SSブログ

死を悼む宇多(ウタ) [悼む]

ほんとうに  

なにも ないのですね 。 



なにもない、 なにもないと 思っていた  

でも、それは  なにもないのを  

ちゃんと 受け止めていた  内側に 

大きい かたまりがあった  

なにもないことでも    外側の 

それを  同じ大きな 塊として  

向き合える  自分  

それは  大した 自分  

ほんとは 「なにもないこと」 など  少しも  

なんでもなかった  

生きる 喜びも  

自分には  見えなかったが  

たしかな 自信が   

そこに    あった   



でも、

ほんとうに  なにもない 。  


それは  もう  それを  測れないほど  

向き合えない   世界に  

変わろうとして いるのだろうか  

君が  死んでしまうから  

僕は  生きるのが  急に  下手になって  しまった  

しあわせって  何だろう、と  

考えている  自分   

まだ 気持ちの  残り香が  あるのなら  

様になった  のだろうが  



すっきりと  

心地いいくらい  

ここから  先の  なにも かも が  

切り取られ ている  

フ フ フ  グ グ グ   

流行歌も  聞こえて こない  

”ある” という   触れえない  もの  

目の前の  それを  見るための  

すべての 光が  奪われてしまう もの  



コインロッカーの  鍵を  失くしたように  

その中の  青春という言葉も  失くしたように  

思っていたが  

君には  自由は  

なかったん だね  

君には  自分が  

ありえなかったん だね  

さぞ  

苦しんだだろう  

君が  自分で  いられなかった という  

肩に 乗っているはずの  

大気の  重さのように  

見えない  象の五頭 だったのだろう  

人には  伝わらなかった  

そうなんだろ?  



どうして  

僕らは  こんなに  悲しいのだろう  

とんでもない  厚い 扉なんて  

ナイノニ !  

でも  初めての  慣れ親しんでしまった  

長く  従順に  過ごした 年月は

透明な 扉の  重そうに  見えること !  



・・・

あ~あ、 ダメダメ  

”なにもない” ことの  構造が  見えてしまう  

人は見ない  それは 秘密だから  

人が見たがらない と  思われるように  

最高の  テクニックで   隠されて  

  見えてしまうから  自然に  僕は

その 低気圧から  体を  抜いてしまう  

もう  悲しみの  感興も ・・なくなる  

”なにもない” ことが  

生きる 力に 変わってしまう  

僕の  せいではない  

でも  それは 奇妙  

なにもないのは  この世のすべてでもある、 と  

重なって見えて しまうのは  どうしてなんだろう  

想像する 必要なんて   ない  

同じではないのは  わかり過ぎるほどの  世界  

なのに  この世は  空気に なってしまう  

それを  人は  むなしさと  呼ぶんだろうけれど  

絶望とか  呼ぶんだろうけれど  



僕は  生きているんだろうか   と、  

聞いてみれば  いいのだろうか  

誰も 追いつけないのだろうか  

追いつく場所も ないのでは ないのだろうか  

洒落にも  なんない  

ビールの  ソーダ盛りにも  なんない  

たぶん  

僕らの 世界は  なんかでいられる  

そんなかで  私を知って  好きになって  
 
君には  これが いいのかな、 とか 言ってる  

必死になったり  笑ったり   背中、たたいたり  

グ フ フ  キャパ ラ パト  ポポ   

嫌いにならないで  積極的になろう、 とか  

トン、 チー ?  あたしのこと  知らないでしょ?  

話し  真面っけない?  

君の  額  狭くない?  

それが 死んじゃった 理由?  

恥ずかしくは  ないよね  



僕の 世界も  ケッキョク  狭いんだよね  

なにもない・・  どころ じゃないんだね  

ああ  悲しいのは  この  僕らの世界の  

狭さの  せいなのかな?  

オウ オウ  ウーッ  

ああ この清らかさの  一筋が  流れる時 !  

僕らは ”自分でわかったと思うこと” に  

つかまっちまうんだな   おいおい  

春風が  ポケットに  はいって  

もう それを追いかけなくても  いいんだと  

わけ知り顔に  なってしまうんだな   

それ  納得?   人生知った?  悟り?  

気づいた?  真理、真実?  やめてよ  

すぐに  捨てちまいな、とは  言わないから  



ああ この清らかさの  一筋が  流れる時 !  


僕らは ”自分でわかったと思うこと” に  

つかまっちまうんだな   おいおい  

オイ、オイ   種、 撒いた?  パラ、 メイター?  

これが  夢じゃないんだったら  

あの花の 名前を  思い出してみよう  

すっからかんに  頭を  晒してみよう  

笑う顔に  できることを  してみよう  




つまりって  いうのは  

なにもないって 言う  君の  死は  

ほんとは  ”なんでもあって  満載だった” という  

ことと   ほんとうの 君が  

つながっていなかったん じゃないかな?  

ちがったら  ごめん   



もう  君は  いないんだった  

君は  もう  いないんだ  

それは  ジェットコースターのように  

僕の心を  さかさまに  落とすよ  

明日は  君のいない 街を 、 ストリートを 見るよ   

君の いない  雨に  、 スノウに  打たれるよ  


でも  

僕は  歩くんだ  

君の  いない  この世界を !  


うざいほど  この世界を  踏んづける  

そのために !  



ふざけんな  この世界を  なぐさめる  

そのために !  



                                                                     7. 20
nice!(10)  コメント(0) 

杞憂のこと [感染]

余計な心配はしなさんな、というのが杞憂のことだが、  

シンガポールでデング熱が大流行しているらしい。 

ヤブカによってデングウィルスが感染する。日本では  

第2次大戦中に西日本で流行して、20万人が感染した 

らしい。この感染症は感染した自覚もなく、自然に治癒  

してしまう場合がほとんど。症状が出ると、風邪や胃腸炎 

のようなもので、熱も40度以上になることもある。 

まだ重篤化するシステムはわかっていない。診断は可能で 

確実な治療薬もなく、ワクチンもない。

無症状がコロナによく似ている。また、初期感染では他の 

風邪やインフルなどと見分けられないのもやっかいだ。 

重篤化は1-5%らしいが、死亡率は0,1%くらい。

1000人に1人。コロナの5分の1くらい。 

それでもコロナの流行中では、ほんとにやっかいだ。 

コロナはまだわからないことだらけで、合併症の問題 

があるのだが、よくわからない。そこへ他の感染症が  

加わったら、混乱は必須だろう。 

2014年にデング熱がニュースになったが、これから 

蚊の夏を迎える、シンガポールのようにW感染にならない 

ように願う。ベープや蚊取りを忘れないように。

今度の福岡の90人感染は非常にまずい。僕がいつも使う 

福岡空港があるというだけではなく、日本で一番の或る感染者 

がいる地域だからだ。それを言うと、また自粛警察が動きそう 

だが、感染力は弱い。そして、自粛するほうが感染を高める  

可能性がある。いずれにしても空港の発着には気をつけたい。 

しばらくは控えることだ。
nice!(10)  コメント(0) 

舞い散る日本よ [日本]

いったいなにを 期待して  ここにいるんだろう  

僕らは  いったい  どうしてしまったんだろう  

日本を 守るって  どういうことさ  

その日本は  どこに  あるんだろう  

僕らは なにを  見直すべきなんだろう  

ここに あるもの  

ここに あったもの  

それは 見えていても  見えないもの  

家族が  皆  集まるという  行事がある  

それが うらやむべき ことだったとしたら  

僕らが  気づいていない  当たり前のことだったら  

僕らは  いったいなにを 失おうとしているんだろう  

僕らは  日本に  いながら  

なにを 抱えて  さ迷い  

どこへ  行こうと しているんだろう  


ああ  さくらよ  

たしかめてよ   僕の言うことを  

約束してよ  それを 見つけると  

目の前にある  忘れているもの  

舞い散る  君の 言葉を  

語り 明かした  あの頃 のままに  


電車に 乗りながら  ガード下に  なにを見る  

どうして  ぶつかりそうになって  先に 

謝ってしまう んだろう  

信頼が  はじめにあるとは  

ほんとは  どういうこと なんだろう  

僕らは  なにを 生かしてきたん だろう  

どうして  それを  知らないんだろう  


未来のことなんて  想像のことじゃなくて  

今があるから  この僕らが  続くから  

また 子供たちも  値打ちを  測るだけ じゃなくて

僕らの 問いかけに  答えのない答えを  

探すことが  できるのさ  

君が  探さなければ  めぐり合うことさえ  

ないさ  

  
ああ  さくらよ  

たしかめてよ   僕の言うことを  

約束してよ  それを 見つけると  

目の前にある  忘れているもの  

舞い散る  君の 言葉を  

語り 明かした  あの頃 のままに 


ああ さくらよ  

舞い散ってしまう前に  

ああ  日本よ  

舞い散る前に  日本よ  

僕らの  ・・・  

毎日  食べていた   和食という  

僕らの  ・・・  

日頃の  たたずまいに それが現れて  


ここに あるもの  

ここに あったもの  

それは 見えていても  見えないもの  

家族が  皆  集まるという  行事がある  

それが うらやむべき ことだったとしたら  

僕らが  気づいていない  当たり前のことだったら  

僕らは  いったいなにを 失おうとしているんだろう  

僕らは  日本に  いながら  

なにを 抱えて  さ迷い  

どこへ  行こうとしているん だろう  





*僕は自由をめざして生きようとした。そのために日本を 

捨ててもかまわなかった。世界を家にして、どこでも生き 

られると思っていた。それはそれで間違いではなかった。 

が、還暦を回って出会ったものが10年もして、僕に日本を 

知るだけではなくて、日本に僕を丸ごと投げ込むとは 

想像もしていなかった。そうして今は、僕は日本に回帰 

するべくして回帰したことを知っている。 ”丸ごと日本、 

それが僕だ”。 これはパスポートに日本人だと印刷されて 

いるようなことじゃない。精神の烙印が押されているような 

ものだ。それがわかるし、今は嬉しいのだ。
nice!(13)  コメント(0) 

コロナに近づきたい朝もある [コロナ]

朝の5時。 

ブログを書くことが、この時間、どういうことなのか、今いち 

わからない。 書いていて、徹夜になってしまったのは、幾度も 

経験しているが、書き始めるのが、寝れない夜明けという  

パターンは寝たくても寝れない、珈琲を飲んでしまったもどかしい  

眠気を感じる。 ま、どうでもいいことだ。  



日本の精神の中心に入れるものなら入りたいのだが、それらしい  

状況がどうにも、ない。それがあれば、直接それを手繰れば、なに 

かしら手ごたえを拾えるのだが、”ない”のだ。 ひとつ浮かんだのは、 

大和魂と日本文化にはどこか共通点がある。それは軍人の言う 

「大和魂」でもなく、庶民の「日本文化」でもない、という気がする。ただ 

それぞれのその個性を外してしまって、庶民の生活に根差してしまった 

習慣・習俗には軍国ではない「大和魂」の残りと、見たままの日本文化 

ではない庶民文化・習俗の残りとに、共通になるヒントがあるようだ、 

と考えた。  

それはヒントとしてあるのではなく、それがヒントだと気づくこちら側の 

気づきが必要なことで、見たり、聴いたり、読んだりでそれが直接  

教えてくれるわけではない。 例えば、町工場の金型工場にその 

職人魂とやらが残っているかもしれない。旋盤工場や金型工場には  

なぜか同じ職場の精神的匂いがする。例えば、である。 

また外人が日本の盆栽や漆工芸に魅入られて、弟子入りしに日本を  

訪れ、中には3か月で習得して帰国するつもりが、結局20年も修行 

しなければならなかった、という人もいる。彼らはその日本工芸の  

魅力を直接話すことができるに違いない。輪島は漆で有名だが、  

その昔、漆はJapan と呼ばれていたほど日本の代表的なものだった。  

今は伝統にあぐらをかいて、時代に追い越されて、衰退の一途にある。  

そこらあたりは外人にも聞きたい。 思いついたのは、まだそれだけで 

健やかな形になるかどうかもわからない、モヤのようなものだ。 



ともかく、文化人の書いた日本論とかの記述がそういうヒントには  

ならないだろう、という(なんとはなしの)直感があるだけだ。  

それは作家・評論家などが日本に押しつけた泥ダンゴのような 

もので、調べて、洗っても、ただ崩れてもとの土に戻ってしまうだけ、 

せっかくの自分の考え・直感が泥に汚れてしまうだけ、ヒントを拾う 

のに一番苦労する方法だと、「自然に」考えてしまうのだ。  

「日本論」などと表題を自分でつけづらい、つけられないものが 

世間という巷から掘り出せれば、それこそが成功に近づけたことで、 

少しはまともなものが書けたと言えるのではないか。いささか  

逆説的で、あまのじゃくに聞こえる言い方かもしれないが、それが 

ようやっと出て来た”日本”の兆しであってみるならば、それも  

致し方なしと思うゆえんである。 



街に出たい。東京を歩きたい。 今は叶わぬ望みだ。  

コロナに近づいて、日本の匂いを感じたいが、今は地方で回り道が 

必要なのかもしれない。平成25年のように、東京上野の博物館で、 

明日から始まるというおよそ60年ごとの出雲大社大遷宮がある、 

というポスターに出会えると楽なんだが ・・・。 

まだまだ来年以降の、先の話なのだろう。  



*コロナが自粛で完全に終息することは、あり得ない。  

第2波、第3波が来なかった感染症の例は歴史上、ない。 

だから、2年、3年続くのが、当たり前。ワクチンはコロナと  

共存しましょう、というお互いを守る妥協策で、コロナの  

解決策ではない。インフルエンザが今も流行するように。 

東京200人超えるな、と4日前だかにメールを送ったところ。  

なので、例えばそれが400人、1000人に増えても驚くような 

ことじゃないんです。恐れることじゃないんです。 

それがコロナの現在です。


( 7.10 に、別ブログで載せたもの、もう十日前になってしまった)
nice!(13)  コメント(0) 

もう一回、もう一回 [もう一回]

この 悲しみを  ぶつけたい !  

この やりきれなさを  さえぎる何物も  ない !  

いちいち その日 その日の  日常を  

憂えているわけじゃない   

どうして 僕は  無意味なのさ  

そんなことが あるわけないさ と  

終わっているのじゃないと  

想像も  していないのに  

君が  振り返って くれないみたいに  

世界を  どうやって  愛せばいいのだろう  

人を  愛せば  いいのだろう  

君に  もう一度  逢いたかったように  

君にする 約束が  あったように  

もう 一度  

もう 一度  



あの時  世界なんて  わかっていなかった  

目の前に  なにも なかった  

でも  

君に  逢った  

人の悲しみは  不思議だ  

どんな事情が あるんだろう  

その声が  聞こえるような気が  

その姿が  イメージで  あるように  

幻を  愛することは  

死にそうに  愛されることだった   

それでも   君は  ここに  いなかった  

それでも  君が  愛であると  

忘れられない  なにかが  ・・あった  

それが  やまない  

やまないよ     

君を  たしかに  愛した  

この 甦る  湧き上がるもの  

君を  指し示した  この 気持ち  

やまない  

やまないよ  

幻の 君が  ここに いる  

なにもない  この あまりにも  たしかな感触  

君を  たしかに   愛した  



もう 取り戻せないと  想う  

消え去って ゆくのだろう  

決してつかまえられない  君なのだろう  

こんなに  君を  愛しているのに  

さよならとは  言えないよ  

別れなんて  わからないよ   

さみしくなれば   君を  呼ぶ  

つらくなれば   君を   想う  

僕の世界は  無意味に  なるのだろうか  

そんな  想像は  していないけれど  

なんてことに  なったんだとは  思ってる  



もう 一回  

君に  逢いたい  

逢いたいよ  

もう 一回   

もう 一回  

君に  逢いたいんだ !  

君に  逢いたいんだ !  

君と 一緒に  美しい世界を  見たいんだ ! 

これから  寂しくなっても  

いくらでも  つらくなっても  

・・いいから   

君に  逢いたい  


もう 一回    もう 一回  


もう ・・  もう  ・・  


もう  ・・  









(ミスチル: 花火から)  



*突然、今日音楽に捕まってしまった。なにかを思い出さずには 

いられない気持ち。交通事故に遭って記憶を失くした人の 

コメントがあって、この曲で記憶が蘇った、と。それが答えだろう。 


大事な記憶を呼び覚ます感情だ。
nice!(21)  コメント(0) 

とおくまでの道すがらに [道]

僕は 日本に 生まれた  

それが なにごとであるか  そんな  

思いとも つかぬ   感慨だろうか  

あるわけが  なかった  なかった  

そうして  こうして  いる   ・・いる  

僕は  なんだろう、 と  

考えの 上では  思うことができる、  

自分への  思い  

それは  熱くも ならなかったし  

深くも  ならなかった  そして  

浅くさえ  浮上する ことも  なかった  

僕は  いつ  自分を消し去る 決心を  

つけたのだろうか   

そんな大事なことなのに  自分が  わからないうちから  

早くから  ・・・  ああ  そうか   

あの時に  「自分を 信じてはいけない」  と  

声なき声に  言われたからか  

それから  どうして それが  自分を消したい、と  

その変遷が  よく掴めない   

雨だれに  時の  流れを 聴くように 

音なき音に  耳を  澄ましたら  

なにか 聞こえるのだろうか  

僕が ここに  こうしている  理由(わけ) を  

今以上に  知ることが   できるのだろうか  

ここまで来た 自分を   僕は  

よく  知っている   知って 知るほどに  

それは  思い出しても  しかたのないこと  

後戻りする  必要がない  それしか  

生きる道がない  そんなような  

心が  立ち止まって  青ざめている  

くり返さないための  ひとつしかない  道 ・・  

だった   (ソウダッタ ・) 


だから  当たり前に 来た というのでは  

ないだろうけれど  

こうして  生き残ってきたことが  

その 感じが  つかめない  

真に 存在しているのか  その あまりの 希薄さに  

生きているのか  確かめようか と  

考えてもしまう  短い  ひと時  

僕は  尋ねようと      ・・する  

生きて  よかったか、  と  

生きて  よかったか、と  

目頭が  うるんで  

 自分を   慰める  

生きて  よかったか、と  

僕は  それで  よかったか、  と  

私は  それで  よかったのか、 と  



・・・・・・・・・・・・・



いいに  決まっているのに  

それを  言いたくない  

・・・・・・・・・・・・・・・


悲しみは  ここにある  

それは  終わらない  

それは  終わらないのだ   

彼らの  頭を 撫でてやっても  

ものごとを  諭して 聞かせても  

彼らは  逃げるのを  やめない  

どうして  僕らは  やさしく あろうとする のだろう  

どうして  彼らは  正しく あろうとする のだろう  

それが  隠れて 逃げる理由なら  

都合の悪い それを  認めない 

自分に見せたくなければ  自分は  見ない  

頭を  撫でてもらいたい  だけで  

彼らは  慰安して  欲しい 

自分の不安を  自分で つくりながら  

見えない 雨を  降らせる  

涙の  悲しさの 理由(訳) を  知らない  


その悲しさに  向かうことは  彼らには  

できないことだろうか  

彼らにできることが  少ないなら  その 少なさから  

できることが ないだろうか  

せめて  

悲しさに 向かって  叫べないだろうか  

狭くなった 心から  声を  

上げることは  できないだろうか  



ああ  君よ  

やっと たどり着いた  君、  

とうとう

孤独が  一段階  深くなった  

それでも  君は  気づかない

なにも  言えない 、

君の  悲しさ   

遠い  悲しさ よ


なにも  言いたくない 、 

僕の すぐそばに いる   

儚(はかな)さ よ   



僕らを  見つめる 、

あなた  

あなたの  悲しさよ  



蚊、 とか ・・・

冬眠を 終えた 蠅、とか ・・・




高気圧 ・・・

雲海 ・・・  

翼が 1km もある  鳳凰  ・・・  




この世の  ある限り  

生きる   限り

さて、  

君に できることは  なんだろう  

君に できると思うことは  君にとって  

なんだろう ?

向き合うために  

できることは  なんだろうね  


ここまで 歩いて来たのは  

投げ出して しまうこと ではなかった さ  

なにに 捕まろうか?  

まず、  日本人に  なってみようか?  

はるかに  縄文の  海から  

航海を  始めてみようか  


悲しみと  ともに  

大海原へ  



nice!(16)  コメント(0) 

チビコウモリの晩 [コウモリ]

あのチビがまた来た。 

大雨だというので、かなりシャッターを下におろしていたが、 そこ 

から窓との狭い隙間だが、十分に通れる隙間を登っていく。 

コウモリと言えば、コロナの大元だと疑われている、ま、それは 

武漢の話だが、どうもコロナを象徴しているな、と思った。 

今度は、シャッターが下りている分、シャッター袋に余裕ができた

のか、上からそこで止まらずに姿を消してしまった。  

シャッター袋に入ってしまった? まずいな、シャッターを上げられ  

ない。 あんなチビを巻き込んだら、寝覚めが悪いだろう。  

コウモリ6.18-2.jpg

 にしても、なぜあいつはこんな危険な場所に入ってくるのだろう?  

巣がわからないではないだろう、この3,4日は姿を見かけなかった 

から。どうして巣へ帰らなかったのだろうか?  

少し、シャッターを上下させてみたが、反応なし。シャッター袋の  

他に潜れる場所があったのだろうか。 

!!もしかして、屋根裏にまでつながっているとか。コウモリなら、 

屋根裏でも歩かないから、不審な音は少なくてすむだろう、・・・・

まさか、な。  

明日、屋根裏を見てみるか。なんだろう、それでどうなるのか。  

調べる必要はあるのだろうか?  

梁があるから、見つけるのは難しいかも。  

うーん、なんだか、面倒になってきたな。コウモリが同居して  

いても迷惑、という話じゃないし。家賃は取れないだろうが ・・。  

もしかすると、屋根裏で生まれたチビかもしれない。あいつだけは  

小さいので、今だけは自分だけの出入り口なのかもしれない。 

たまたま僕がいる時に帰って来ただけで、いつも僕がいない時刻 

に ここから出入りしていたのかも。  

これって、コロナを飼うということには、ならないと思うんだが ・・・。  

これ、自分で笑って、おしまいかな。  

ヘヘ ・・。  


日々は  くり返さない  

昨日は  もの寂しく  いないのだ  

僕は  ジャズの上に  坐っている気分  

昨日も  今日 も ・・ ない  

くり返さない  昨日を  聴きながら  

同じような  一日を  噛み しだく  

自粛で だるいような  ゆるい日々  

休日は  休むものだが   かったるさの 呼吸から  

なにか  気持ちを 立たせてくれよ、 と  

うっとうしい 声も  聞こえてくる  

街角を  返してくれよ   とんがり帽子が  言ってる  

なんの 映画だったか   忘れ去る 午後 とか  

古い 500円で買える DVDに  なったんじゃなかろか  

わかるように  とても遠い 距離とか  

また お会いしましたね、と  やわらかな 挨拶とか  

ララ  ラリララ   この そばに  

なにか  言いたいことがあったような  そんな  

雰囲気だけで   どうでもよくない? と  

眼で 言われている  

・・・・・・・・・・・・・・  


そうだよな。 知らないところに入ってくるのは、野生じゃない。  

すると、やはり、ここはあのチビたち(?)の巣なのか。どこに  

でも入り込むのが、彼らのやり方で独特な安全の確認のやり方、 

があるらしい。 しかし、親はそもそもどうやって入ったのか。 

屋根にそんな隙間があるとは思えないが。  それにこの夏の  

晴れ間は屋根裏はサウナ状態になっているはずだ。だから、 

屋根裏が占有される心配はなかった、と思っていたのだから。 

あるとすれば、屋根裏から外壁との隙間があって、そこを涼しい  

ところまで下りてゆくとか。なにか、秘密の迷路になってきた。  

確かに、1階から2階への階段下はまるまる三角空間がある。  

隣が浴室だから、冬は暖かいのかも。  

昔の話だが、床下は細い蛇が一時間借りしていた。時々、 

床下の壁の細い格子の間から、外側にある水道の蛇口場に  

来て、水を飲んでいたらしい。一度だけ姿を見たが、30cm  

くらいで、大きくなれば格子は通り抜けられないので、引っ越し 

したらしい。  

こういうことは、知らずに家の誰かが動物に同調した信号を  

発したりするからだろうか。それは真面目に検討できる項目 

だとこの頃思える。彼らはそういう人間の信号から、恐らく、 

危険や安全を読み取っているのだ。彼らは間抜けではない。 

理由なく巣を決めることは、絶対ないだろう。  


nice!(16)  コメント(0) 

メールに応えて 小林とサザエさん [サザエさん]

ここでは 一般的な回答を 試みる :-


思うに、 

動物と 僕らとの間には 確実に  壁がある。  

この壁は  認識の違いとかいうもので、  動物から  

みると、 感覚の違いというものなのだが、 そういう 

認識力がないから 動物に類しているのであって  

それぞれが 生きるのに 必要な力を  駆使している、 

それは 同じで  間違いないだろう。  

苦しみは それが人間のものである限り  それは 

認識が 絡んだものであるだろう。  

僕らは 認識力によって、 謂わば頭を使って 生きている  

と 思い込んでいる。  それこそが 認識の力であり、そこ  

からくる錯覚でもあるのだが、 鏡に写ったものが 本物である  

という経験事実で  成長期を過ごし、 暮らしてきたので  

鏡に写さなかった もの・ことを 重要には考えなくなった。  

それはTVで宣伝している商品は、知らずに信用してしまうが、 

見たこともない商品は 信用しきれない、のと同じ現象で、  

僕らは  その商品を買うよりも、 見慣れた商品を買う。 

このように 僕らは広告・宣伝に 自分で確かめたわけでもない  

のに、 選んでしまうという弱い面があり、それはそのまま  

僕らの認識力への依存、自分の頭を頼りにしている、ということで、  

それは多分に、異常なことなのだが、 皆が皆ある程度はそこに 

陥っているので、周囲を見てもそれに気づきにくいという事情に  

はまっている。 

: と言うのは簡単だけれども、僕らは動物を目の前にしながらも  

動物の心は見えないように、僕らが認識への依存にはまっている、 

というのも僕が言っているだけで、誰かがそうは言っても、そうじゃ 

ない意見を持っているのでもない、微妙な事情も介在している。  

だから、動物と人との間に認識・感覚の壁があるように、僕と  

人との間にも認識・感覚の壁があるのだろう。  

考えることは、通常では煮詰まることである。これは認識の性質  

そのものだから、避けられない。なので、考える訓練を学校でも  

してこなかった場合は、準備を考える必要があっても、なくても 

すぐに行動してしまうパターンになる。失敗の経験から学んで  

準備に思考を回すようになる。それでも、何もしようとしないより 

はいい。考えもなく、行動もせず、言われるまま、流れに任せ、  

という自分の認識に自信のない人もいる。はじめからそうであった  

のではなく、周囲とのコミュニケが取れず、悩んで不安になった  

ままなのだ。そういう人は自分のプライドと認識との間で理解が  

取れないので、憂鬱になりゆくか、そうでなければ先天性か  

後天性に虐待などで、精神障害を抱えてしまった人である。  

これは普通の人と、障害はあるが社会生活はどうにかできる、 

という人との壁になる。まさに障害が障害になる例だ。  


そこで君の例に応えるには、人が陥る知性のはざまについて 

問題を絞るのがいいだろう。  

福岡のどこかの大学近くの通りから、図書館へ向かう途中で  

サザエさんの作者が幾年か住んでいたらしく、その碑があった。  

おおげさなものではないが、ゲゲゲの鬼太郎も全国展開で、 

鳥取の境港には妖怪の像が並んだ通りがあるそうだから、 

なんでも記念なのだろう、と思った。  

サザエさんの作者は長谷川町子で、日本初のプロの女性 

漫画家だそうだ。なにせ、父の死で上京した女子高生の時に、 

「田河水泡の弟子になりたい」と言った独り言に母が奔走して、 

内弟子にしてもらった。15歳だろう。天才少女と言われたが、 

ホームシックで11か月で家に戻ったそう(Wikipedia記事より)。  

サザエさんは国民的漫画になって、数々の賞を獲った日本の  

家庭を象徴する、代表的なホームドラマだった。 代表的な、と  

いう形容詞が似合うほど、僕らが一般に考えるような仲睦まじさ  

があるということで、それを皆が認めるほど人気があった。

それは皆、同じような夢を描いていたから、ヒットしたのだ。それ 

に貢献した最も大事なポイントは、長谷川町子が一度も結婚せず  

死ぬまで家庭を築くことがなかったことだ。それで夢を描き続ける  

ことができたのだろう。現実に結婚して、その悲哀を経験して  

いたら、家庭を漫画で笑えなかったのだろう。夢だからできた、 

のではないか。 同じように東海林さだおの漫画「サラリーマン  

ショ-ジ君」も面白い経歴の噂話で、早大で漫画クラブを結成  

してたが、中退してからは出版社に「漫画家になりました」という  

チラシを配って、注文が来るのを待っていたらしい。待てど待てど  

注文が来るはずもなかったが、それで就職をするのでもなかった。 

彼の出世作は「サラリーマン専科ショージ君」などだが、彼は  

サラリーマンなどしたことがなかった。長谷川と同じである。 

その経験なしで、サラリーマンの悲哀を描いて、ユーモアのある  

笑い人気がでた。本当のところ、サラリーマン経験がないから、  

そういう悲哀にあこがれるような余裕があって、夢があったから  

だろう。  

漫画の本分は現実を空想に陶冶することにある。味付けはそれぞれ  

の分野でユーモア、笑い、シリアス、涙、劇画などと違いがあるだろう 

がその様式は、知性の思考の様式によく似ている。現実のもの・ことを 

言葉でくくって、もう一つの現実=空想の現象に仕上げることだ。

だから、僕らが現実に経験して、そこに根差す経験をしているような  

ことは、夢で描く=実際に経験していないほうがいいのだ。  

これが僕らの世界の事実だ。現実を、現実の中で考えることは  

夢の中に入るのでなければ、過去から要素を集めて思考するので 

煮詰まってしまい、つらくなる。 

マルクスは貧しい中でも一家で引っ越して、さらに貧しい屋根裏 

部屋か?で暮らし、その環境の悪さに栄養不足で娘二人は死んで 

しまった。それでもマルクスは本を買うのをやめなかった。「資本論」 

は階級闘争というが、彼の実生活の恨みも含んでいるだろう。

彼は夢に賭けて、現実を犠牲にしたのだろうか。 「資本論」の真実 

をどうしても、とその世界にのめり込んだ。 その後の世界の歴史は 

資本論の旋風に巻き込まれ、名目の共産主義は今もその名で  

国家世界の片方で君臨しようとしている。  

真実ではなくて、政治の方策に都合がよかったからだろう。 現実 

の政策など、為政者の都合に利用されるのが、僕らの空想だからだ。 

空想は、ユーモア・笑い・悲哀・恨みなど僕らの共通に共感できる、 

わかりやすいものが都合がいい。  

知性が煮詰まることの危険性は、アルチュセールという哲学者を 

いえばいいだろうか。彼はマルクスを擁護する本を書いている。 

しかし、煮詰まって精神がおかしくなり、妻を殺害するに至っている。  

裁判で精神病院に入れられ、それからほどなく回復してまた哲学の  

思考生活に戻る。彼には考えるよりほかに生活が考えられなかった 

のだろう。それは悲劇だ。  

僕らの日常生活は、卑近な行動と経験で修正されて、僕らの年の功 

として、体に蓄積される。それで異常の悲劇は、ふつうに避けられる。 

僕の親父も、作家になるなら、純文学ではなく大衆作家になれ、と  

言っていた。自殺が多いからだ、と。平凡なアドバイスだったが、それ  

なりに心配していたのだろう。そして、世間も表層な面だけで、よく 

理解していなくてガンコが進み、認知症になってしまったが、煮詰まる 

と自殺もある、というのはよく知っていたらしい。父の世代ではあぶく  

のように流されていた常識だったのだ。 そうか、三島由紀夫の  

割腹自殺も あの頃だったろう。 

個人の知性を調べることは厳密に言えば、できないだろう。それぞれ、 

他の「心」や「脳」や「臓器」とのからみ・関係が重要で、それは千差万別 

でそれを解説するような学問は皆無、まったくない。 それはあいまいな 

それぞれの分野のあいまいな相談者・学者・カウンセラー・先生・ご隠居 

の狭い経験に委ねられている。 

法律家の弁護士や検事の言うことが、どういうことか、どういう判断か、 

法律家寄りか、依頼者寄りか、客観的か、それがわかればそもそも、  

自分で判断しているだろう。他人の言うことの判断がある程度つかめ  

なければ、相手の言うことに従うだけだから、相手次第で結果を委ね  

てしまう、という悲劇になる。これは矛盾ではなく、まるで判断力なく  

相談することが、始末に負えないということで、相談するなら、事前に  

最低限の予習や準備をすることだ。それさえ考えられなければ、子供 

と同じだから、冗談でなく、付き添いが必要だということで、恥だとか  

言っている場合ではない。それこそが悲劇の前兆だからだ。  


君はそんな心配はない。君は世の常識はわきまえているし、相談者 

を探しても、それなりの人物を知っているだろうし、また巡り合うだろう。  

ただ太宰治のように感覚・直感の人で それが鋭いので、現実感が 

現実において半端ないことだ。それは僕には想像だけで、容易に  

君の、現実に責められるリアルな実感をもてない。夢を大きく持た  

ないと、潰されてしまうほどなのかもしれない。だとしたら、今の夢を 

育てて実行にかかっているのだから、その事業を完成させるのを  

目指すのがいいのではないか。

ま、あまり、人のことは友人とは言え、長い付き合いだが、大したこと  

は言えないし、うまくも言えないな。



*余談:  長谷川町子が弟子入りした田河水泡は、近くに小林秀雄 

が住んでいて、その妹を水泡が見初めて、結婚したそうだ。田河の  

本姓、高見澤順子になった。 小林がつながりそうもないサザエさん 

につながっているのだから、世の中、面白い。 

その先があった。クリスチャンだったという長谷川が内弟子になった時、 

田河夫妻は15歳の長谷川と一緒に教会へ通ったという。長谷川が家に 

戻ってしまってからも夫妻で教会に通い、とうとうクリスチャンに

なったという。妻が先に、水泡は戦後に。 

田河は酒好きで、禁酒が何度トライしてもできず、そのために洗礼を  

受けたとその理由を言っているが、それだけでは納得しがたい。

が、それはその理由でも面白い。
nice!(12)  コメント(0) 

占いの蓋然性のあれこれ [占い]

まず、蓋然性だろうか、説明が要るのは。あまり、日常では使わない  

から。 言ってみれば、「確からしさ」を言う。 占いなら、それが 

当たるについて、どれだけ確かなのか、ということで、これを数理で 

説いたものが確率らしい。  

占いは、一般的にはまったく信じていない。それは数字とか、星の運行 

とか、五行とか、などの意味合いがあって、それを基本にして行う占い 

の体系があって、そうしてなにがどうなると、未来はこうなるといった、 

御宣託であるならば、それは僕にはどうでもいいものである。  

と、言ってしまえれば面倒ないのだが、それは占いの本質がどうも  

僕らが運命をつくる、という占いとは反対の意味に聞こえることと  

無関係ではないからだ。それも但し、の話で主に僕の場合は、の話 

なのだ。それは僕だけのこと、というのでもないのでまたややこしく 

聞こえるが、読んでいくとわかる。   

まず、蓋然性はどうなのか、当たるのか、当たらないのか、ということが  

聞きたいのならば、それは意味がないと答える。それは事実として、 

当たったり、外れたりするからである。と言うか、当たらなければおかしい  

し、当たるわけがないのだ。当たるわけがないのは、未来がそんな 

10個か20個かの因子(五行・惑星・0-9の数字など)で八百万(やおよろず)  

にも変化する未来が表現されて、示されるわけがないから。 しかし、占い  

が実用化されて衰えることはあっても、なくならないのは人々がそれを  

求めるからだ。需要があるからだ。それは占いの蓋然性よりも、お先  

真っ暗の未来を少しでも照らしたいから、なんでもいいから指針を欲しい  

という僕らの願いが潜んでいるからだ。積極的にはまって、今日は緑が  

ラッキーというと、上から下まで服装をグリーンにしてしまう、おかしな人  

もいるが、多くは消極的に頼っているだけで、今日のラッキーがなんだった  

か忘れてしまうこともある。 ちょっとした指針・標識を示してもらいたい  

だけなのだ。  

それに10-20個の因子では、捕らえる範囲が広く、大きいので、特に  

短い言葉ではよくよく詰めてみると、どちらにも意味が取れることでも  

占いの結果に含まれていることが多い。蓋然性が広いということで、  

ある集約したことに関しては、どう取っても当たってしまうことさえある。  

街のプロの占い師なら、それを利用しない者はいない。 相手の表情 

を観察しながら、判断して、その言葉から具体的な方向にもっていき、 

当たる蓋然性を高めるのである。すると、当たるという評判が立って、  

商売になるのだ。 

数理で世界を表現しようとした、天才哲学者のスピノザは14歳の時に、  

カバラ数秘術を研究してその荒唐無稽さにあきれ、ほぼ1年で研究を 

放棄した、と「世界の名著」のスピノザの年譜にある。  

僕が占いを信じる対象としては、放棄したのはあまりに当たるから、  

だった。これは矛盾したように聞こえるが、現象はそう見えたのだ。  

切符占いというのがあって、切符の裏に印字された4ケタの数字を  

足して、1ケタにして、その数字の意味が決められていて、それで 

電車で行った先の未来を占うのだが、やってもやっても、その数字の 

意味の傾向通りになるのだ。 一時、未来の鉄則を得たようなつもり  

になったが、おかしいと考えはじめた。どうも空気がかたくなって来た  

のだ。窮屈に感じられるのだ。 それでこれは占いで未来を決めて  

いるから、自分の自由度が奪われて、決められた運命感に呪縛され  

ているからだろう、と気がついた。  

しかし、当時は検証できなかった。後で確かめるためには、切符の  

裏の数字を改札で渡してしまう前に、見ておかなければならなかった。  

今なら、デジカメや携帯・スマホで数字をみないようにして撮影して  

おけばいいだろうが、まだ高級品で携帯が夢の時代だった。  

それが必要だったのは、僕は占いの数字で自分の運命をそれに 

合わせて決めていたのではないか、と考えたことだ。数字が  

こうなら、それに合う運命がこれから展開する、と信じたことで  

それが展開してしまう。それは結局、自分で運命を作っているのだが、  

数字の運命なのか、その数字に操られた自分の力なのか、は検証  

して見ないことにはわからない。  

この決着はつけなかった。それからは数字を見ないことにしたからだ。  

その方が気分がいいのだ。運命を決められるよりも、知らないほうが  

よほど精神衛生にいいのだ。それなら、閉じ込められるような数字  

よりも、笑顔の健康を選択したほうがいいに決まっている。  

この選択は僕は当時から、簡単なことだと思っていた。しかし、知的  

障害や神経発達障害などの世話人体験からその知識を知り、世の中  

の精神不安の現状を知り、それの改善が思ったよりも楽にできること  

ではなかった(正味2年間)経験をして、自分で味わってみると、運命を  

切り替えることは思うほど、イージーではなかった。  

つまり、それほど僕はイージーに運命を変えながら、進めることが  

できた。 ここに関わる根本の問題は依存である。それぞれの趣味、  

不安深度・震度で依存は気づきにくく、他人にも気づかれにくい。  

社会・世間では頼りになるような、または強そうな顔をするのが、  

競争社会・自分のテリトリーを確保して広げる王道だから、皆が  

できうる限りで、そんな顔をしたがる。そうでないと、人との関係で  

なめられるのは必定だから。 その日常の不安から生まれる、なにか  

に頼りたい、何かを信じたい、という心理が知られずに、強く働く。  

かくして、僕らは人間不信が歳を追うごとに深まるしかけになっている。  

不信になるから、自分の信条や威信をかたくなに信じようとして、心が 

硬くなりゆく。ガンコ者のはしりである。 これは自然な流れになっていて  

運命を切り替えるというのは、この流れに逆らうことだ。  

僕らの占い好きな人は、主にそういうストレスからの逃避に、また解消に  

とのめり込む。そこまでではない人も、不安から逃げようとする。  

そうして逃げ続けるのだが、そういう指摘は自分にされないし、誰もそれを  

面と向かって言うような関係ではないだろう。 人間と人間がぶつかるような  

密な関係で、僕らは生きるを知るのだが、それは他人のことだし、それほど  

の親友でもなし、言ってもわかる性格でなし、とそれを避けるのが世の風潮  

というやつだ。 それはあいまいさが、日常ではほぼ役立つからだ。  

切り替えができれば何のことのない不安も、放っておいて、悪化する時期も  

あるから、そういう場合だが、食べ過ぎでメタボになるし、その先は糖尿病  

などの成人病が待っているし、出なくてもアルコール中毒やセックス依存症  

などひどい状態に陥る人も出てくる。  

僕は冒険家のバカだったから、究極では死よりも自由を選ぶようなところが  

ある。運命を変えて、人間の無限の能力から、自分のを見つけてどんな生活 

もできる、というのは当たり前に思い描いていた。なので、これまでここで会社  

辞めたら、家族抱えて収入無し当てもなしという最悪・不幸という人生の  

選択肢をわざわざ選ぶことも多かった。老人になってから不幸でころびたく  

なかったから、早めに学習したかっただけだ。そうしたら、自分がとんでも  

なく平安境にいることに、気がついた。 

知らない間に、すべて乗り切って(成功)いた。    

今、占いは信じていないのに、利用している。占いによるが、その何%かは  

予測をつけるのに不思議にヒントに利用できるのがあるからだ。占い自体  

からの予測は、天性がなければ不可能だが、その人やことに詳しければ、  

少ないながらも考えるヒントになる。どのみち、未来は真っ暗だ。青空を見る  

ために拾う杖は、落ちているならどの枝・棒でもいいのではないか。それに  

寄りかからなければ ・・・。 運命を自分で切り拓けば、この上ない自由を  

感じることができる。試してみて、と言っても、無茶はよくない。無茶でなけ  

れば道は切り拓けない。(どっちなの?!)まず、自分で自分に相談できる  

直感・直観を磨いてみて。  


余談をまたしてもしてしまうが、今日も古い書類を整理していて、昔使った 

余命占いが出て来た。9×9マスに年齢が書きこまれている。自分で  

作ったものだ。その時の日時で縦と横のマスを決めて、交わった数字が  

寿命年齢だ。久しぶりに面白がってやってみたが、無駄だった。縦は  

重なったので、4通りの数字が出るはずが、2通りになった。それは1年後  

の数字と10年後の数字だった。面白いことに、僕が自分に考えている  

ことと一致していた。 このコロナで来年一杯かもしれない。それを切り抜け  

たら、3-5年後に転換点が来て、それを切り抜ければ、いいだろう、しかし、  

10年は持たないだろう、というのが、最近僕が友人に言っていたことだ。  

その考えがそのまま占いの数字に出ただけだった。僕にはそういうもの  

なのだろう。信じるから当たるわけではない。妄信もある。  


nice!(14)  コメント(0) 

輪廻インカーネイション [輪廻]

少し、なにか現実の雑用を、それは放っておいたのだが、それを 

片づけたりすると、一息入れにここにもどってきてしまう。  

今までずっと感じてきて、それは変わることがなかった実感が  

あるが、実証可能ではないので、信じる者にはそれを反証できるという  

ことになり、水掛け論は面倒だから、自分のそれは言わないでいた。  

だんだん、こらえ性がなくなって、「パラレルワールド~」から、いい加減  

なこともしゃべり出しているので、今もそうなのだろう。  

この数十年というもの、その考えを変える必要には、一度も迫られた  

ことがなく、従って、今までそういう特別な直感とかの契機やきっかけは  

まるでなかった。だから、これも客観的に考えられるというような知性の  

問題ではないし、世間のイメージを崩しても、増幅はさせないだろう。  

あの世というものを主に末法思想からの影響で、他にもあるだろうが、 

地獄などのイメージは僕らの心に、天国よりも強く残る。  

僕らの見る地獄などの夢はそれらの子供の頃からの、記憶にも残らない  

ような、無意識の底に沈んだような、古いきっかけがあって、それが 

成長してから外からの知識、映画や本などから呼び覚まされるように  

その映像などを見る。それは夢の中でこれは現実に違いないと思える、  

非常にリアルな映像でそれを見たと信じてしまう。 他人はそれを  

否定できない。本人にその錯意を自身で解く以外には、どうも解決はない  

だろうと思われるが、それは僕にしても同じことだ。  

今まではそのある種の感じる直観が、当たるから信じてしまうだけで、  

それが一度でも当たらなければ、それだけで僕の推量などは吹っ飛んで  

しまう。これまでは運が良かっただけだ、ということはこれからも常に  

勘ぐられるだろうし、自分でもその疑念を捨てることはできない。  

ここまで言い訳しておけば、反論したくてもその気になれない反対の  

意見にもならない迂闊な反論以前の見解を見ないで済むだろうか。  

では、それを言うと、  

仏教からでも有名な「輪廻転生」という言葉も事象も、それが現実にしろ  

夢にしろ、それはまったく意味を持たない、ということ。

言ってみると、やはり言わないほうがよかったと思う。だらしないね、  

それなら言うべきじゃない。  

ということで、発してしまったので、一意見として、そうしなければどんな  

説明も展開できない。ただ、そう思う、とかそう信じる、で身も蓋もなく  

終わってしまう。 

輪廻転生は仏教的な意味では詳しく知らないので、ただ人は過去生が  

あり、それが生まれ変わりで、現在生になり、それをくり返す、という 

くらいの意味だとしておこう。  

僕らが思う時間の過去は存在しないし、それは存在したことがないから  

そうなのだ。数字は一度でも自身の「1」というものを実体的に、それは  

実態としてもったことがない。ミカン1個になったこともないし、火星1個に  

なったこともない。僕らの頭で都合よく計算するために、その都度その  

「1」を表象する対象や対象物は、僕らの取り扱うものに変身する。そう  

でなくては、抽象に計算はできない。ミカンの計算をするのに、実物を  

持ってこなくてはならない。そうしなくて済むのが、抽象化のいいところだ。  

時間も僕らのいい加減で、適当な位置や点を決められる。何年何月の  

何日などは僕らの決め事であって、瞬間に移ってしまうというが、それを  

凍結できないことは僕らは経験的に知っている。 年中の行事は僕らの  

気持ちを切り替えるためのものであって、実際にはなにも変わらない。 

12月31日の23時59分も、その2秒後の1月1日0時1分も全地球的な運動は  

進んでその位置や形態、容量などは変化するだろうが、急に正月用に  

細胞や形質が変わるわけではない。僕らは過去を捉えられないのではなく  

時間という、また数字という僕らの決め事に過ぎないことに、その自然な  

内容物を求めることはできない、ということだ。  

過去がないのに、過去生を求めることがおかしい。これがひとつ。  

好きな説明ではないが、理屈ではそうなる。次に僕らが(僕らという一人 

一人の)自分がまったく同じには生まれ変わらないということを、前提で  

知っていることだ。僕らは微妙に変化しても、同じ自分ではないのに  

気づくはずだ。例えば、一卵双生児でもいろいろとそっくりなのに、また  

お互いの気持ちや考えも読めてしまう時も多いのに、なぜか二人は別々の  

人生を歩む。よく言われるのは、どちらかが幸運についていて、もう一方は  

そうなると、あまり運についていない。また、実際に一緒に生活していると、  

区別されることを求めるのか、お互いに違う性格を形成しようとするらしく、  

成長すると、別な性格になる。双子でさえ、個別化を図ろうとするのだから、  

(たとえ生まれ変わったとしても)生まれ変われば、過去の両親とは  

性格も性質も体も心も違う親から、半分ずつ遺伝子をもらい、生まれるの  

だから、過去の自分とは全く違う個性になっている。この時、もう昔の  

自分はいないのだ。それはまったく今の自分ではない、と、もしも  

(未来に転生するとして、その自分に)会えたらそう思うはずだ。  

つまり、極言すれば、あなたは生まれ変わり、別な人格の他人になる。僕ら  

の今の感情も感覚も、知性でさえ恐らく受け継いでいない。  

ところが経験値としての夢や幻についての先入観が先にあると、その映像  

や経験から逃れられず、同じ魂とやらが、次に繋いでゆくと思う。考えて  

みれば、よく納得もしていないのだが。  

僕らは自分がアメリカに生まれれば、日本人の魂なら、アメリカ人に  

ならずに日本人になるのだろうか? 過去生という記憶を持つ子供が  

いるというニュースは全世界にある。そして、学者がその真実を調べ  

ようとするが、結論は出ていない。憶測の論文が出るだけで、誰もそれを  

確定したものだとは受け止めない。それは調べれば調べれるほど、  

記憶の曖昧さや記憶違いが浮かび上がって、どこまでが真実か  

わからないからだ。記憶の信号は気まぐれだ。なんらかのアンテナや  

電線とか発信機とか、に接したりすれば地球上を飛び回るだろう。  

そこらあたりがただの憶測にすぎないし、実証ができないところだ。  

でも、その可能性を考えると、死者の記憶がどこかのまだ「自分」が  

できていない「子供」の脳にキャッチされて、子供が自分はどこそこで  

生まれた誰々だという名前を告げて、その生まれ変わりだと、周囲が  

考えてしまうのはありそうなことだ。そして、実証で首実検が行われ  

るのであるが、結果はそうでもありそうだが、そうでもなし、という幅を  

出ないのだ。死者の飛んだ信号の記憶には容量の限界があるから、  

その信号の質によって、いい結果が出たり、出なかったりする。 

信号に捕まった子供が、急に昨日死んだばあさまの記憶をもった  

からといって、子供のままから生きてゆくんだろうに。 


― : ということで、僕らはもしかして生まれ変わっても、今の自分が  

描いている未来を次に自分が歩むことは、まず”ないだろう”、という  

ことだ。僕らの考える時間枠では、それは絶対に(?)起こらないだろう。  

だから、輪廻転生には何の意味もない、となる。絵にかいた餅、という  

昔の人が言った譬えになる。  

それでは夢もなく、暗い行く末なのか、と死んだ後を気にする人は思う  

かもしれない。輪廻転生は死後に冥福を、新生に希望を託そうとする 

僕らのか弱い心情に根を張っているだろう。今がそれほどつらければ  

そうなるのかもしれない。それがほんとうにそうであれば、解決の  

道もあるだろう。逃げれば逃げるほど、現実は見えず、時に地獄の  

妄想も見てしまうから。体を健康にして、心を健全に傾けて行って  

それからは窮すれば通ず、を信じるよりないだろう。  

そういう妄想も自分で寄せ集めて作ってしまったものだから、その反対  

もない、というのは理屈に合わない。あるはずだ、ちがう生き方が。  

それを逃げずに求めれば、ということは、何かに「助けて!と求める」 

のは逃げ続けるを引きずってしまうから、そうではないだろう。気持ちを 

切り替えないと。  

まず、早朝に起きて、朝日と共に散歩することかな。  喧騒のない、  

清浄な空気の中で。 

体で大事なのは、睡眠・食事・運動と教わっているけれど、もう一つ重要  

なのは呼吸だ。まだ東洋医学の針のように不思議な枠だが、呼吸法が  

人生を変えるのは、最近気がつき始めたことだ。ヨガがお勧め。僕は  

自己流なので、詳しくないし、まだ中途だ。体の空気を入れ替えることで、  

それができるようになると、それで体全体、”気”を入れ替えるようになれば、  

「なにごとかである」と、僕は思っている。







*なかなか、思ったことは書けない。三つ以上にからまった考えや要素を  

どこからまとめようかと考えはじめるが、僕は医者や先生ではない、とそこ  

から切り捨ててしまう。 やりたいかどうかの問題ではない。 

それにしても、空想なら過去も創造できるし、未来にも、過去にも人生を  

切り替えられるし、科学的に転生の実現の可能性もあるが、何千年  

かけてもどうなるか、3年以上先の話は、とても現実的な話じゃない。
 
大局な観点や話ばかりでなく、今ある小さなことや、雑用も重要だ。


*表題の「輪廻インカーネイション」は リーインカーネイション(再生) 

をもじったもの。                   6. 20
nice!(14)  コメント(0) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。