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まだ見つからない自分の「時」 [自分]

( もう 詩を書くのを  やめようと 思うと 

 あいつが  )

必死に  土から生まれるように  

情念の 泥を  まとって  

ハスキーな くぐもった声で  歌うよ  

モグラじゃ  あるまいに  

誰も  死のうとは  しない  

僕が  こちらの方向に  行こうとすると  

まだ 何か忘れて  残っているかのように  

うめきが  したくて  

あちらの 世界が  マグマのように  

流れだして   

おう  

熱いよ  



ミルクが  冷たく 凍る  部屋の湿度 という  

もう 腐ることのない  空気 と 空間 。

大通りを  大手を振って  歩きたい  

なつかしい  ラピュタの  大工場が  

見上げた 遠くに  黒々と。  

街は  変わってしまった 、  

それでも  広い通りは  広い 舗装道 が 続く 

水道が  クラッシュして  洪水は  あふれる  

土手を 逃げる人で  流される人も  

その飛沫(しぶき)は  夢の中なのだろう  

もの怖い 光景ではなく  

僕らも  緑の 土手を 人々の  

後を   追いかける  

おう  

明るい 陽射し、ね  

生まれたての ように   まぶしくて  

家へ  帰る  ハブ駅を  探しているんだね  

  

そう  ゼンマイを  巻いてるよ  

壊れた 君を  直そうと  

唇の 端に  煙草を   加えて  

インドの 煙に  目を パシパシ  させて  

ああ  このもどかしさ  

どうすれば  どうやったら   どうにも  

じれったい  段取り  

どうすれば  どうやったら  どうにも 

Careen 、   

ならない  



この デジタルな  滴・しずく  

機関車や  蓄音機の   光と レコードが  

Careen 、

飛び交う 

濡れた コットン・シャツを  引き裂いて  

掴まえた  つもりの  滴・しずくが  

アイム  ソーウリー、  

手の中に  ない  ない!  

僕を  教育して  るの?  

歯がゆさを  はぐらかして  るの?  

言って  

言って、  

言って、  言って、  言って  

イッテ よ  



黒い油の 波に   汚れた  海岸の 岩々 

Gan  Gan  イワ   イワ  

ハー  ア  アァァァ  アィ  

ミサイルは  回転して  速度が ギュル ギュルー  

ハー  ア  ラァァァ   ラアィ  

哀しげな  二胡の  世話は  誰が?  

ポ ポ ポ   ポロン  ポロン   

スパイが  歴史を  つくるのを  

やめても   やめても  

チキンフライは  バッドゥ ガイ に  ならない  

全面 B面   全開 旋回   原価 限界  

蘭花  乱火    ラン カルフォーニア  

ねぇ、聴いてる?  サビは  まだだけど  

この渋さは  なんの サラダ  だろう  

  

見せて  

見せて  

見せて、  それを  



言って 

言って 

言って、  まだ 言えない  

その 悔しさ  を  

Bit、  You、 

その 思いやり を  

    別に   

子犬を  ドブに 蹴落とす  

悲惨さじゃ  あるまいに  



そうして  感情は  

黄泉がえる よ  

「私は  

 はじめて  

 愛を     知りました」  

それが  

君の  なんだったのか  

知らないまま  

時に  呑み込まれ  

それを  美しい 

旋律の  所為に  す る  

A N S E R  は 

i love you じゃない  



ああ  とか  

おう、 とか  

言うのも  かったるいよ  

君が  あれだよ、  あの  

銀河系の  縁まで  飛び出せたと しても  

愛は  遠いままだとは  

想像も しないだろう  

それも ほんとうだし、  

一瞬の  それが  ここに 

あるのも   真のこと、だろう  

一瞬のものが  君に  

とどまるだろうか?  

あるけど  ない  

ないけれど  あるというのは  かくも  

悩ましい、 ・・か  

ピンと 来ない、 ・・か 



君は  愛を 感じ  

愛を  見るのに  



僕は  それを  

与えられない  

そんな必要もなく  

目の前に  あるから  



・は 愛を  感じ 

愛に あるのに  



そのあり方が   

悩ましい、  ・・か 

威厳を前 に  引いてしまうか  

恐れ?  

自分は  いつから  

そうやって  

ひれ伏すように  

なったのか ?  

誰が  君に  

罪を  与えたのか ?  



そう 考えるのは よそう  

やめよう  

それは 君が  このリアルの  

上に  隠すように  こさえた  

雰囲気は  最悪の  コスチューム・プレイ (仮装)

愛は すぐ 感じても  

勝手に 現実を  構築(仮想)してしまう  

そういう 無意識な自分 を 防げない  

「自分」を 崇めることと  

神を 崇めることが  まったく  

同じと   見えなければ  

愛は  存在しない も  同じ  

すでに  死んでいる  



森の中で  暮らすと  

まるで  キャンプ状態  

洗濯したものを  広場を走って  

ロープに  乾かしに  

太陽が  ある時、  それは そうだ  

この時、 だ 

空気が ある時、  それは そうだ  

この時、 だ  

そこから 派生する  枝葉は  

水であり、    光の反射であり、  

体の 動脈であり、   草の、動物の、 

僕らの 呼吸であり、  青空であり、  

雲であり、  朝であり、  夜であり、  

星であり、  雨であり、  雪であり、  

嵐であり、  僕らの 顔や、腕や、腹や 

皮膚に あたり、  通り抜けてゆく  

風、  だ。  

この時 が  十全に  感覚されるなら  

それは  そうだ  

愛を  生産する、 その時だ  

言わなくても  それは  多くの先達が  

僕に  語っている  

言葉ではなく、 まるで  

動物の  声のように  

それは  野生の 響きが    する  

それは  内奥の  声と  

呼び合う から  





*今晩、 ゴキブリを 窒息させて ティシューに 

包んで  潰した。 僕は  ブッダのように  

蟻を 踏まないように その命を気づかって  

歩いたりは しない。 

それが 殺し合いの 始まりでないのは  

あまりに  当たり前なのだが、 当て嵌まらない   

思考= 「 善悪で 判断しようと」 =して  

それが 悪だと思う 人の  多いことか。  

それは どこまで行っても  基本で  

微妙で雑多な この世の 複雑な問題は   

それで 済ましているから 自分は   

二者択一の 考えは していない、 という 

人(僕ら)なのだ。

雨が 降る。 濡れるのが 嫌なので  隠れる。  

雨に  濡れ切った時、 心まで  グショグショに 

なってみると 突然、雨に濡れていない 感覚に 

襲われる。  

もう いくら濡れても 同じ、 かまわない!  

濡れている感じが しない。 雨は  苦しみ、 

悲しみで 濡れるのは  その中に  飛び込んで 

しまうこと。  

断食でもある、 はじめは  食べ物が  頭から 

離れない。 昼も、夜も、  食いたいだけ。  

突然、 食わなくても いい、という感覚が  

訪れる。 それは 一時期の感覚 でしかないが  

体験することが  すべて、 という 重要なファクター

外国人が  日本人よりも  日本の美に 気がつく 

ように、  比較文化が  なければ ならない。  

生活を 照らす 比較文化は  死活だろう。 

それは 自分と知、という プライドが 防衛本能 

とやらで ストップしている。 

嫌なことは 見ない、が自然と  見なされている。  

だから、言葉と知 ばかりで  金メダルもないのに  

長く続く つらいことは  しない。  


僕らの歴史が  必ず、理性的な進行を してこなかった 

その原因の 底にある根本は  そのことにかかって  

いる。   僕らは産業革命を  大きな分岐点として  

仮想と リアルに  生活の現実を 二つに 引き離し  

続けている。 僕らは 決して  死を見つめることは  

しない。 自然状態の、生の中に死があり、  死の中に 

生があるのを  見逃し続ける。  体験談などで 

それは 経典も同じで、 言葉で 解決を図ろうと する。 

仮想に生き、 リアルから 遠ざかる。 この時代も、 

次の時代も。  スピリチュアルな人の  言動は 

「わかりやすいから」  その観念世界を  歓迎する。 

それが (自ら) 生と  死とを  分離させていることに  

自らも  気づけない。

その乖離が  僕らの精神の  混濁・ 混乱・ 混沌を 

生んでいる。 

見ることは、根本的に重要なことで、 それは言葉を使わず、 

頭でも無言で  見続けるより、 ない。  

限界はわからないが、  はじめから 気にすることじゃない。  



― とか言っても、ブッダも 世界を 真には覚醒できなかった。 

死後、五百年後には  新たな解釈経典(大乗)に なって、 「無」 

とか「空」とか、 新しいブッダの「大日如来」・「弥勒」とか、  

仮想世界が飛び回っている。   すべての さとりは  自己流 

になってしまった。  千日回峰行とかは、 体の異常な 健全化、 

心の安定、  過酷な自然との 闘いになるから  尊敬すべき 

人格は  形成される可能性が 高いが、 それはさとりの  

因果、ではなく 別物な 質 だろう。


かくして、 歴史は  くり返すのだろう。

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