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日本精神・文化のなにかとは [文化]

前の記事(アメブロ掲載)、と言っても冗談だったが、

書いてから2日なのだが、もう1週間も経った気が

している。

なぜか、今夜は落ち着いた気分でやることはやった、

一応全部済んだ、という気分だ。理由ははっきりしない。

あれもそうかも、これもそうかもという理由らしきものは

浮かぶが、浮かばしてみるだけで、なんの重きも置いて

いない。他人の仕事をすることで自由を奪われるので、 

自由になり過ぎている現状にそれなりの不自由なバランス

が取れたと言えるのか。 

低く太鼓のような、鼓動のような響きが地を這って、叩いて

来る。東京の雑踏から離れるように、そのビルや石畳の

光景を薄いブラックサングラスを通して眺めるように

もう別の世界を紡ぎ出している。 

東京には瀟洒なビル街か下町風の込み入った路地との

それぞれの組み合わせになった乾いた室内音楽のような

街並みしか見えないのだが、 ・・・。 

働くブルーカラーの人たちは皆同じで、手信号で交通整理を

しているのと変わりない。ルーズなマニュアルを見ている気

になる。面白いのはコロナはどこにも見つけられないことだ。

アルコール消毒はどこにも置いてあるが、コロナに注意とは

どこにも注意書きがない。コロナが人の心に浸透してしまって

注意を喚起するにも及ばないからだろうか。

コロナ後、という言葉で世の中が変わるという方面に動向を

見据えるつもりのようだ。コロナが終われば元に戻せばいい

じゃん、という意見が聞こえてこないのが、僕には不可思議。 

リモートを前倒しするのがいいチャンスだというのだろうか。 

なるべく早く先を読んでそれに対応する、というのが常識に

なったのだろうか。それもこれもどうしてそんなに急ぐ必要

があるのだろうか。そう思うのだが、自分で急ぐ理由を作り、

それを宣言して、それを先取りしてゆく。少し人間バカに

なったから、そんなことしているのか、と思ったりするが、 

実はここ近年ではそれが加速しているようだ。ネットで情報の

流通速度が速くなったのに合わせるように、追随する。

追随にも追随する。それは新しいことを見つけることでは

なくて、流行を連鎖してつなげてゆくことでなにか儚いことを

分裂、延長させているだけではないか、という気さえしてしまう。

目新しいだけ。目先を変えるだけ。違うのだろうか。 

それにつられて人々の小さな権益が生まれ、以前は固いこと

言うな、で済んでいたものまで守るべき体制、組織ができて

しまい、そこに小市民的なエゴが社会的な一定の価値に列せ

られる、という不可解な常識も生まれそうだ。いや、ブルーカラー

の仕事からはそれがよく見えるはずだ。 

コロナは悪循環に入っているように見えた。東京ではさすがに

マスクをしていない人はいない。が、手洗い、うがい、マスク

という感染対策以外はなにも指示がないと思っている。指示が

ないから考えないというのも問題なのだが、それよりも今は

時期的に他にどうしろと、というふてくされ諦め期に入ったようだ。

電車では間を置かずに坐っているし、これは始めからだったの

だろう、昼間でも混んでいる電車は混んでいる。3密とかどの国

の話だというくらい。この惰性には第4波が来なければ政府も

僕らも本気にならないだろう。ワクチンの有効性もある国の

医療関係者で部分で確認されたくらいで、本当の処はまだ先

にならないとわからない。 

ともかくコロナには人災の噂が絶えないし、専門家の意見も

一部の陰謀論者も同じようにおかしい。コロナがわかっていない、

ということが究極の真相らしく、それぞれの立場が一方的な混乱

を招いている。それがわかって全体的に発言していないし、まだ

そうできる時期でもないのだ。 

僕にはもう聴こえない音楽や見つけられない絵画・映像という

ものの、なにか現代を捉えられない感覚の抜けができている

のだろうか? 

自分の心の滓(オリ)のように過去を見つけるが、それらの執着を

発見するが、それが僕自身である芯を侵食しているとは思えない。 

新しくヒットするポップスにも面白いと思うが、聴いているうちに、

それも過去のパターンの中に分類されてしまう。音楽は広い海では

なくなったようだ。いい音はいつの時代でもある。僕の期待するのは

数百年に一度という音なのかもしれない。だとしたら、それは無理

だし、それでいい、ということになる。ただ自然に探してしまう衝動は

変わらない。そういうのはビートルズで経験した。 

聴いても”いい”と思わないのだ!一度目を聴いて、一曲が残る

くらい。あとは雑音。いいと思わないのは過去に例がない音を

組み合わせているから耳慣れしていない。そこで3度聴いて少し

わかる気がする。特にサージェントペーパー以降のアルバムは

売れたが、一般受けはしていなかった。すぐに反応が出なかった

のだ。皆、何度も聴いてわかろうとしたのだろう。彼らの音の勘は

素晴らしかった。雑音ではなかった。皆、後からついて行った。 

あとは人間の年齢という自然な風が吹いて、それぞれ個性を

意識し始め、4人が集まりにくくなり、彼らは解散に追い込まれて

しまった。それでよかった。そうでなければ、ポールとレノンの曲

がどちらがどう影響を受けたり、与えたかがわからないままに

終わっただろう。解散したので、その後の二人の別々のアルバム

からそれを判断するのは楽だった。 

僕らはくり返すことを望んでいる。それは半分で将来の自由を失う

ことであるけれど、もう半分で今の自由の変形で楽しむことが

できる。そのどちらかの立場に入ってしまった時にだけ、保守とか

リベラルとかが存在し始める。それが何に対しての保守なのかに

よって、行動も変わるだろう。どちらでもないサラリーマン的な人生

が自分に合っていると思えば、保守もリベラルも気にならない。

ただ日常の生活を乱したくないと思うだけだ。

日本の精神文化が世界に広がれば世界がよくなるだろう、という

のは机上の問題提起であるだけで、絵に描いた餅だ。精神文化

は洋服や信念のように取り換えればいいというわけにはいかない。 

その国の過去という歴史の全部をその国民が自覚することから

始めなければ、ほんとうに変わることは少ない。人と同じだ。 

少し昔だが、映画の渥美清の寅さんをアメリカで上映したこと

があるが、日本で大ヒットして松竹の自社ビルを建てるほど稼いだ

寅さんを、米国人はちっとも理解できなかった。少しも笑わなかった

そうだ。寅さんの感情文化は日本独特なものだったのだ。 

世界でマスクをしない人は多いし、クリントン政権で国民皆保険を

日本と同じに進めようとしたが、主に低所得者の層の反対で実現

しなかった。

少しずれるか?相鉄線で女性専用車両(痴漢対策だろう)が設置

されているが、フランスの女性は驚き、反対だそうだ。それは設置

されるのではなく、自分たちが鉄道会社に要望すべき事項になった

時に要望することで、「押しつけられる」ことじゃない、と言いたい

そうだ。これが市民の権利意識なのだ。市民革命を経験して

こなかった日本人にはない。フランスが自由・平和・自由を標榜

するように、精神文化が意識で違うのだ。単にそう考えているん

じゃない。そこから意見や行動が出てくる、生まれる。 

江戸は鎖国で文化が爛熟したと言われているが、それが一部

だろう、と思えはじめているのだが、明治はすぐそこにある。 

戦後の焼け野原を見るように、明治の貧しいなりをした人たちは

印象に残っているが、明治維新は外圧が引き金になったが、

なにが起こったのだろう? するとまた、明治で僕らは何を

失ったのだろう?という積年の疑問に戻ってくる。  

どうも東京へ二度行って、明治の結果を見ながら、まだ気づけ

ないでいるんじゃないか、日本精神のなにか、という気がして

きたよ。  3. 25


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松江市のラフカディオ・ハーンの旧居。 横浜に着いた日はハーンは

感激して弱視の眼で夕方まで人力車を乗り回して見て歩いた。なん

でも美しく見えたらしい。その日本賛美はこちらが恥ずかしいくらい。

彼はほんとうは何を見たのだろう。 2013.4月 撮影。
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