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因果と本  島へ [本]

「頭の寄り道」で、本を読むと困ることがあると、報告した(注:アメブロ)

が、困ることではなくとも、もうひとつ報告しなくては、と思うことがある。  

本を読むと、疑問がどんどん発生して困るという、負の面ではなく、  

また正の面でもないのだが、世間は思ったよりも進んでいることだ。  

まず、因果との対面があった、50代から話し始めると、それは  

イメージなのだが極度に強い印象なので、忘れることができない。  

通常の僕らが知識を覚えるとか、想像のイメージを直感で掴む、  

といった印象とは、(大げさにはしたくないが)レベルが何段か  

違うものらしい。

そして、その印象ははっきりしていながらも、やがて僕はそれ  

が「それ(因果)」と僕にもわかる、わかりやすいイメージで  

示されたのだと、思うようになった。つまり、それを見た者は  

頭のイメージなのだから、きっと各人各様にその図を描くだろう、  

と考えたのだ。インド人はそれを見慣れた占星図のように、

曼荼羅図にみたのかもしれない。

(もし、似たような経験をされた方は、少し言葉を交わせば、

それがなにか、ほんとうに同じかお互いにわかるのと思うので、

メッセージででもお知らせください)  

その時、人生で「やった!」と思うのはしばらく後になる。これは  

ちょっと段階があって、それがすぐに「答え」そのものだと理解

できたことだ。そして、それに見える五万通りの川の流れが法則に  

見える流れ(イメージ)ともわかったので、それに沿えば、すべての  

この世の謎は解決できる、ということだった。おかしなことに  

それのすぐの感興は喜びであっただろうに、それは覚えていない。  

それよりもすぐ後に来たのが、重い「がっかり」だった。  

これは重くて、実際に落胆してしまったのだ。どうしてかと、  

それはすべての謎が時間をかければ解けないものはない、と  

誤解してしまったからだ。それは反面、間違いではないが、  

それほど単純なことではなかった。  

僕の知的欲望、ま、好奇心だが、それは強力で謎を解くためには  

三度の飯も要らないようなところがある。  ところが、それがどんな  

謎も解けてしまうとあっては、逆に重大な謎はすぐに解かないように

して、残りの謎を大切にしようと考えたのだ。 それだけで僕がいかに  

謎おたくで、知的欲求が性・食・眠・賭け・などの欲求を上回っていたか  

知れるところだ。それで短い一時期だが、自分は人生の目的を達した  

という自覚が生まれて、しあわせな気分に過ごしたことがある。  

そうではないことも、その因果の川に現れていたが、まだ因果という  

すべての解答の地図を、そこまで読みこなせていなかった。  

と言うより、因果のイメージが解答そのものではなく、地図に過ぎない、  

実際にそこに行かなくては、そこが何で、どうなっているかは、ほんとう

にはわからない。ということにまだ気づいていなかった。それさえも  

因果の地図を駆使して、考えているうちにたどり着いたものだった。  

自然の摂理は山と動物との知識と実際の交流がなければ、解けない  

ものだった。しかし、知っていることは知っていた。むしろ、それを生き  

ようとしていた。そして、それを体でも感じるようになった。無理はなくも、  

無知で無防備な、自我を忘れた日々に流れるすべてを目の当たりにした

観察で。  

そうしてやって来ると、いつのまにか僕はすべてを自分一人でやって来た

ので、それらから発見したことはすべて新発見だと、自分の知識の狭い  

守備範囲からそう思ってしまった。たとえば、バッタが道端で死んでいた、  

とそこから北朝鮮がまたミサイルをいつ発射するかまで、長い長いつながり

をたどればわかってしまう、という僕のイメージ世界だ。それはある面で  

間違えていないが、実際には現実的ではない。  

そうこうしていると、読んでいる本からポツンポツンと同じ考えが述べられて

いるのを読む。もうこの国際関係についての本質的な見方は、もう10年前に  

北村幸伯という著者によって書かれている、とか。その本質的な見方が  

すべてかどうかわからないが、その著者の考えは同じなので、読んでも  

そうなのだ、と賛意しかない。だが、歴史事項なので、どういう条約が結ばれ  

たのかという知識量はその本のほうが当たり前にあるので、そこが勉強に

なる。 皮膚に「考えるような力」があると、あいまいな段階だが思っていたら  

もうそれを25年だか、研究している人がいるとか。数少ないが、そういう本に  

当たりだす。  

僕が自身をそういう意味で過信するのは、初めて日本でマイコンという  

私のコンピュータ=略してマイコン、が発売された時に、もう僕は口笛を  

吹くだけで作曲ができるとか想像していた、期待していたのだが、それは  

まだまだで、アプリケーションができて、それが進化してからの話で、  

僕の期待からは20年も後のことだった。他にも先走りの思いつきが  

30年後に事件として実際に起こったりして、自分の耳に届いていない

ものは、全部新発見だと勘違いしていたのだ。  それでもそれは  

自分にとっては、知らなかったのだから、新発見に違いない。  

他にもそういうのがまだ出てきて、「新」ではないと。  

それよりも、最先端の世間の発見に対して、それに対しての考え方が  

脆弱な見方しかできていないほうが気にかかる。そして、それは究する

ところ、自分とはなにか、につながってくるのだ。それは個人が解決しても、

解決してもしつこくやって来る。なぜなら、それは個人でも団体でも説明

可能なことではないからだ。生きることは単純化すれば、なにかすることだ。

反対は何もしないことで、それは死ぬことなのか? そのままなら、体は  

そう解釈して、そう受け取っている。だから、その片鱗でも明らかにする

ことは体の一方的な偏見を知る、という価値がある。  

無意識に悟ってしまった人もいるに違いない。だが、近辺や世間で  

そういう情報は得られない。誰もうまく説明できない。よく同じレシピで

同じように作るのに、作る人によって味が変わる、鉄人が作ると?

うまくなる?と言われるのは、それに近いことなのだろう。その答えは

僕らの「気」にありそうだが、自己の発見はそれほど社会的に外的なもの、

既知のものにあるのではなさそうだ。  

なので、悟りについてわかったように書いてある*本はすべて誤りである、  

と言ってもさして差しさわりはない。内容の話であって、その本の売れ行き

に関わる話なら、別だが。 

このことを書いておきたかったので、今回書けたのはめでたい(笑)。  

正直ついでに、その動機も話してしまおう。それは小林秀雄だ。彼を  

読まなくなってから久しい頃、絵画についてピカソを理解したと、ピカソの

ある絵からようやくその直感にたどり着いたと思っていた。絵画と

いうもの、その世間の見方から、画家が目指すというものとのギャップ。  

絵の見方、というのも小林に学んだ。小林は「ただ見ろ」ということだけを

言っていた。それはつらい経験だった。ただ見るのは、僕らの脳は退屈で  

耐えられないのだ。その苦痛の向こうに光があった。3回美術館へ行って  

「ただ見る」ことで、計5時間くらいだろうか。死ぬかと思った、おおげさだが、  

死ぬほど初めはつらかったということ。   

それから絵を見るのは楽しくなり、一目で絵がわかるようになった。それは  

画家がなにを狙ったか、ということだ。そのためのタッチ、光やものの描き方、

色調、構図があった。そうこう10年も経っていただろう、ひょんなことから

小林の近代絵画で調べることがあり、開いてみた。ガーンッである。

「近ごろの絵は解らない、という言葉を実によく聞く。どうも馬鈴薯らしいと

思って、下の題を見ると、ある男の顔と書いてある。極端に言えば、まあ

そういう次第で、さて解らないということになる。絵はなにかを描いたもの  

でなくてはならない。そして、この何かは、絵を見ない前から私たちが  

承知しているものでなければならない。まことに当たり前な考え方で

あって、実際画家たちは、長い間、この当たり前な考えに従って絵を  

描いて来たのである。例えば、パスカルは」(小林秀雄「近代絵画」から)  

僕は小林の絵画観よりも進んだ気でいた。発見が多く、理解は素晴らし

かったから。ところが、その何年もの努力のたどり着いたものが、ポン  

と初めから書かれていたのだ。小林は抽象絵画はあまり好きになれず、  

ピカソを書いて終わっているが、ピカソもルノアールほどには深い共感の

元に書かれていない。僕は抽象絵画を発見し、好きにもなったので、  

小林を越えたと思ったわけだ。その点はわからないが、絵画というものが  

何に出会ったのかは、ちゃんと書かれていた。僕と同じ考えなので  

驚いてしまったわけだ。すでに彼は達していたそこに、僕は読んでも  

文章の意味しか読んでいなかったのだ。たぶん、潜在意識には  

入ったのだろう、その言葉の意味を方向にして、絵画鑑賞・思考を  

追い続けたのだ。どちらが先かというのが重要なこともあるが、こう  

いう本物との個人的な出会いでは、どちらがよりも、それに確実に  

出会うことの方が大事なファクターになる。  

それにしても大事な出会いとなった本は、時々それを読み返すことで  

よく言われているように、また新たな出会いがあるようだ。 12. 29


* 衒学的、哲学的とか、抽象的な言葉で書かれていれば。と言っても

それは一般論を出ないので、「大悟達」とか、言葉が大仰なものは

まず怪しい。現代で悟りについて書くとしたら、今の悟りはどうか、昔の  

悟りはなぜわからないか、悟りのイメージを壊してから、新しく構築すべく、

その説明に入ることになるだろう。 12. 30


*明日、15日に島へ出発。Wifi を用意しないので、ブログ掲載は 

1週間おやすみします。帰ってから掲載しますので、よろしく。

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