SSブログ

空腹を振り切れない [シンクロ]

ここに坐るのはなにかを始めることではなかった。 

そう思うのだが、それは自分の意志を持って始める、

という意識がなかったせいでもある。だから、いつも

思うのは何かが起きる、という僕の未知数への期待

だった。

今、眠れなくて、心はそれを期待したのだが、ただ

ポカンとしてしまって、自動書記ではないが、そんな

ものが始まる、という気配が感じられない。

なにかをもって始まるのではないが、なにをもって

始められるのか、そういうことがまったく自分には

わかっていないことが露見した。それは瞑想のため

に坐っても心が騒ぐばかりで、空白になれない、

瞑想を迎える準備が取れない、とそういったこと

だろう。

深夜だが、部屋の蛍光灯は点かない。(明日)昼間、やはり

LED照明を買いに行かなければならないのか、と考え

ている。

珍しく、書けない、という空白が続く。

書けない。

なにも入ってこない。

ふつうに日常的な充実感があり、軽い満足感がある。

気分が悪いほうが書けるのではないか、とまで考える。

と言っても、悪くはなりたくないが。

現実にここにいるという感覚が、不思議に今まで感じて

来た、「ここにいない」ということだとわかる。

ここで言いたくなかったことが急にわかる、それは

僕がいよいよそれに対して死ぬのではないか、潜在意識

の何かは知らないが、それと没交渉になるのではないか、

ということだろう。

いよいよ、・・・・・・・・・・いよいよだ。

不思議なシンクロがなくなってしまうとは思えない、と

感じているのがかえって不思議だが、僕がそれに自由に

入れるということは無くなってしまうのかもしれない。

まだ、蛍光灯は点かない。代わりにLEDスタンドを持って

来ている。今、試しに4回目の点灯を試みたら、点いた。

ここまで30分間、点かなかったことになる。

気まぐれだ。自分が気まぐれだから、迷惑だと考える

ことはなかったが、なるほど迷惑だ。 (電気の故障、

いずれ、コンデンサーかなんかのヘタレが来ている

のだろう、お化けではない。)

ここでわかったのは、今までのなんでもいつでも書ける

という自在感が、実は潜在的に隠されている、創造の

入口があるということだ。これは潜在意識との交流が

始まってから、相当早くに気がついたが、考えて書く

のではなく、(先行きを)考えずにしゃべることだ。

(詳しく書くと、ややこしい。過去を整理しながら書く

という手間ではなく、思いつくままどこへ行くのか考えず

にそのまま書いて進める、との意味)

そして、そのようにする上で次から次へと自分がいつ

考えていたのかわからない想念を無尽蔵に引っ張って

来れる、ということだった。僕に与えられた才能はそれ

だけのもので、大したものではなかったが、僕には

楽しんで書けるという、有難いものだった。

今もしゃべればいいから、文を考えて推敲という苦しみ

がない。勝手にしゃべって行けばいい。

これはどうやら身に着いたようなのだ。なにしろ、’15年

頃からだから5年間はそれでやってきたわけだ。

腹減った。

忘れていたが、現在自粛ストレス対策で、一日一食を

実行している。一食と言っても、分量が一食程度しか

摂っていないだけで、2回は少ない量の食事をしている。

なので、思い出すと、腹をすかしている。昨日が3日目

で、最初のバウンドが来る日だ。少し、食堂街でふらつい

て歩き、空腹で目が回る、という言葉が嘘ではないのを

久々に思い出した。断食の経験があるので、これしきは

想定内。ただお金はある、いくらでも好きなものをここで

食べられるのに、腹をすかせたまま、紅茶を頼んでいる

自分は、皮肉だな、と思っただけだ。その1日前は頭が

急にクリアになった感覚があって、中国のことを書いた。

あれは空腹のなせる業だと言ってしまえるか、わから

ないが、・・・腹減った。 

スープでも飲んで、ごまかして来よう。

・・・・・・・・・・・・・・・15-20分くらい経ったか。続けよう。



空腹についての格言じみたものはまだまだありそうだが、

端折ろう。 

不思議な「シンクロ」と書いたが、これは意識の交流が

始まってからの見るもの聞くものに、心理的な同期という

現象をよく経験するようになったことを言う。

さまざまに関連する事象が日常的に発生して、これを

まだ経験していない頃の感じで、不思議、と言ったまで

で、日常的に起こればそれを不思議とは感じなくなる。

その頃の僕は一般と同じで、それは不思議なことだった。

それが起立した意味がわかるのではないが、日常茶飯

になると、別な考えになる。今まではそれを感覚する

心の受け皿がなかっただけなのだ、と。見ていても、

気にしたことがなかったので、見過ごしてしまう、または、 

それが関連する、またはそれから重要な連想が生まれる、

といったことが起こらなかったのだ。

世間やブログでもセラピー関連で多いが、「引き寄せの

法則」ということが言われる。街の書店でも、時折、見か

けるが、あれがなにかを集中的に引き寄せる力だと

いうニュアンスで捉えているが、僕には周囲に元々

あったんだと思う。それに気がつかない生活意識だった

から、気づかないだけで、心が解放されれば、周囲は

引き寄せだらけになる、というのが感想だ。

個人の感想に過ぎないと思うかもしれないが、僕らが

ほんとうに無限ともいえる可能性を秘めているのだと

したら、それが急に身に着くというものではないはずだ。

すべてはここにある。見ても気がつかない人は知らない。

子供は恋愛映画を観ても(僕のことだが)、「バカだなぁ、

お互いに好きだってわかっているのに、言えなくて

黙っている、わかっているなら好きだって言えばいいじゃ

ないか」、のごとく、無経験なのでその感情の大きさが

わからない。

見てわかっても、感じなければ、その考えは通用しない

のだ。大人になっても日常はこまごましたことが一杯

なので、すぐに判断にもって行こうとして考えてばかり

いる。それはここぞという時の判断をする時には、無駄な

ことになっているのだ。



あの人の言った言葉、この人の発言、誰それのと、

思い出してつなげればその言わんとした意味に当たる

ことがある。その事実を思い当たるままにつなげるのを

くり返していくうちに、今まで気がつかなかった糸口の

ようなものを自然に見つけられるようになる。それは

そこに着目する、という感覚の新しいビームを発射する

用意ができたということで、そこから世界が広がり

はじめる。十分に広がると、引き寄せどころではなく

なってくる。

それでも自粛をして、10か月も生活を制限していると、

自分で自分の首を絞め始めるらしく、勝手に振舞い

たくなるようだ。腹減って、ふらふらするという状態に

なって、ようやっと自分の勝手な感情に振り回され

そうになっている自分の状態に気づく。もう切れ

かかっていたのに気づけないとは。人生に熟練する

なんてとんでもない思い上がりに違いない。

あと3日で腹減ったは、やめよう(笑)。

シンクロは世の中とのシンクロも範囲内だから、その

真相らしきものからどんどん現れて僕を小声で呼ぶ。

その直感は日常と少し異なっていて、信じてしまうには

希薄だが、これはヤバイと感じる点で濃い。難しくは

ない、そのままだから。それにきちんとした論理的理由

が加わって、確実だというフィット感が出れば、今までの

ところ全部当たる。ブログでわざとズラシて書いたことは

あるが、自分なりには理由あってのことだ。


夜が明けてしまう、今回は、もう端折ろう。



          12.5-6
nice!(7)  コメント(0) 

nice! 7

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。