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これから: 怒りと技術革新 [心理]

織辺日記で魯山人のことをちょっと

書いたので、彼を例に挙げよう。

彼を嫌いだと書いたが、本人も嫌われ

安い自分を承知していて、私が嫌いだ

という人は多い、とおっしゃっている。

それは彼がこだわりが強く、気難しく、

決めた時刻とか少しでも遅れると、

癇癪が落ちるからだ。女中が何人も

辞めたらしい。女房も六人替えた

くらいだから、そのガミガミが顔に

出てしまっている。それで彼の第一

印象が悪くなっているのだ。晩年は

寂しがり屋が表に出て、よく泣いて

いたらしい。自分と折り合えなかった

後悔は少なく、むしろ孤独やものの

あはれに近い心情だったのではないか。


人はこのように社会へ出す顔と内面

では矛盾したような面を抱えるのが

普通である。これはギャップとして

本人に意識され、内面は隠されがち

なので、本音とか言われるが、そう

ではなく、心の自然なバランスである。

両方必要だから、そういう生活になる

ので、無理にかぶせた仮面生活という

ものではない。

僕らは怒ると、怒らなければならなか

ったことを嘆き、涙をこらえ、笑うと

可笑しすぎて涙が出る。どちらも心

が壊れそうなので、涙でそれを中和、

または抑えようとする作用だ。よく

言う、(もめ事は)水に流す、という

やつだ。


僕は短気だが、初対面でそう思う人は

いないらしい。大昔には一度も怒った

ことがない人に(見える)と言われて

恐れ入ったが、短気は克服したが、それ

はなくなったことではない。

およそこの性質は親父譲りで、親父は

短絡で短気だったから、早とちりも

時々あった。僕はまず怒らないから、

一応それで非常時にはまず冷静である。

それは事態に対処しようとするからで、

話している相手が理不尽な攻撃をして

きたり、何度もこちらの要請を無視

すると、昔は突然、切れた。それが

突然であるのは、アドレナリンの性質

で、ゆっくりゆっくりと怒りが高まる

というのは、特異なことで僕は見た

ことがない。

アドレナリンは危険を感じると体が

発生させるもので、危険から逃げる

のに素早く行動を促す。それは思考

するのを避けるので、考えるよりも、

例えば手が出る(人を叩く)、激高

して反論する、危険(毒蛇とか)から

即、離れ走り出す。


それが短い我慢の限界の後に起こった

が、アドレナリンが出た後なので、

当然、考えもできず、後悔すること

になった。たいていは自分も我慢強く

なってきたな、と安心する頃に、それ

は突発した。それが克服できたのは

還暦を越した頃に、無意識を瞑想で

その根元を探り当ててからだった。

対策がわかったので、アドレナリンが

勝手に出る前にその準備行動ができる

ようになった。それは大安心だった。

それまでは半病気のようなもので、

自分ではコントロールできなかった

から。

それでもちょくちょくは激しくは

ないが、出てしまう。このブログでも

対社会面なので、短気が出ることは

ないが、真剣なことについて、こちら

の寛容を見越して(普通なことだが)、

軽い質問を戦争や平和についてされる

と、カチンときた。対面で話してい

れば、そういうことはないだろうが、

戦争の悲惨さは現在でも生中継されて

いる。事情は少し複雑だが、戦争前の

昔のウクライナについては子供ながら

に洒落で「うっ、暗いな(ウックライナ)」

とか言っていたが、それを現在とは

切り離したつもりで別の記事を書いた。

そこへ平和について冗句のような軽い

質問が来たので、アドレナリンがちょ

っと漏れたらしい。きついコメント

返しになってしまった。


もう五年も前だろうか、NHKの

セールスが来て、こちらの話を聞き

流して、一方的に話すので、三度目に

は怒鳴ってやった。というのは違い、

そうではなく気づいたら、怒鳴って

いたのだ。その声の大きさと言った

ら(笑)、近所50m四方に響いた

だろう、というくらいだった。

ちょうど娘が訪ねて来たらしく、

近くで聴いたのだろう、顔がこわば

っていた。それほど厳しい怒鳴り

だったらしい。

そして、その声が出てしまったのに

気づいて一番驚いたのは、自分

だった。自分では気づかずに怒鳴っ

ていたのだ。最後に怒鳴ってしまっ

てすまない、と謝ったくらいだった。

冷静になるのも速い。


文章で見せる顔というのもそういう

具合に、内面を丸出しにできるもの

ではない。それぞれ家庭での顔、会社

での顔、本人の思う内面の顔、勘の

鋭い人の気づくその人の内の顔、趣味

をしている時の無心な顔といったもの

は、それぞれ違い、異なる。

僕は以前は、他人には僕がどう見えて

いるのか、気になったのではなく、

純然として知りたかった。が、社会は

あてになるものひとつなく(説明が

必要だが、しない)、そのいい加減さ、

あてにならなさというのは、一般の

社会人も同じだとわかったら、そこ

から客観的な僕への判断を尋ねること

が、それ自体無理だというのもわか

った。それ以来は、「いいね」の中身

がどうなのかも気にならなくなった。


革新技術が開発されている現在、人間

の生理も改革され、長寿命がより強化

されそうなのであるから、年金などの

生活費は片方で重要であろうけれど、

心の意識改革はより重要になると自覚

される日は近いと思う。

年取って頑固でいることが許されなく

なる日も来るんじゃないか、とそれは

何が問題でそうなるのか。まず、知に

よるいい加減な脳の進み具合が、文明

を発展させ、そのための行き過ぎた

分化・危うい集合技術の脆弱や矛盾を

もたらし、それに文化が追随している

現在の精神バランスの不健康が心身

ともに露出し始めている。それを具体

的に語るとキリがないが、当然、これ

から必要とされる時期ごとに、重要

とされるカテゴリーごとに必要だろう。

そういう全体をテーマにできる大学も

出来ればいいし、また設置・施行され

ればいいのだが・・。

20年近くも言えずにいたから、ここで

言えたような気がする。過去に書いて

はいないと思うが、ままよしである。

それは僕がこれからも書き続ける

テーマであり、その晦渋さを整理する

ものだろうが、それはまた、僕が生き

られる年月を示すとも、言えるのだろう。

長崎の離島の家は手放したので、終の

棲家はそこではなくなった。では、

活火山のあるハワイあたりにしよう

かと、呑気に考え、夢見ている。


(昨年・10.28 投稿の記事)




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