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忘れていないゴミと自分 [日記]

自分で言うことではないのだが、 ・・・・・・・

書くことが自動的になってきた。意志ではなく、習慣や

ルーチンワークになってきた。何かの代償行為としての

依存ではないにしても、成功報酬を期待しての依存行為

なのかもしれない。そんな裏の理由はどうでもいいのだが、

不思議に書きたい。たぶんだが、8年近く、経っている。

書くのがしゃべるようになったのは。 

よくよく見れば、書くことを喋ることに転換したように思われた

かもしれないが、そういうものではない。書くことをその思考

の部分を結果を気にしないしゃべりの特徴に入れ替えたのだ。

この部分交換ができたのが、面白いのだが、そこは創造の

範疇なので、基本なんでも可能なのだろう。単なる技術とも

違うし、努力や訓練が関わってはいても、それが直接成し

遂げた、というものでもない。心の何かが入れ替わったのだ。

そう言うと、自分ではすっきりする。 

僕らは結果を予定しておしゃべりはしない。その場その時の

話題をランダムにどこへ行こうとかまわない、イレギュラー

に話題を変えて、さっきの話題にはわざわざ振り返ることは

ない。だから、なにかを特別に話し続けることなく、ダラダラと

しゃべりは続くのだ。

思考の場合はそうではなく、あるテーマがあって、それに沿って

話が進み、話す前に結論があって、そこにたどり着かなければ

ならない。そのために何度も推敲して、書き直すのも多くなる

のが通常だ。これを固くやると、とても骨が折れて、また下調べ

もきっちりしないと話がまとまらない。起承転結があって、少なく

とも起承結か、起転結くらいにはまとめる。

僕はどうも無意識に潜ってから、そこの入れ替えが起こった

らしい。そんな自分の考えにないことをできるはずはないから、

脈絡のない意識のかけらを詩のように集めて作文にすること

をやっていたら、いつのまにか新しい知識を入れておく場所が

できていて、そこでは僕とは別に独自に考えることができて、

僕の自意識の知もいささか奪われたが、独自に結論を出して

教えてくれる、ということが起こった。それをこれまで何回も

その印象を書いてきた。  

それが楽しいのは、そこに自在感があるからだ。自由に考え

られる気がする、止まらずに先を気にせず、ともかくしゃべり

続けるように書き続けることができる。その特徴は楽しいのだ。 

考えることに結論を予定すると、通常ではそれがハードルに

なるから苦しい。だから、話をするのは好きでも、手紙を書く

のは大変だから、面倒と思う人は多いだろう。実際に、それを

自由にするためには、やはりそれなりに自由な考え方を詰めて

結論して、自由でいいんだという結果に納得することが必要だ

と思う。まず、それは自由でいい、という自分が自由にならないと

(解放されないと)実行はままならず、うまくいかない。 

要領とでも言うのだろうか。適当さ、無責任さ、結果にこだわらない

というルーズが大事になる。それを中心にしたら、身も蓋もないが、

手段として取り入れることに流れを大切に書くことに成果・効果が

ある。

だから、今も書いていることはしっかり書けているが、それで話が

破綻するわけではないが、実は自分の思う方向からはズレること

がしばしばで、自分の思うことを書けない結果になることもしばしば

なのだ。途中で自意識を入れて軌道修正を測れるのは、あまり多く

ない。時々できるだけで。  

それでも99,5%は書き直しがないから、楽なものだ。どういうことを

言うかは、過去に考えたことが無意識層に詰まっているのだろう、

困ったことがない。思いつきだから、そういうものなのだろう。 

素人が見る囲碁のようなもので、なぜそこに石を置いたのかわから

ない。全体で石を置き終わって、勝負の段階でそれがわかるように、

僕のブログもまき散らされたそれを全体で拾って、つなぎ合わせた

時にその全体像が浮かんで、言いたいことが現れるだろう。

でも、どうやってつなぎ合わせるピースを関連付けられるかは、

僕にもやってみなくてはわからない。僕にしかできない部分も

ありそうで、それは厄介かもしれない。

ここでわかるのは、知の思考の部分と感情の硬く考えない寛容な

部分を有機的に組み合わせれば、理性・知恵(A)という役立つ

働きに変わるように、知の感覚からの直感部分と感情のあいまい

でころころ変化しやすい(天気屋とか言う)部分を組みあわせると、

おしゃべり(B)が生まれるようだ。僕の組み合わせはその(B)の

変化型のように枝下で変形させたものだろう。

人は自分が認めないものや不正と思うもの、嫌いだと思うものに

ついては、自分で思う以上にガンコ、意固地、こだわりになっている

もので、自分ではそれが自分だから、なにかおかしいことをしている

とは思わない。確かにおかしくはないが、それは習慣になって自分の

眼からそれを見た瞬間に自分の眼から消してしまうことを知らない。

当たり前だと思っていること・ものを冷静に検証してみると、それが

意外に沢山あるのを見つけるはずだ。すると、僕らはそれを恐らく

一生に一度もちゃんと見たことがないのだ。一生避け続けたのだが、

嫌だから気を使いもしない。忘れる。実際忘れて、もう覚えていない。

僕はゴキブリの動きに嫌悪感を覚える。が、顔はよく見たことがある。

なかなか可愛い顔をしている、多くの人は知らないだろう。ゴキブリ

と言えば、実はあの油っぽさとモシャモシャした虫の感じに、あの

気味悪い動きのことだから。バッドムーブメントとでも言うのだろうか。

調べたくもない。 

子供は自分がないので(自我の成長過程)、まんまものを見る。

汚いとか、怖いとか、奇妙だとかがないから、すぐそれに触ろう

とする。見えたままを概念なし(教育なし)で感じるのだ。

その眼が大事なのだ。それが目の前を見るということだから。

僕らは選択してばかりいるから、視野に入ったものを瞬間に

概念化して、何度も見たことがあったり、役に立たない、

嫌だったりするものは記憶しないで、排除する。ところが、

実際には排除されずにゴミとして心の隅にやられ、年齢と

ともに回数が増え続けるので、極端に溜まってしまう。

これが人生の最後に悪さをする。

部屋を掃除していても、心の掃除もしないと、それはやがて

腐りゆく原因になる、と僕は考える。歴史の重要人物の生涯を

見ると、はっきりした人生を歩むので、それもはっきり最後に

現れる、という気がしている。 詳しくは単純ではなく、いくつかの

パターンがまた変形したりするのだが、その説明は自分でも

不確実なもので信用できないので、言うのは面はゆく遠慮する。 

しかし、歴史好きな人で運命論に傾いている人などは、もう

そういうことを考えたことがあるだろう。 

そういうゴミの過程にも、自然に僕らが自分を知るまいという想い

がある。それに気づかないままになる素因もそこにある気がする。

そのことが今、特に言いたいわけではないが、結論じみたことを

考えると、その方向になってしまった、ということで。

なんか落語の終わり方みたいになったが、  ・・ということで。

(お時間もよろしいようで )
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