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ある晩の ポコペン [夜想]

今、深夜、書く気にならないのに、気持ちが落ち着かなくて

書こうとして、坐っている。月齢は新月と満月との中間なので

月の引力のせいではないらしい。

少し冷えているが、0 時に散歩に出る。まれなことだが、野良が

鳴く。深夜にエサをもらいに来るのは、昼間のエサの予定が

全部当てが外れたせいだろう。また外れ覚悟で近くをうろつい

たら、玄関の灯りが点いて、僕が出てきたというわけだ。

この野良猫についての計画もあったが、今はサボテンと同じで

投げ出したような状態だ。猫が飼いたければ、世話主を探し

ているサイトはある。けれども、猫より先に亡くなるのでは無責任

と思い、娘の処に一匹譲ったのだから、(娘の処は3匹になった)

今さら子猫から飼う気も起きない。


気持ちが動くと、冬でも散歩に出たくなることがある。

こういう状態は謎に包まれたようで、嫌いではない。することが

しっかりある、という気もするから。

カシオペヤ座から北極星を見つける。

毎度おなじみで芸がないが、北斗七星とカシオペア座くらいしか

見つけられない。わかりやすいから。

どこまで歩いても、家はあちこちに、それによって方角が移動

してしまうが、北極星の方角は変わらない。相手があまりに遠い

と、地球上(北半球)をどこまで移動しても星の位置が変わら

ないのは、理屈ではわかるが、なにか感性に不思議さを訴える

ものがある。要は距離はないのと同じなのだが・・。北半球から

はいつでもそこに見えている。

あまりに遠いと、まるで「ない」ように思えるというのは、測るもの

がないということだが、永遠と無の関係のようにも思えて、興味

深い。


「僕はここにいる」と書いた、つい昨今までの、それは反語の

ように「僕はここにいないようだ」という気持ちを心の反作用

のように照り返していた。それが、今は僕はここにいる、という

のはベタにそのままで、ここにいないようだという夢を見られ

ない。心を夢においてくれるそれがあれば、現実に対して

支えのように働いて、現実を夢見ることができる。

今まではそういうことだったのだ。今、それはないのだが、

それで不安とか恐怖がないという点では同じで、変わり

ない。無味乾燥に坐っていて、坐るということが特別な

感興ではなくなった。夢がなくても、支えがなくてもいいのだ、

ということなら歓迎なのだろうが、そこははっきりしない。

ほんとうにあの孤独を感じなくなった。50年も、いや子供

時代を思えば、それ以上に死と隣り合わせだったのに、

そう、思い出す、あのむなしさを忘れていられるのだ。

それがあったからこそ、僕から自分に向き合い、屹立する

ことができた。もうそうする必要がなくなってしまった。

まったく、ポコペンだ。







***
永遠と無の関係については、論理的には詭弁に類するもの。

気がつく人もいるかと思うので、やむなく断りを入れるが、

実際は僕の気分としての感情的な比喩で用いたものだ。

見方を変えると、正解にも誤解にもなる、という例だろう。

気にしなければ、ただの詩的表現とも言える。まったく

間違いとも言える領域や範囲ではないと思う。
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