と想像して購入したのだが、違った。明治の 

文芸の雑誌「白樺」を発刊した、武者小路実篤、志賀直哉

などの仲間で、夏目漱石の時代だった。民芸運動の創始者 

だと。 

ちょっとパラパラめくってみると、僕が最近、ブログで見ること 

が大事(基本)、といったことを遠回しでなく、率直に書いている 

のでわかりやすい。 

これなら、これを解説すれば、僕の用は済んでしまうので、 

早速、眼について語ろう::  (ほぼ引用で済んでしまう)


宗悦は日本の美を(李朝の陶器も)受け継いで、蒐集して 

日本民芸館を興した。あの人、日本の芸術家を育て、茶の本 

を書いて世界に紹介した岡倉天心に位置が似ているようで 

ある。総合的には、近代日本思想大系の24巻が柳宗悦で 

あるが、その1冊を読めばいいだろう。 

前置きすることは山ほどあるが、引用も長くなるので急ぐ。 

柳宗悦と僕の出発点は同じである。ただ、彼はまったく 

最初からひとりだったらしい。僕には、小林秀雄の「私の 

人生観」の画家についての言葉で直感して、「近代絵画」 

を読んで自分も絵を見ることを学ぼうと思い、その先は 

独学、というよりひとり美術館通いをして、絵に向き合った。

まずは、「近代日本思想大系24」から::


「<工芸美論の先駆者に就いて> 

私は私の工芸美に関する思想に於いて極めて孤独である。 

幸か不幸か私は先人に負う所が殆どない。私は目前に 

ある驚くべき工芸品彼等自身から直接教えを受けたので 

ある。そうして親しい数人の友達のみが、私の近くに温かく 

想い起されるだけである。私は今日まで工芸美に関する 

正しい著作に廻り逢った経験を有たない。私の前には 

私の見解と縁遠き幾多の本が思い出されるばかりである。 

 私は私の思想を凡て私の直観と内容との上に築くこと 

を余儀なくされた。その結果一般の見解との渡り難い間隔 

が一層意識せられた。私が観じて最も美しいとするものは、 

却って史家が最も無視する分野に属する。そうして史上に 

高い位置を占めるものに、私が美を見出す場合は却って 

少ない。私の工芸に関する見解は、従って一つの価値 

傾倒を一般に向かって要求する。かかる場合私の思想の 

上にふりかかる命数として、私は恐らく正しい読者を将来 

に待たなければならないだろう。 

 だが一つの結論に到達し得た今日、工芸美に関する 

過去の思想史を省みて、私は私に先んじて、二種類の 

先駆者があったことを気付かないわけにいかぬ。 

(2行略) 

一つはあのラスキン、モリスの思想であり、一つは初代 

茶人達の鑑賞である。」 


ラスキンもモリスも社会思想家でもあり、また美術に一家言 

を持っていた。ラスキンには「近代画家論」・「芸術経済論」 

があり、モリスは「民衆の芸術」、 「社会主義その成長と 

帰結」(共著)があり、伝記も論説も、その行動も興味深い 

が、次に進む::  以下は<民藝館の蒐集>から。


「 九 

 それではどうして他人が今まで認めないものを認める 

に至ったのか。匿れているものをどうして見つけ出すのか。 

この問いへの答えは実に簡単なのである。別に秘訣 

などは少しもない。ただ物をじかに見さえすれば、それで 

よいのである。それ以外に何ものもない。この何ものも 

ないということが、秘訣といえば秘訣である。* 」 


ここに僕が目の前を見さえすればいい、と言ってきた 

ことが言われている。続いて、「考えずに見る」という 

ことがうまく説明されている。 ::

「*
 物をじかに見るというのは、見る眼と見られる物との間 

に何ものをも介在させないという意味である。知識だとか 

文献だとか評判だとか主義だとか、そんなものを一切 

二の次に回して、じかに物を見ればよいのである。 

残念にも多くの人々は物を見る時、大概は概念を先に 

働かせてしまう。しかしそれだと、その概念に合うもの 

以外は見えなくなってしまう。概念は謂わば色眼鏡の 

ようなもので、じかには物を映さない。最初から一定の 

枠を作って、その中に物を嵌めて眺めてしまう。うまく 

嵌まるとそれで分かったと思うし、嵌まらないと棄てて 

しまう。それ故、物をじかに見るのではなく、概念に 

包んだものを見ているに過ぎなくなる。それでは物 

の真の姿は現れて来ない。 

 例えば様式に便ったり、銘を大事がったり、世評に 

引きずられたりして眺める。そのため様式に当嵌まら 

無かったり、銘が無かったり、評判を聞かなかったり 

すると、てんで見ようともしない。それ故、物を見ている 

というよりも、様式だけを見たり、銘ばかりを尊重したり、 

評判のみを気にしたりして、肝心の物そのものを見ない 

という愚かな行為に落ちてしまう。」  



この後で、「恐らくは自分に眼力がないと、何かに便ら 

ねば不安なのであろう。持ち出す概念(=考え*陽秋)は 

謂わば便り所なのである。」と批判が続く。 

この「眼力」については僕は違う見方をしている。眼力は 

出来上がるものだが、初めから必要ではないだろう。 

ただ見る、という「無心に見ること」に慣れることが必要 

なのだ。もし、眼力に相当するものがあるのなら、それは 

個々人の感受性によるものだと思う。 その土台の差に 

よって出来上がる眼力も差が生じると考えられる。 

明治の時代でそう批判されることなのだから、現代は 

それから百五十年も経っている。僕らは「無心に」に 

ついても工夫を学んで、「見る」については忍耐を 

強いられるようになってしまったのかもしれない。 

見ることはどんな教科書にも載ったことはないだろう。 

美の問題は見るだけではない、混濁した問題も 

含まれているから。しかし、その前に、宗悦の論を 

締めくくろう。:: 

「一 一 

 直観を「新鮮な印象」と説いてもよい。純粋に直観を 

働かそうとするなら、物から新鮮な印象を受け得る位置 

に自分を置けばよい。それ故印象を曇らせたり、また 

曖昧にさせたりするような立場を取ってはいけない。概念 

を先に働かすのが大きな邪魔となるのは、これが印象を 

凝固させるからである。受け取るものは印象ではなくして 

寧ろ知識になってしまう。知識で受取ると、物はじかに 

その姿を見せてくれない。知識はどこまでも間接的である。 

見ることと知ることとはいたく違う。 

 それ故物を見るには、こちらの心を純粋に混じり気のない 

ものにしておかねばならない。前にも述べた通り、素直に 

受取る心を用意すればよい。小さな自分を持出さず、充分 

受動的な心を養うのがよい。一つの塵もなければ、それ 

だけ物は鏡によく映る。充分受入れるが故に直観が自由に 

働くのである。思想などを振りかざすのは禁物である。 

それは印象を拘束してしまう。物を見るには、知識はどこ 

までも遠慮深くあってよい。

第一印象は何につけても大切である。  (2行略) 

直観の世界には躊躇ということがない筈である。(3行略)

鮮明な印象は確実な印象である。直観は常に即刻である。 

即刻であればあるほど確実さを伴う。(1行略) 

逡巡は直観の行いではない。純粋の直観に時間的な 

逡巡(ためら)いはない。それは即時に的確なのである。 

ここに何ものにも換えられぬ直観の意義があると思える。 」


この人は感覚型の人らしい。直観の意義はそれで間違い 

ないが、ためらいは直観が曇っているので、直観は常に 

正しいという言い方は言い過ぎに思える。もちろん、宗悦 

さんは無私の精神においての直観のことを言っているの 

であって、直観を間違えるのは、僕らがそれを受けたまま 

ではなくて、一瞬でも考えてしまうことから来るものだ。 

微妙な修正だが、僕らには直観を100%正しく判断する 

ほどには、いつも日常が無心であるわけではない。 

さて、前記の問題だが、「見る」についての経験やその 

考え方は、僕は宗さんと同じだが、相手は「美」である。 

その経験と考えが同じであるなら、僕は宗さんが愛した 

数多の工芸品を眺め、見極めて、僕もそれを愛する 

ようになるだろうか、というのが本筋の問題だ。

それは何とも言えない、というのが答えだ。 

好きになるものもあるかもしれないし、まるで興味を 

惹かれないかもしれない、というのが本当のところだ。 

まず、眼球の問題を無視しよう。例えば、青い眼の人 

と我々日本人の黒い眼では集光率が違うのか、同じ 

色を見ても、淡白に見えたり、どぎつかったりする。 

そういうわずかな受け取り方の違いをまず、無視して 

考えよう。 

また例えば、男が好む女のタイプが驚くほど違うように、 

美に対しては驚くほど僕ら自身の好み・センスが 

それを美しく感じるか、感じないかに関係してくる。 

僕は絵に関しては、独特の眼力を持っているが、 

陶器については不十分だという意識があって、 

宗さんの趣味にどれほど共感して、納得するかは 

ふつうに自信が持てない。むしろ、僕自身の好みが 

その物を決定するだろうと思っている。 美は人に 

よってそれぞれ表情を変えるものだというのが、 

僕の感想だ。眼力を持ってもそれは変わらない。 

湯呑に夢中だったのが、十年もして突然、日本画 

に目覚めて、絵ばかり見ている、となってしまうのも 

よく似た実例がある。だから、今でも真贋について 

の曖昧な問題が論じられる。 

だから、見るについて、その理由について逡巡して 

いるのは無駄な話なのだ。物を正しく見る、という 

のもつまりは死活の問題だろう。考えないためには 

認識=知を眠らせ、知を眠らせることは自分を起こ 

さないことでもある。ゲームという刺激に生活するの 

ではなく、それを刺激を無くしてその物が見えるまで、 

見ることなのだから。 

見えてからが楽しいのだが、始めは相手(物)から 

やって来て出逢うものもあるだろう。

美とはそんなものなんだろう。 

僕には女性への一目惚れが直観だとは、到底思え 

ないが ・・・。(そこが美と女の違いだろうか?笑) 

人生に美の世界を加えて、生きる楽しさを倍にした 

ければ、柳宗悦の本を読んだ後は「物を見る」といい。


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