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しゃべりと思考 [しゃべり]

あれこれ考えているが、考え続けていると いけない。  

その時に行けた処までメモが必要になるからだ。 考えは  

かなり多くの概念のあいまいな積み重ねの上に現れる  

砂上の楼閣といった特徴があるから、 気を抜くとさっさと  

崩れてしまう。考え直すのは、相当の集中を必要として、 

それは無駄を加えてしまったという結果ゆえ、となってしまう。  

また、メモしておいても、このブログのように前のブログと併せて  

一千記事になっているから、プリントアウトしていても、なにを  

どこに書いたかなど、探せるものでもない。  それでもその気  

になれば探し出すしかないから、メモ代わりに書き置いておく  

ことが重要だ。  (テーマを振り分ける機能をいまだに不使用)


今まで「わかりきっている」から説明してこなかったが、実は  

そこがわかっていないという例が、次々に見つかると、それは  

一般も障害の者も含めてなのでしかたないのだが、改めて  

知性の二つの性格とその動向や、それから出てくる問題点  

などは書いておいた方がすっきりする、と思った。  

僕は還暦までしゃべりが下手だった。しゃべりと知的思考は  

知性の二大性格なのだが、どの人もどちらかが得意に傾くという  

特徴がある。そして、それはそのどちらも持ってはいるのだが、と  

いう注釈がつく。 それは英語を例にすると、見分けやすい。  

日本人の英会話が伸びないのは、文語的な英語を習い続けて  

日本語を英語に訳文してから話そうとするからだ、と言われて  

いる。つまり、相手の英語を>日本語に、その返答を日本語で  

まず考えて>英語に翻訳して、とやっているので進まない。  

苦しい。と、そのとおりだろう。  

会話の性格は、その文の正確さにあるのではなく、伝えようと  

する内容にある。  以前の例文をくり返すが、日本のビジネスマン 

が外人と話していて顔をつぶされるようなことを言われたと思った 

ので、少しカッとなったのだろう、どう言っていいのかわからないから、 

とっさに「Stand my Face」と言った。日本語で「顔を 

立てろ」は「オレの面子を立てろ」の意味になるが、英語は  

「立ち上がる」動作だから、横のものを立てるとか、倒れているから 

立てる、の意味になる。 

が、それで通じてしまったのだ。 

要は会話は通じるまで知っている単語を並べればいい、という 

くらい乱暴なものだ。そういう流れが会話というものの流れだ。  


言葉を選ぶ必要は、もちろんあるが、通じればそれがずばり  

正確でなくてもいいということだ。 会話の基本はお互いの  

あいまいさを、お互いに多分にいい加減に解釈して満足して  

いることにある。 

だから、一般に結論や先を考えて、井戸端会議などしない。その  

場の思いつきで話は進行し、どこに行くかわからない。  

このしゃべりの性格と、知的思考の性格とは、反対とは言えないが、  

相容れない性格ではある。主に論理の構成で思考は組み立てられる  

ので、目的は意義や主張などの正確さ・その正確さによって導かれる 

正しさである。  

会話的思考は思いつきなので、つっこみどころ満載で、どんどん矛盾・  

筋道のないことを言ってくる。このしゃべりと思考の調和を図れないと、  

互いに平行線をたどる。しゃべりタイプは、気持ちがわからない奴だ、 

となり、思考タイプは、言ってる筋道がわからない奴だ、次から次へと  

論旨を変えたらわからなくなるのがわからない奴だ、となる。世間では一番  

多い不適応型の言い争いになる。 この二人はしゃべりも思考もがどちらも  

持っているとは言え、かなりどちらかに傾いているのが一般的なため、  

お互いのテーマや立っている土俵がちがうのが、理解できない。  

これは今までに、地方などで村の復興のためにゴルフ場を誘致すべきだ  

と主張する村民と、天然記念物やその環境保護のためにそれに反対する  

村民との争いでよく見られた光景だ。反対派は動物が可哀そうだ、植物  

を護ろうという感情論で、賛成派は村民の経済的に豊かな収入・暮らしの  

ため、と譲らない。そのままなら平行線で、実力行使をすれば、どちらも  

傷つく。 ここに経済学者の宇沢弘文のような人が仲裁に立つと解決に進む。  

彼は実際に成田空港の建設をめぐって農民・学生がバリケードを作って  

政府に抵抗した時に仲裁に入って、双方の妥協点を見出させた。  

そのようにお互いがどう妥協点を見いだせるかが、ポイントだ。  

反対派はゴルフ場の環境汚染を攻撃するのではなく、相手の経済的利益  

に眼を向けるべきで、賛成派はお金だけの問題に集中しないで、長く  

健康に生活する新しい環境づくりにも眼を向けるべきだ。  そうして、  

どこまで経済を優先させるか、どこまで環境を犠牲にできるか、双方の  

意を汲む形で議論して、どういう妥協点が可能かを見出す方向で話し  

合うのがポイントになる。一番は双方が満足しやすいアイデァを出すことで  

それが納得し得るものなら、半分解決したも同じで、後はそれをどのように  

実施・実行していくかの問題を残すのみだ。  

というのが、思考としての基本であり、理想であって、現実はもっとヤバイ。 

反対派を崩すのに金をばら撒いて、賛成派に抱き込む、とか人の弱みに  

付け込んだ汚い手が使われたりするのが、金のからんだ問題の現実だ。 

裁判がからむと、ドラマのような事態が実際に起こる。そうなる前に当事者  

同志で話し合える場を、普段から生活・行事に組んであることが望ましい。 6.8 


しゃべりと思考で、知性のおおまかなタイプがあるということで、それだけ 

では知性の二方向を説明したに過ぎない。 この答えを出すのは少しも  

苦労しないが、どうやってこの二方向の知性を統合させるか、と考えると、  

肝腎の点がわからない、となる。 「統合」という言葉でなにを現わそうとしたか、  

ということさえ、考えると、見えなくなってくる。

しゃべらない人は、思考を使い過ぎで、そればかりで生活をしている。気楽に  

しゃべるために訓練が必要だとは変な話であるが、しゃべり好きな人が思考を  

獲得するのにも、ある訓練が必要だとは考えられることだ。  

少し飛躍させないと、論点が見えてこない。  

知性、感情、感覚という大枠で考えると、それのない人はいないが、それぞれ  

そのコントロールや習熟度で言えば、皆が皆、バラバラだ。その上、それは頭脳  

にとどまらず、心においても単一の形で存在したことはない。境界線が定まらない、  

またはない。体からの思考的な指示や信号が発せられて、それで脳がそれを  

受けて判断する事項も想像するより多くて、それぞれが神経や連絡(化学)物質  

を使っていて、その経路にしてもそれぞれが使い回しているから、これが知性用、  

これが感情用とかの区別がない。どこからどこまでの境界は決められない。  

そして、その上で知性自身の直感、感情と組んだ直感、感覚と組んだ直感が 

あって、それを区別できていない。よく知られているのは、知性と感情がコント  

ロールされ、一種統合されると、それが「理性」と呼ばれることだ。 

しゃべる人は現実感覚に対応するので、直感が磨かれ、現実対応に優れてゆく。 

生活は多く、この直感を必要とするため、検証しながら進む科学的論理的な  

態度は、時間と労力が大きいため、世間ではよく考えるより、よくしゃべる人が  

多いのはこのためかと思われる。 また、思考能力に秀でていると、現実感覚に  

弱く、プラスに作用すると、楽観的になり、マイナスは悲観的になる。そして  

思考は自分の心の状態に染まるので、うまくいかない人は暗く、悲観に  

染まりやすい。考える人が悲観的になりやすい原因はここにある。うまくいくため  

には生活をなんにしてもその中心を明るく、健康に保たなくてはならない。  

また、知性だけでは、楽観的になってもなんでも簡単に考えやすく、実行の段で  

障害が現れ、悲観に陥る。心という内側に勝利して、世間という外側(内側に 

対応した外側なのだが)に適応・勝利するのも並大抵ではないのが現状で、  

それが延々と続いている。それが僕らだ。  


あともうひとつ、多い特徴はこころ傷つくということが、感覚的に、また感情で  

理解されているだけで、知的には少しも理解されていない、わかっていない、  

ということ。 感じたままを言葉に直すだけで満足する。それで終わりにして  

しまう不思議な習性がある。 (これは次の別なテーマになる。)



よい学者というのは、緻密で持続的な論理思考が明確にできる人だろう。 

しかし、よい学者であり、社会人であるには、それに加えて社交でよく  

しゃべることもできる人だろう。そして、寺田寅彦も言うように、バカなところ  

もないと、よい学者にはなれないだろう。    



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