SSブログ

できないことより、回復が先 [日記]

部屋の目の前のごみが片付かない。こう書くと秘かに嬉しいのだが、余人

には想像がつかないだろう。僕の心の現状と部屋の現実の状態がピッタリ

合っているからだ。それがはっきり見えている。ごみはゴミだが、実際には

区分けしてみなければ、どれを捨てていいかはわからない。この眼でしかと

見ていながら、簡単には決めかねる、これが面白い、うれしい。

そして、煩わしい。人は煩わしいほうが先に来るのだろうか。僕は嬉しい

ほうが先に来た。どちらでもいいではないか。

僕の今も不安定な全体が、それら部分がかなりそれぞれが広がって、

それぞれの垣根を乗り越えて、お互いに結び付きだしたので、全体が

見据えられるようになった。が、ごみと同じで分類が必要だ。その

きっかけもわかった。島で闇と隣り合っていた14日からのことだと知った。

28日に半自覚から、「なにも変わったことは起きていない、と思い込む」

を書いたが、それまでに2週間経っていたことになる。闇は深い。

心理的には闇だが、現実ではゴミだ。と言うよりもドロ沼という現状へ

の比喩のほうがいいだろう。心と意識の発生について沈思していて

いろいろな仮説が思い浮かんだが、そのヒントからもそこが原点らしい、

と見えた。

意識・知性・作物の栽培・所有から支配への面、同時に自己形成・

区分から細分化へ・道具から文明への面、その結果としての現在の

技術の細分化・専門の細分化と複雑化・不完全な知識を頼りにした

科学模倣によって利益追求の経済システムが膨張することで、

その場で結果が出るものに含まれない膨大な未知数の欠陥が、食料品・

医療品・日用品・土壌・河川・海洋(沿岸)・に微量から大量に蓄積

され、僕らは10年20年単位で深刻な病気に、神経に精神に障害が

出るように、例えば、アトピーとかさまざまなアレルギーになるよう

に組み込まれてしまっている。物事の細分化・複雑化はそれなりの

ルールの適用が必要とされるから、日常生活の照明の点灯から消灯

までシャッターを閉めてからとか開けてからとか、取るに足らない

ものにまで、僕らは微妙にその公式にしたものを自前で頭に築いて

いる。信号を渡るにも、自転車に気をつけるにも、その道路交通法の

一部が必ず、頭を過(よぎ)る。その微量なものが日々のストレスに

いつか過剰な加算になって、病気の発露を重くする。

一応、病理関係だけで説明したが、仕事の関係、人間関係、情報系、

僕らの生活の隅々にまでそれを認めることができる。そして、僕らは

そのほとんどを見ている。少しだけ、自分から切り離せないものだけ

を見るだけではなく、気にして、それが尋常でなければそれを遺棄し、

離れる行動を起こすが、別に行動を起こす必要を特に感じなければ、

事態はうまくいくので心配することはない、少なくとも自分の問題では

ないと、つまりは現実を見ない。人生来の楽天さがそれを助長する。

自分は運転がうまい、と自然に思っている、あれだ。70-80%の

米国人はそう答える。交通事故率を鑑みるとあり得ない数字だそうだ。

(「シャドウシンドローム」より:文は記憶頼り)

僕らの破滅への道はかなり自然数で表現できるということらしい。破滅

はいつの時代でも未知数として予言されている。知性は滅亡が好きで、

過去からの結果だけのデータで概知の結果を作り出す。そこに希望が

あるわけでも、絶望があるわけでもないが、それで騒ぐのは人間の志向

がもともとそれを好むからだ。競馬の馬券を当たる前から当たると

思って、買うようなものだ。外れるとわかっている馬券を誰が買うだろう。

未来予測はかなり当たる。のではなく、おおまかに当たる。誰かが当てる

が誰が当てるかは、いつもわからない。科学的な推測は社会の動向を

併せれば、未知の部分を除けば、それなりに正しいからだ。これもその

担当者の世界への感受性が基本、ものを言う。それでも大まかな結果

しかないのは、僕らが理解して知識とするよりも未知の要素の発生の

ほうが多いからだ。

ちょっと、待って。

何を話して、話すべきではない何かが見えない。

島で見た(?)闇は現実ではドロ沼に相対・相当する部分だ。上で

ちょっとかいつまんで書いた部分の全体だ。誰も見たがらないそれを

どう書くか、どう説明するかという前に”もうどうしようもないという

先入観念”をどう克服するかがなければならない。僕も書きたがらない

からだ。全体を知るにしても、仕事や病気や情報やさまざまな制度の

不備など、その一端の経験をしていないと、なかなかその説明から

危機感を持ち、それを克服するほどの理解に自分でつなげるのは困難だ。

自己嫌悪・自己批判は易しい、たやすい:-と思えるまで社会の中に

あって社会から立てる、つまり自分の中にあって自分から自立できれば

いいのだが。

そこからほんとうに対策を考えることができる。僕はもう少し、回復を

する必要がある。休憩が要る。このところ、毎日暇をみては寝ている。

この半世紀分を寝て取り返す勢いで眠気がやってくる。なにが

どうなっているかは、わかっているが書かない。回復が先だ。

nice!(18)  コメント(0) 

なにも変わったことは起きていない、と思い込む [心理]

コツンと 固い音がする

これは まったくのイメージだ  その言葉は

でも  確かな 状態と  孤独と不安の これからはじまる

予測を  もたらしている

この半世紀が 壊れることは  僕が  今までの

方向を 失うことだ 

島から帰って  なぜか  もどらない 

体調も  精神衛生も  この状態が 一時的だとは

期待しているけれど   ほんものなら  ここから

記事が 続けられるとは思わない

まだ 現実が リアルに感じて  よりクリアな気が

しているが   この過渡期が  過ぎるのならば

一気に  夢は闇に 変りはてるのかもしれない

想えば そうなる  そして  いつもは 思わない

今度は  その確信がない

これまでなにかしら その芯が感じられたが

今は  それから離れ  放っておかれる

これが 僕の  望んだことか?

このままでは ヤバいという  意識はそこにある

どうでもいいと  僕は 思っている

そんな悠長さよりも  この予感を  出処を

わかるものならば、 と  探す

探す と言うだけのことで  反応がない

ないから  このことは  何らかの意味で

決定されている   少なくとも僕のルール、パターンの

なかでは  そうだ

決定の意味は  ふたつだろう

ひとつ  過去はまったく意義を 失ってしまったこと (確信の喪失?)

ふたつ  このことに 因果が  ないこと (心に引っかかっていない)

つまり  今の僕には  まったくわからない状態だ、、、

ということだけが  確かなこと

瞑想を 越えるとか、考えたことはなかったし

今も  あり得るとは  考えなくていい、と思うのだが。

因果ではない 素因について  匂わせたことがあるが

それが 関連しているのかも 

それにしても、だ

なにが起こっているわけではないのに  心は平穏だ

世間では  平穏ではない  僕も  なにを していいのか

どれを コントロールしていいのか   なにも

引っかからないのだが

どこか 全体で 「コツン」と 固い音がする


2,3日  遅くても 1週間とか  1か月で

これを説明する日を  希望してみよう  

久しぶりの  外側からの  予期せぬ襲来

これは 始まったばかりか   一時の気の迷いか

なにごともなければ  それで よし


nice!(6)  コメント(0) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。