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午前を モアる(まどろむ) [詩らしき]

なにを しているのだろう ? 

もう  寝る時間だ。 少なくとも、 これ以上は 

書いていたりしたら、  夜明けになってしまう。 

それでも 気分は散歩でも  するつもりで、 

スィフトを 聴いたりする。  

I knew You 、とは言うけれど  

僕は  君の  なにを知って いるんだろう? (3時ころ)

(そうは言っても、寝てしまうものなのだな) 

朝、 目覚めると 寝たのだな、と ぼんやり 

思う。 ここでは僕の肉体が、 心はいなかったが、 

存続していたと、 確認したのだろう。  それを

意識したのではないが、   ・・・。 

これで午前中は、 あまりスッキリしない 頭と 

疲れた 眼の奥を 感じながら過ごす。 

それで 気分が  よくないのでもない。  

軽い 脱力感があって  ミルクをほしがる  

子供みたいだ。  平和だ。  

ここにある、というのと  

今を生きる、 というのを 

意識しないで使ってきたが、 言葉は 

違っていても  同じ意味に  思える。 

そうなのだろうか。   そう思うのと、  

考えようとするのだろう、 重くなる。  

午前中の  重量、  朝の 重さというもの、  

朝の 珈琲というのも  眼が覚める、 

のではないようだ。  

これが 必要な 大気と重力というものなら、  

僕を 押しつぶそうとする、 地球の重力を  

久々に  感じている、と  

Ho 、 Fu 、 そういうもんだろうか?  

ストーブの 手鍋のお湯が  中で  

水蒸気の粒を  張りつかしている。  

静かに  鼓笛隊が  近づいてくる。  

鼓笛隊では ないな、、、。

頭の中を  歩いてくるものが いるのだ。  

ああ  天使の Child、どうして、 お前が!  

お前は  ただの  音響だろうに!  

不思議なのは、  最近 それが 

天使のイメージに   左右されていることだ。  

わからないものを  特定することは  しない、  

そんな 掟を  つくっただろうか?  

そう 言い訳を  している、 なにも  

なるな、 結びつくな、  

誰も、  なにも   ・・・、

ああ。  

そういう 人の気持ちを  やさしくするもので  

君は  遊びたい、  そういうことなのか、  

僕を  独り言に  置いてゆくのか、  

Fu~、  ユ~ 、   タイプライター、 

ラグジュアリ~ 、  噴水も きれいだ。  

  

そして

午前という  昼前が  

終わる。  

時間は  なにも変えない、 という  

魔法を  つかえる。  

僕らが  時間を  還る、 変える。  

僕らが  時間に基づいたもの、 だったら  

それは  できないことだろう。  

時計って  何も知らない、  

時間を 何時に合わせても  機嫌を  

損ねはしない。  

機械は  生きている、 その部品が。  

やがて、  カビたり、 錆びたり、  

動かなくなる、  僕らの ように。  

だから、  僕らが  時間と密着して  

生きているというのは、  

信じがたい、 、 、  

僕らは 心を  変えるから。



心を 硬化させるのは  その反対なのだから、  

簡単。  おぅ、そ だ ね。  

時間に合わせて  これまで通り  

生活すればいい、 ということらしい。  

コロナは  なにを  したのか。  

少なくとも、 なにかを  壊そうとしている、  

のではないか、と   のんきに  

構えている。  おぅ、 ふ、 は 、へ。 

銀座通りを  金色のハイヒールの  

踵だけで は   歩けないよ。  

一本、 とかって  どこか  

完全に  見えるようだ、が。  スコ、シ ・・ 

少し、 

考えはじめたようだ。  

ざらつきはじめた、  街という 感覚  

慣れた 不幸というのも  

離れがたい。  

同じ生活を  続けたいからなのか、  

変わりたくない、  

土器を 愛すると、  

泥の色が  好みになり、  

陶磁のように  美しく感じる。  

それが  夢なのか、 現なのか、 

やがて、  目覚めるから  

陶磁器が  ふつうに  美しい、と。  


ふくろじ草が  咲いているよ。

へきわず草が  首を 垂れて、  

ほくゐぜ草が  倭尊と  闘って、と

僕らは  

なんでも  愛して しまうんだろうか?  

メリケン波止場を  歌った  昔。  

モルコア波止場を  語った  父。  

ヤレサイ波止場を  分度器で測った  

僕らの 息子は  

どこに いるんだろうか?  

ほら、 

始まったよ、  

僕が  

こうして   僕は  

午后を   (考えさせるね、

というほどのこともないんだが、)

はじめ、 ・・・ 始まる。  

頭蓋が  現実の Air に  

割れて  ゆくよ。  



Keep  Your、   ・・・・


 

**
もらい泣きしたい人は、以下を見て。

Colorblind brothers overwhelmed by seeing color for the first time (In YouTube。)

僕らの世界の 基礎を 再認識する。
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毎日 なにをしていますか [日記]

毎日、なにをしているのか。  

自分にそんなことを尋ねる 日々だ。 

自分の仕事の目的は、そう、思い出せば 

・・ある。  あるね。  

虚無的というんだろう、 それが何だというのか。  

目的が二義的なものになってから、 ずいぶん、 

経つ。   経つよ。  

皮肉に構えるつもりは なかったのだが、

皮肉に  構えているんじゃないか、と。  

思うようになった。  なったよ。  

人のブログで  迷ったような書き方を  

見つけて  嬉しくなった。  

それは 自由な書き方に   見えたから。 

何を書いてもいい、 といっても  

制限のない 書き方は  本来できない。  

人間性を  あからさまに 問われるような  

書き方は  ふつう、 しないから。  

でも、 僕らが 自由であるからには  

ラフな書き方も  あっていいはず。  

だよ。   だよね。  

イオンモールへ  行っても、  それは 

ショッピングもあるが、  大事なのは  

暇を つぶすこと、だ。  

広い 食堂街の 会食テーブルでは  

好きに 過ごせる。   それで  

本を持っていくのだが、  10ページを 

読まずに  飽きてしまう。  

今日は  自主的に決めた 休日だが、  

何をしてもいいし、  なにもしなくてもいい。  

それは  やさしく  感じる、  

それくらいに  ぐうたらな 生活に  

慣れてしまった。  

時代は変わり、  なにかが  始まろうと 

している。  それがわかることと、  僕が 

始まるかどうかは  なにも 手を差し伸べ  

られていないし、  手を 指し伸ばしていない、  

そう思う。  それを  あまりにぴったりと  

隙間なく  僕は 受け止めている。  

それは、 最初に述べた  ”虚無的” ではない。 

もっと 冷めてはいるが、  ”印象的な、” だ。 

ポスターに 貼りついた  うすいセロハンのように  

僕はそれを  カバーして、 光をより  

反射させている ようだ。  

シャイン ニ  just  You   

光にまみれた  体の内部を 

闇が 皮膚のように  体中を  表面で

守っているようだ。  いずれ、 そんな説明に  

なってしまうのだが、 

これから   いろんな場面で  

それが訪れて   僕も気がつかないうちに  

心が  開かれて   それぞれに適応した、 

そんな光が  こぼれだすのだろう。  

いいね、  僕も  そういう人に 遭って、  

光に我を 忘れてみたい、というのは  

ハン、  浅はかな  考えだね。  

今は  時代とか、 その人とか、は 忘れ、

猫の  寝床の隣に

置いておこう。     そうじゃない、  

今は  あなたが  

ん、  あなたが  

そ、  あなたが   

大事なんだ。    

それこそ、 奢って言って、  真理だね。  

考えは 皮肉っても  気持ちは  

見透して    素晴らしい、 としか  

・ ・ ・ 言えない。 

フンファ(息もれ)、  言えないよ。  



なぜ僕なんかが  それを  えらそうに  

言ってるんだろう、 その言葉を。  

それが  君らに なにになるか、  

期待したくはないが    心、 その

胸が 高鳴ってしまう。  

ここで  詩的な言葉に  移行しても  

いいし、  そうする時もある。  

でも、  今は  いいという 気がする。

 ・・ するよ。  

ポツン と、  見えない点が  あって  

それに呼応して  僕は  窓際の  

コーラを取り上げて  流し込む。  

プリティ天使、 という音楽が   踊る。  

僕は  なぜ、  それを知っているの?  

ヘブン ・・・   そういう  ・・・。 

なぜ、 それが  ・・・  あるの。  

 
イオンモールから  殺伐とした  

雰囲気を  抱えながら、  帰ろう。  

ゆるい坂を 舗装を  歩いて  

映画の建物  横切って  駐車場へ。 

もう暗くなった  その空は、 日本らしい

朱色の  きれいな夕焼けが   

20.12.14イオン座間で夕陽 (2).JPG


撮れた。  


僕の  日々に  僕のあこがれる  郷愁のような 

ものは ないのだろう。  それを  爪弾いても  

なにもならない だろう。  

それを  ないから ある、というものを  

(ないから) 逆に  生まれてしまうものを 

言ってはいけないの だろう。  

黙すことで  それが  種のように  

いつか  育てば、いい。  

好きに  成長すれば、 いいよ。


時を  忘れてしまう。  

うたた寝して  起きると、 朝と夕が  

すぐに  わからない。  

書いていて、  区切りで  夕飯に  

呼ばれる頃か、と。  そうじゃない、

もう 日が変わる頃。

休日らしい、  怠け者らしい  

小さな 新しさを  こぼしながらの  

毎日という、  

わからなくなり始めた、 

夢の中の  田舎のような生活。  

絨毯に 寝そべっていると  

空に  漂っているようだ。 

25分というのは  時間ではないらしい。

3,4分前に  時刻は「23:36」 だったから。  

今は「0:01」だから、  25分経った、というのは 

嘘だろう。  

哀しい 嘘だと思う。   僕の時間は  

どうしても僕のものだ。  それでも、  

僕は 誰に向かって  その哀しさを 

押しつけようというのか。  

暗い舞台で  仄かな照明の  

丸の中で  ショーをする  シンガー。  

哀しいシンガーよ、  

君の舞台は  君のものだ。  

なにかについてとか  

どんな演技や 笑顔で  

君は  君の夢を 見るのだろう。 


毎日、なにをしているのか。  

自分にそんなことを尋ねる 日々だ。 

しゃべりたいことばかり、  

書いてしまう、 そんな日々だ。  

ウェストポーチ、  路線、  感染、

9か月ぶりに 乗る  相鉄(相模鉄道)の 

たった 一駅(笑)。

Cr~y、 クラ~ イ!  

僕を叫ぶことを  させるな、

それを、 せよ。  

眼に 焼けついて  それを  

せよ。  

マグマが  起きてしまう。  

そうなれば、 ・・・・

そうなれば、   ・・・

ああ  なにが  起きるわけでは 

ないよ。  

ないよ。  

まだ、   

少し、   眠れ。  



しゃべるな、   しゃべるな、 

まだ、  少し。





**
休日に休日らしい気分を書いているつもりでも、

その裏で十分に緊張している僕が浮かび上がって

くることだ。交替で表に立つ選手がかわるような

ものだろうけれど、・・・・・・・・・・・・。

それでも、自分がまだ変わろうという気負いが

見えたりするのは、自分に対して手応えを感じる

ものだ。

透明な、それは見えるような気がする、そんな

くらいの創造を、また僕が創ろうとする、そんな

ことに気がつく。 

ベバピン、 スカイ、  スン、 me ~~

(終わろう、)、   、    、 ・・

終わろうよ、 今夜は。

                  21 - 22日。
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街もコロナも 夢の中 [夢]

考えない練習、という題の本を見たことがある。 

この人も考えすぎる人なのだ、と思う。  

思わず笑ってしまう、そんな題も見つけるが、 

なぜか手に取って、読むことがない。 

99%は仮説、という題も「そうだよな」、と共感

するが、中身がどうなっているかに 興味が

いかない。 

なにも買わずに、街へ出る。目の前の駅には

手前に車道が一本通っていて、それを横切ら

なければならない。なので、そこでは左右の車

の流れから、今渡ってしまうか、信号機のある

横断歩道まで歩こうか、と必ず考えている。

思えば、同じ場所で同じ考えを巡らせている。 

それを考えないで、すぐに右へ折れて歩くとか、

左を選んで歩くとか、したことがなかった。 

家に居ても、そうだ。 

階段を上る時、考えて勢いをつける。下りる時も

勢いをつけたほうが緊張して疲れない、と考えて

スタスタ上り下りしている。 

そう思うと、習慣で同じ考えを一瞬にしている。

それが儀式のようでもある。

自分が動く時は、なにをするか目的に合わせて、

それに必要な思考をする。街の道路や、家の構造

が一定の形式なので、それに合わせると、同じ

考えしか出て来ないのだろう。  

ゼンマイのおもちゃが止まったら、またゼンマイを

巻く、その瞬時の考えはただ必要だから生まれて

いるようだ。  

朝起きて、歯を磨く、とか。そういうものは考えなく

ても、わかっているもので、それを伝えようとは

人は思わない。  

徒然なるままに、という文学が出てくると、様相は

変わって、なにか情緒が揺れるのを、人は自然に

期待する。文学的とか、詩的な、というその入口

だからだろうか。  

「神無月の頃、(覚えていたのに、もう忘れてしまった)

来栖野(?)というところに分けて入り(?)はべりしに、」

という「徒然草」の文を学校で暗記したのは、いつだった

ろうか? 

「この木なからましかば」という兼好の落胆と嫌悪の句

が、やけに印象に残っている。 


昼間も書けるし、それで昼間から書くことも、時にあるが

やはり、夜のほうが落ち着く。それは街の時は夜には

静かな喧噪ともいう、層があるからだ。 

静かな、というのは音がしないというのが、その意味

だろうが、山に深く一人で入り、夜になると、まったく

音のしない夜が訪れる。それは島の家でも同じだが、

静かすぎて僕らの脳は音を創り出してしまうようだ。

シーンという音に似て、その余韻だけが聞こえる、

という音ではない音がその静けさに聞こえる。

それは頭の中で鳴っているのだろう、と思うし、

事実そうなのだろう。でも、それは聞こえるのだ。

僕は静かな環境には、長い間いなかったのだ、と

反省してしまう。

僕らは環境に慣れるし、それを自分に取り入れる。

夏にお寺さんでは蝉が裏山で、よく鳴いた。

部屋の空気が蝉のジー、ジーという音で占領されて

うるさいのだが、同じ調子で鳴くので、雨音に似て

やがて慣れてしまう。2,3日も宿泊すると、蝉の鳴き声

は相変わらずなのに、まったく気にしないで生活して

いる。 

都会ではやや郊外でも、深夜には遠くの電車の走る

音が聞こえたりする。そうして、静かだな、と思うのだ。

いつも考えるのが習慣になっているので、音の比較で

静けさを捉えている。僕は都会人だと思うのは、そんな

時だ。そういう反省が生まれると、また山へ行きたくなる。

山で生活したくなる。ただ登って、降りてくるのは、もう

いいという感覚でもある。

僕は、山へ入ると、たぶん、気を交換する。リフレッシュ

する。そういう呼吸をしたい、と思うし、そういう呼吸を

する。ただ我を忘れて、深呼吸をする。

考えることを、忘れる。 


本を読むな、というのは一般的な意味でだった。

デカルトは当時の学問がアリストテレスから発展

させたスコラ哲学でできていたことを見抜いた。 

科学的見地はまだ未明の16世紀だった。デカルトは

教科書の思想の根底を感じたのだろう、だから、彼の

感覚で「すべての書は読まれたのだ」、すべて

読んでも意味がないと知った。そこで兵役に出た。

ある晩、三つの夢を見て新しい学問に目覚めた。

ガリレオが宗教裁判にかけられた危険な時代

だった。そこでデカルトも「世界論」を印刷するのを

やめてしまった。出版は亡くなってからだった。 

親の遺産があったので、一人の従者を連れて、

世間という学問の場へ乗り出したのだ。目の前の

社会や世界がどうなのか自分の眼で見るのだから、

師匠も教科書もない。20年間、ほぼオランダのなか

を転々として、あまりフランスに帰らなかった。

ドイツ、フランスなど30年戦争の最中であったし、

それはデカルトの死の2年前まで続いていた。

それでもデカルトは数学を、それまでの幾何学から

まったく別の見地から、代数を編み出していた。

その一歩はX軸とY軸のグラフから、右をプラス、

左をマイナスにあてた。それで数学は格段に便利

になった。現代数学の基礎はここから始まった。

定数a、b、c、・・ と変数 x、y、z はデカルトのを

そのまま使った。変数 x、y、z はそれ以上増え

ないので、アルファベットの最後にあるので都合

がいい。定数はいくつも使うが、増えてもa、b、c、

から使えば20個以上あるので問題ない。合理的に

考えられているのだ。かくして、500年も使われ、

この先もデカルトの記号が使われるだろう。

ニュートンが科学の扉を開けたのも、デカルトの

代数があったおかげだった。物理と天文と代数

がそれぞれを証明して原理を説いた。

この世の書物を読むのはそのすべての考え方で

あっても、現代では印刷技術が発展したから、

爆発的に本は出版されている。すべてその根底を

読むにしても時間がかかり過ぎるだろう。

どうしてデカルトは世間を学問の鏡に見立てたのか? 

それは学問がコチコチにスコラ哲学を基本に固まって

いたからだ。そこからは自由な発想は生まれない。

交通渋滞でともかく、他の道を行っても時間は同じくらい

かかってしまうのだから、渋滞を我慢しよう、というのと

似ていて、誰もがしない抜け道探しをすることが、必要

だと感じたのだろう。バカな道を選んだのだ、それこそ

が合理的だと考えて。誰もが行かない道こそが、誰もが

気づかない発想の場面に出会える道に違いない、と。

なにかと常識的な発想をしていれば、世間の通念に

支えられ、安心安全だと感じるのは、今も昔も変わら

ない。

僕らは社会で人との付き合いを最も大事にするが、

僕ら日本人は世界の人と付き合うわけではないので、

郷に入れば郷に従う、で国際結婚とかになるとそれ

なりにやっていくしかない。しかし、いつまでもスコラ

哲学で学問が支配されてはいなかったように、日本

という一地域が世界を支配することもないし、相手国を

理解しなければならないが、そうもならない決断の場面

に時代で出会うことにもなるだろう。


夜は 更けゆく。  

これから寝て見るのが、夢なのだが、僕は今でも

この三波のなかでも、コロナという夢を見ている気が 

している。感染者数という数字だけが踊っていて、

僕の周辺では、誰ひとり感染者がいない。島の知人、

家庭で、友人たち、子供夫婦やその孫たちにも、誰

ひとりいない。座間で累計168人くらいでは見ないほうが

当然なのかもしれないが、ニュースで一時重篤になった

話をインタビューで見るくらいだ。それはほんとうなの

だろうか、というとんでもないと言われるような気しか

しない。

昨年は9月に島で岩場で落ちて、死に損なったが、

入院もせず、神奈川に帰ってから、10月にすぐ、持病が

起こった。これも1週間で退院したが、事後が悪く、

ぶり返しが多かった。人に「病気の神様の指示」とかいう

話をしたが、首をひねっていた。言葉は正確ではない、

それは不幸な運が背後にある、とかを「わからないもの」

としてだから、それをわかりやすく「病気の神様」と

名づけたのだが、彼には比喩ではなく、そのまま神様

として思われてしまったらしい。面倒でその誤解も解か

なかったが、この持病の5,6回のぶり返しには悩まされ、

我慢の生活を強いられた。回復したのも、年末だった。 

そうしたら、1月にはコロナがはっきりしだして、僕は

横浜の仕事を3月初めに辞めた。何の関連もないが、

こういう我慢には向かない僕は、自粛の練習ができて 

いたと認めなくてはならない。持病が起こらなければ、

コロナ自粛をしていたか、と考えると、できた、と

自信をもって言えない。(では、病気の神様は僕に

予行演習をさせたのか?それはないだろう、ある

だろうとも。そう考えやすいが・・)



病気の神様も夢なら、コロナも夢ではないか。 

そうして、今年も暮れるのだから、これも夢なの

だろう。そうしたら、今晩、急に車検が切れている

のに気がついて、現実に引き戻されてしまった(笑)。


感染しても無症状な者というのは、僕みたいに



コロナは夢の中なのではなかろうか。
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透明に近い豊かな暗闇 (独り言) [独言]

ハロウィーンパーティ、したことない。 

興味もなかった、今も昔も。それより、自分の状況を 

気持ちと共に整理してみたい。いつもの独り言だが、 

僕は独断専行していないか、チェックする気でいる。 

なにかを書くわけではなく、こうしてつぶやいているだけで 

なにかを、気にしているなにかがはっきりしてくる。 

それを心にとどめながら、異なる情緒を書いてゆく。 

そうして心は二重の舞台を演じることで、落ち着いてゆく。 


猫は元気だ、まだ。野良猫の寿命は短いのだろうが、 

いつ生まれたかわからないから、予測はできない。 

彼女と同じような自分なのか、と尋ねることがある。 

しかし、野良のように人間の男の大人を警戒する 

ように、僕はなにかを警戒する必要はない。彼女は 

動物の心だから、警戒するからといって、孤独である 

というのではない。狼の遠吠えはやけに悲しく聞こえるが、 

猫の寂しい鳴き声というのは、人の話にも聞いたこと

はない。

僕はこの孤独がよくわからない。その寂寥感を感じたく 

ないがために抑えているのかとも、と思ってみるが、心は 

答えてくれたことがない。そんなに自分を甘さに浸して 

自分が人間性のある人間だなどと、演出する気負いの

ようなものはどうでもいいし、自分の弱さは知っている

つもりだ。人の間に入って仕事や労働を遂行しなければ 

いけない時に心を引き締めて、余裕を見せながら、油断は 

しないで反撃の準備は怠らない、というようなことはもう 

うんざりするほどやってきた。

夜の外に出ると、外気が暗く、涼しい。まあまあ空も晴れて 

いて、雲が少ないので星も適当に見える。山では満天の 

星を見たので、その百分の1の星でも、見えているほうだと

承知している。だが、星が観察できるくらいだ、というような 

ことは、やはり二の次で、この星に抱かれるかどうか、だ。 

一瞬、星に包まれる。それだけで記憶が蘇り、あとはその 

記憶の感興に包まれるのだ。だから、今心は閉じ気味だ。 

初めて星に包まれた晩は凄まじいもので、星空の中にいた。 

その空を見上げているのに、感じているのは、星々が 

僕を包み込んで、星たちから見られているようだった、と 

いうことだ。僕にはそれが決定的な瞬間で、何度かあった。

星を観察するように見ている時は、それは自分であり、 

また知というものの行為だった。それは星と一緒になった

感興が覚めてから、わかることだった。僕の感覚ではそれが

正覚だと感じた。 星たちと一緒だと、命が惜しいとか、孤独 

だとかはただの雑念で、幸福や自在感があって、それらを 

まとめた自由の感覚があった。すると、それが素晴らしい 

人生の”時”だと如実にわかるのだ。 そういう過去を思い 

出した。 島でや、山頂では星があり過ぎて、大きい、小さい 

の区別がつかないので、星座などは見分けられないくらい 

だった。

それで、地上のここでは星空には期待しない。わかりやすい 

南十字星*とかオリオン座とか探す。見れば、即見つかるのが 

北極星だ。近くにそれくらいの同じ大きさの星がいないので、

すぐに北極星に引き寄せられる。そして、どうして北極星は

すぐに見つかるのだ?と少し、不思議に思うのだ。

今晩は北極星を探す星のほうが見つからないと思ったら、北斗

七星のひっくり返った柄杓が見つかった。柄杓の最後の二つの

星の距離を4倍くらい伸ばすと、そこに北極星がいる。 小学校

で習ったような気もするが・・。 

満天の星はほんとうにゴージャスで、街のイルミネイションが 

ゴミのように思えるくらいだ。数えると、全天で二万くらいの星

がチカチカ輝いている。見ようとすると、あまりに遠いためか 

距離感が掴めないで、そこにあるようにも、ずっと遠くにある 

ようにも見える。それって、どこにあるのかわからないことなの 

だろう。それでますます星に魅入られるように見入る。 

十分に心が開くと、(実際にはあり得ないが)意識のない心と 

星とが友達であるような全体感に包まれる。

(もう僕は裏の心で自由を泳いでいる) 

心を開放し続けると、ある時点で穴が開くのかもしれない。 

が、そうなることはなく、その手前で僕らは我に返ってしまう。 

我に返ってしまう、という常套句もよくできた言葉でこれは

自分に帰ってしまうという意味だ。それまでは自分から離れて 

いたという事実を示している。感興というのは、そういう自分を 

断ち切った状態に横たわった世界であるようだ。 

僕はそういうことを、よく言われる「自然との一体感」という 

言葉を使わない。嫌いなのだ。我に返って「素晴らしい夜空だ」 

と言葉を頭で使った瞬間に、9億9999万9999の豊かな感興の

情報は消え失せ、1だけの言葉に集約されてしまう。豊かな

事実を無意識に捨ててしまっている。それほど現代では感興

にとどまることすらが難しいのだ。

はしゃぎたてない。騒がない。愛の性質とか傾向を知ると、 

喜びを抑えることをする。低刺激で、静かに喜ぶ。 

葬儀で泣きじゃくる子供は可愛いが、同じように大人が 

したら、冷たい眼で見られる。涙をこらえている人を見ると 

知らずもらい泣きしそうになる。もらい泣く。どうしてか、 

悲しみを抑えるほうが悲しみをあふれさせて、周囲の人に 

伝播するのである。もらい泣く、というのもよくできた言葉 

である。 愛も似ているところがあり、喜びを抑えると、自然

に笑みがこぼれる。げらげら一人で笑いまくっていたら、 

狂っていると思われてしまう。 

こうした感興の後にその余韻を尋ねると、自分がどこにも 

いなかったので、今まで「僕はどこにいるのか」と散々言って、 

書いてきたのだろう。どうもその感覚を現わそうとした感嘆詞

らしい。


僕はどこにいるのか。なぜ僕だけがしあわせなのだろう? 

この自然との共感はいつも一人の時が多く、他の人が 

しあわせじゃないと言っているのではないようだ。僕は 

たぶん、死と共に孤独にある時にしあわせを感じることが 

できる独特な一面があり、その意味では仏教的なのかも

しれない。 

宮沢賢治とか、南方熊楠とか、あと誰だったか、臨終の時 

に大輪のハスの花だかを見ながら、静かに息を引き取る 

という話を読んだことがあるが、それがふつうに子供っぽい

空想話に終わらずに、だんだん美しい話に思えてくるから、

長く生きていると、人は変わるものだと思う。



*南十字星は和歌山県の最南端や沖縄などで見ること 

 ができる。

                 10.29 ハロウィンの頃
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あの鐘が鳴る [気持ち]

あれや  これや  

街の 風景が  とおり過ぎて ゆく  

そうだったな  

そうだったんだ、と  

もう  忘れかけていた  あの 鐘が  

鳴っている  

あの 鐘が  

・・・・・・・・・・

僕を  縛る紐が  あればいい、と

思う 時も ある  

それが あるつもりで  

僕を  ぐるぐる 縛ってみるが  

見ているうちに  半透明になって  

やがて  消えてしまう  

幻のように 


僕が  辿る 旋律は  

僕を  どこへ  連れてゆくんだろう 

自由になった  僕は  

同じくらい  孤独も  手に入れた  

美人を  化け物に  見える

そういう 動物的な 視点も 

手に入れると  

男と  女との  違いは  

なくなってしまった  

どんな 画期的な視点も 

宝の 持ち腐れのように  

冷たい風に  ころがる 

冬の 新聞紙の  ようだった  


自由になるとは  

こんなに 空のように  

取りつく島  がない ものなのだろうか 

人に 指摘した  特徴は  

それを 初めて  人に言われた、と  

それを  他人にそう 自分に批判めいたことは

言わせない、と圧をかけていた、  

と そんな 自分で  自分に気づけない  特徴

強い エゴに  気づけないほど

親に  守られ過ぎた  人生

だからこそ、  それは  

跳ね返って来て

僕の前で  宙に  浮いている  

誰のものでもない  ただの言葉で  

死語のように  消えてゆくもの  

空から 発せられた  言語は  

そうやって  空気になる  だけ  

なのだろうか


悲しさの  調理の仕方とか

愛に 呼ばれる  生き方とか  

まるで  流行らない  工夫 なの

だろうか  

まるで  荒野を 眺めるように

人のいない  木が一本の 

草が点々とした  不毛の地が  

僕の  到着した  上陸地なの

だろうか  

それは 絵葉書ではないように 

深閑 とした感動を  呼び覚ます  

不思議な  出会い  

何もない  というのは  

寂しいことではなく  切り詰めた  

ただ 「ある」 ことの 

そのものが  ある  

それが 突出して  僕は  凍りつく  

そして  一種の やさしさに  

包まれる  


そうだ 

そうなのだ 

遠くからでも  船の上からでも  

その地の 厳しさの  荘厳さが 

わかる  

なぜか  敬虔な気持ちに  

打たれる  

それが あるのは  僕に  

わかり過ぎている  

感じているが  言葉に するのは 

わからない、 と 

空の 言語に   なってしまうよ 


そうして 

僕は  

統一する  

他に  うまく 

言えないみたいだ  

あの 鐘が 鳴る  

それと 同じなのに  

僕が  世界に  入れ替わるのと  

僕が  世界に 溶け込んで  

世界も 僕も  同じ空気に  

なって しまう  

それは  意味のない  言葉  

だろう  

あの鐘の  遠い記憶から  

なにを  期待するの   だろう 

僕は  その広大 無辺な  

一部 なのだろう  

馬の 牧場が  あるような丘  

なにもいない  荒れた  丘  

それらが  僕を  迎えて いる  

どうして  歓迎されるのを 

僕は  知っているのだろう 

それは 大事なことだと  思うと

それを  放っておくように  

また 僕に  言われる  

この 主体のない状態に  

なんの  困惑も  感じない  のは 

あの 鐘が  鳴っているから  

あの鐘が  僕を  迎えるから  


僕は  それ   だ 

たとえ  それが  通路のような  

ものでも  

それは  伝えている  

それは  通じている  

だから  今、  

それが  

僕は  ここに いる、   と  

言わせている  



見知らぬ  僕よ  

見知らぬ  あなたよ



僕は  

  ここだ  

僕は  

 ここに  

  いる


こうして  坐って  

いる 

押し寄せる  愛も なく  

押しつぶす  虚しさも  

ないが  

その 記憶の 欠片(かけら)が 

まだ  

生きている  

ここに  

こうして  あるのが  

わかるよ

僕は  それ   だ 

たとえ  それが  通路のような  

ものでも  

それは  伝えている  

それは  通じている  

だから  今、  

それが  

僕は  ここに いる、   と  

言わせている  



見知らぬ  僕よ  


見知らぬ  あなたよ


僕は  

  ・・・  

僕は  

 ・・・  

  いる 







**
11月23日は勤労感謝の日。第2次大戦の戦後、国家神道の色が

濃いので、新嘗祭の日だったが勤労感謝の日に変更された。

国家神道関係の本は6000冊とか、焚書・発禁にされたが、最近

復刻され始めている。GHQは日本人のマインドコントロールを

狙い、成功した。新嘗祭の日など、知る人はおらん。探ると、

いくらでも日本人が知らないことが出てくる。
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ハハキキ (短編) [小説風]

夏目漱石は晩年、相当神経が衰弱して、妄想か幻覚に

悩まされたようだ。ひどい胃弱で、間欠性爆発障害

かもしれないひどい癇癪を起すことがあり、子供たちも

大人になってから、怖かった、と話している。普段は

子供にやさしい漱石だったから、そのギャップがひどかった

のだろう。僕は漱石と気質が似ていて、胃が弱く、怒ると

アドレナリンが胃に拡散されるのか、ひどく痛み、治まる

のに3時間くらいかかる。以前は、年に1,2回の癇癪を

起こして、そのあとひどく落ち込んだものだが、瞑想で

その心の起点を突き止めてから、対処ができると安心した

のか、平気になり、これは完全に収まった。

漱石の神経からとみられる半狂気じみた行動は、だから

自分にはないと、そこに漱石との相違を見ていたのだが、

このコロナの自粛から、10か月に及んでからは、どうも

自信がなくなってゆくようだ。自分のストレスが心に

及んで、どうも正常な神経ではないようなのだ。

寝ながら、夢で半狂気の真似をしながら、上半身裸、で

うちのに写真を撮らせているのだ。人はもうろうと夢を

考えて(つくって)いる。考えたことは行動に出やすい。

これはその前兆かもしれない。  



< ハハキキ > 

源氏物語の第二巻の名は「帚木(ははきぎ)」である。ある

地方でも「帚木」は多くの姓になっている。処によっては、

その読みを「ははきき」、または「ははき」と呼ぶところがあるが、

国家管理局の帚木管理官も、「ははきき」だった。

ある日、ポストに奇妙な封筒が入っていた。少し、大きめの

封書で、丸く膨らんでいるのだ。触ると、柔らかい。

あて名書きが「母聞き様」となっていて、少し驚く。切手が

貼っていなかったので、直接投函したものだろう。薄気味悪い。

そして、封書を開くと驚いた。入っていたのはトイレットペーパー

を丸めたもので、そこに鉛筆でこまごまとした文字がびっしりと

書かれていた。保険がドータラ、税金がコータラ、と意味の

わからない文だった。 


「管理官」と副管理官の山本が、帚木の執務室で報告して

いた、「あのトイレットペーパーは、どうも最近の告訴ブーム

に関連しているようで」

「告訴ブーム?なんだね、それは。初めて聞くなぁ」

「はい、私もそれが目立った事件をおこしているといった

わけではないので、別々のことと思っておりましたが、

馬小屋大学の教授及び、豚サッカー大学の教授及び、

牛糞大学の教授という三大学の三教授に話を伺って

どうもひとつの社会現象ではないか、と。」

「そうですか。それは奇妙な話ですね。よく調べました。

その話を聴きましょう。」 と、ははきき。

「はい、まず馬小屋大学のA教授ですが、県への政府の

提案した事業が不審だったもので、村の爺婆が議会に

押しかけて、陳情をした事件があったのですが、議員の

一人が「それではあなたたちは国を相手に訴訟でも

起こす気ですか」と発言したのが、きっかけになって

「ソショウ?ってなんだべ。」

「ソショウはそうしようかい?」

「それで国が謝ってくれんかい?」

と、喧々囂々、終止がつかず果ては、

訴訟=そしょう、そしょう=そうしようと爺婆に伝わって

「ああ、そうしよう、そうしよう」

と、訴訟なんだか、そうしよう、なんだかわからずに

告訴に至る、という経緯があったのです。これをA教授は

ストレスのなだれ現象と呼ぶそうです。」

「告訴ブームのはしり、という事件ですか」

「そうとも言えます。次に行ってよろしいですか?」

「はい、聴きましょう」 

「豚サッカー大学のB教授によれば、・・」

「あー、山本君。その豚サッカー大学だが、ひとつ聴き

たいんだが、スポーツの大学専門ということなのかな?」

「はい、いいえ。これは昔、豚にサッカーをやらせたら、

豚がサッカーを覚えたそうで(これ、実話らしい)、それを

見た校長が独立して大学を創立して、豚から学ぶ態度を

学生も吸収するようにと、名づけたそうです。」

「そうかね。うん、感心な校長も昔、いたんだな。では続き

を話してくれ」

「はい。そのB教授が言うには、このところ神社参り、寺院

詣でが急増しているとのことで、コロナの感染対策が間に

あわない寺社もあるそうで、長蛇の観光客も珍しくない

のは、これもストレスから人が無意識に寺社の神仏に

頼ろうとする現れだろう、ということです。」

「告訴と関係あるのかな?」と、ははきき。

「それは次の牛糞大学のC教授がまとめて言ってます。」

「その牛糞大学の、ギュウフン、だが、いや、すまない。

やめておこう、どうでもいい、続けて」

「えー。C教授によると、これは江戸時代に起きた伝統の

ええじゃないか騒動の新しいひな形ではないか、と言って

います。・・・・・・(帚木から質問はなかった)いいですか?」 

帚木は軽く、うなづく。

「これはおかげ参りという、江戸から伊勢神宮へ集団で

詣でたもので、60年周期で3回起こったそうです。踊り

ながら三日から十五日もかけて全国から集まったそうです。

明治維新によって消えましたが、またそれが形を変えて

告訴や寺社参りとなったのではないか、集団ヒステリーの

一種だと。告訴はストレスからの要求が外に対して、社会

に対して現われ、寺社参りは内に対しての行動では

ないか、とC教授は分析しています。」  

「そうかね。」と言って、帚木は椅子から腰を上げた。

「どうしたものでしょうか。早急に対策チームを立ち上げ

ましょうか。」  

「山本!・・・山本君。」

「はい!」 

帚木は広い窓から、首都のビルのジャングルを眺めた。

そして、ひとつ肩で息をした。

「あのね、・・・」と、言葉を止めると、

「なにもしなくていいよ。」

「はい?」 

「ほっときなさい。それが国民の自然な発散の模様なら、

ほっときなさい。」

「そうですか」

「山本君。不満かね?」 

「いいえ。そんなことは」

「自然に起き上がったことは、自然に解決させた方がいい、

そのほうがうまくいく。この事例はそういうもんだよ。

ご苦労さん。」




**
作者としては問題になるまでは放っておくのはいいとしても、

ストレスの原因は解決しないんじゃないか、と思う次第だが。

いい時代だった、これまでのような方策は役に立たないだろう。

ヒステリーは19世紀に流行した。ジークムント・フロイトが

精神分析を発見・創始してヒステリーの研究もしたが、解決

を見ずに、ヒステリーは時代の多様化と共に自然消滅して

しまった。現在はその何十倍の精神病名が分類されて、

患者を安心させるのに役立っている。(ともかく、名前

が決まっているのだから、治療法もあるだろう、と素人

は考えるから。実はないのだが・・・。)

僕もヤバクなってきたので、何が起こるのかわからない、

そんな気がしてしょうがない。ブログは書きたいが、

パソコンを開いてブログの画像が出てくるのを想像

すると、嫌悪と小さな吐き気を覚えるのだ。危険信号。

それがここ2ヵ月は続いている。なんとか凌いでは

いるが・・・・。

今日は長時間、車で近隣を10kmほど、初めて回って

ストレス解消してから、書き始めた。うちのとはよくある

コロナくち喧嘩して、胃が痛いから、夕食はいらないと

伝えてある。人間、しようもないものだ、もろい。書いて

いることなんかその人間のほんの一部だからだ。

ほんとにヤバイ。

                   12.01 
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スサノオ(あらすじ小説) [小説風]

主人公の名前を仮にスサノオとしよう。 スサノオの

所属する国家管理局は自治体のお目付け役のような

役目で創立された。もう30年になる。 

長官はスサノオの義理の姉で、スサノオはその側近

の補佐官だったが、好かれていないので、なにかと

派遣で飛ばされている。

今回もテロ事件で爆破予告があり、てこずっている

地方都市の役所に回された。

「君か。FB I でプロファイリングもやってきたという

女子は」 と、スサノオ。

「管理官。女子ではなく、私は神崎です。ちゃんと

名前でお呼びください」

「神崎。で、爆弾はどこよ?」

「まだ特定に至っていません」

「いつわかるの」

「予告日の前にはなんとか」

「なんとか?なんとかじゃないよ。あした1日やるから

わからなければ、君は降りてもらう」

「えっ、でも他にわかる人は・・」

「それはこっちで探すからいいよ。時間が惜しいだろ。

もどって仕事して、はい。おい、君。総務と警務の

人事書類全部、持ってきて」

「はい?全部ですか?」

「聞こえたろ、全部。区分けの仕方は、それから教える

から」  

また、続けて、

「お茶くみの女子に話聞くから、一人ずつ読んで」

執務室の1号室で、面接みたいに始まった。

「君は、名前は ・・・。  ・・あ、そう」

続けて、「君の思うできる上司って誰かな。今の職場

だよ。それと仕事してもたいしたことのないの、いる

でしょ?」

三人に続けて、同じことを聞いた。


「三久住!ああ、君か。僕はこれから用事で出るから、

君、替わりに2,3時間僕の代行、やっていて。それから

泥戸君。君は僕についてきて。緊急用に、ここの連絡

携帯持っていくから用意して。じゃ」 

スサノオは泥戸を連れて隣駅へ行き、そこから近くの

地下の古いビリヤード場で球を突きはじめた。

「あのー、」と泥戸。「私もおつきあいするんですか?」

「できるだろ?女の子が言ってたぜ」

「はぁ、まあ」

「なんか、ウィスキーでも頼んで。君はお茶でいいよ」


緊急の携帯が鳴って、テロリストから二度目の予告

が届いた、と知らせが入った。

「あ、そう。仕方ない、戻るわ」


「神崎、呼べ」

「はい」

神崎が走って部屋に入ってきた。

「この予告だと、場所はわかるんじゃないの?」

「はい、ただちに教会を包囲しました。電源を切って

今は中にいるテロ犯を説得中です」

「ふーん、どのくらい?」

「は?」

「時間だよ、説得してからどれくらい経ってるの?」

「1時間は経過しています」

「中、真っ暗だよね。彼らの灯りはミニライトくらいか。

僕が行くから、警察の担当者にそう伝えて」

「管理官がですか?」

「そうだね」

「彼らは専門家ですし、管理官が入ると、お邪魔に

なりませんか?」と、神崎女史は皮肉を込めて言った。

「それは君が心配することじゃないよ。指揮は僕が

取るから」


「あんたが署長?挨拶はいいよ。暗視鏡のメガネ

みたいなやつあるでしょ?あれと催光弾用意して。

催涙ガス弾とマスクは用意してあるんでしょ?」

「署からただちに取り寄せます」

「うん、早くして」

準備ができると、スサノオは軍の訓練兵のような

いで立ちの特殊装備の警察隊を連れて、正面から

入って行った。教会の重厚なドアが叩き壊された。

中から銃で撃ってくる。

催光弾を投げ入れると、教会内が輝くばかりの

光がさく裂した。ガスマスクをつけた突入隊が侵入

すると、催涙弾を奥へころがした。一気に制圧する

こと3分だった。

「よく訓練されてるね。でも、変だな。楽すぎる」

そこへ、走って教会内から隊の一員が出てきた。

「管理官、署長、すぐにここから離れて下さい。

爆弾がすでにセットされ、カウントが始まっています。

あと23分です。付近のものをすべて非難させます」

「あ、そう。じゃ、僕も行こうかな」

「管理官、行こうって、そっちは危ないです」と、署長。

「爆弾処理班は中にいるよね、じゃ心配ないよ。

僕も見てくるから、署長は住民の避難を優先させて」

「あ、管理官!」


「はい、ご苦労さん。どうかな?ボンバーは」

「は?」

「この事件を指揮している担当の管理官だよ。どんな

具合?」

「はい、初めて見る装置で、20分で解除は無理かも

しれません」

「そう、どれくらい吹き飛ぶの?」

「この爆薬ですと、周囲の半径500mには及ぶかと」

「そりゃ、大変だ。逃げても間に合わない。じゃ、作業

続けて」

スサノオは「逃げ道も確保した方がいいな」とブツブツ

言いながら、現場から一番近いステンドグラスの窓に

近寄って行った。壁にあった椅子を持ち上げるや、

それをステンドグラスに投げつけて、叩き割ってしまった。

「カウント5秒前になったら、あそこの窓に突入、いいね?」

「はい、わかりました」

5秒前まで爆弾処理をしろ、ということだ。隊員は恐れ

いってしまったが、それまで一緒にいるらしい管理官を

前にしては何も言えなかった。

「そうだ、爆発の威力を妨害する工作は習わなかった

かな?できたら、それで一時しのぎをしてよ」

「はっ、最大限努めます!」

(そりゃ、そうだ。できなきゃ死ぬもんね) 



タイマーは止められず、爆弾側に防御を施したが、

どこまで有効かはわからない。7秒前で作業を終え、

二人は近くの割った窓から飛び出した。すぐに壁際に

身を寄せると、2秒で爆発の大音響があった。

被害は爆発防御が効いて、教会を崩すだけで終わった。

二人もすり傷の軽傷ですんだ。  


スサノオは爆弾処理の隊員と無事を祝って、雑談を

してから、役所に戻ってきた。

「神崎、おお~い」

「なんですか」

「なんですかじゃない。すぐに次の爆破場所を探せ」

「はあ?予告はありませんよ」

「目的がない。予告にも要求がない。そんなテロが

あるもんか。これは前哨戦だ、こちらの出方を見て

本番をするつもりだ。予告しないほうが確率は高い」

「そんな。予備の爆発だと言うんですか?ちゃんと

爆発させて、それなりに目的は果たしたんじゃない

ですか?」

「逮捕したのは、たったの2名だ。教会には2名しか

いなかった。実行犯だけだ。他にも実行犯がいる。

テロリストは愉快犯じゃない」

「闇雲になにを探せと言うんですか?」

「お前はバカか?逮捕した実行犯から詳細を聞け、

と言ってるんだ。いいか。お前が正しくても、間違った

場合は死人が出る。俺が間違っても、よかった

よかった、なにもなくてで、死人は出ない。それ

だけでいいんだ。時間がない。早く取り掛かれ」

「ハイ」

「神崎、声が小さいよ」

「ハイッ」

「おし」



そこへ次の事件が起こった。信用金庫への強盗

で、通報から警察がかけつけ、周囲をかため、人質

の解放及び投降を説得しているという。

スサノオは現地まで行った。7階建ての雑居ビルだった。

「突入するの?」と、担当の所轄署長に尋ねた。

「人質が5人いるので、まだどこにいるかもわからんので

時間はかかると思います」 

「あ、そう。彼らはどこにいるのかわかってるの?」

「それは3階に陣取ったようです。4階より上は休み

で人はいませんでした。2階と1階は見張りがいます」 

「そうか。あとで電話するから、指示に従って。奴ら

が行動を起こしたり、要求があったら、連絡して。

一度、役所に戻るから、じゃ」


「信用金庫のビルの周囲の地図を持ってきてくれ。

付近に老人ホームとかの施設、があるか。ガス

スタンドはなかったな。あと、保育園とか学校とか、

ないよ、を探して」

職員が地図を持ってきて、机をつなげてその上に

広げて、バタバタする。

スサノオは電話していた。

「ヘリコプターだよ。重量何トンを吊り下げられる

のか、だよ。それと、そういう鉄球を至急見つけて

借り受けてほしい。それと7階建てのビルの図面

送るから、3階の天井までぶち抜くには、何mの

高さが必要か計算しておいて。ああ、姉貴の

長官のほうは許可をもらってある。書面じゃ

間に合わないよ、人質が殺されちまう。さっき

一人殺されたと報告が入った。では頼むよ、

幕僚長!」


しばらくすると、国務管理長官の姉から直接電話。

「あんた、なにやってんのよ。鉄球なんかどうする

つもりよ。幕僚から連絡あったわよ」

「ああ、姉さんか。いいから、許可して。緊急事態

だよ。人質事件で、すでに一人犠牲を出してる。猶予

がないんだ。頼むよ」

「何言ってるの。責任取るのは、こっちよ。あなたの

無謀につきあっていたら、首がいくつあっても足り

ないわ。ダメよ。軍のヘリを出せ、なんて。お断りよ」

「あ、そう。それもいいけど、姉さんね、僕、テロで

体張って爆発範囲を絞って、死人なしよ。聞いただろ。

今日のニュースで僕、英雄よ。その英雄が凶悪事件

の解決のために協力をお願いして、姉貴が断った

とバラしたら、長官としてはそのほうがまずいんじゃ

ない?これ以上死人が出たら、もっとまずいし、うまく

行かなかったら、僕が勝手にやったことにすればいい

じゃない」

「あんた、私を脅せると思ってるの。あんたの責任は

私にかぶってくるのよ」

「いやいや、そう怒らず、責任転嫁はできるよ。僕が

姉貴にはヘリを貸し出すだけだ、と嘘を言ったと主張

すればいいのさ。あとで証拠用のテープでも作らせて

送るから、幕僚長にそう言って許可して」

「じゃ、この通話は消去するわ。がんばって、足でも

折りなさい!」



嘘は嘘ではなかった。幕僚長からの電話を待ち、次に

伝えたのは燃える油とそれを消火する消火剤だった。

「作戦だけど、まず、屋上に鉄球を落としますよね。

3階の天井をぶち抜いたら、そこへ油を注いでほしい。

注いだら、発煙筒でも投げ入れて火事にしてください。

ベトナム戦争で米軍が使った、あのJ・F・ケネディが許可

した酸素を燃やしてしまう枯葉剤もあったら、適当にぶち

込んでもいいな。あとはこちらでころ合いで連絡するんで

消火剤で火を消してください」

「それも長官は・・・」

「ああ、もちろん。全部話したら、笑ってましたよ。姉貴は

あれで太っ腹なところがあるので。ガンガンやって建物

から犯人どもを追い出してください。よろしく」

次に、現場の所轄署長に、「消防車を手配したので、

もう突入はしないで。3階に火事を起こすので、出てきた

人質の保護と犯人逮捕を消火の前に行うようにして、いい

ですね。これから行きますから、またそこで」


作戦はほぼうまくいった。枯葉剤はなかったし、あっても

使いもしなかっただろうが、犯人側で死者1名だけで、

人質は2階の倉庫部屋に押し込められていて、大きな

ケガもなく、事前に殺害された1名を除いて全員無事

だった。火の回りは速いので、結局、ビルは全焼して

しまった。保険が下りるだろう。

その晩は職員は事後処理の書類で忙しかったが、

ビールを一杯だけ乾杯してスサノオは帰った。

明け方だった、地震があったが、酒が効いていた

のか、またすぐ寝てしまった。どのくらいも寝なかった

だろう、すぐに電話で起こされた。起きて胸のポケット

から携帯を取り出すと、役所からだった。

「おはようございます。朝早くから、大変失礼いたします。

管理官、大変です。明け方に議員会館が爆破されました。

それにともなっての脅迫がテロリストから届いています。

こちらでご覧になってください」

スサノオは言葉を飲み込んだ、チクショー、やりやがったな、

被害を聞きに行くのに、出所するのは嫌だな。

・・・・・・・・・・・。

「あ、三久住呼んで。管理官だよ、おれ。3時間くらい

俺の代行やらせた三久住。いい?わかった?今、

いない?そう。じゃ、代行に神崎の代わりだけでなく、全部

まかせるから、と管理官が言ってたと。そう、ボスも呼び戻し

ておくから、おれは管理局に帰ったと伝えて」



3日して、国家管理局長官、姉から連絡があった。

「ちょっと、いいかげんにしてよ。あんた、仕事放りだして

なにやってんのよ!聴いてるの?今どこ?」

「ああ、うるせ。姉ちゃん、質問は一つずつに」

「あんた、クビよ」

「それは知ってるよ。神崎を思わず、殴ってしまった

からな。訴えられた?」

スサノオは神崎が次の爆破予定を探せという命令の

後に、美容院へ行ったという報告を聞いて、切れて

しまった。(あちゃ)と思った時は、もう遅かった。歯の

2,3本は折れたかもしれない。

「あのね、他人事みたいに言わないで。自分のミスも

あるから訴えはしないそうよ。内輪もめが外に出るから、

周りも止めたみたいね」

(ちがうよ。あいつは手を抜いたんだ。それを知ってるから、

周りに同調するフリをしたんだ。それをあいつがあの時

眼で言ったから、カッとなって・・・。肝腎の処で手を抜く

奴は許さない)

「事件はテレビで観てたよ。犠牲者が多過ぎた」

沈黙・・・・。

「ふーん、多少は気落ちしたんだ。それじゃ、転勤先

決まったからいい?メモして」

「ああ。はい」



スサノオは転職先を思い浮かべた。左遷は左遷だが、

近くに海がある。こりゃ毎日、釣りができるな。と、

釣り道具店で、竿を物色することを想像して、もう

ニヤニヤしていた。自分が事件で片腕を失っても

こんな調子なのだろう、この男は。





**
個人的な休日だった。なにもしないほうがいいのだが、

楽しければなにをしてもいい。

朝の5時に目が覚めて、ぼんやりした頭で、怒りで切れて

女を叩く夢?半夢?を見ていたか、考えていた。

それから尾ひれが前後につながるように、小説を考えて

いた。一応、面白そうだから書いてしまおう、と。

早朝から10時までに書き切った。朝の食パンは7時過ぎ

だった。ともかく、遅くとも午前中に書いてしまわなければ、

途中で興味をなくして退屈して、書きやめることは大いに

あり得たので、なんとしてもこの弱くなる感興を継続しなけ

ればならなかった。なんとか、守(も)った。

あとでがっかりしてもいいのだ。自分では面白いものは

かなりマニアックなものなので、普通に書くのは頭が

はっきりしていてはいけない。思考のかたまりを書くには

明晰でないとスッキリ(区分けで)書けないが・・・。

これはこれでいい。小説は半夢でいい。

それと、ドラマはアメリカの精神背景が入っている。日本

ではピンと来ない部分もある。
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空腹を振り切れない [シンクロ]

ここに坐るのはなにかを始めることではなかった。 

そう思うのだが、それは自分の意志を持って始める、

という意識がなかったせいでもある。だから、いつも

思うのは何かが起きる、という僕の未知数への期待

だった。

今、眠れなくて、心はそれを期待したのだが、ただ

ポカンとしてしまって、自動書記ではないが、そんな

ものが始まる、という気配が感じられない。

なにかをもって始まるのではないが、なにをもって

始められるのか、そういうことがまったく自分には

わかっていないことが露見した。それは瞑想のため

に坐っても心が騒ぐばかりで、空白になれない、

瞑想を迎える準備が取れない、とそういったこと

だろう。

深夜だが、部屋の蛍光灯は点かない。(明日)昼間、やはり

LED照明を買いに行かなければならないのか、と考え

ている。

珍しく、書けない、という空白が続く。

書けない。

なにも入ってこない。

ふつうに日常的な充実感があり、軽い満足感がある。

気分が悪いほうが書けるのではないか、とまで考える。

と言っても、悪くはなりたくないが。

現実にここにいるという感覚が、不思議に今まで感じて

来た、「ここにいない」ということだとわかる。

ここで言いたくなかったことが急にわかる、それは

僕がいよいよそれに対して死ぬのではないか、潜在意識

の何かは知らないが、それと没交渉になるのではないか、

ということだろう。

いよいよ、・・・・・・・・・・いよいよだ。

不思議なシンクロがなくなってしまうとは思えない、と

感じているのがかえって不思議だが、僕がそれに自由に

入れるということは無くなってしまうのかもしれない。

まだ、蛍光灯は点かない。代わりにLEDスタンドを持って

来ている。今、試しに4回目の点灯を試みたら、点いた。

ここまで30分間、点かなかったことになる。

気まぐれだ。自分が気まぐれだから、迷惑だと考える

ことはなかったが、なるほど迷惑だ。 (電気の故障、

いずれ、コンデンサーかなんかのヘタレが来ている

のだろう、お化けではない。)

ここでわかったのは、今までのなんでもいつでも書ける

という自在感が、実は潜在的に隠されている、創造の

入口があるということだ。これは潜在意識との交流が

始まってから、相当早くに気がついたが、考えて書く

のではなく、(先行きを)考えずにしゃべることだ。

(詳しく書くと、ややこしい。過去を整理しながら書く

という手間ではなく、思いつくままどこへ行くのか考えず

にそのまま書いて進める、との意味)

そして、そのようにする上で次から次へと自分がいつ

考えていたのかわからない想念を無尽蔵に引っ張って

来れる、ということだった。僕に与えられた才能はそれ

だけのもので、大したものではなかったが、僕には

楽しんで書けるという、有難いものだった。

今もしゃべればいいから、文を考えて推敲という苦しみ

がない。勝手にしゃべって行けばいい。

これはどうやら身に着いたようなのだ。なにしろ、’15年

頃からだから5年間はそれでやってきたわけだ。

腹減った。

忘れていたが、現在自粛ストレス対策で、一日一食を

実行している。一食と言っても、分量が一食程度しか

摂っていないだけで、2回は少ない量の食事をしている。

なので、思い出すと、腹をすかしている。昨日が3日目

で、最初のバウンドが来る日だ。少し、食堂街でふらつい

て歩き、空腹で目が回る、という言葉が嘘ではないのを

久々に思い出した。断食の経験があるので、これしきは

想定内。ただお金はある、いくらでも好きなものをここで

食べられるのに、腹をすかせたまま、紅茶を頼んでいる

自分は、皮肉だな、と思っただけだ。その1日前は頭が

急にクリアになった感覚があって、中国のことを書いた。

あれは空腹のなせる業だと言ってしまえるか、わから

ないが、・・・腹減った。 

スープでも飲んで、ごまかして来よう。

・・・・・・・・・・・・・・・15-20分くらい経ったか。続けよう。



空腹についての格言じみたものはまだまだありそうだが、

端折ろう。 

不思議な「シンクロ」と書いたが、これは意識の交流が

始まってからの見るもの聞くものに、心理的な同期という

現象をよく経験するようになったことを言う。

さまざまに関連する事象が日常的に発生して、これを

まだ経験していない頃の感じで、不思議、と言ったまで

で、日常的に起こればそれを不思議とは感じなくなる。

その頃の僕は一般と同じで、それは不思議なことだった。

それが起立した意味がわかるのではないが、日常茶飯

になると、別な考えになる。今まではそれを感覚する

心の受け皿がなかっただけなのだ、と。見ていても、

気にしたことがなかったので、見過ごしてしまう、または、 

それが関連する、またはそれから重要な連想が生まれる、

といったことが起こらなかったのだ。

世間やブログでもセラピー関連で多いが、「引き寄せの

法則」ということが言われる。街の書店でも、時折、見か

けるが、あれがなにかを集中的に引き寄せる力だと

いうニュアンスで捉えているが、僕には周囲に元々

あったんだと思う。それに気がつかない生活意識だった

から、気づかないだけで、心が解放されれば、周囲は

引き寄せだらけになる、というのが感想だ。

個人の感想に過ぎないと思うかもしれないが、僕らが

ほんとうに無限ともいえる可能性を秘めているのだと

したら、それが急に身に着くというものではないはずだ。

すべてはここにある。見ても気がつかない人は知らない。

子供は恋愛映画を観ても(僕のことだが)、「バカだなぁ、

お互いに好きだってわかっているのに、言えなくて

黙っている、わかっているなら好きだって言えばいいじゃ

ないか」、のごとく、無経験なのでその感情の大きさが

わからない。

見てわかっても、感じなければ、その考えは通用しない

のだ。大人になっても日常はこまごましたことが一杯

なので、すぐに判断にもって行こうとして考えてばかり

いる。それはここぞという時の判断をする時には、無駄な

ことになっているのだ。



あの人の言った言葉、この人の発言、誰それのと、

思い出してつなげればその言わんとした意味に当たる

ことがある。その事実を思い当たるままにつなげるのを

くり返していくうちに、今まで気がつかなかった糸口の

ようなものを自然に見つけられるようになる。それは

そこに着目する、という感覚の新しいビームを発射する

用意ができたということで、そこから世界が広がり

はじめる。十分に広がると、引き寄せどころではなく

なってくる。

それでも自粛をして、10か月も生活を制限していると、

自分で自分の首を絞め始めるらしく、勝手に振舞い

たくなるようだ。腹減って、ふらふらするという状態に

なって、ようやっと自分の勝手な感情に振り回され

そうになっている自分の状態に気づく。もう切れ

かかっていたのに気づけないとは。人生に熟練する

なんてとんでもない思い上がりに違いない。

あと3日で腹減ったは、やめよう(笑)。

シンクロは世の中とのシンクロも範囲内だから、その

真相らしきものからどんどん現れて僕を小声で呼ぶ。

その直感は日常と少し異なっていて、信じてしまうには

希薄だが、これはヤバイと感じる点で濃い。難しくは

ない、そのままだから。それにきちんとした論理的理由

が加わって、確実だというフィット感が出れば、今までの

ところ全部当たる。ブログでわざとズラシて書いたことは

あるが、自分なりには理由あってのことだ。


夜が明けてしまう、今回は、もう端折ろう。



          12.5-6
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ただの ひとり事 [日記]

かみつれ、と聞いて知らなかった。

Wikipedia で「カモミール」のことだ、と。なるほど、

カモミールなら知っている。 ハーブでリンゴの

匂いに似た花の香りがする。

ハーブだから、雑草。 

雑草は好きだ。澄ましたところも、上品さもないが、

破れかぶれのもいれば、意外に可憐なのもいる。

しぶとい。生命力がある。死んだように見えても

息を吹き返す。一度は。 

または、次の年に復活したりする。根が残っていた

のだろうか? 

神連れ、と聞いても知らない。そんな言葉は

なかったように思う。Wikipedia でも花のカミツレ

しか出て来ない。 

僕の造語だとしたら、僕の考える意味はカラス

だろう。神はカラス天狗を従者にして、降臨する

とか、聞いたような・・・。 

カラスはよくわからない。頭がいいと言われるが、

なにをもって頭がいいのか、釈然とした説明には

お目にかかったことがない。

鳴き声は独特である。全部のカラスではないが、

島では「アイフォン、アイフォン」とアップル社の

回し者であるかのように鳴くのがいた。たまに

そう鳴くのではなく、四六時中「アイフォン」なのだ。

こちら座間でもふつうとは異なる音声で鳴くのが

いた。言葉にはしずらかったので、覚えていない。

九官鳥のように声の物まねができるらしいから、

本来どんな鳴き声も得意なのだろう。

それにやつらは、人を見る。様子を伺う。一昨日か、

珍しく窓の向こうの4,5mにカラスが電線に

留まっていた。普段、止まるような安定した場所

ではなく、車道の真上で電線の中心だったので、

揺れやすかった。が、きゃつは止まっていて、辺りを

見回している。そして、僕にも気づいている様子だった。

が、気にしていない振りか、落ち着いている。こちらに

注目するでもない。1分くらいつきあったが、見なく

なってからは、いつの間にか姿が消えていた。

そうしていなくなった電線を見ながら、先ほどの

カラスを思い出して、想像していると、どうもカラスに

愛情を感じている自分がいた。  

島では朝から夕方までカラスと出くわす。その所為

なのか、慣れて気持ちが向こうになついてしまったか。 

とてもカラス天狗には思えない。 

よく、いじめられたカラスはその人間の顔を覚えていて

仲間を連れて復讐するという。カラスに攻撃されて、

軽い(?)ケガを負ったという話を聞くが、今でも同じ

だろうか?  僕はカラスに接触されたので、その経験

から、恐れず、親しい感情を持つに至ったのだろう。

彼らには彼らのしきたりか、ルールのようなものがある

らしく、港の護岸でカラスとトンビがなにか魚を、死んで

いるのだろう、取り合いをしているように見えたことがある。

そのギャラリーがいて、それもカラスやトンビなのだが、

周りを囲んでいるだけで、取り合いには加わらない。

それを僕はカメラに収めたのだが、その時、上空から

トンビが一羽下りてきて、僕の頭を蹴っていった。と

言っても蹴り上げたのではなく、彼らとしてはふつうに

手加減したのだろうが、カラスよりデカイから、重い。

それで足の骨がコツンッと当たって、痛いほどではないが、

痛いと言いたいくらいだった。どうも写真を撮るような

場面ではなかったらしい。彼らの足の爪の強さと

いったら、本気なら頭に穴が開いて、出血しているところだ。

縄張りや儀式じみた行動があるのかもしれない。

島ではカラスもトンビも多いので、ある程度棲み分けを

しているような気がする。両方が群れているところを

車で通ったことがあるが、お互いに気にしないでそこら

を歩いている。よいお隣さん、という感じで。

島へ通うようになってわかったのは、魚は子育てをして

いるということだ。堤防の護岸から下を見下ろすと、

小魚が群れているが、不思議なことに対になって

佇んでいるのが、ほとんど。すると、そこへ大きなのが

やって来て小魚たちの間を縫って泳ぐ。好戦的な

人間としては、小魚を食しに来たのかと思ったが、

そうではなく、小魚も逃げもしないし、気にもしない。

その大きな魚は2匹で来ていたが、ある程度、観察が

すんだとみると、またいなくなった。彼らは親の魚の

類で、親かもしれないし、その仲間の世話係かもしれない。

ともかく、魚にはある意味、家族構成がある。それは

相模川でも見たし、島でも他にクサフグが小さなうちは

群れて川に潮の干潮で上ったり、下ったりするが、少し

大きくなると数匹で護岸に沿って、仲良く泳ぐ姿をよく

見かける。成長と構成に順序があるのを、伺わせる。


自然のほうがわかりやすいのかもしれない。人間の

文明はほぼ機械まかせなので、ちょうど車の運転は

できても電気系統が故障したりすると、まったく

一人では治せないのと一緒で、なにがどうなったのか、

わからない。

パソコンはこのところ、急に立ち上げると、たぶん、

レジストリのことだろう、そこを開こうとしているが

開くと、不具合が生じる、とかなんとかの表示が

出始めた。なんのことか、わからないし、そういう操作

もした覚えはない。パソコンはネットにつながりにくく

なったりが、急に起こって一度再起動したりするが、

ともかくそういう不安定さには慣れるほど、多い。

原因はわかったり、よりも、わからないまま治ったり

が多いのも特徴か。

最近でもっとも不思議なのはこの部屋の蛍光灯が

古くて、幽霊蛍光灯になったことだ。なんと、昼間に

点けようとしたら点かない。もう寿命か、と諦めていたら、

夕方にも点かず、が、すぐに点いた!なんで?

夜はまず点くが、昼間は不思議にスイッチを入れても

点灯しないのだ。接触不良でないのは明瞭で、夜は

点くのだから。人間のように必要な時に働くのだ。

ああ、文明の不安定さよ。というか、おかしい。

ただの接触不良ではないのだから。

お化け?   (笑える)


*  ブログで「おわり」と入れようとしたのは

  初めてだ、入れなかったが。
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中高年への箴言 [心理]

始めは「中高年への・・」という題は思い浮かばなかった。

若さの秘密、とか老人への提言とか、だったが、書こう

として少し考えるうちに最も役立つのは、現在の中高年

にあたる人たちだと、思い至る。

若さの本質は、そのまま若さの秘密である。僕は自分で

役立てているが、公表には興味がなかった。僕はサボテン

の鉢植えをたくさん持っているが、育てた覚えはない。

サボテンは成長の限界をその鉢の土の栄養環境や

日光などの自然環境に負を覚えると、急に子供をつけ

始める。それを取ってやって、他の鉢植えに移せば、

またそこで大きく成長をし始めるのだが、なにせ

彼らの世話に興味がない。生活にも関わっていない。

それは例えば、犬猫だったら彼らの食事・排泄・居住

環境の世話は必須になるので、手を抜いていられない。

要求の鳴き声を浴びるのが眼に見えている。

サボテンは偶然、拾ったか何かで、ちょっと鉢植えに

移してやったが、それがきっかけで大変なことになった。

親指ほどのが、足の太ももほどにも成長して、子供も

バンバン増やす。最初は手を入れていたが、もともと

世話するつもりで鉢に植えたわけではないので、ほぼ

放っておくことにした。そういうわけで、サボテンの鉢植え

は今やサボテンの死滅する地獄に変わりつつある。

その間も、日射量や水の量、驚いたのは部屋に入れた

場合、換気(回数)によっても成長の姿や度合い・速さが

変わることだった。

そういう興味のないテーマが若さの秘密でもあった。

ところが、自身が老化の真っ最中なのであるから、

それについて日々気がつくことが、自然多くなる。

それで腰を上げることになったが、まず、若さの本質

は若者のものでもなく、老人のものでもないことだ。

若者は若さが体の分子運動や細胞分裂で、自然に

未来を目指す気分が与えられている。そこで若さの

秘密とか、本質など気にする必要はない。そして、

気がつくと老化に入っている。

また、老人というものは例外なく、自分は老人ではない

と思っている。 まだまだ年を取ったというほどではない、

と思っている。それが老人の最大の特徴だと、たぶん、

誰も思っていない。そこに老化の事実があり、秘密があり、

つまりは若さの本質がある。それは老人のがんこさが

生成される秘密でもある。



では、解題:::

若者に生成される若さというのは前に向かう”気”である、

と一応言うことができる。その気は体に充満する成長の

ための化学反応や細胞、その分裂やそれぞれの盛んな

分子運動からもたらされるのだろう。それは当然、力を

感じさせ、何かをやる気にさせる。これが未来へ向かう

方向なのは言うまでもない。だから、体が基本である。

心はそれに沿う形で、将来への希望をかきたてる。それは

付随現象と言える。心は体全体から生まれるから、肌でも

腸でも骨でも、脂肪でさえ化学反応で思考現象を発生

させる。(まだ現在、最新の情報で未確定なものも含む)

脳は記憶や文化的な行為に関わって、(その他あるだろうが)

それぞれを管理する部位が19世紀に発見されているが、まだ

まだその意味や意義については研究段階。

僕らは自分から年を取る。大したことではない、寝起きが

スッキリしないとか、膝が痛い、腰が痛い、体がだるい、

とかで「ああ、これは年だわ。」「自分にも年取る順番が来た。」

と思う。その大したことない、ほとんどが運動不足、睡眠の

不調というストレスへの対処が適切に行われていないこと

などなどから来る、毎回毎回の「自己暗示」によって、そこ

からほんとうに老化を潜在意識に植えつけ、自分を守るよう

に気持ちも考えも感覚も動かして、その結果、老化機能が

促されてしまう。要は、老化の初めで十分に戻せるのにも

関わらず、自分で自分を年寄りにしてしまうのが老化の、

大きな原因だ。自分が犯人。

自分が自分を年取らせている、それが事実。

なので、本来個人の体質もあるから、50代後半から75歳

くらいだろうか、75は経験していないので、想像比較

しかないが、その間は本来、(日本の場合)老人にならない。

と、僕は思っている。

それは人間の受ける最大の激痛をそれをもたらす持病で

抱えたので、この35年間(くらいに)に7回発症して通算

21日150回以上も耐えてきた経験から実証されている。

そのおかげで膝の痛みが始まった時も、準激痛にして

克服して、医者にも行かず、鎮痛などの薬も飲まず、

(一般の人はひどい時は飲んでもいい。ただし、運動は

控えめにする、薬で痛みが抑えられているだけで、感覚

が鈍くなっている)歩いて、克服してしまった。とても

経済的だった。その一番初めは2時間歩きとおして、

ほぼ死にそうで、明日は歩けないだろう、と思ったことは

2年前?、書いた。翌日、全快。ランナーズ・ハイの脳内

麻薬が発生して(自己治癒)、1週間痛みがなく、戻ら

なかった。

僕らは40-50年の内には、誰かの葬儀に列席する

ことになり、そういうことを何度も目撃する。老人を

見て、体の不調を見る。やがて、20代には自分も

老化する、成長が止まるということを、早くも納得して

しまう。これがくり返すのが、老化の第一原因。こうして

決めてかかったものは、意識の上で根になり、先入観

になる。老化はまず、この自分で植え付けた先入観から

始まる。それは、自分は年を取らないと思えば、老化

しないのか?という意味ではない。また「年を取らない」

と強く決心しても、その言葉の中に「年を取(る)ラナイ」

「年を取る」という概念(言葉)が入っているので、潜在

意識にインプットされてしまう。「年を取らない、取るまい」

と思うことはそれ自体が、年を取ることを認めてしまう

ことだ。

若者は若さに気づかず、老人は若くなりたい、自分は

年取ってない、と思う、思いたいだけ。その中間にいる

中高年が最も有効なのが、早めに体の世話をすること

である。中高年の時代が最も人生の繁忙期で、家の

ローンや子供の学費やそろそろ老後を考えはじめて、

と稼ぐことだけに集中してストレスを溜め、自己の

健康管理が怠りがちになるのだ。それが老化の第2

原因。勢い、アルコールや風俗、ワーカホリック(仕事

中毒)でストレス解消だけに努めがち。

これで脳をやられた人は還暦以降は一直線で老人

へと進んでしまう。悪く集中するので、痼疾のように

悪影響で善悪や正義にこだわりを強く持ち始める。

思い通りにならない抑圧で、自己甘えから思い通り

にしたくてあおり運転やストーカーなどと影響は

広がる。

日常の行動でどうして老化が進むか?それが

年を取るのは当たり前という先入観がどうかかわる

のか、を説明すると、まず足が不如意になると、体は

自然、自分を守ろうとする。

それで例えば、日々の階段の上り下りでも、腰を引いて

しまう。すると、重心が腰のあたりに来て、体重を

すべて支える形で足に負担がかかる。ゆっくり降りよう

とするから、余計に負担の時間を長くして、足を疲れ

させる。それでは今までどうしていたか。上りでも下り

でも体はやや前傾にしていた。そこで重心が腹の前に

なって体重はベクトルで分散されるから、体への負荷

が少なくなる。極端に言えば、落ちる勢いで階段は

ある程度勢いをもって下りる。一歩前を上る感じで

勢いをつけて、素早く階段を上る。そういう気持ちで

上り下りしないと、どんどん体は重く感じ、年取ったなぁ

とまた意識に語りかけて、必要以上に老化を早めて

しまう。悪循環だ。

そうなる前に、足を鍛えておく。と言ってもオリンピック

選手じゃないんだから、強化訓練ではない。まず、

片足立ちで靴下を履けるかどうか。それぞれ交互に

履くことができ、ふらついて両足をつかなければいい。

ふらついてうまくいかないのは、もう足腰年齢が60代

かもしれない。

40代ならジョギングとか、50代ならよく歩く、足の屈伸

をしたりして、片足立ち靴下を成功させる。中高年なら

まだ楽勝のはずだ。還暦過ぎると、それが3倍から7倍

も時間がかかり、運動してもすぐに回復しない。ちょっと

走っても息切れするなら、ゆっくり短い時間から段階を

踏んで、運動せな、あかん。 

一概には年取るのは平和なことで、75歳(平均)までは

年取る必要がない。

怖いのは、近未来に筋肉や四肢の交換が安価でできる

ようになった時だろう。交換部品では化学反応は起き

ないから運動能力は向上しても、先入観はそのままだ

ということ。ガンコでこだわりの強い、社会で発言力の

ある老人が増えたら、どれだけ日本全体に害毒を流す

ものやら。(一党独裁政治という腐った見本は、歴史上

数が多過ぎるくらいだ。)

100歳まで嫌な仕事で雇われて使われて働くのはバカ

バカしい。好きなことやって働くべきだ、それを世界の

マネーを操り、ルールを決めている連中に従って、稼ぐ

に集中しても負けるばかりだ。社会全体がそういう

システムに構築されればいい。そういう社会にするには

どうしたらいいか。コロナ後に考える世界とはそういう

ことだろう。A I が人間の仕事を奪うのを心配したり、

考えるのは、ほんとにせこく、無駄なことだ。(先走った

が・・)

ほんとうに老人になったら、早めに平和に亡くなって

いくのが、よろし。(ハハ)

                         11.18
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