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仏の効用その前夜と逃走 [仏]

青い空を見ていると すべての出来事が  

信じられない   

山ひとつ向こうで  砲声を聞いても  

その後は 静かな  夕闇に 包まれる  

隣で  戦争をしているとは  

信じられない  

これは  頭が ふつうに   逃避している  

そういう行動  なのだろうか   

認知症は  眼の前の 老人たちだが  

コロナ患者を  ひとりも  見たことがない  

それだけ  交際範囲が  狭いということなら  

そういう世間との 間のことか、と思うが  

空は やはり  見事に  青い  

僕は  気づき始めた   

悟りについて  ずいぶん 知ったことがあると  

これまでの経験から  思ったが   

否定的な 疑念が   晴れたことはなかった   

それが どういうものか   晴れてきたように  

考えられた  

そこだけ 書いても  理解しきれない  

仏教や  ブッダについての  

誤解が  多すぎるからだ  

やはり  法華経が 一番だとか  

瞑想が  人生に効果的なものだ  とか  

一概に  言えない  

一長一短が  あるよ  

そこを 肝に  据えないと  僕らは  

迷いの世界に  吸い込まれる   

確かに  悟りには  効用がある  

正見、正思、正語、正業、正命、正精進、

正念、正定という 正・八正道だ  


要点を読むと、これは大乗仏教の物差しで 

あり、一種のロマンだ。ブッダの言うことを  

演繹して、勝手に拵えたものだ。だから、  

これはブッダは言わないだろう、というもの  

が散見される。  

大乗仏典など多くの種類で経典があるから  

読むだけで何年もかかるし、調べるとなったら、  

十年単位の時間がかかるだろう。  

高齢となった僕には、ただの無駄にしか思え 

ない。では、もっと50代、40代、30代だったら、 

読んで研究しただろうか。それも考えられない。 

2,3の代表的な経典に絞っただけだろう。ブッダ  

を知れば、大乗はかなり、それから逸れた考え方  

でつくっていることがわかるからだ。  

それはともかく、ブッダになることも僕は推奨  

しない。ブッダはともかく、初めに悟った人だ。  

だから、世界にそれを広めることを使命だと、  

宿命くらいに考えただろう。

ブッダが悟ったのは、修行中の夢の中だった  

ろう。少なくとも夢のような幻想の境地にいた時に、 

すべてが結びつくなり、つながるなりした時だった 

ろう。現実は矛盾の世界だ。悟りもここではその  

まま通じない。現実に転換する時に矛盾に妥協や  

折り合いをつけなくてはならない。それは3000か 

4000年前の、人口も少ない10万人都市でも同じ 

だった。ただ現代よりもっと悟りやすい環境では  

あったはずだ。空気も汚れていないし、食べ物も  

化学物質を含まず、水流も自然だったし、洪水・  

飢えは年によって多かったろうが、心は今よりも  

もっと健全に実態・直截な形を備えて、人々に  

感じられていたはずだ。頭に強い観念(思考・  

思想・知識・カルマ・カーストなど)で締め付けられて  

いなければ、反発せずに、ブッダのオーラにすぐ 

気がついただろう。  

ブッダはそれから45年くらい布教を続けるが、長く  

は感じなかっただろう。ただ、最も側にいた二大  

弟子が先に亡くなってしまい、寂しく感じていた  

だけだ。  長生きだった。  

亡くなってから、年に1,2回その教えを読誦して 

確認する会があった。書き写すことはなく、記憶 

だけで朗読を数百年も続けたのだから、人は 

記憶力がいいものらしい。そうなると、聞いている  

者も飽きてきて、それを哲学的な知識体系にまとめ  

たいと思う知者も出てくるのは必定の理とかいう  

やつだろう。  

それも神話化してしまっているのが法華経で、最も  

有名な大乗仏典かもしれない。まあ、神様(如来)が 

いっぱい出てくる。将来のブッダであり、そのまた 

レベルが上の弥勒も創出される。すべて想像上の  

仏だ。神話以外の何物でもない。  

悟りは輝く栄光のように表現されるが、日本では  

死んだら皆、成仏と言われるように、仏教は死の  

象徴である。ホトケさんと言えば、死人を差した。  

それは本質を突いている。仏教で悟るのは、本来  

死であるからだ。生きたまま死んでしまう即身仏も  

日本の民間信仰で、大飢饉とか起こった年には  

生きたままお棺に入ったり、お墓に入ってミイラに  

なるといった風習も生まれた。これは自然な現象で  

無に入った僧は強力に儚いむなしさの世界に溶け  

込む。そうすると、死は身近になり、恐れるどころか 

死んでもいいと感じるようになる。それで衆生を救う  

のが、大乗の教えである。ただ悟っただけでなく、 

人の役に立つのが仏教の教えだと習った僧は  

皆、死を恐れないから、つまらないことでも喜んで  

死んでしまう。

チベットの高僧などは身にあらぬ無実の罪に  

問われ、川に沈められる。30分も経って、もう  

いいだろうと引き上げると、相当修行して呼吸を  

学んでいたのだろう、まだ生きていた、30分で  

ある。海女でも5分くらいからは危険区域で 

海面に上がってきてしまう。 

役人は驚き、恐れ入ってしまって平伏する。が、 

高僧はこのまま帰ってはおたくが罪に問われる  

だろう、ともう一度沈めるように言う。そして、 

亡くなってしまうのだが、僕にはただのお人よし  

にしか見えない。厳しい修行をして、小役人の  

命もかかっていないことで助けるため、自分の  

命を捨てるというのは、明らかに死への恐れはなく、 

衆生救済の教えにこだわったとしか思えない。  

何のための修行?と首が傾いでしまう。  

ブッダは悟れば後は問題ないと考えた。そう信じた  

のだろう。ブッダは知恵と慈悲の人と言われている。 

いろいろな例え(教え)は有名で、その知恵は 

特徴的で象徴でもある。それが欠点だったの 

ではないか。  

その優秀さだけがスポットライトを浴びて、その  

欠点は自身でも隠されたのではないか。それ  

が欠点にならないほど彼の悟りが透徹したもの  

であるなら、晩年に見せた怒りや怪我、食中毒で 

現した人間性はなにかそぐわないという気がする。 

ま、何を言おうと、真相は4000年?の闇の中  

だが、 ・・・。  

も少し具体的に話すのは、も少し先になる。  



確かに、八正道なるものはあり得ない。が、そう  

言いたくなるもの、ものの見方の正しさというもの、  

ありそうな気がする。それはつまりは、ものの  

あり方をその場、その時に見切る必要がある。  

その見切った相手に従って、どういう視点から  

見るのが正しいかが、自然に導き出される。  

正しい、というのはそういう意味である。  

初めからこの考え(思想・思考・知識・認識)を 

使えば、自在に何でも切れる、という包丁(考え) 

はない、ということ。 

だから、アインシュタインが求めた究極の統一  

理論はないだろう。ただし、統一理論が部分的な  

真理を求めてなら、それは築くことができる。  

しかし、手の研究を一生かけてしても、腸も、皮膚  

も、骨も、脳もわかるという万能の理論を導き出す  

のは不可能だ。  

悟りが万能なら、なぜ今だに東洋と西洋は誰もが  

そう思うほど、違いがあって、統一されたことは  

ないのか。習慣は伝統という根を張る。それは 

感情の問題になって、容易に死に近づくのを  

避けさしてしまう。歴史は感情である、と言った  

のは至言かもしれない。 歴史は現実が所産する。  

また矛盾を孕まない事実も、現実もなさそうである。 

悟りは大きな手助けにはなるが、個人に関わる。  

個人の集まりは自我の集まりであり、世間である  

から社会統一という信念とは、初めから矛盾して  

いて、ことある毎にトラブルの種になる。そういう  

僕らのあり方を見るのが、悟りだろう。



青い空を見ていると すべての出来事が  

信じられない   

山ひとつ向こうで  砲声を聞いても  

その後は 静かな  夕闇に 包まれる  

隣で  戦争をしているとは  

信じられない 

― と、最初に戻ったのではない。読んだ時、  

初めと同じ文だと気づくのと同時に、また  

異なった感興を感じたはずだ。いろいろあるが、  

人それぞれ、感想も小さく、それなりに違うだろう。  

テレビでよく聞く、市民の感想は「自分の住んで  

いる街でこんなことが起きるとは信じられない。 

怖いです」とか。では、何を信じて日常を生活して  

いたのか?人もそれぞれ、現実の中の夢の側で  

暮らしている。夢に生きながら、現実を恐れて  

いるのだ。もう瞑想をしているようなものだ。  

逃走、という。


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