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明治の作家を逍遥す [明治]

坪内逍遥(明治になった時は9歳くらい)という作家  

がいたが、同じ「逍遥」で気ままな散歩を意味した。  

それらしい響きなので散歩にはいい。  

後が続かないのは、僕が嫌がっているのか、  

自分が嫌がっているのか、・・・僕だろう、この  

場合は僕が僕を説得することになるが、矛盾  

しているだろう。考えたこともなかったが、僕は  

自意識下の自分ではなくても、自分の調整を  

しているつもりの僕はここにいなければなら  

ないが、居るはずがないと思いながらも、居る。  

無意識には空間、もしくはそれに類する場所が  

存在しないのだろうか。同時存在はあり得ない  

から、混乱するのだが、無意識と自意識の調和  

という状態が存在するのなら、それもあり得る。  

その時、僕は僕であり、自分でもあるという  

二人を演じる。そして、瞬間での交替は一人の  

意識しか持たないだろう。今はこれ以上考える  

のをやめよう。続かない。  


坪内から始まったので、少しだけ。彼は明治に  

なる前安政6年に生まれるが、安政と言えば、 

井伊直弼の勤皇派への弾圧で有名な「安政の  

大獄」があった。勅許を得ずに日米修好通商条約  

に調印、次の将軍職に家茂をつけたので、反感を  

買って、暗殺されたのが「桜田門外の変」である。 

その頃、生まれた。長生きした。昭和10年まで。  

評論「小説神髄」が有名だが、興味なく、読んで  

いない。    

茶川龍之介は教科書でおなじみだった。たしか、 

トロッコが載っていて読んだ。茶川(ちゃがわ)  

ではなく、芥川(あくたがわ)。子供だったので、   

ちゃがわりゅうのすけで通していた。  

芥川の子供たちは、音楽家(也寸志)や俳優  

(比呂志)として芸能で有名になった。 

彼自身は自殺している。その生前の写真(当たり  

前だが、死んでからはあまり写真は撮れない)を  

見ると、いかにも線が細い病的ともとれる知的で  

神経質そうな表情と、そのなかでもさわやかな青年  

らしい表情も覗かせている。   

夏目漱石の山房に遅く弟子入りしている。翌年の 

第4次新思潮を発刊して、その創刊号に載せた  

「鼻」が漱石に絶賛されている。が、1年で漱石は  

亡くなってしまった。

国民作家としての漱石のイメージとしてはかけ離れた  

評を芥川がしているので、引用する::

菊池寛に向けて書いた手紙らしい。 「この頃久米  

と僕とが夏目さんの所に行くのは、久米から聞いて  

いるだろう。始めて行った時は、僕はすっかり固く  

なってしまった。今でもまだ全くその精神硬化症

から自由になっちゃいない。それも唯の気づまり  

とは違うんだ。(中略)始終感ず可く余儀なくされる  

ような圧迫を受けるんだね。(中略)僕が小説を  

発表した場合に、もし夏目さんが悪いと云ったら、  

それがどんな傑作でも悪いと自分でも信じそうな、  

物騒な気がしたから、この二、三週間は行くのを  

見合わせている。人格的なマグネティズムとでも  

云うかな。兎に角そう云う危険性のあるものが、  

あの人の体からは何時でも放射しているんだ。  

だから夏目さんなんぞに接近するのは、一概に  

好いとばかりは云えないと思う。我々は大人と  

行かなくっても、まあいろんな点で全然小供じゃ  

なくなっているから好いが、さもなかったら、  

のっけにもうあの影響の捕虜になって、自分自身  

の仕事にとりかかるだけの精神的自由を失って  

しまうだろう。兎に角東京へ来たら、君も一度は  

会って見給え。あの人に会う為なら、実際それだけ  

にわざわざ京都から出て来ても好い位だ。 ー」  

と、まあ漱石のオーラを紹介しているのだろうが、  

小説を褒められたお礼なんだかわからない。  

神経質と神経質が出会ったような、特殊な匂い  

を嗅ぎ分けているようだ。漱石の家には弟子や  

弟子を自称する者が尋ねてくるので、木曜だけに  

会うのを制限したらしいが、そこからは親しみ  

やすい、人を引き付ける漱石の人柄を想像するが、  

芥川にとってはそうではなかったらしい。  

漱石が「こころ」を書いたのは芥川に会う1年前  

である。「こころ」の先生は自殺してしまうらしい  

(未読)が、現実には先生(漱石)を尊敬していた  

芥川のほうが自ら死んでしまう。そして、後年、  

芥川を尊敬した太宰治が心中自殺を遂げて  

しまう。しかし、太宰の場合は少し込み入った   

事情があるようだ。その後川端と三島の悲劇   

に絡まってゆくが、それでは明治を遠く通り  

越してしまうので、省略する。    

次の文は、「大川の水」という短い随筆からの 

引用:::

「自分は、大川端に近い町に生まれた。家を  

出て椎の若葉に掩(おお)われた、黒塀の多い  

横綱の小路をぬけると、直(すぐ)あの幅の広い  

川筋の見渡せる、百本杭の河岸へ出るのである。  

幼い時から、中学を卒業するまで、自分は殆ど 

毎日のように、あの川を見た。水と船と橋と砂洲

と、水の上に生まれて水の上に暮している  

あわただしい人々の生活とを見た。真夏の日の  

午すぎ、燬(や)けた砂を踏みながら、水泳を  

習いに行く通りすがりに、嗅ぐともなく嗅いだ  

河の水の匂いも、今では年と共に、親しく思い  

出されるような気がする。  

自分はどうしてこうもあの川を愛するのか。  

あの何方かと云えば、泥濁りのした大川の  

生暖かい水に、限りない床しさを感じるのか。  

(中略)  

自分は幾度となく、青い水に臨んだアカシアが、  

初夏のやわらかな風にふかれて、ほろほろと  

白い花を落とすのを見た。自分は幾度となく、  

霧の多い十一月の夜に、暗い水の空を寒むそう  

に鳴く、千鳥の声を聞いた。自分の見、自分の  

聞くすべてのものは、悉(ことごとく)、大川に  

対する自分の愛を新にする。 ・・・・・」  

という情緒豊かさを前面に押し出した文に僕は  

間違えたのかと、文庫本の表紙を確かめて  

しまった。これがあの芥川の文章だとは。   

(芥川龍之介随筆集より)  

芥川は永井荷風の江戸趣味を批判しているので  

有名である。やはり、随筆集から「徳川末期の  

文芸」にも「僕は所謂江戸趣味に余り尊敬を持って  

いない。同時に又彼等の作品にも頭の下がらない  

一人である」と、言い切っている。芥川のそこからは  

大川への愛という江戸趣味のような情緒が書かれる  

とは想像できなかったのだ。   

僕らはイメージの囚われ人だ。芥川はこう、太宰はこう、  

漱石はこう、というまとわりついたイメージに翻弄されて  

一面ばかりを見て、また一面ばかりに限定したがる。  

わかりやすい表現やキャッチフレーズに囚われる。  

それで世の中がイメージ社会になるのだが、それが 

知の性(さが)だと言えるだろう。半分は、それ以上か、  

お里が出ているのだ。習慣は癖になり、習俗は伝統に  

なり、歴史になる。僕らが作ったのだ、性で。
 


僕は文学論は書きたくないものの一つだと思う。  

小説や随筆・評論などその時代を知るには非常に  

重要な情報であり、時代の禁止事項をかいくぐる  

工夫があったりで、参考になる。が、真理になると  

いろいろなものが詰め込まれ、介在するので  

真理は細かく、小さく輝くのみで、全体では大きな  

虚構という清も濁も併せ呑むものに巻き込まれて  

しまう。作者と個人の対話ならいかようにもできようが、   

それは他人の手鏡から相手の顔を伺うように手鏡の  

状態次第で良くも悪くも、楽しくも悲しくも見える。  

読書だけならそれでいいのだが、なにか論が起こせる  

といった者がいて、自分が感動した小説は必ず 

人も面白く感じる、と思い込んでいる者もいる。 

逍遥なので、目についた処を歩いてみた。やはり、 

全体の百分の一も辿れなかったが、目的はそこに  

ないのでかまわない。  

太宰治では思い出すことが多かったが、ほぼ略さざる  

を得なかった。調べるポイントも、そもそも太宰の  

見つめる眼も皮肉も、左翼運動や心中への行動の  

軽さもわかる気がする。が、僕のテーマではない  

だろう。捨てられてしまう運命のテーマだ。それで  

なんだが、というのもなんだが、ブログ初期に書いた  

文で太宰のものを載せておこう。

もう、6年も前になる、 ・・・・。



< 太宰の 空気 (人を好きになると)>
                 2015. 9.14

カモメが 鳴いていたのか

今も 覚えていない 横浜港

汽笛のような かすかに響く 透明な記憶

イチョウの落ちた葉 いつかの銀杏(ぎんなん)の

臭いは なかったが 空の紙コップが

公園の石畳を ころがる 風があった

太宰治展 その歴史をたどる 流れにはなっていたが

なにが太宰なのか ポイントが どこにも

置かれていない でも 嫌いだった作家の

そこに ここに 自分が 僕が

来ていることに 重要な意味があって

僕は 裸で歩いているような 気がして

みのむしの蓑(みの)を着た 原始人となって

無味乾燥な ショーケースの間を

経験したことのない 前世紀の緊張に つつまれて

歩く そして 見る その固さはというと

ケースのガラスに 僕の頭にかぶった

プラスチックの角が ぶつかっている

横浜港には 昔は豪華客船だった巨体が

飴色の太い鎖に 係留されて 静かにゆれている

客室は 寝台車の倍くらいしかなく

贅沢な船旅が なぜか さみしげな旅愁を 漂(ただよ)わせる

船体の錆(さび)を 映している 機械油の 海が

そこから かつての沖へ 時代の水平線へ

出帆しようとしている

帰ったら 君の本を 読むとしよう

やはり それが一番 手っ取り 早い

文学館と 海浜公園と 段差のあるレンガ道

船長の古い友となった 時代じみた豪華客船

ここは 潮の香りがしない

海賊や 宝島が 生まれそうもない 近代の街

どこにでもありそうな 街の 洒落(しゃれ)た通りを

なぜか 知っている時間の匂いを さがしながら

お茶を 飲む場所を 見つけている

歩きすぎて 興ざめのする 6車線の大通りに

渡るのに 長い 横断歩道と 夕方の陽射し

それでも 街が 僕を 気にかけはじめる

路地をはいると そこにSUNという海の

外国風な 喫茶店があった

よかったよ ありがとう

二階へあがって 大きな窓が 僕らの空間をつくっている

光と スローなジャズと 人の柔らかい話し声

適度なあかるさ 暗さ ほのかに ダルい空気

階下から 昇ってくる 焙煎のコーヒーの香り

太宰よ 君は 感覚の王様だ

僕に 感覚の文章を教えた その神経に

今は 足を組んで グラスを傾けて 休んでくれ

僕も 歩き疲れた足を ソファから 投げだす

僕の 血流を 癒(いや)すもの あたたかさ、

伸びてゆく リラックス、

― n、

― ん、 は、 さ、

(ビバ!)

破れかぶれの 太宰 なんでかな

僕は 君が好きになったみたいだ

ビバ! 太宰 ビバ! 横浜

心の つぶやきが 楽しい「秒」に 変わる

それは「分」に 「時間」にふくれて

「 日 」に 溶け込み

僕は 今日が 特別な一日だ と感じる

それが 目の前にある 見えない空気だと わかる

一日って 空気なんだ

人を 好きになると 空気って


―  変わるんだ

君が好きになって


―  変わるんだ

人生って なんだろう


―  変わるんだ

ああ でも 浮かれていないで


この珈琲を 味わって いや

やはり 乾杯しよう ビバ!君

ビバ! 人間

ビバ! 僕たち

ビバ! 君たち

ビバ! 治(おさむ)

(君を好きになるとは、思わなかったよ

中華街 みなとみらいへの 地下鉄の入り口

通りに面した側が 窓の広い、裏側で

裏通りに入口のある 不思議な喫茶

街路樹 そこ ここに

足音 聞こえない 聞いていない

太宰、君は どこを歩いているのか

帰りの途上で 急に

右手に 手持ちぶさたになって

君の もう一冊の本の 題名が

思い出せなかった


でも 駅の 地下の深いホームで

つぶやく


(一日って 空気なんだ)



::
過去記事を出すのは久しぶりだ。

あまり変わらず、まとまっていないので安心する。  

昔の感受性がどうのこうのを認めるのは気持ち  

よくない。  

僕らはその場で書くのみだ。その時、その場。 

他になにがあるだろう。
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