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言葉と意味から [言葉]

言葉には意味がある。それは相応のことで、別段それはリンゴが木から

落ちるくらい、普通のことのように思える。しかし、言葉を使うことで重要な

ことを為そうとか、正確さがほしいとなった時には、言葉の意味はやっかいな

ものに見え始める。すると、それは当然、書き言葉を前提にしている。話し

言葉では僕らはその意味を正確に考えないで話すことができるから。それが

会話のルールだから。

こう言ったら(書いたら)、相手にどう伝わるかを考える時、その言葉について

自分が考える意味と、相手が思っている意味では異なっていることが、まず

思いつく。そして、それは思い煩っても致し方のないことなので、無視しても

いいだろうと結論する。やはり、自分の出した言い方や言葉で、他の意味に

解釈されないかを吟味することで、推敲がされるだろう。

そうして書き終わって、少し遠くから眺めるような気になって、自分の文章を

眺めると、やはりそこには読者をある程度限定してる、と感ぜざるを得ない。

ちょうど、はじめから大人向けに、童話は書かないようなものだ。科学者に特に

向けて人情小説を書こうとは思わないだろう。

そこをもっと神経質に考えると、抽象的な言葉を扱えば扱うほど、前にもどって

しまい、その意味は読む者の意味の取り方次第で、かなり解釈に差が出る、と

思わざるを得ない。

特別な感情や感覚を経験した場合は、それが人には簡単にはわからない、と

(直感で)わかってしまうことは、日常でも少なからずある。「こんなことを言っても

信じてもらえないだろう」、という場合だ。

そういうことを書いた場合、言葉の意味というのはどこへ行ってしまうのだろう。

すると、それは似たような経験値を持つ人と持たない人との、解釈の差という

ことになるのだろうか。子供にはわからないが、大人になったらわかるよ、という

ような意味合いで。 

そうすると、今書いていることの全体の意味が、その中心から変容する気がする

のだが、どうだろうか?僕らひとりひとりの経験値が異なることからは、それぞれ

微妙な差から、大きな差まで混在するに違いない。それも1万語の中で特に

象徴性や抽象性のある語では、大きく差が出るだろう。そして、それは単語に

限られたことではなくて、文章から全体の意味を抽出する時にも、大きな差が

出るに違いない。そして、それを測る基準になるものさしは、ないだろう。それが

すぐわかって、納得できてしまう。

考えてみれば、僕らはとことん納得するまで話をする機会を持つというのは、

とても少ない。そういう話をすること自体に、正確に話すように持っていく、

そういう技術が必要とされるからだろう。だから、言い争いなら、喧嘩別れになり、

同意にこぎ着けても、あいまいな部分を残したまま「ま、固いことは言わずに

この辺で」と妥協して納得したりする。そこらあたりは、もう言葉の意味を越えて、

別のことになってしまっていて、気持ちのこととして、お互いに適当に処理する

のである。

言葉の役目はこのように、言葉や言い方で、ある方向や意味なりを指し示すこと

だろう。それが気持ちのことであるなら、気持ちが通じれば、言葉はいらなくなり

その意味も消える。気持ちがわかるとは、そのことを言う。難しくなるのは、考えが

わかるまで行くのが大変であること、それは無数にパターンがあるので、そこから

選べるだけのパターンからそれを見極めねばならないから。もっと大変なのは、

直接の感覚のことで、視覚・聴覚・味覚・嗅覚・触覚は特別になるようなものを

もっている人を、その人の感覚で直接感じることはできない。例えば色盲の人

の色世界を僕らは見ることができない。幻聴や幻覚を感じる人のものを感じること

はできない。それはそのまま僕らが経験外のことになるので、僕らはそれを自然と

無視する。なので、そういう彼らに無理解になることは必然と言える。

ほとんど記憶にとどめることさえできない。

経験しなければわからないということは多い、とは知っている。が、わかっては

いない。わかっていれば、僕らがどれだけ曖昧に生きているか、またそうすることで

世間に生きていくこともできる、ともわかる。適切な良い加減さと、中途半端で投げ

やりないい加減さとは、双方で社会に役立っているのだ。

そういう自覚のないところで、「世界が平和でありますように」という祈りは、誰にも

その気持ちがわかるにせよ、ただの言葉の意味だけに終わってしまう。自覚を

もった人が十分に現実的なら、そういう有効性があるのなら、活動の仕方がそれに

準じるようになるだろう。

それぞれの国にそれぞれの歴史があり、文化があり、生活習慣があるのなら、それに

等しく、偏見や恨み、時代の変遷があるはずだ。親日国家には意外な親日の理由

があったりして、20年前に日本付近で難破して乗組員が日本に救われて、それが

帰国後に喧伝されて教科書にも載っている、というだけであったりする。

僕は万葉集の優雅さを、それは一般的に歌から感じられるが、その時代に意識を

戻すことはできない、想像さえできない。しかし、その時代がなければ次の時代も

その変化を人々が味わってきた、その背景が経験値に刻まれるはずもないだろう。

そういうとりとめもない歴史の厚みを想像してみる。さまざまな思いや考えが

絡み合ってきた。そういう複雑怪奇な歴層というものをそれぞれの国の人々に

理解しなければならないとすると、気持ちで考えると簡単にできそうな「世界平和」

という単純な風景が、遠い見えない景色に思えてくる。それぞれの歴史や文学が

それぞれの国の言語に翻訳されるというのは、実際はどういうことを実質的に意味

しているのか、わからなくなる。ストーリーは同じかもしれないが、部分の、または

細かいニュアンスが異なっているのは翻訳ミスではないだろう。

まったくそのように、同じ内容にくくれる(象徴・抽象化)歴史を、形や道具を変え

ながら僕らはそれぞれの国への無理解と誤解をくり返している。通信機器が発達

して手軽になり、他国の文化などが一部で入ってくるようにはなった。が、地域

に暮らしているお年寄りには、習慣も言葉もわからない海外は恐ろしいだろう。

そういう理解の点で、僕らが戦争反対、と底の浅いことを言ったり、子供たちが

戦争の悲惨さを世代で受け継いでいくという、気持ちだけの理解ではその子供

の純真さは生かされない。もっとゲームをするように自由に、多くのアイデァで、

十分真剣に考えなくてはならないだろう。

戦争反対とは、暴力に対抗することだ。だから、ボクシングなどで実践的に

殴り合って、暴力の基本を経験値にしなくてはならない。クラス毎に暴力を

テーマにした朗読劇や台本をつくって、いじめる側もいじめられる側も疑似的

にどちらの側も演じあって、経験するべきだ。

暴力を知らない子が多いから、暴力から距離を置くことができず、いじめられない

優越といじめる快感を学んでしまう。それが続いて、毎年増え続けている実態は

それに対策ができていないということ。

暴力反対とは暴力をなくすことではない。あり続ける暴力に対して、僕らは

どうそれを子供に教えるか、という僕らの対応力の課題だ。そこだけが重要だ。

男が女をレイプするからといって、男をなくすことはできない。また、性欲をなく

してしまえば、誰が子を産むのか。肝心なのは、レイプへの対抗をただの法律

や対策ではなく、どういう悲惨さの根幹があるのか、そこをただの言葉だけの法や

規則だけでなく、お互いが態度で示せるほどに共有できることだ。

共有できれば、そこから対応・適応力が生まれ、引き継がれる。

暴力がなくなったら、人間もなくなる。これも気がつけば、歴史の事実だ。つまり、

暴力衝動の根源には、僕らが人間であることの重要な性質が含まれている。

数万年か前に獲得したのか、共有したのかまだ確かではないが、危険から身を

守るために選択されたアドレナリンの放出がそれらしい。これは危険を感じた

瞬間に何も考えずにさせる行動スウィッチである。僕らの世界が地域地域で

平和であればあるだけ、それは発動の機会を失う。そして、自然はそれを失うこと

に危機を感じて、暴力を世界の、地域の局所に集中させるのである。ここらあたりは

通常の感受性を越えてしまった物言いになっている。


言葉の意味を、その全容を考えていたら、大まかだが遠くまで来た。これ以上は

飛躍してしまって、テーマも混沌としてしまうだろう。自意識の範囲では、ここらあたり

で終わりにするのが、適当だろうと思う。


                                  ’19.7.28-29

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