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無い時間と有る意識 [時間]

時間は流れる運動に感じる経過感と

いう亡霊のようなもので、その意味

では錯覚なので、実際に実在して

いるものではないと、以前書いた。

そこらの事情をもう少し書いて

みたい。


午後、ものごとを漠然と考えていて、

休止すると、壁の時計が眼に入る

ことがある。何気なく見ているから

秒針も目に入る。1秒して、動かない

のがわかる。この時驚いて、見直す

ので2秒ほどして目に力が入る。

これは気を取り直しているので、実際

は意識が眼に働くことを意味する。

すると、突然であるかのように秒針が

動き始め、それからはちゃんと1秒

ごとに動いている。

まず秒針が動かないと驚いたのは、

二つ理由があるようだ。一つは外界

の時間が止まったのではないか、と

いう超自然な現象ではないかと思う

こと。次は、ふつうに時計が止まった、

故障したのではないかと思うことで

僕はこの二つが複合して驚いている。

安心したのは、どちらの生活上の

不具合も避けられたからだ。

時間が止まった世界には未経験上、

不確かなことが多くあり、不安は

大きい。例えば、ふつうに息が

できるのかどうか、とか。

時計が故障したのなら、一体いつ

から止まったのか、そこから今は

そのために不祥事が生じていない

のか、確かめる必要があるが、それ

をしなくて済んだので、安心した

のだ。

この最初の経験では、秒針が動か

なかったのは、単純に眼の錯覚だと

思っていたが、2回、3回とくり

返すと、考えてみるようになった。

秒針を見た時に秒針がふつうに動い

ていたら、1秒だから、僕もすぐに

それを認めて、驚くことはなかった。

だから、1秒以上動かなかったから、

僕は秒針が動いていないのに、急に

気づいたのだ。その瞬間、僕の意識

は実際に時間が止まった世界を想像

してか、息の詰まったような世界を、

くり返すが、一瞬だけ感じた。それ

から驚いたのだ。この順番は間違い

ない。

だから、短い瞬間というものは、僕ら

の意識では1秒くらいは長くもなる、

ということだ。僕はそれを疑えない。


このことは僕らの生活を僕らはどう

意識しているか、を考えると、小さな

問題では済まなくなる。

僕らの生活は行動で実践で活性化さ

れている。思考ばかりでもそれが

単一の分野で将棋とか、プログラ

ミングとか、一定の範疇で集中でき

るものは、将棋やプログラム言語の

狭い範囲で直観で飛躍できるので、

充実して緊張感があるので楽しい。

ダンスでもそうだ。考えながらダンス

はできない。次のステップはこうで

次は、と考えながら踊ることはでき

ない。リズムと体の覚えたステップ

があって、僕らは緊張した充実を

覚えることができる。体にまかせて

踊っている、とも言える。

意識はそれらの指揮者であって、

個々の楽器の演奏家ではない。意識

を感じようとすると現れるのが自意識

であって、本来は意識の中に埋没し

てしまっている。

意識を変えるというのは、ほぼ意識

を新しい考えに沿わせる、という

ことで、意識自体は変化しない。

新しい考えの方針に生活を組み換え、

建設して活性化していくのを意味して

いる。これが僕らが普通に意味して

いる、自分を変える、ということだ。

リアル現実はつらいものが多い。例え

ば公共の職業の警察や消防、病院

などは公共社会生活に欠かせない

ものだが、どれも安易な気持ちや決心

では自分の職業とはしないだろう。

そうすると、安易な生活を夢見る

ことにして、実際には気づかなくても

そうしている。初めはいいが、年を

重ねてもその状態が続くと、僕らは

それが当たり前だと思えてくる。

それが注意力が衰え始める因だとは

思わない。

:地質年代を求める19世紀の学者は、

それがどれくらい古く遡るのか、知ら

なかった。たかだか数百万年くらい

だろうと。20世紀初めに放射年代

測定法が確立され、地球の地質年代

は45億年(現在では46億年)まで

遡るのがわかった:(「サピエンス

異変」より)

関東東北大震災3.11でも津波の高さが

10m以上に想定されていたのに、東電

はそこまでしなかった。それは常識的

にそんな津波が来るとは想像できな

かったからだ。地質年代の学者たちも

数百万年という年代さえ想像できな

かったから、それ以上の年代は空想

だと片付けたのだ。

この想像力のなさは現実への想像が

できていないことによる。自分の

今までの社会経験・書物などの過去

の情報のインプットからくる、自分の

中にまとまった狭義の世界に対して、

これは違うかも。という疑問を持た

ない注意力の欠如からきている。

よく言われる「危機感の欠如」という

ものは、この常識に囚われた僕らの

小さな自分世界から年齢を重ねるたび

に平均でだが、75歳くらいまで年々

自己更新をしてこなかった報いとして

現れる。

無視すればそれで済んでしまうから、

それは晩年に押し寄せる。認知症に

なるのは、不健全な環境と体の怠惰

に対して、ある程度健康な精神の

自己防衛だと言える。あとは年取っ

たら、歳取ったなりに、平和に生きる

のがいい。

それまでは僕らは危機意識を持つこと

で精神を活性化して、その都度目的を

見出し、目的を変更しながら、活動

することで健全な精神を更新すること

ができる。

考えると面倒なのだが、僕らの大きな

意識は僕らが気にする必要はないこと

だ。僕らがそれを表面では感じないに

しても、無意識にでもわかっていれば、

それは人生の方向を作ってくれる。

それも自分が過去のいつかの日に考え

たことだろうが、今の自分に合わせて

いろいろ組み直されたにしても、基本

は自己だから変わらないだろう。

自己が自意識の自分をコントロール

するようなら、人生は time goes by

で進む。

リアル現実に気づくためには、時折、

消防士のように危機に身を置いて

想像したり、実際に飛び込んでみる

必要があるのだろう。それが注意力を

養い、危機感を育てる。考える時間は

本来、ない。準備された計画とその

行動が実行されることが望まれる。



僕は好奇心が深く強く、手を広すぎ

て、途方に暮れることばかり。(笑)


 秋深し なにもしないが好きなので

  することは何かと 夜々は暮れゆく


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