SSブログ

プレジデンチャル イレクション [選挙]

北アメリカ大陸に円板のように渦巻く、不穏な空気。 

ハリケーンなら見えてわかるが、見えない。 

これは大統領選挙の一幕で起きたものではなく、 

コロナへの基本的な降参ムード、それに対抗したい

反発ムード、それはトランプ派とバイデン派の対立 

構造に重なるように見える。アメリカ市民自体が 

そう感じているのだろう。が、全体ではどうにもならない

状況にストレスをぶつけたい、どうでもいい派が市民の

心中では主流なのかもしれない。

アメリカ政府とアメリカ市民、どちらかというと市民に 

その心理や性格が現れやすいが、それを書こうと 

していたら、もうそれが表出してしまった、この選挙 

直前の市民行動に。

それが銃の売れ行きが好調なことで、好調というのも 

おかしなことかもしれない。いつもの4倍とか。そこでの 

ポイントは購買層が初めて銃を買う人たちだ、という 

こと。主婦が銃を買わなければ不安になってきたという 

のは、選挙集会で自動小銃を下げて参加してくる

グループが民主党にも共和党にもいることだ。州知事の 

あるグループによる誘拐未遂事件も報道されていた 

ばかりだから、選挙後に暴動を警戒しても当然の

状況に感ぜられるのだ。黒人の青年がナイフを持って 

警官の「ナイフを捨てろ」の指示に従わず、射殺された 

が、僕らからはあり得ない光景だ。相手はナイフだ。 

何本も飛んでくるわけではない。それを一斉射撃だ。 

腕や足ではなく、殺傷目的で多数撃っている。これ 

にはテロ警戒の過剰な指示があるのだろう。ちゃんと 

殺さないと、爆弾が隠されていて、それにオンされて

しまうためだ。テロはアメリカでは現実で、日本では 

現実感がない。それで多数の発砲が異常な行動に 

見えてしまう。アメリカのその州のその現場に立てば、

それがわかる。そこには憎しみも、不安も、つまり恐怖

が通常に存在する。その異常さが今のアメリカの日常だ、と。 

(アメリカは総じて臆病な国だ。これはいずれ書きたい。) 

 それでアメリカ大統領選挙は異常な雲行きを孕んで

いる。一般的な選挙見解には僕らが思うほどの、先を

見ようとする意味はない。

どちらが勝つかというのが選挙の様相であるが、今回は 

そういう事態ではない。一般的な見解ではバイデンという、

おおよその世論調査の見方とは反対の、トランプ優勢に、

僕には思える。4年前のトランプ当選の時のようにトランプ

熱が健在だと思うからだ。しかし、今回は中国、ロシア

それにもしかすると、コロナにかけて国連のWHOからの

妨害や中傷が入るかもしれない。大国の工作については 

予想がつかない。 

楽に見ると、バイデンが国内政治をやって、対外政治を 

トランプ陣営がやればいいと思えるが、それは両方で

地盤と政策を譲れないので間違っても実現することは 

ない。やれやれ、民主主義はいい制度だが、腰が重たい 

のが欠点だ。

次の<例えばだが、>5-10年後の米中軍事衝突では、

中国の宇宙計画が功を奏して、宇宙からの攻撃を想定して

いるだろう。その頃、国連はロシアと中国が二分割して 

支配しているのだろうか。考えると、ろくなことしか考え 

ないものだ。だがリアルにこれらを調べれば、すべて

すでに着手されているものだとわかる。トランプが好きだ、 

嫌いもわかるが、対中国への過剰反応に見られているもの 

はたぶん、正常な反応だ。5年前はアメリカの軍事力は 

突出してしたが、現在はどうだろう?中国との差は詰まって 

来ている(なにしろ、中国の毎年の軍事費は半端でない)

との報告がある。5-10年後は?ま、歴史はそう直線で 

考えても仕方ないので・・・・なにしろ、コロナのパンデミック 

は世界という世間が誰も予想しなかったのは、事実だ。内実

は犯人だけがそれをわかっていたのだろうが・・・・・。


まだそのコロナ渦の展開中だとは・・・・・・いやはや。


nice!(12)  コメント(0) 

空から降る一億の星 [読書]

ここでこれを書こうとは思わなかった。 

数十年ぶりになるか、小説を読んだ。それもなつかしの 

徹夜で一気読みした、というやつだ。面白い小説の 

醍醐味だが、30年ぶり、いや、40年ぶりかもしれない。 

夏目漱石の「それから」が最も近年で読んだ小説だが、 

ところどころ飛ばし読みで、2回目に戻って来た時に 

気になった処をよく読んだ、という読み方で、とても 

最初から最後まで読んだとは言えない。 

北川悦吏子の脚本をライターが小説にしたもので、 

心理描写も少なく、台本調なので読みやすい。 

昔と同じように夢中になって読んだと言えるが、 

やはり全部同じとはいかない。 

まず、この本を見つけて購入した動機がある。 

それは深夜のTVドラマで韓国の現代ドラマを観た 

ことによる。はじめに見た時に主人公の容貌に魅せ 

られたのが一番だろう。日本でTVドラマにした時は

木村拓哉だったらしいが、韓国の俳優は配役は 

ピッタリと当てはめてくる。役柄に当て嵌まる俳優を 

探してくるのがうまいのだろう。つまり、日本のリメイク 

なのだが、韓国版のほうがよくできている。 

まだ半分しか終わっていない。その途中で、原作を 

読みたくなって、探したら見つけた。書評で結末が 

せつないというのを読んだので、おおよその見当は 

ついてしまった。 それでも最後の最後までは自分 

をのめり込まして読めたが、最後はよくあるパターン 

になっていて、そこに気が行かないようにしていた 

らしいが、結局はそうなるだろうというところに そう

なった。ふつうは感情をつかまれて、せつないの 

かもしれない。

しかし、現実はこういう悲劇にはならないだろう、という 

最後においての数多い選択肢があるのがわかる。 

これは小説の、物語の特有のテクニックなのだ。それは 

抑えられて書かれていたので、いいストーリーなのかも 

しれない。でも、自然じゃない。 

TVを観ていて、二人に火傷があるのを見せ合った場面で 

すぐに兄妹だと感じた。25年経っているのでお互いに 

知らないのだが、ここは韓国の俳優陣がいい演技を 

している。 

読んでいて次はどうなるのだろう、と展開が速いのも 

手伝って、適度な感情移入がしやすかった。僕らは 

恐らく、そういうストーリーの展開を先に読んでしまって 

いる。しかし、その先の展開の扉を開けないようにして 

いる。興味が削げてしまうから。 

そうして、その先の読みに蓋をして、興味を引きずられる 

自分を無意識に演出している。気づかずに、感動を 

先に残そうとしている。それは僕らがうまく騙されようと 

していることだ。落語を聞きに行けば、笑いを準備している 

ように、小説を楽しむとは、僕らがうまく乗せられて、泣いたり、

笑ったり、感動したいからだ。恋愛小説を読んで、初めから 

感動なんかしないぞ、と構えて読む暇人なんかいない。 

くしゃみをする時のように、うまく調子を整えないと、くしゃみ 

ができないように、僕らはうまく泣きたいのだ、うまく感動 

したいのだ。それは満足したいから、だから、泣くにしても 

慰められるにしても、なんにしてもそれは僕らを気持ちよく 

させるという意味で、それらは楽しみなのだ。それでお金 

を払って、映画を観たり、小説を読む。それがどれほど 

大衆的であろうと、高尚な趣味であろうと関係ない、

浪花節であろうとクラシック音楽であろうと、また 文学 

小説であろうと哲学であろうと、ゲームであろうと 

理論物理であろうと関係ない。要はそれである種の 

カタルシス・昇華・消化・発散をしたいからなのだ。 

中でもライトノベルや大衆小説は、僕らの先読みをうまく 

外しながら、結局は僕らの思い通りのまたは、意外でも 

満足させるような結末に導いてくれることを願っている。 



**だから、そこでどんなに感動しようとも、それは架空の 

世界の夢であって、現実の経験にはならない。むしろ、現実 

の悲惨な関りから一時的に避難・離脱するための逃避行 

なのだ。 

老練になったような政治家は漫画を読まない、興味がまったく 

持てない。地位や名誉、利権という財や名前・権力にしか 

興味が行かない。それだけ現実との交渉が楽しいというの

だから、そこには張り詰めた緊張と感情をコントロールした 

気づかいのバランスがあり、隙を見せずに痛くはない隙を 

わざと見せて、四方からの圧力に常に耐えている生活力が 

なければならない。 

一般は現実と虚構の夢との間でバランスを取り、トップたらん 

者は権力と現実との間で夢を見ようとする。そのどちらも 

極端には実行される例は少ないが、僕にはその間で緩やか 

であるにしても、そのどちらにもしあわせはないように感じる。 

そのどちらでもない道はいくらでもあるのだが、そのどちらにも 

僕らは自ら巻き込まれようとして巻き込まれているように 

見える。そして、気がつくものは少ない。少ないから他の人も 

お互いに気づけないのだが、その大きな特徴は現代の情報 

の遮断と妨害によるフェイク・情報操作・デマである。その言葉 

は知っているが、実態には触れることができない。 

日本人は洗脳されているが、精神文化や特殊道徳観によって 

守られている部分があって、それに支えられている。不思議な 

取り合わせでそれによってギャップを知らない不幸よりも幸福を 

感じる大勢の人がいる。 

高齢者からという無料のインフルエンザワクチンだが、予約で 

一杯らしいが、僕は申し込む気はなく、無視している。

ビルゲイツが自分の子供たちにはコロナワクチンを受けさせない、 

と言ったという噂があるが、デマ情報だろう。自分の財団が 

投資している多数の製薬会社の開発よりも進む、他社のコロナ 

ワクチンの臨床実験はスパイや偽患者を送り込んでも邪魔する 

だろうが、自分の支配下のワクチンならどれがほんとうに効果

があって、副作用もないか知っているだろうから、自分の子供 

にはそのワクチンを投与するだろう。 

イタリアのサラ・クーニアル議員が国会演説で::

<この目的としては、農業、テクノロジー、エネルギーに対する

支配権を得ることです。彼はその宣言で文字通り言って

ますよ。「我々がワクチン、健康について良い仕事をすれば、

世界人口を10%から15%削減できるだろう」と。彼は続けます、

「大虐殺のみが世界を救うことができるのだ」と。

 彼のワクチンのおかげで、アフリカの数百万人の女性の

不妊に成功しました。そして、ポリオ流行をつくり出し、インドの

50万人の子供をまひさせたのです。今現在、彼のDTaPワクチン

(三種混合ワクチン)は病気そのものよりも死者をもたらしている

のです。>


::と、ビルゲイツ(文中の”彼”)財団の世界人口削減計画について 

述べているのはほんとうなのだろうか?また、この翻訳がネットで 

ある程度拡散されているが、大元の情報は新聞などに載った 

のだろうか? この手の情報はリブログして済ませる情報では 

ないのだが、・・・・。  なにしろ、都合の悪い情報はどんどん 

潰されてしまう。で、自己責任で拡散するのだが、受け手も 

自己責任になるので本物と自分でわかる手段がなければ 

信じきれない。そこで本物の情報ほど埋没してしまう。 

だから、海外の情報など海外のマスコミの翻訳情報なので 

(日本には本格的に海外で活躍できる人材がいないと言える

くらい少ない)、新聞やTVニュースを見てもわかるのは、偏向 

したニュースか、部分の報道でしかない。しかし、多くの人は 

それが事実だと信じてしまうのだ。まるで疑わない。確かに、 

そのほうがしあわせだが、 ・・・・。

― :: 余談。 
nice!(9)  コメント(0) 

アリはなぜちゃんと働くのか [アリ]

突然、出てきたようなテーマだが、本人としては長い間胸に 

あったテーマで、ここらで本棚に埋もれていたアリ本も見て

しまったので考えてみたいと思った。

カレコレ20年の前か後か忘れたが、この本の前に手に入れた

アリの本があった。それから少ししてこの「アリはなぜ

ちゃんと働くのか」を見つけて購入した。 

読まないで、アリについての疑問はずっと抱いていた。  

まず、アリを特定しよう。 蟻は現在、生きている種類は30属 

12,000種以上というから、特定しないと、その特徴を 

言っても、知っているアリとは共通しないかもしれない。

場所はアメリカ、アリゾナ州のアリゾナ砂漠の蟻で、アカ 

シュウカクアリ、である。日本語で赤収穫蟻、だろう。

体調10㎜弱なので、日本で見かけるアリより大きい。 

兵隊アリと呼ばれるアリに近いかも。(ただし、兵隊アリ

はデカいだけで戦わない) 

アリゾナ砂漠では一番大きい蟻である。著者のデボラ・ 

ゴードン女史は大きいので見つけやすい。研究に適している、 

と合理的説明をしているが、あながち手抜きをしたいがための 

言い訳ではない。なにしろ、砂漠だ。暑いのである。なるべく 

労力を省くようにしないと、研究の前にバテてしまうのだろう。 


細かいことは省くので、生態やコロニー、その他のアリとの交渉、

巣との環境や関係について詳しく知りたい方は本を直接、読まれ

たい。(新潮OH!文庫)

人間の社会と比較すると、アリのコロニー(巣や巣山)がその 

対象なのだが、ここで面白いのはコロニーの不思議さがその 

比較でも現わされていることだ。コロニーは人間の社会という 

よりも人間の体に似ている。それは寿命のことをいう。 

人間は通常、生まれて死ぬまでが一生だ。再生はしない。 

これからの未来ではナノ技術からアンドロイドのメカ再生 

までは普通になるだろうが、今の時点ではそれは先の話に

なる。

コロニーは女王アリと翅のあるオスアリの群れで砂漠を飛び、 

それほど遠くなく、近くもない場所で交尾して、それから土の 

柔らかい場所を探して、掘ることから始まる。それは年に1度、

夏に雨が降った日の後の晴れた日であることが多い。地面が 

雨で濡れたあとで、掘りやすいからだろう、と。

で、それが意外に重要なことで、交尾したあとの女王アリは 

掘る場所を探して砂漠を走り回る。もう翅は落としている。 

その場所を探している間に、鳥や同種のアリや大きなアシナガ 

アリに襲われてしまう。命がけなのだ。 

女王アリは40㎝ほどに穴を掘ると、急いで入口を塞いで卵を 

生むことに専念する。というか、仕事はそれだけで、他には 

なにもしない。長生きのコロニーは15年~20年というから、 

その間卵を生み続けるわけだ。生殖能力を最大に生かす選択を 

したのだろう。女王という名前は意味がなく、権力も特権も 

なにもない。卵生産の専従機である。王でもないし、誰も 

コロニーを指揮しない。

だから、砂漠に降り立った時はオスが群がるが、オスは口が 

ない。なんと精子を植えるだけなのでなにも食べる必要が 

ない。1~2日で死んでしまうというから、その時は砂漠は 

オスのアリの死骸があちこちに見られるだろう。 

最初のコロニーは1,000くらいも作られる。ところが、そこから

は近隣の成長したコロニーとの食料調達の競争になる。大きい 

コロニーに挟まれた新コロニーはほぼ次の夏を迎えることはない。 

まったく生存競争である。1歳のコロニーは200くらいしか残らない。 

2歳まで生き延びると、近隣のコロニーが与える影響はぐっと小さく

なり、餓死させられることもなくなる。共存共栄らしい。

ただし、夏に生まれた新コロニーに対しては女王アリを掘り出して、

殺してしまうだろう。

ここで奇妙なのは、最初に言ったように「再生」しないことだ。 

女王アリが死んでしまっても、新しく生まれた女王アリはその 

コロニーを受け継ぐことも、次の女王になることもなく、そこの 

働きアリたちが死んでしまうと、コロニーは滅びる。つまり、 

コロニーは一世一代なのだ。人間で言えば、生まれたら死ぬ、 

という肉体と一緒なのだ。 生まれた処女女王アリは飛んで 

行ってしまう。まるで子供が他で生きる場所を見つけるように。 

僕らは人間の社会を基本に考えるから、奇妙に思うが、自然界 

では奇妙なのは人間の社会のほうかもしれない。王や大統領など 

の指導者がいてその下ではそれぞれが役割を分担、それも職業

という分野を選択するというのは。

人間の社会は合理的ではなく、アリのほうが命令系統もなく、

自動的に働くというのはよほど効率がいいのではないか、と。 

そう考えればそうだが、アリのコロニ―には平均10,000匹の 

働きアリがいる。しかし、巣から出て、食料を探す班と探した

食料を運搬する食料収集アリがいて、足しても3,000匹である。 

食料の移動や女王アリの世話や卵の世話という仕事はあるが、

残り全部がコロニー内で働いているとは考えにくい。恐らく、 

なにもしないアリのほうが多いのだ。 

数千匹のアリが必要か?これは新参の僕らにはわからない。 

遺伝子の分析でわかったのは、アリはジュラ紀か白亜紀あたり

のミツバチの祖先から分岐したらしい。1億年前、その前後で

ある。 人類はアフリカで生まれた500万年前の猿人から 

とされている。知恵がついたのは、紀元前三千年前(文字 

の誕生)、現在までの5,000年から6,000年が歴史時代と 

されている。アリのほうが99,995,000年も長い時代を 

過ごしている。予備のアリが何千匹いようが、僕らが 

口を挟むことではない。 気持ちとしては、だが、口を 

挟めるのが虫・動物と人間の違いでもある。 


そこで思い出すのが僕らのDNA配列である。ヒトゲノム

は人一人30億の塩基配列でできているが、その遺伝子 

情報はたったの2%。98%は非コードでゴミ扱いされて 

いたこともあったが、今は新たな研究がされている。 

ヒトとチンパンジーとではその情報の違いが200くらい 

しかないという。30億分の200とすると、人間はほぼ 

チンパンジーである、その情報では。なので、同じ 

人間では99,9%が同じ遺伝子情報を持っている。僕らは 

見た目も、心もずいぶん異なっていると、違いを強調 

するかのように感じているが、まだ全開放された自然で

いうと、30億分の1ほどの知恵しかないのかもしれない。

それは不確かにせよ、体は29億4000万もの予備DNAを 

用意しているのかもしれない。アリより凄くない? 


命令系統がなくても合理的に働くアリはコロニーを 

生きる単位にしている、と言える。それが奇妙に見える 

人間という言葉を発明した動物は、そこになにを見出し 

たから、そこで社会の性格が決まったのか。明確に 

わかるのは、昆虫や植物、動物の世界では地球という 

ものはない。人間だけが地球を考え出し、自と他を感覚 

で分けるのではなく、自分から見た他のもの、他のもの 

から見た自分を脳内に描き出す。この描き出す抽象性は 

自然のものかもしれないが、生物感がないように感じる。 

すると自分では生きられない、生物ではない寄生して 

初めて生きることができる無生物が想像される。その 

第1候補はやはりウィルスだと思われる。極端に結論を

急ぐなら、僕ら人類はウィルスと共存しながら、ついに

はウィルスにより矯正された歴史を育んでいるのかも

しれない。 

ミトコンドリアは全細胞内にいる。平均で細胞1個に 

300~400いて、エネルギーのやり取りをほぼ行っている。 

その起源は20億年以上前らしく、詳しいことはわかって 

いない。だから、人間がどの猿人か、その前の猿か、と 

いう段階でミトコンドリアを取り入れたかは、議論の 

しようもない。海に吐き捨てた唾を1日経ってから、取り 

出す方がやさしい。ミトコンドリアは古菌類から派生 

したらしく、もちろん、人間由来ではない。 

では知を生んだのは、ウィルスか?それはまだ発見されて 

いない。アリにしてもどんな生物にしても、ひょんなこと 

からそういう大発見がされるのが、自然のなりゆき、と 

いうものだ。

アリはなぜちゃんと働くか、読んで共感して、感心する 

ばかりでなく、自己の自然経験に照らして、別な観点 

からの発見は見込めないだろうか?  

 くり返してばかりだが、答えは目の前にある。それは 

間違いない。君がよい科学者になるのなら、知からの 

観察だけではなく、心からの観想も必要とする、と 

あの明治の人も言っていた。僕もそう思うよ。


nice!(17)  コメント(0) 

ラストSomeone Specialクリスマス [クリスマス]

どうすれば いいのか  

そうは言っても  なにかあるのか 

なにかが ひっかかって  なにかを 

待っているの、  でもない  

そう、哲学的な 言葉などを  

待っている、 そういうポーズは したいの  

かもしれない 

右に向けた  顔と  

左に向けた  顔とを  

交換したいのかもしれない 

そこから  なにか  興味深い  

秘密とやらが  紫色で  

煙のように  昇ってくる  

そんな 期待を  したいの

かもしれない  

何もない、というのは  

どうにも  どう表現して  いいのか  

困るよ ね 

ただ  遊んでいるだけ  

言葉で  遊ぶなんて  

何十年 振りだろう  

野心的だった  作家を目指していた  

あの頃に  していた気がする 

部屋で  埃が  匂っていた  

あの 空気の 臭さが  なつかしく  

あの頃の  自分に  わけもなく  

な・ぜ と  尋ねたい気が するのは  

ブルー なんだろうか  

そんな気が  するだけで  

すましたほうが  いい、 と  ・・・

E N D 

そう!

そう、 運動を  しようと思うのだよ 

手を 動かし 

足を 動かし  

手と 足を  バラバラに  

動かしても  走れるぞ! と  

自慢したいぐらいの  

雪の  滑走をして  

森や  林を  飛ぶ  

今年も  クリスマスで  あの 

疲れた トナカイで  サンタは  

ぶっ飛んで  来れるのか 

助けて あげなよ  

舞台で  骨折して  観客の  

笑いを  誘いなよ  

おおい! なんで  注文した  

皿が 出て来ないんだ  

なにか 気に障ることした? オレ? 

カウンターを  滑るように 

寿司屋なのに  トンカツ かよ 

機嫌なおったのか  もっと  

まずくなった ?  

カウンターの端に  彼女が  

頬笑み 決めて

立っていたから  ま いいか 

と トンカツが  半分ないぜ!  

と、 盗られた !!  

So This is ChristMas !!  



そりゃ  ない  

ここらで  目覚めても いい頃  

耳の リンパ腺まで  腫れてきたぜ 

いい味加減の  鴨 スープ  

七面鳥は  売り切れかい?  

町田の 細い、小さい店の  商店通り よ 

まだやっているなら  

まだ メニューは  変えるなよ  

気分も  まだ盛り上がってない 

なんて  四角い ビーフを 寄こすんだ 

聞こえてきたよ  

雨の ・・・、  そう  ドロップ レイン  

ファンファン  19世紀の  音かい 

高く  おう  高く、  

低く  おう  低く、  

歌うよ  伝統の 岩の上で  

気高い  人間たちの  合唱 よ  

まだ  そんなところに  

残っていたんだ  

Someone  Special 

だんだん  

だんだん、  

  だんだん、 

宴が  終わるようだよ  

その黄色い 派手な 横断幕が  

色あせて  しまうんだろう  

白い霧が  地を 低く  這う  

それは  惜別の情を  焦がし  

片唾を  呑み込むのか  

恋の 看板を  片肩に 

かけたまま  ううん  ・・・  


Someone  Special ・・・ 


Tell  ミィ  ベイビィ  

おう  憐憫の 情  

おう  家庭科の  落ち着かなさ  

おう  愛したよ  

おう  月が きれいだね 



Someone  Special ・・・ 



Tell  ミィ  ベイビィ  

おう  憐憫の 情  

おう  家庭科の  落ち着かなさ  

おう  愛したよ  

おう  月が きれいだね 


どうすれば いいのか  

そうは言っても  なにかあるのか 

なにかが ひっかかって  なにかを 

待っているの、  でもない 



秘密とやらが  紫色で  

煙のように  昇ってくる  

そんな 期待を  したいの

かもしれない



あの頃の  自分に  わけもなく  

な・ぜ と  尋ねたい気が するのは  

ブルー なんだろうか 



Tell  ミィ  ベイビィ  

おう  憐憫の 情  

おう  家庭科の  落ち着かなさ  

おう  愛したよ  

おう  月が きれいだね 



おう   ・・・

おう  ・・・  



Tell  ミィ  ベイビィ  

おう  憐憫の 情  

おう  ・・・・・・・・・・  

おう  愛したよ  

おう  月が ・・・・・・・・・



・・・・・・

・・・・・・


・・・・・・ 
nice!(14)  コメント(0) 

ナンガを追う 1. [山岳]

ラインホルト・メスナー    鉄人であり、哲人。むしろ、 

超人と呼ぶべきか。 世界には山岳の最高峰はエベレスト、または 

チョモランマ(中国政府によるチベット名)で標高は8、848mと 

される。世界の屋根にはチョモランマの他に17峰、全部で18峰の 

8,000級の山岳しかなく、これをすべて頂上制覇した人類最初の 

男がメスナーだ。 

と、言うのは簡単だが、僕は言いながらため息が出る。僕らは 

8,000mという世界がどういうところか知らないから。僕は山岳 

の経験から、それを拡幅して実感を比例させて、想像することが 

できる。想像するだけでも、死なないのが不思議なくらいだ。 

少しもオーバーな言い方をしていない。それが事実であるから 

それがどれくらいケタ外れなことか、明かしてくれる。  

少し、肩を落として、深呼吸する。 

探していた本を見つけた。「ナンガ・パルバート単独行」である。 

メスナーが書いた本はいろいろだが、この本は珍しく内省的に 

書かれている、唯一の著作だ。 瞑想しているのである。 

この本にだけメスナーの数ある本から最初に出会えたこと、 

それが唯一の本であったことに感慨を禁じ得ない。その時に 

は非常に興味深く読んだ。 

このように書いた本がメスナーに他にはないことに不思議な 

感を覚えた。因縁があった。この山でメスナーは弟を亡くして 

いた。一緒に登ったが、最後のアタックで天候の悪化予報の 

ため一人で登頂を目指したが、弟が自己判断でついてきて 

しまった。一人分のザイルしかなく、登頂はしたが、弟が 

消耗が激しく同じ壁を 降りることはできなかった。 

壁の途中で厳寒の中一泊しなければならない。そして、行き 

の壁を諦め、比較的楽な裏側の壁のルートを選択したが、 

メスナー最後には弟を見失い、自身も倒れ、凍傷になり、 

動けなくなったところを地元の人にかつがれて助けられ、 

通りかかったパキスタンの兵士のジープで帰還できた。 

本国に帰ってから、凍傷した足の指6本を切断した。そして、 

この後17年をかけて8、000m峰18峰の制覇に乗り出す 

のである。 

このナンガの本は完全にひとりでナンガに成功した最初の 

記録である。それも直前にエベレストを無酸素登頂を成功 

させた、そのすぐ後に登っている。 


僕が追うのは、この本の記録だ。メスナーを兄弟ほどにも 

感じた、その内省の記録だ。 

目次の後に5行の言葉が全1頁に::

「思わぬときに心の中からほとばしり出る孤独感には

きみを殺してしまうほどの力がある。 

だが、うまく役立てることを心得ていれば 

今見える地平線のはるか彼方まで 

きみを運びあげてくれる力がある  」  

この言葉は自然とお互いに共闘する人間のための言葉 

なのだったと、改めて思う。僕は自分の内省を一般的に 

感じて、一般的に使ってきたが、ここに書かれていようとは 

思わなかった。読んだのは恐らく40年近く前だったから。 

「ナンガ」という最初の章の見出しにも8行の言葉が載って 

いる::

「サーブが自分を駄目にしてしまうのは

なにもかも知ろうとしながら、何ひとつ見ていないからだ。

サーブは技術しか信頼しない。

サーブはどこでも、いつでも分類したがる。 

サーブは孤独を恐れて集団をつくるが、

かえってその中で孤立してしまう。 

サーブは死を黙殺しようとして、絶えず考え、考え、 

考えてばかりいる・・・・・・。  

      パンポチェ出身のシェルパ ダワ・テンジン  」 

この言葉にも最近のブログ記事と重なるので驚く。 

ことは柳宗悦が「蒐集物語」で述べていたのを端的に 

現わしただけで、どうも死の危険と隣り合わせの、なんに 

してもエベレストの死者の40%は登山者に随行する 

シェルパというからどれだけ危険かわかる、そういう人 

たちは同じ真実を見るようだ。考えるな、まず見るんだ、と。 


<一人の男と一つの山>::

「切り立った岩の段を攀じ登って上に出る。息を切らせながら、 

もう後には退けないことに気づく。体はまるで萎えたようだ。 

テントの中は寒いのに汗をかいている。顔のすぐ上にある 

薄いテント地に霜がついている。ぼくは何かどなるのだが、 

その声は聞こえない。ぼくは自分をとらえたこの恐怖感を、  

膚で感じとっている。不安のあまり叫び出したかった。

 半ばうとうとしながら、前もって考えた登攀動作をあらかじめ 

心の中で思い描いてみようとした瞬間、突然自分が孤独で 

あることに気がついた。腹の筋肉が不安のあまり引きつる 

ほどの孤独を感じたのだ。 」  

彼がいるのは岩の壁の途中である。ちょうどサナギのように 

テントにくるまれるように、ぶる下がっていて、夜の中で氷結 

と闘う。両腕、両足を星を眺めながら、マッサージする。  ::  


「自分を取り戻そうとする必死のあがきが、体内を渦巻いた。 

どうしてこのようなパニックに襲われたか説明はつかなかった 

が、この恐怖状態はまだまだ続いた。これは、そこにいるという 

恐ろしさ、これから先もやらなければならないという恐ろしさ、 

そもそも人間であるという恐ろしさだったのだ。僕の体を萎え 

させたのは、墜落を恐れる気持ちではなかった。自分自身が 

この孤独の中で失われてしまうのではないかという恐ろしさ 

だったのである。  」  

これは1973年に1日張り付いた壁を途中であきらめて、翌日、 

ベースキャンプに戻る時のことであるが、突然の孤独に対し 

ての独白が綴られている。エベレストとナンガに向かう5年前 

のことである。



* このレポートは僕が気に入っている個所まで書いたら 

終わりにしようと考えているが、今、改めてこれに挑戦する 

意味が感じられる。その意味を思うと、僕がそれに納得を 

図れるようなことが起きたら、そこで止めてしまう可能性も 

ある。どのみち出たとこ勝負だ。

nice!(12)  コメント(0) 

知の完全主義と賢治の理想 [理想]

最近、残念なのは書く前の、あの独特な雰囲気が 

遠のいてゆくように感じることだ。これは当然とも 

言える、と僕は考えている。 

ひとつはそう感じないことは、以前の、そのまた 

以前からそれがある種の胸のつかえくらいにしか 

感じられないことで、もともと直接に感じる明確性 

がないのだから。 

もうひとつは僕が自身に瞑想ではなく、ごく日常でも 

どんどん透明さを感じ始めていることだ。自分という

”我”を離れずにどこまで傍若無人に書けるか、という 

意気込みもあったが、今ではそういう自分の匂いに 

嫌気を感じる時がある。

自分という状態から離れていることが長いと、それは 

当然のように自己感覚を失う。それは内奥を除いて 

は、無感覚のことで、それは無感動に通じる。筈なの 

だが、僕は 見ること聴くことで感覚の新鮮さを 

取り戻すことができる。 

それは一部でも、瞬時でも効果は抜群なので 

たゆとう生命感がいつでもどこにでもあるのを 

感じることができ、なにもしなくても退屈する 

ことがない。 

と。 だが、それも最近は一時的にしか使わない 

ようになった。なぜか?自由過ぎるからだ。その 

感覚は良好であっても、それは他の苦痛・悲痛 

にある生命との乖離をどうしても意識させる。 

自然との間にある愛や、時に愛情さえも それを 

受取っている自己意識に瞬間戻り、その孤独を 

感じるのだ。私だけが幸福で、人はどうして幸福では 

ないのだろう、と他人が聞いたら、いい気はしない 

感想が浮かぶ。 

ま、他人の幸福を喜ぶいい人も多くいることは確か 

だがそうでない人のほうが多い気がするのはブログ 

が「幸福になろう」とか「悩みはこうして解き放つ」 

という風のジャンルにエントリーしているせいも 

あるのだろう。  

こうして書くのでも、自分の意見なりを少しでも 

表出することで、自己への掲揚にも自己の慰撫 

にもなるからだろう。少しでいいのだ、自分に言葉 

をかけてやる思いやりの時間があれば。 

半世紀の半分は自己と自己との内部葛藤だった 

から、他人から慰められる暇はなかったので、いつの 

間にか、無意識世界にある愛から生きる秘密の 

ページを人知れずめくっては楽しんで、自分を 

慈しんでいる、という気がする。他人に容易に 

伝えようもないものを抱えてしまった者としては 

やむを得ない手段だったのかもしれない。 

30年も前に、一人で生きる、という実験をして 

死に損なって、これは戻るしかないと意識を 

変えた時に、愛が入って来た。 

それで今はひとりで生きているような風になって

しまったのだから、愛もまた逆説的だ。  

人間はやはり、内面で生きる自分と外面で 

生きる自分がいて、内面では一人でしか生きら 

れないというのは、僕の場合は真理として働いて 

いる。  内面の葛藤は自分が内面においても 

ひとりではないという証拠で、それを許容する

ように統一して意識が働くようになると、または 

働かせるようになると、とても矛盾した人間に 

なり、またそれが平気になる。中学の時に 

教科書で「完全な人間を目指して」というような 

どこかの生徒の作文を読ませられたが、その 

欺瞞さがわかるし、そういうように持っていく 

のが自分=知というものの欠陥のひとつ、 

完全主義・理想主義だとわかる。 



余談だが、童話「銀河鉄道の夜」で有名な宮沢賢治 

が亡くなって、ポケットから手帳が出てきて、その中に::

「 雨ニモマケズ 

 風ニモマケズ 

 雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ

 丈夫ナカラダヲモチ

 慾ハナク

 決シテ瞋ラズ
 
 イツモシヅカニワラッテヰル

 一日ニ玄米四合ト

 味噌ト少シノ野菜ヲタベ

 アラユルコトヲ

 ジブンヲカンジョウニ入レズニ

 ヨクミキキシワカリ

 ソシテワスレズ

 野原ノ松ノ林ノノ

 小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ

 ・・・・」  

ーの、メモがあった。 賢治はこれを自分の座右の銘 

として、むしろ時として弱気になる自分を叱咤激励、 

鼓舞するものとして、自分のために持っていた。 

書かれているのは賢治の理想であって、感動的なのは 

賢治が天才詩人だからであって、賢治自身はそれが 

理想であり、完全主義だと知っていたはずだ。だから 

きれいではない字で読みにくくメモッただけなのだ。 

教科書に載せると言ったら、反対しただろう、と僕は 

思う。人に勧めるものではないし、まずは人に見せたく 

なかったはずだ。最後は::

「 ミンナニデクノボートヨバレ

 ホメラレモセズ

 クニモサレズ

 サウイフモノニ

 ワタシハナリタイ

 南無無辺行菩薩
 南無上行菩薩
 南無多宝如来
 南無妙法蓮華経
 南無釈迦牟尼仏
 南無浄行菩薩
 南無安立行菩薩    」 

賢治は最後に「サウイフモノニ   ワタシハナリタイ」 

と書いたのだ。その後のお経は教科書では省略され 

ている。なにもわかっていない。これは賢治の祈り 

であって、希望や目的といったものではない。 

人間の修羅というものを見続けた賢治が死ぬ直前に 

見たであろう、美しい大輪のハスの花、といったものだ。 

公に、こういう人間を目指しなさい、というような教訓 

ではないのだ。  

ただ詩才のためにその一途な心情が感動的に仕上がって 

しまった。お経の部分は彼の万華鏡だっただろう。それを 

ちょいちょいと省いて、不完全なものにしてしまった。 

お役人のしそうなことだ。 


あと、新潮文庫で編集された賢治の詩集で、「春の修羅」 

が収められていたが、悟りの象徴を描いた「昴」が外され 

ていて、驚いた。「ビブリア古書堂の事件手帖」にもさすが 

に賢治の件では「昴」が取り上げられていて、作者の 

眼力を感じたが、新潮社の編集では、「昴」がおかしな詩 

で省いてもいいと思ったのだろう。 その後半::

「 ・・・・・・・・・・・・・・・ 

どうしてもこの貨物車の壁はあぶない      

わたくしが壁といつしよにここらあたりで    

投げだされて死ぬことはあり得過ぎる      

金をもつてゐるひとは金があてにならない    

からだの丈夫なひとはごろつとやられる     

あたまのいいものは頭が弱い          

あてにするものはみんなあてにならない     

たゞもろもろの徳ばかりこの旅の巨きな旅の資糧で

そしてそれらもろもろ〔の〕徳性は       

善逝から来て善逝に至る       」  


*善逝 (ぜんぜい)はスガタ(梵語)と読む。音写は修加陀。

意味は悟りを得て、彼岸に去った者。


「金をもってゐるひとは金があてにならない

からだの丈夫なひとはごろっとやられる 

あたまのいいものは頭が弱い 

あてにするものはみんな当てにならない」 

という部分で、なんだこれは、理解不能として 

外されたのだろう。それは世の中にある実例 

で、自分の依存するものに過信するとしっぺ返し 

を食らうよ、くらいの意味なのだが、論理的には 

意味不明だ。 

こうして本当のことは理解されずに、外され、 

本来教科書に載るはずのないものが、載ってしまう 

というまさに「あてになるものはみんな当てにならない」 

という世間の浅薄な選択が続くのが、歴史の消長なの 

だろう。  





*以前に書いたものと、多少重複しているが、そのまま 

 にした。
nice!(8)  コメント(0) 

台風14号の贈り物 [贈り物]

わたしは

・・・・・

わたしは  

・・・・・ 

長い 時が  

・・・・・ 

それでも

・・・・・・ 

います  

・・・・ 

・・・・ 

ここに 



あなたは  

わかっている でしょう  

・・・・ 

・・・・・

・・・・・  

その 瞬間が  

あった   

ことを  



・・・・ 

甦る  

わたしたちの  時代  

出会った 頃 

・・・・ 

メモリー と メモリアル  

・・・・・ 

しあわせは  瞬間なのに 

余韻は  

・・・・・・・  

・・・・・・ 

長かった  



愛おしい  時、 

だった  


まぎれもない  

出逢いの   時 

・・・・ 

出逢っている  その時  

・・・・・・・ 

そこには  

あなたしか   いなかった  

・・・・・・・  

あなたしか  

そこに  

・・・・・・  

・・・・・・・ 

いなかった 




せつなさと  

胸に   迫る  

・・・・・・  

苦しさが   



多くの  時代が  

過ぎ去る  

・・・・・・  

甦えっては 

また 

・・・・・・ 

過ぎ去る  




愛の夢に 

素直である  

・・・・・・ 

そうしていられる 

瞬間は  

・・・・・ 

短い  



あなたは  

夢の中で  

浮いているように  

・・・・・・  

不思議に  

・・・・・・  

ふるまう  



見つめ合い ながら 

・・・・・ 

なにも  

・・・・・  

なにも  

・・・・・

見ることが 

でき  ・・・ない 



愛している という 

言葉が  

・・・・  

溶けてしまって 

・・・・・・  

なにも  

なにも 

・・・・ 

言うこと    が  

        できない  



クリアに  ふるえ 

・・・・・・  

よく  響く  

あなたの  美しい 

声が  

・・・・・・



この 世界の  素晴らしさが  

開かれる 

・・・・・  

その   

時 

開かれる ・・・・  

この  ・・・  



世界が  


初めて  

・・・・  

ああ  

・・・・  

なんという  

この世界の  



素晴らしさ ・・・・ 


わたしたちが 

住む  

これが 

・・・・・  

これが  



この 

世界だったとは !  



わたしは  

・・・・  

わたしは 



ああ 

この 大地で  


生き抜くための  

貴重な  労働 よ !  



遠くの 

最果てを   求めて  


旅だった 

いくつもの  

航海 よ  ! 



金の コインを 

川に 

投げ捨てた  ! 



ポケットの 中身を 

出して  

その服装の まま  



海に  

飛び込んだ  !  

 

わたしは 

そういう 君たちを 

・・・・・・  

愛した  

愛した よ  




整列して  

おどけて  歩いた  

青い  海岸線  


君たちの  

労働は  


尊 い  !  



プレゼントを  

あげたい 

・・・・・・ 

どんなに  離れていても  

体温が  伝わる  

あなたの 雰囲気が  

そこにある 

・・・・・

ううっ  

最高 ! 



いつでも 

誰からでも  

うざい くらいに 

・・・・  

抱きしめ られる  !  



堪忍して !  

きつすぎるよ  

もっと  ・・・  

やさしく 


ううっ  ・・・  


もっと 


・・・  

やさしく  



・・・・ 

・・・・・ 

アイシテルヨ  

アイシテル  

I  してる  


あなたを 



君を    



    
風よ  

吹いて !  


雨よ  

潤して  !  


だいじょうぶ  

まだ  

だいじょうぶ  



わたしたちは  

だいじょうぶ  


だ か ら 

泣かないで  

地球 さ ん  

丸い 

丸い 



地たま さ ん 

わたしたちは 

まだ  まだ 

・・・・・・ 

生き抜く から  


わたしたちが 

あなたを  


守るから 



メンタルで  

ウーーッ  LOVE ィング 

スペシ ァ ル   

ライオン、  ミー、   おう 



僕の  

なにもかも  

ああ

ほんとに  


なにもかも さ  


あげるよ ! 


あなたが 

・・・・ 

いれば  




あなたが 
 

ううっ ・・・  

・・・・ 


いれ 


・・・  


ば 







***

14号が関東に上陸か、とか昨日は見かけたが、 

ただの冗談に終わったではないか。ほんとに 

被害は最少だったのだ。感謝、感謝。 

愛は一瞬で僕らを捉える。僕らは捉えられたのに 

気づかず、愛の壮大な感覚に押されて、それが 

わかってしまう。説明できないが、説明が要らない 

ものだとわかってしまう。そして、それがそれを理解 

したことだと勘違いする。僕らはそれに満たされ、 

満たされ過ぎてほとんど自分のまわりにこぼしてしまった 

ことに気づかない。あまりに広く、大きすぎたのだ、 

僕らには。 

その印象は強く、しあわせを心に焼き付けてゆく。 

だが、それは消えることはなくなったが、僕らは知を 

働かせるから、そうでなくてもそれは記憶というものに 

なる。失いたくないので、この記憶を取り戻そうとする

のが、執着という行為だ。自己防御は危険を避けるが、 

自分に気持ちのいいしあわせは自己所有しようとする。 

一瞬でも99,99999%をとりこぼしてしまうものを、 

僕らは所有することはできない。それは愛を知らないから。  

好きだとわかっていても、その気持ちから自由になれない。 

ますます囚われるから。おもしろい。それは愛が皮肉だから 

ではない。愛にすでにやられてしまっているのに、それを 

自由に味わいたいと思っているからだ。  

僕らの心は愛の容量に対して、0,00001%しかない。 

愛を現実の場で育てるには、抑制しながら、慎重でなけ 

ればならない。一気にぶつけて発散させればあっという間 

になくなる。あっという間もないくらいだ。

悪い意味で計算高い大人ではダメだということだ。子供に、 

でも、子供でもガキではなく、天真爛漫という形容詞の、 

あの子供になることだ。そうすればもう一度逢うことが 

できる。  

そうすれば子供の眼で世界が再び、開かれる。 

好きな人の愛の中には生命の揺らぎが見える。そうすると、 

その中に子供がいるのがわかる。というか、生まれてくる 

存在と言ったほうがいいか。 

もっと潜ると、生命の樹があって(想像)、それは地球の 

神経なのだとわかる(もう妄想の域、笑)。そうして、僕らは 

地球という僕らのもともとの母親に出逢う。夢のような話だが、 

擬人法を使って言葉にしているだけで、そういうエネルギーの 

流れという経過というものは事実だ。少なくとも、僕には 

日本の北アルプスに登り、インドからのナンガ・パルバート山 

を目前にしたことからくる、僕という経験事実だ。 それと 

地球が悲しむのは地球自身ではなく、僕らを哀れむからだ。



( また少し、僕らが愛に飢えてしまうような息苦しさを 

経験して、愛や自由との間に壁を感じている事情が 

わかって来た。 ) 

上記の詩はBGMがあって、主にそれを聴きながら 

書いた。それはワムWham の「ラストクリスマス」だが、 

詩を読んでいて、それが聞こえたのなら、君は天才だよ!

Have a Good Night ! 



:: ナンガパルバート 

標高は8125mで、世界9位だが、確か、メスナーが壁を 

征服するだけで3日かかった。往復で5日必要。天候に 

恵まれないと、命を落とすので有名だ。メスナーは幻覚 

に悩まされながら、死と隣り合わせでそれを乗り切った。

世界で登るのに困難なのはエベレスト以上で、たぶん、 

一番難しい。僕は幸運にも、エベレストと間違えて、 

パキスタンに近いシュリナガールから少し登った処で 

ナンガを見上げていた。その頃は、ナンガが登山の 

目標になることを知らなかった。ナンガに出逢えたのだ!
nice!(9)  コメント(0) 

感動と余韻 [感動]

こんなこともある。 

天照大御神の記述が日本書紀では特定の巻(30巻中)にしか  

出て来ない、という文をどこかで読んだ。それは中国人ではなく 

日本人が書いた巻からしか見られない、と。書紀の述作者を 

特定した「日本書紀の謎を解く」(中公新書)に述べられている 

と思っていた。一度、それを新書の中で確かめたと思っていた。 

ところが、今、その本にその記述を探すと、ない。それなら 

それを指摘した本で読んだのかもしれないが、それが本で 

読んだのか、ネット記事やアマゾンの書評で読んだのか、 

まったくわからない。その天照大御神からの話の展開だった 

ので、驚くことに「歴史はどんな顔をしているか 2.」が 

頓挫してしまった。記憶の文章にこれから遭遇するなり、 

見つけ出すなり、当てにならない話になってしまった。 

少し探してみて、なければ話を新たに企画したほうが 

よさそうだ。 いずれにしても大化の改新については日本

のアイデンティティを創出する話になるので、いつかは 

その端緒を発したい。  



台風14号が九州に接近しつつある。そのまま太平洋上 

を近海域に沿って、急カーブして進むそうなので、僕は 

初めてのコースだと思う。上陸しないので勢力は衰えず、 

のろいスピードなので予想より日数が延びるのではないか。 

なにかわからないが、僕にはこの嵐の暴風や大雨の被害 

よりもなにかを期待している。ただの予感なので、なにが 

どうなのかもわからないが、この台風の左側に位置する 

日本の陸地は反時計回りの理論上では風雨が弱まる 

位置になる。被害は少ないはずだ。で、気象庁は想定外の 

被害に神経質なので、そんな大したことないとかの予報は 

わかっていても出せない、医者と同じで必要以上の完治 

(安全)を望む。 



秋雨前線の雨はシトシト降っているが、それだけだ。 

感動と余韻がくり返している。 

うまく言い表せない。 しかも、それでいい、と。  

例えば、裏切りや謀略が横行している世界を想像してみよう。 

そこでは知略に勝れた者がのし上がってくるはずだ。戦国 

時代のようなもので、その知略が戦術であり、技術である 

そういう中で優れているなら、それは数多いるが、ほんとうに 

のし上がってくる者は知略も戦略にして、大局から判断して 

行動するのであれば、これに敵対するのは難しい。 

反撃も戦術的ではすでに読まれているからだ。 では、 

戦略・戦術に勝れた者同士が戦いはじめたらどうなるか、 

というとほぼ一進一退になる。決着がつかない時が流れる。 

しかし、手は抜けない。その時だ。その両雄は知っている 

はずだ。ほんのちょっとした偶然が、例えば気候が変わったり 

嵐や大雪になれば、とかいつも同じなのでそこだけチェックを 

しなかったとか、まったく新しい人物や事態が戦況を覆して 

しまうとか、要は未来は予期できない、ということである。 

対する両雄はそれを恐れる。そこで昔は戦場で加持祈祷 

を行ったのである。 


僕も同じだ。なにか胸を気付くか、気づかない程度に騒がせ 

ている時に、それが近づいてくる台風にあるのではないか、 

と勘ぐるのだ。 なにが起きるのか前もってわかっているの 

ではないので、なにかが起きたとしても、それだ、とわかる 

ものではない。 

だが、僕の生活はその積み重ねで成り立っているような 

処がある。自分を離れ、全世界は何か?を感じようとする。 

自分に戻り、感じたことを整理しようとする。うまくいかない、 

また、やり直す。1時間もやっていると、いつの間にか寝て 

いたりする。しかし、そのほうが起きた時に自分が新鮮な気が 

する。これだろう、静かな感動がくり返し、その余韻がくり返す、 

そういう山と谷の波長が心に流れて気持ちいいのは。 

無駄になっていない、と感じる。たぶん、これも瞑想とかヨガ 

とか死活の一種なのだ。 


*10.8の記事

nice!(8)  コメント(0) 

柳宗悦の眼 僕の眼 [眼]

一昨日、蒐集物語という文庫本を手に入れた。 

著者は柳宗悦で、読みは「そうえつ」で通っているが、 

ほんとうは「むねよし」だとのこと。 

字ズラの古めかしさから、風神雷神図を描いた俵屋宗達とか、 

蒔絵で有名な尾形光琳とかの、江戸時代の工芸家・芸術家 

ではないか、と想像して購入したのだが、違った。明治の 

文芸の雑誌「白樺」を発刊した、武者小路実篤、志賀直哉

などの仲間で、夏目漱石の時代だった。民芸運動の創始者 

だと。 

ちょっとパラパラめくってみると、僕が最近、ブログで見ること 

が大事(基本)、といったことを遠回しでなく、率直に書いている 

のでわかりやすい。 

これなら、これを解説すれば、僕の用は済んでしまうので、 

早速、眼について語ろう::  (ほぼ引用で済んでしまう)


宗悦は日本の美を(李朝の陶器も)受け継いで、蒐集して 

日本民芸館を興した。あの人、日本の芸術家を育て、茶の本 

を書いて世界に紹介した岡倉天心に位置が似ているようで 

ある。総合的には、近代日本思想大系の24巻が柳宗悦で 

あるが、その1冊を読めばいいだろう。 

前置きすることは山ほどあるが、引用も長くなるので急ぐ。 

柳宗悦と僕の出発点は同じである。ただ、彼はまったく 

最初からひとりだったらしい。僕には、小林秀雄の「私の 

人生観」の画家についての言葉で直感して、「近代絵画」 

を読んで自分も絵を見ることを学ぼうと思い、その先は 

独学、というよりひとり美術館通いをして、絵に向き合った。

まずは、「近代日本思想大系24」から::


「<工芸美論の先駆者に就いて> 

私は私の工芸美に関する思想に於いて極めて孤独である。 

幸か不幸か私は先人に負う所が殆どない。私は目前に 

ある驚くべき工芸品彼等自身から直接教えを受けたので 

ある。そうして親しい数人の友達のみが、私の近くに温かく 

想い起されるだけである。私は今日まで工芸美に関する 

正しい著作に廻り逢った経験を有たない。私の前には 

私の見解と縁遠き幾多の本が思い出されるばかりである。 

 私は私の思想を凡て私の直観と内容との上に築くこと 

を余儀なくされた。その結果一般の見解との渡り難い間隔 

が一層意識せられた。私が観じて最も美しいとするものは、 

却って史家が最も無視する分野に属する。そうして史上に 

高い位置を占めるものに、私が美を見出す場合は却って 

少ない。私の工芸に関する見解は、従って一つの価値 

傾倒を一般に向かって要求する。かかる場合私の思想の 

上にふりかかる命数として、私は恐らく正しい読者を将来 

に待たなければならないだろう。 

 だが一つの結論に到達し得た今日、工芸美に関する 

過去の思想史を省みて、私は私に先んじて、二種類の 

先駆者があったことを気付かないわけにいかぬ。 

(2行略) 

一つはあのラスキン、モリスの思想であり、一つは初代 

茶人達の鑑賞である。」 


ラスキンもモリスも社会思想家でもあり、また美術に一家言 

を持っていた。ラスキンには「近代画家論」・「芸術経済論」 

があり、モリスは「民衆の芸術」、 「社会主義その成長と 

帰結」(共著)があり、伝記も論説も、その行動も興味深い 

が、次に進む::  以下は<民藝館の蒐集>から。


「 九 

 それではどうして他人が今まで認めないものを認める 

に至ったのか。匿れているものをどうして見つけ出すのか。 

この問いへの答えは実に簡単なのである。別に秘訣 

などは少しもない。ただ物をじかに見さえすれば、それで 

よいのである。それ以外に何ものもない。この何ものも 

ないということが、秘訣といえば秘訣である。* 」 


ここに僕が目の前を見さえすればいい、と言ってきた 

ことが言われている。続いて、「考えずに見る」という 

ことがうまく説明されている。 ::

「*
 物をじかに見るというのは、見る眼と見られる物との間 

に何ものをも介在させないという意味である。知識だとか 

文献だとか評判だとか主義だとか、そんなものを一切 

二の次に回して、じかに物を見ればよいのである。 

残念にも多くの人々は物を見る時、大概は概念を先に 

働かせてしまう。しかしそれだと、その概念に合うもの 

以外は見えなくなってしまう。概念は謂わば色眼鏡の 

ようなもので、じかには物を映さない。最初から一定の 

枠を作って、その中に物を嵌めて眺めてしまう。うまく 

嵌まるとそれで分かったと思うし、嵌まらないと棄てて 

しまう。それ故、物をじかに見るのではなく、概念に 

包んだものを見ているに過ぎなくなる。それでは物 

の真の姿は現れて来ない。 

 例えば様式に便ったり、銘を大事がったり、世評に 

引きずられたりして眺める。そのため様式に当嵌まら 

無かったり、銘が無かったり、評判を聞かなかったり 

すると、てんで見ようともしない。それ故、物を見ている 

というよりも、様式だけを見たり、銘ばかりを尊重したり、 

評判のみを気にしたりして、肝心の物そのものを見ない 

という愚かな行為に落ちてしまう。」  



この後で、「恐らくは自分に眼力がないと、何かに便ら 

ねば不安なのであろう。持ち出す概念(=考え*陽秋)は 

謂わば便り所なのである。」と批判が続く。 

この「眼力」については僕は違う見方をしている。眼力は 

出来上がるものだが、初めから必要ではないだろう。 

ただ見る、という「無心に見ること」に慣れることが必要 

なのだ。もし、眼力に相当するものがあるのなら、それは 

個々人の感受性によるものだと思う。 その土台の差に 

よって出来上がる眼力も差が生じると考えられる。 

明治の時代でそう批判されることなのだから、現代は 

それから百五十年も経っている。僕らは「無心に」に 

ついても工夫を学んで、「見る」については忍耐を 

強いられるようになってしまったのかもしれない。 

見ることはどんな教科書にも載ったことはないだろう。 

美の問題は見るだけではない、混濁した問題も 

含まれているから。しかし、その前に、宗悦の論を 

締めくくろう。:: 

「一 一 

 直観を「新鮮な印象」と説いてもよい。純粋に直観を 

働かそうとするなら、物から新鮮な印象を受け得る位置 

に自分を置けばよい。それ故印象を曇らせたり、また 

曖昧にさせたりするような立場を取ってはいけない。概念 

を先に働かすのが大きな邪魔となるのは、これが印象を 

凝固させるからである。受け取るものは印象ではなくして 

寧ろ知識になってしまう。知識で受取ると、物はじかに 

その姿を見せてくれない。知識はどこまでも間接的である。 

見ることと知ることとはいたく違う。 

 それ故物を見るには、こちらの心を純粋に混じり気のない 

ものにしておかねばならない。前にも述べた通り、素直に 

受取る心を用意すればよい。小さな自分を持出さず、充分 

受動的な心を養うのがよい。一つの塵もなければ、それ 

だけ物は鏡によく映る。充分受入れるが故に直観が自由に 

働くのである。思想などを振りかざすのは禁物である。 

それは印象を拘束してしまう。物を見るには、知識はどこ 

までも遠慮深くあってよい。

第一印象は何につけても大切である。  (2行略) 

直観の世界には躊躇ということがない筈である。(3行略)

鮮明な印象は確実な印象である。直観は常に即刻である。 

即刻であればあるほど確実さを伴う。(1行略) 

逡巡は直観の行いではない。純粋の直観に時間的な 

逡巡(ためら)いはない。それは即時に的確なのである。 

ここに何ものにも換えられぬ直観の意義があると思える。 」


この人は感覚型の人らしい。直観の意義はそれで間違い 

ないが、ためらいは直観が曇っているので、直観は常に 

正しいという言い方は言い過ぎに思える。もちろん、宗悦 

さんは無私の精神においての直観のことを言っているの 

であって、直観を間違えるのは、僕らがそれを受けたまま 

ではなくて、一瞬でも考えてしまうことから来るものだ。 

微妙な修正だが、僕らには直観を100%正しく判断する 

ほどには、いつも日常が無心であるわけではない。 

さて、前記の問題だが、「見る」についての経験やその 

考え方は、僕は宗さんと同じだが、相手は「美」である。 

その経験と考えが同じであるなら、僕は宗さんが愛した 

数多の工芸品を眺め、見極めて、僕もそれを愛する 

ようになるだろうか、というのが本筋の問題だ。

それは何とも言えない、というのが答えだ。 

好きになるものもあるかもしれないし、まるで興味を 

惹かれないかもしれない、というのが本当のところだ。 

まず、眼球の問題を無視しよう。例えば、青い眼の人 

と我々日本人の黒い眼では集光率が違うのか、同じ 

色を見ても、淡白に見えたり、どぎつかったりする。 

そういうわずかな受け取り方の違いをまず、無視して 

考えよう。 

また例えば、男が好む女のタイプが驚くほど違うように、 

美に対しては驚くほど僕ら自身の好み・センスが 

それを美しく感じるか、感じないかに関係してくる。 

僕は絵に関しては、独特の眼力を持っているが、 

陶器については不十分だという意識があって、 

宗さんの趣味にどれほど共感して、納得するかは 

ふつうに自信が持てない。むしろ、僕自身の好みが 

その物を決定するだろうと思っている。 美は人に 

よってそれぞれ表情を変えるものだというのが、 

僕の感想だ。眼力を持ってもそれは変わらない。 

湯呑に夢中だったのが、十年もして突然、日本画 

に目覚めて、絵ばかり見ている、となってしまうのも 

よく似た実例がある。だから、今でも真贋について 

の曖昧な問題が論じられる。 

だから、見るについて、その理由について逡巡して 

いるのは無駄な話なのだ。物を正しく見る、という 

のもつまりは死活の問題だろう。考えないためには 

認識=知を眠らせ、知を眠らせることは自分を起こ 

さないことでもある。ゲームという刺激に生活するの 

ではなく、それを刺激を無くしてその物が見えるまで、 

見ることなのだから。 

見えてからが楽しいのだが、始めは相手(物)から 

やって来て出逢うものもあるだろう。

美とはそんなものなんだろう。 

僕には女性への一目惚れが直観だとは、到底思え 

ないが ・・・。(そこが美と女の違いだろうか?笑) 

人生に美の世界を加えて、生きる楽しさを倍にした 

ければ、柳宗悦の本を読んだ後は「物を見る」といい。


nice!(8)  コメント(0) 

回復の散歩 [散歩]

昼まで寝て、起きると回復したのがわかった。病み上がりの 

特徴のスッキリさがあった。微熱も下がっていた。夕方には 

しなかった散歩に出た。心の気が外に向くと、僕は自然に 

外出する。散歩は特に、虫や季節や花に出会う好奇心の 

期待が蠢(うごめ)くようだ。微熱があると、自分の不調に 

気が行ってしまって、外への興味がなくなっている。考えも 

少し、ボーッとしてしまう。 

亀島公園の例の小さな池で、今の状態を確かめる。 

いつもしているのだが、初めに池の前に立つと、水生 

生物たちは人の気を感じて、素早く隠れてしまう。 

池に愛情を注いでやり、しばらく待つ。なにも出て来なければ 

僕の体調は心と共に、まだ不調だということだ。 

いつ頃から、こういう自然を相手に自分の調子を尋ねる 

ことをしているか、思えば記憶を辿れないくらい、昔からの 

ような気がする。一番のイベントは亀を呼んだことで、これ 

は皇居の池で古い大亀が出てきたことが、ひとつのエポック 

だった。 

水面の波形を見るが、暗がりと池の底も石も黒いので、それ 

が何か見えない。が、他の処でも小さいのが泳ぎ始めた。 

まだ5cmくらいで、この春に生まれたのだろう。2匹が最初。 

次に反対側で1,2匹。池には飛び石があり、子供が置いて 

いったペットボトルの半分に切った入れ物と、ザリガニ用の 

釣りのタコ糸が捨てられていた。昨日か今日に、置いて行った 

ものだろう。大人のフナはどうしただろう、もう捕獲されて 

しまったのかもしれない。姿を見せなかった。  

公園を出て、目久尻川を覗く。 

銀影が光る、アユだ。変わらずに棲みついているらしい。  

20cm近くの立派な大人だ。ここから4,5km離れた 

相模川では6月だったか、禁漁が解放される。その前に 

アユを1万匹くらい放流する。養殖だから釣り人を知らず、 

その頃はよく釣れる。アユは警戒心が強いので、また 

縄張り意識が強いので、オトリ鮎に針をしかけて、側を 

泳がせると向こうから敵愾心でぶつかってくる。 

まんまと針にかかってしまう仕掛けだ。 

この目久尻川のアユはその相模川で釣られたアユが 

10年以前くらいに捨てられ、放されたものだろう。 

環境が変わってしまったせいで、そういう一匹で暮らす 

アユの習性はなくしたようで、群れで行動するように 

なった。 

つまり、ここでも自然については教科書は役に立たない。 

それなりに変化してしまうことを示す。 人間はアフリカ 

に発祥したとなっているが、アユが人間の養殖という 

進化への介入でどうなるか、といった発展途上の 

現象は毎日の身近な出来事を観察していると、 

(どんなプランも必要ない)思ったよりも例外の物事が 

見つかるものだ。

ただ、群れていても近くに来るものを避けるようにか、 

体をひねってそれが光を放つので、攻撃の習性は 

消えたわけではない。 そのうちに蟹を見つけた。 

死んだ蟹は昨晩、夢で見たが、ここのはちゃんと 

生きているし、テトラについたコケを口に運んでいる。 

その両はさみがデカい。うっすらと石のテトラに緑の 

水生コケが生えているので、それを主に食べて 

いるのだろう。自身の甲羅にも、はさみにもコケが 

生えているから、まあまあ大きいくらいだが、年季は 

入っているのだろう。  

北部公園を目の前にしていたが、マスクをして 

こなかったので、神経質な人は嫌がるだろうから、 

そこから引き上げた。うっすら汗をかいた。 



もう少ししたら、体力も回復して説明が難しいことにも 

挑戦するだろう。
nice!(13)  コメント(0) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。