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デジタル資産と未来 [未来]

まだ、どうして書くんだろう、と考えてしまう。 

この書こうという原動力はほんとうは何なのだろう、

と。 

ひとつの答えを出しても、それなりに一部に満足

することはあっても、全体ではまだなんじゃないか、

というのが定番なのかもしれない。 

なんの定番?

考える楽しみの、ということなのだろう。答えを出す

だけでそれで終わってしまってはいけない、という

考えが経験上あるので、なにか見落としていると、

神経質に気にするのだ。 

それは80%くらいは無駄な考えなのだが、それを

知っていても、人が考えもしない処を照らしてみないと

新発見は生まれない、ということを信じているので、

寺田寅彦が言ったように、バカは人が一度考えたこと

(研究など)を、もう一度そこまで行ってみる、と。

すると、その人は気がつかなかったことが隠れている、

ということが起きる。科学者は頭はいいのはもちろん、

性格はバカでないといけない、と。僕は自分のバカさ

をカバーするためにも、寅彦の進言を守っているという

ことを自分に言い聞かせるのだ。僕に合っていて、気に

入っているから。 

僕らは所詮、自分に気に入らないと、何もしない。

ネット上にしてもゲームがこれほどに盛隆するのは予測が

ついていたが、そのコンテストで賞金が億単位になると

までは予想外だった。チームを組んでそれで食っていこうと

考えるのが、当然に市場をつくり、今は出来上がっていると

いうことだ。

暗号資産も奇妙な具合にできて、社会への復讐だったのか

初めのプログラムを発案してプログラミングしたのは、そういう

人だったらしいが、刑務所?を出所してからこれを発表して、

3ヵ月だったな、急死してしまったらしい。仮想通貨が世界を

席巻してから、やはりおかしなことになってきた。絵画に価値

があるようにデジタルにも価値が認められ、デジタル資産の

考えが認識されている。

僕はすぐにリーマンショックを思い出す。サブプライムローンを

作り、それを信頼されている格付け会社に債券を高評価させて

売りまくった。そのバブルが崩壊したのがリーマンショックだった

が、デジタル資産である、格付けなどいらないのだ。 

仮想通貨のような交換はできないが、現実にはない土地、ない家、

を売り買いする。その市場が出来上がっているのだから、驚き。

ノン・ファンジブル・トークン=NFTはプロスポーツ選手のカード、

初めてのツイッター会社社長の記事、デジタルスニーカー、など

欲しがるアイテムならなんでも売り買いする。履歴が組み込まれ

ているので、模倣品を造れないらしい。すぐバレるとか。よくわから

ないが、ブロックチェーンの仕組みがそうなっているという。 

仮想空間に価値を付加するのは不良債権を組み込んで優良債権

に見せかけたサブプライムローンを連想させたのだが、これは

デジタル空間に価値を持ち込んだものだ。 

例えば、実際にデジタルの家が50万ドル相当で売却されたそうだ。

その家にはトイレがないという。あっても現実じゃないから、使えない。

ところがバスルームはあるそうだ。製作者はこの家に購入者が住む

と考えている。そこで近未来では家の中で寝ながら、ゴーグルをして

自分がアバターになり実際に家の中を歩き回ったりするのだろう。

現実には金では買えない宮殿とか、中世の装飾品・調度品など

を揃えれば、その家で王様の気分になれるだろう。そのために

5000万円以上?僕は金があっても買わないだろうが、すぐの近未来

では自然な贅沢な趣味になっているのかもしれない。 

その次に来るのは始めは老人用や工事現場作業用に開発された

腕や足の力を補助・強化する部分サイボーグだろう。

テレビが出た時も一億総白痴化と言われ、僕らテレビ世代は白痴に

なったか?気づかないか?だが、腕や足の筋肉の衰えは誤魔化せ

ない。膝や腰の痛みは運動で回復してしまうが、テレビで薬や

サプリを宣伝しているので、それに頼る。そういう次第なら、ドラえもん

の映画で未来人間が筋肉の衰えで子供の頃から、歩くロボットの

ような車に乗って、カプセルに守られて歩くように走っている、という

日常も想像されても仕方ないのだろう。そうなるとは思わないが、

それに近いことはある程度現実になるのだろう。 

デジタル資産はそれを予想させる、価値観だと思った。緒田信長は

戦勝した武将に分け与える土地がなくなると、陶芸品に高い価値を

付与してそれを代わりに賜う、という芸当をした。 デジタル資産も

そういう、現代の価値である金融の代替え品になり変わるの

だろうか? それを狙う輩は? 

トヨタは現実に未来都市を造ろうとしているが、デジタル資産を組み

合わせざるを得なくなるのだろうか?ほんとうになにが起きるのか

わからない、それが未来だ。

その頃には僕のように自分の免疫を秤にかけて、コロナと対決

するような性格的にバカをするような人間はいなくなるのだろうか、

今でもいないだろうから。自分のことながら、俯瞰すると、笑える。

僕によく似合うくらい、バカバカしい世の中だ。*





**
画像は出雲大社に行った時に撮った、大国主の大神の像。

大国主.JPG

*(ますますアメリカの精神病理について書きたくなってきた。)

現在、日本のAIは決定的に遅れている。未来への批判の眼とAIの

進歩には追随しないと、すぐ近くの将来にも社会基盤が侵される、

ということが起きる。

未来を見据える複眼での思考が必要になる。
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忘れていないゴミと自分 [日記]

自分で言うことではないのだが、 ・・・・・・・

書くことが自動的になってきた。意志ではなく、習慣や

ルーチンワークになってきた。何かの代償行為としての

依存ではないにしても、成功報酬を期待しての依存行為

なのかもしれない。そんな裏の理由はどうでもいいのだが、

不思議に書きたい。たぶんだが、8年近く、経っている。

書くのがしゃべるようになったのは。 

よくよく見れば、書くことを喋ることに転換したように思われた

かもしれないが、そういうものではない。書くことをその思考

の部分を結果を気にしないしゃべりの特徴に入れ替えたのだ。

この部分交換ができたのが、面白いのだが、そこは創造の

範疇なので、基本なんでも可能なのだろう。単なる技術とも

違うし、努力や訓練が関わってはいても、それが直接成し

遂げた、というものでもない。心の何かが入れ替わったのだ。

そう言うと、自分ではすっきりする。 

僕らは結果を予定しておしゃべりはしない。その場その時の

話題をランダムにどこへ行こうとかまわない、イレギュラー

に話題を変えて、さっきの話題にはわざわざ振り返ることは

ない。だから、なにかを特別に話し続けることなく、ダラダラと

しゃべりは続くのだ。

思考の場合はそうではなく、あるテーマがあって、それに沿って

話が進み、話す前に結論があって、そこにたどり着かなければ

ならない。そのために何度も推敲して、書き直すのも多くなる

のが通常だ。これを固くやると、とても骨が折れて、また下調べ

もきっちりしないと話がまとまらない。起承転結があって、少なく

とも起承結か、起転結くらいにはまとめる。

僕はどうも無意識に潜ってから、そこの入れ替えが起こった

らしい。そんな自分の考えにないことをできるはずはないから、

脈絡のない意識のかけらを詩のように集めて作文にすること

をやっていたら、いつのまにか新しい知識を入れておく場所が

できていて、そこでは僕とは別に独自に考えることができて、

僕の自意識の知もいささか奪われたが、独自に結論を出して

教えてくれる、ということが起こった。それをこれまで何回も

その印象を書いてきた。  

それが楽しいのは、そこに自在感があるからだ。自由に考え

られる気がする、止まらずに先を気にせず、ともかくしゃべり

続けるように書き続けることができる。その特徴は楽しいのだ。 

考えることに結論を予定すると、通常ではそれがハードルに

なるから苦しい。だから、話をするのは好きでも、手紙を書く

のは大変だから、面倒と思う人は多いだろう。実際に、それを

自由にするためには、やはりそれなりに自由な考え方を詰めて

結論して、自由でいいんだという結果に納得することが必要だ

と思う。まず、それは自由でいい、という自分が自由にならないと

(解放されないと)実行はままならず、うまくいかない。 

要領とでも言うのだろうか。適当さ、無責任さ、結果にこだわらない

というルーズが大事になる。それを中心にしたら、身も蓋もないが、

手段として取り入れることに流れを大切に書くことに成果・効果が

ある。

だから、今も書いていることはしっかり書けているが、それで話が

破綻するわけではないが、実は自分の思う方向からはズレること

がしばしばで、自分の思うことを書けない結果になることもしばしば

なのだ。途中で自意識を入れて軌道修正を測れるのは、あまり多く

ない。時々できるだけで。  

それでも99,5%は書き直しがないから、楽なものだ。どういうことを

言うかは、過去に考えたことが無意識層に詰まっているのだろう、

困ったことがない。思いつきだから、そういうものなのだろう。 

素人が見る囲碁のようなもので、なぜそこに石を置いたのかわから

ない。全体で石を置き終わって、勝負の段階でそれがわかるように、

僕のブログもまき散らされたそれを全体で拾って、つなぎ合わせた

時にその全体像が浮かんで、言いたいことが現れるだろう。

でも、どうやってつなぎ合わせるピースを関連付けられるかは、

僕にもやってみなくてはわからない。僕にしかできない部分も

ありそうで、それは厄介かもしれない。

ここでわかるのは、知の思考の部分と感情の硬く考えない寛容な

部分を有機的に組み合わせれば、理性・知恵(A)という役立つ

働きに変わるように、知の感覚からの直感部分と感情のあいまい

でころころ変化しやすい(天気屋とか言う)部分を組みあわせると、

おしゃべり(B)が生まれるようだ。僕の組み合わせはその(B)の

変化型のように枝下で変形させたものだろう。

人は自分が認めないものや不正と思うもの、嫌いだと思うものに

ついては、自分で思う以上にガンコ、意固地、こだわりになっている

もので、自分ではそれが自分だから、なにかおかしいことをしている

とは思わない。確かにおかしくはないが、それは習慣になって自分の

眼からそれを見た瞬間に自分の眼から消してしまうことを知らない。

当たり前だと思っていること・ものを冷静に検証してみると、それが

意外に沢山あるのを見つけるはずだ。すると、僕らはそれを恐らく

一生に一度もちゃんと見たことがないのだ。一生避け続けたのだが、

嫌だから気を使いもしない。忘れる。実際忘れて、もう覚えていない。

僕はゴキブリの動きに嫌悪感を覚える。が、顔はよく見たことがある。

なかなか可愛い顔をしている、多くの人は知らないだろう。ゴキブリ

と言えば、実はあの油っぽさとモシャモシャした虫の感じに、あの

気味悪い動きのことだから。バッドムーブメントとでも言うのだろうか。

調べたくもない。 

子供は自分がないので(自我の成長過程)、まんまものを見る。

汚いとか、怖いとか、奇妙だとかがないから、すぐそれに触ろう

とする。見えたままを概念なし(教育なし)で感じるのだ。

その眼が大事なのだ。それが目の前を見るということだから。

僕らは選択してばかりいるから、視野に入ったものを瞬間に

概念化して、何度も見たことがあったり、役に立たない、

嫌だったりするものは記憶しないで、排除する。ところが、

実際には排除されずにゴミとして心の隅にやられ、年齢と

ともに回数が増え続けるので、極端に溜まってしまう。

これが人生の最後に悪さをする。

部屋を掃除していても、心の掃除もしないと、それはやがて

腐りゆく原因になる、と僕は考える。歴史の重要人物の生涯を

見ると、はっきりした人生を歩むので、それもはっきり最後に

現れる、という気がしている。 詳しくは単純ではなく、いくつかの

パターンがまた変形したりするのだが、その説明は自分でも

不確実なもので信用できないので、言うのは面はゆく遠慮する。 

しかし、歴史好きな人で運命論に傾いている人などは、もう

そういうことを考えたことがあるだろう。 

そういうゴミの過程にも、自然に僕らが自分を知るまいという想い

がある。それに気づかないままになる素因もそこにある気がする。

そのことが今、特に言いたいわけではないが、結論じみたことを

考えると、その方向になってしまった、ということで。

なんか落語の終わり方みたいになったが、  ・・ということで。

(お時間もよろしいようで )
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終わらないシュプレヒコール [日記・思考]

この悲しみはあまりにあまりに、怒りに満ちている。 

静かで美しいメロディだが、それが包んでいるのは

天にも届く怒りの火柱だ。 

人は次第に侵食されてゆく。この悠久さが悲しみと

共にある。僕だけが感じたのだったとしても、悲しみ

が天に満ち満ちてゆく。 

わかり初めというのは、悲しみは便利な調味料だった。

使い方次第では料理が引き締まるのとは違うだろうが、

それを材料にして愛に変換することができるのだ。

悲恋歌はそれで愛の序曲になった。

僕の悲しみの理解は子供の悲しみよりもなにかでは

なかったような悲しみだったのか。あまりに突きつめて

天を突きとおすという苦しさの針のようなものは想像

もしなかった。  

いつも変わらない万民の悲しみというのはそこにある

ものだろう。それを知らずにいたことは迂闊な話だった。

この歌の中にはそれがあると思うのだが、それは言い

過ぎになるのだろうか。恐らく、「シュプレヒコールの波」

という件(くだり)は日本のメロディが含まれていて、遠く

から呼び覚まされるのだ。もう記憶にもないような昔から

聞いた、そういうメロディ。これを語られると、たまらない

気持ちになる。胸につまる感触が悲しみというパウダー

を白い雪のように振りまいてゆくのだ。  

変わらない悲しみを見つけたようだ。もう変換させる必要

もなく、美しい。どうしてこれだけの美しさを変えてしまって

いいだろうか。すべてが愛に変遷しながら辿り着けばいい

と思っていたことがどれほど浅はかだったことか。

やはり生きる原理などという明るい素材は存在しては

いない。そんな風に考えられるほどに僕らの世界は底の

浅いものではないのだ。まだ愛には愛の役目があり、

悲しみには悲しみの役目があり、苦しみには苦しみの、

怒りには怒り心頭の存在が必要なのだ。 

僕らは、だから解決を望んでいない。僕らはどんなことも

思い通りにできる。半無限の可能性を担っている、それでも

僕らが苦しむことを捨てなかった。気づこうと、気づいてなく

とも、捨てたくなかった。ある場合には必要だったからだろう。 

僕らの先祖が何千年も前にたどり着いたものが、それだった

としたら、世の中を解決しないことだったら、それをどう受け

止めるだろう。

僕たちはどうすべきなのだろう。



「 シュプレヒコールの波  通り過ぎてゆく 

変わらない夢を  流れにもとめて

時の流れを止めて  変わらない夢を 」
               (世情: 中島みゆき) 

愛にはほんとうに、際限がない。そこら辺りでやめとけば

いいのに、必ずそれ以上なのだ。驚くたびに、それが愛だ

と認識させられる。だから彼女はいつも僕ら人間を超えて

進むのだろう。僕らはその度に立ち止まるのだ。そこにない

ものを求めて、それが手に入りそうな気がして、・・。

彼女はそういう僕らを愛す。それはどれほどのことなのか。

僕らに想像が及ばないことにはそのまま、想像が及ばない

というやりきれなさ、・・・ なのだ。

彼女が愛すのは、つまづく僕らであり、挫折してしまう僕ら、

わざわざ苦しんでしまう私たちであり、舌を取られて言い

たいことも言えない私たち、どれほどの悲しみがおおい

尽くしても息をひそめる僕ら、誰が決めたのかわからない、

いつしか苦しみを愛す僕ら、悲しみを愛す僕ら、哀れな

僕らを、それゆえに彼女は愛さずにはいられない。

それは原理でも、単なる感情でもない。そういう僕らを

愛することで彼女も意図しないで、僕らを越えて行って

しまう。僕らが悲しみのうちに彼女から離れてしまう。 

その事情や状況は思いやりや献身や裏切りであった

りする。多くは愛に感化され、自身も愛から発信する

ようになるからだろう。  

愛にこれだけのエネルギーが溜まっているのはどうして

だろう、というのは一度は感じる疑問だろう。僕個人だけ

ではそれが人間よりも大きいとわかるだけで、その内実

はまさに無闇の中だ。

気づかないかもしれないが、僕らは苦しみを愛する。僕ら

は悲しみを愛する。彼女はそういう例えようもない僕らを

愛でるのだ。

僕らが例えようもないから、例えようもなく愛でるのだ。

僕らが愛を見ないのは自己という丸太にしがみつこうと

しているからだ。自分の内面ではそれは普通のことだが、

世間ではそれは数が少ない。パイは奪い合いになる。

その争いを止めもせずに、基盤を守ろうとして支える。

争いさえも支えようとしている愚かな存在には気づくはず

もない。

僕らの基本は社会地盤が自然に包まれ、そこから生きる

糧を得ているように、僕らの心の生活は愛に包まれている。

それに気づかず、自己に憑りつくことに夢中になっていた

にしても、・・  そうなのだ。

僕らは生まれる遥か以前から守られ、生まれる度に祝福

されてきた。それを知ることが多くはなくなってきたとは

いえ、まだその習慣は守られているだろう。

僕は年寄りがなにもかも黙認して、良いも悪いも必要悪

のように仕方がないように認めてしまうのが嫌だった。

当たり前に自由を求めた。それがただの開放感だった

のを見つけるのに、定年まで待たなければならなかった。

それでも自由な生活を経験したことは大きかった。小金持ち

になったプチ成功者と同じように、好きな時に好きなところへ

旅行したり、と、やがて飽きるまで。どこかで制限しなければ

その中で自由は生まれなかった。自由は自分で制限を造ら

なければ囲えなかった。制限内だからこそ、そこで好きに

振舞えたし、力を試すことができた。それで自分に力を

感じて、自由を味わえたのだ。 僕らは自由を求めていない。

現在の他人や組織による束縛や制限からの開放を求めて、

それが自由だと思っている、 ・・・だけだ。



愛ともやがて戦おうと思っていた(だろう)。2年近いあふれ

きるほどに、実際あふれていたしあわせを振り切って、彼女

から離れて異なる自由を得ようと思った。

それを(過去の)現実の異才たちは婚約してはそれを破棄

するということがくり返さざるを得ない、苦しい恋愛劇になった

のだろう。

この自己と愛とのシーソーのようなバランス悲劇は変わらず

どの時代にも衰えずに続いた、続いている。 今も。 

悲しみと愛はカードの裏と表というようなものではない。

それは一点で同じ本質を共有していて、実際につながって

いる。 きらめく美しさで。 その一点まで辿れば、悲しみは

愛に変換できる可能性があると、考えてもらえるだろうか。

できなければ、それは僕だけということになるが、それこそ

あり得ないことだ。僕にできたことが、他の人にも誰もでき

ないということはないだろう。 

だんだん歌が遠くなってきた。悲しみに遠くへ連れられる

感情から、それがやさしく感じられてきているのだ。歌は

同じだ。僕が変わりはじめているのだろう。悲しみが

溶け始める。せつなさがまろやかになってゆく。愛が顔

を見せ始めたようだ。  この三日間は貴重だった気が

する。

感動間違いない大好きな映画を三本も見続けていた

ようだ。

理解すれば理解しようとしただけ、お約束通り、愛は

大きくなる・・・ ようだ。 君が約束したのだ。その意味が

少し、広げ過ぎている、と言いたくもなっている。わかるよ、

僕が望んだから、君は僕に理解させたがっているんだろう。

人間が望んだから、

理解してもらってもいい、と。


君という、僕という、なにかを。 



 




**

僕の経験事実がはたして多くの人の隠れた事実であるかは

仮説の範囲になるだろう。
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素にもどる自分と 親を見取るとは [親]

昨日はどれくらいだろう?久しぶりに一万歩を

越えて歩いた。千葉県の国立ガンセンターの 

入り口にはバスの停留所があったので、そこまで

はお邪魔したが、何の用もなかった。 

縄文遺跡の発掘現場を見る予定だったが、不親切

な対応があって、こちらも腹を立てて帰ってきて

しまった。これも久しぶりの腹立ちで、短気な僕と

しては特に目立つことではなかったのだが、自分

が短気なのを忘れていた、それを思い出させて

くれた。漱石の癇癪には負けるだろうが、喧嘩に

なる前に(電話だったので)、行く予定をキャンセル

すると言い捨てて帰り道を辿ったのだ。もうすぐ近く

にまで来ていたのに。ガンコ者はこれだから困る。 



感情には随分、心が侵食されてきている。以前は

よほどでなければ簡単に腹を立てるようなことは

なかったから、コロナの自粛の影響も加わって、

我慢を忘れている。帰宅しても燻した煙のように

むかつきがブスブス燃えていたのだが、書くという

のは、そういうのをかなりおっぽり出して書けるから、

便利だ。考えるというのは一人であれば、僕の場合は

ほとんど感情に左右されないでいられる。

事態は逆なのだろう。あまりに悲しみに浸ってしまった

ので、その影響で現実への対処を失うということが

起こったのだ。

その全体を説明はしたくないので、詳しい事情は語ら

ないが、腹が立ったのは別の、今だから気がつくもう

ひとつの理由があって、これで正解なのだと納得した。

遺跡見学だけではない理由で僕はやはり、内心拒否

したいものがあったのだ。だから、手段ではないが、

腹立ちも混乱を招いたが、僕の結果としてはこれで

よかったのだ。 ついさっきまで心は引きずられていた

が、急に冷えるようにすべてが収まった。

こういう時に僕らは気を紛らせるためになにかする、という

ことを言ったが、僕もA I 麻雀ゲームをしていた。面白いの

はほぼ80%は負けることのないこのゲームに、やっても

やっても負けてしまう。6回くらい負け続けたら、いつも同じ

なのだが、異様な雰囲気を感じる。もう追いつめられて、

出口をもう見つけられない、このまま負け続けるんだ、という

張りつめたなんとも言えない雰囲気。

気を取り直す時間だったのだろう、ふっと落ち着いた。気が

上がっていたのが、下がって腹が坐るのがわかった。すぐに

ゲームに勝ってしまうから現金なものだ。もう気を取られて

いないので、すっとゲームを止めることができる。この変わり身

がそのなによりの証明になるから、自分でも面白いのだ。  

今、なにをすべきなのか、それがわかる。人間が変わって

しまうのだ。冷静な自身に戻る。 

これが感情の束縛から離れた、その最後の心の状況になる。

音楽を聴いていても同じで、音に心がついて行かないのが

わかるのだが、束縛から抜けると、急にしみじみとその音楽

への感情が生き返り、甦るのだ。それをそれとして受容できる。

それが正しい心の姿勢だと、自分のことだとわかるのだが、

人はどうなのだろうか?  同じだろう、と。

こういう時に見るテレビのドラマの録画は、やはり最終回の

ハッピーエンドなのは(いつも)出来過ぎている、と思うが、

そういうものらしい。幸せには幸福が似合うのだろう。  



東京の府中市には行った。千葉の柏市にも行った。今度は

4日後に東京の23区に行くつもりだ。1年越しにしたいこと

ができて満足だ。山なら危なくないだろうが、23区なら中心

も中心だ、コロナの変異種も。

今日も近所のコンビニに行って、入ってからマスクをして

来なったことに気づいた。ポシェットに予備を入れていたのを

思い出し装着するという、よくあることがあった。コロナを恐れる

のは自分というものだ。僕はそれ(彼)ではない、厳密には。

死を恐れるという根本原因を思えば、恐るるに足らないのだが

自分さんは、恐れるのが商売だから、仕方ないね。

ここは笑ってしまいたいのだが、感情に侵食されたばかりと

あっては、これからもその幅は大きくなるということを思えば、

笑いきれない。最後の最後は僕らは感情に寄り添うのは自然

なことだからだ。認知症になった両親を見てきたが、思考や

記憶を失ってもまだ感情は残った。それが消えてゆくように

なると、後は無表情が残るばかりだった。とても笑えない。

そして、親の最後を見取るということが迷信ではなく、親は

どんなになっても最後に会っている人を死ぬ前に認識する。

それはお線香でわかった。

父の危篤で病院に駆け付けたが、小康状態に持ち直した

ようだった。僕は夜中だったので夜明けまで持つだろうと

思って一旦自宅に帰った。帰った途端に、亡くなったと連絡

があった。親不孝な自分らしい父との最後だった。

朝になり、霊柩車に乗せられる前に病院の階段下に設け

られた台で、お焼香をした。線香から、風もなく一筋まっすぐ

上に煙が昇った。僕も線香を添えてもそのままだったが、

看護師の女性が線香を添えると、異常に煙が揺らいだ。

風もないのにどうしてだろう、といぶかったが、訳はどうも

その看護師が最後に父を見取った人らしいのだ。人は

どうしてこうなのだろう?その女性の線香にだけ、揺らぎが

半端ではなかった。たぶん、父の女性好きも手伝っている

のかもしれない。まだ記憶のあるエネルギーが7日前後は

うろうろしているらしい(初七日)から、親父の記憶体はそこ

にいたのだろう。

僕はそのことがあってから、親の最後を見取るということを

知った、信じた。
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変わらないシュプレヒコール [詩]

変わらぬものは  すべて  

すべてが 世界だ、 ということだ 

世界 

世界 

それを
どうやって   受け止めると  言うのだろう 

それが
どうやって  できることなのだろう 

この 

すべて、 という  

世界 を 

気も狂わんばかりに  世界! と 叫んでみたって  

流れる 涙を  気にせずに  それを  求めても  

それは 遥か彼方から    来て  

僕らを  やがて  超えてしまい  

遥か彼方へ   流れゆく  

偶然があって  僕ら(人類)は  幸運にも  

それを  垣間見ることが  できている  

世界

世界  

ああ 世界 !  

いまだ  誰にも  見果てぬ夢  


「 シュプレヒコールの 波  通り過ぎてゆく 

変わらない夢を  流れに 求めて  

時の流れを 止めて  変わらない夢を  」
               (世情 : 中島みゆき)

君は  何を見て  

どこへ  行こうとするんだろう  

これだけの  

十分すぎる、  欲しても欲しても  

余り過ぎてしまう  

この 世界を   見ないのか?  


「 シュプレヒコールの 波  通り過ぎてゆく 
 
変わらない夢を  流れに 求めて  

時の流れを 止めて  変わらない夢を  」
                      (同:引用)

世の中は  いつも  そこにあるわけじゃない  

僕らは  いつまでも  この世に  いられるわけじゃない

僕らというのは  すべてではないから 

途中で  流れ去る  

永久(とわ)に      流れ去ってしまう  

すべては  僕らの上を  通り越えて 

なにもかも  通り越えて 

世界を  変えてゆく   

なに一つ  残さず  

すべてを  変えてゆく  

国家世界で  ひとつしかない  年号を  変えたって 

僕らは  変わらない  

すべてが  僕らを   変えてしまう  

時を止めたい  僕らの夢も  なにもかも  

通り過ぎて しまう  

どんな  偉大な 瞬間も  僕らは 

受け止めきれ ない  

僕らは  人間なんだ ! 

それがなんだ、と  わからない ! 

泣いても  無駄だと  知りながら  

泣くことしか  できない  

僕らは  なにかで  あるんだ ! 

アイデンティティを  咆哮しても  

どこにも、  部屋の 隅にさえ   届いたことは ない  


( これは  なんなのですか?

 これは  ありのままなの ですか? ) 

静かな 調べが  裸足で  

こちらに  歩いてくる  

悲しく  沈痛な表情で  

どこまで  広がる  鬱、 なのだろう  

乾いた風が  コートの中を  吹き抜けてゆく  

僕らは  どこかを  どこでもいいと 

止めようと  必死ではないか  

それも  僕らの  やさしさと  わかるまで  

僕らの  命は   尽きてゆくの だろうか  


もう 去ってしまった  あなた  

少しは  なにか  知っていたのだろうか  

僕らの  運命について  

僕らの  戦争について  

僕らの  過ちについて  如何ばかりか  

ああ  あなたも  遠ざかるのか  

時の流れのままに  

運命に まかせて  

それが  一番なのか?  

それで  あなたはいい、  ということか?  

それで ・・ 


 
「 シュプレヒコールの 波  通り過ぎてゆく 

変わらない夢を  流れに 求めて  

時の流れを 止めて  変わらない夢を 」  

あなたは  それで  いいのか? 


「 シュプレヒコールの 波  通り過ぎてゆく 

変わらない夢を  流れに 求めて  

時の流れを 止めて  変わらない夢を 」 

嘘 偽りのない  世の中を  望んじゃいない  

悲しみに  流される人たちも  いるだろう  

それでも 

それでも  

あなたは  それでいいと、  

あなたは  それで いいのか?  

ほんとに?

ほんとに  それで いいのか !? 


   僕は   

悔しい ! 

悲しい !  

苦しい ! 

拳を  握りしめる  

歯を 食いしばる 

答えたい! 

あなたの  ためじゃない  

すべてが  僕を  納得させるため  

僕が  応える必要が  あるなら !  

僕に その力がある、と  見えるなら  

力が  あるのなら !

   僕は  

   僕は 

   僕は  

   僕は ! 

   ・・・  !

   ・・・  !
  
   ・・・  ・・


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悲しみはシュプレヒコール [詩]

夏の陽射しの 中で 

まぶしい 悲しみがあった 

それから  なにも  書けなくなった  

どんな感情の強さが  琴線を  

震わせたのか   

書くという意味、 が ・・ わからなくなった  

言葉は それぞれの人の中で  生きたが  

僕のなかで  ミョウバンや  樟脳の  

白い 粉になった  

指でなでても  決して 舐めてはいけない  

遠くから 中島みゆきの  

世情が  聴こえるようだ  

歌は聴こえるのに   言葉はどこへ行ったのか  

シュプレヒコールは  牢獄に  つながれたのか  

あるのは  その歌声だけ  

時の流れを 止めて  変わらない夢を  

臆病な 猫の中で   他愛のない嘘ばかり 

人びとの  悲しみばかりが  

波のように  押し寄せて  

僕らは  津波に流される   僕らを   

知っているかのようだ  

ガンコ者たちは  この波に  入ろうとする

時の流れを 止めて  変わらない夢を  

自分の心情に  重ね合わせて 

シュプレヒコールの波  通り過ぎてゆく  

包帯を取って  思い出す傷跡を   見るように  

悔し涙を  この波に  流すように  


ああ  この悲しみは  終わらない

ああ  この悲しみは  終わらない

時の流れを 止めて  変わらない夢を  

自分の心情に  重ね合わせて 

僕らは  津波に流される   僕らを   

知っているかのようだ 



ああ  この悲しみは  終わらない

ああ  この悲しみは  終わらない

ああ  この悲しみは  終わらない  
ああ  この悲しみは  終わらない


ああ  この悲しみは  終わらない
ああ  この悲しみは  終わらない
ああ  この悲しみは  ああ  この悲しみは 
ああ  この悲しみは  ああ  この悲しみは 

ああ  この悲しみは  ああ  この悲しみは
ああ  この悲しみは  ああ  この悲しみは 
ああ  この悲しみは  ああ  この悲しみは 
ああ  この悲しみは  ああ  この悲しみは 
ああ  この悲しみは  ああ  この悲しみは 
 
ああ  この悲しみは  ああ  この悲しみは 
ああ  この悲しみは  ああ  この悲しみは ああ  この悲しみは  ああ  この悲しみは
 
ああ  この悲しみは  ああ  この悲しみは ああ  この悲しみは  ああ  この悲しみは 
ああ  この悲しみは  ああ  この悲しみは ああ  この悲しみは  ああ  この悲しみは 
ああ  この悲しみは  ああ  この悲しみは ああ  この悲しみは  ああ  この悲しみは 
ああ  この悲しみは  ああ  この悲しみは ああ  この悲しみは  ああ  この悲しみは 
ああ  この悲しみは  ああ  この悲しみは ああ  この悲しみは  ああ  この悲しみは 
ああ  この悲しみは  ああ  この悲しみは ああ  この悲しみは  ああ  この悲しみは 
ああ  この悲しみは  ああ  この悲しみは ああ  この悲しみは  ああ  この悲しみは 
ああ  この悲しみは  ああ  この悲しみは ああ  この悲しみは  ああ  この悲しみは 
ああ  この悲しみは  ああ  この悲しみは 
ああ  この悲しみは  ああ  この悲しみは 
ああ  この悲しみは  ああ  この悲しみは 


ガンコものたちよ   取り返せなくなったものたちよ


君たちは    僕らは


ああ  この悲しみは  ああ  この悲しみは 
ああ  この悲しみは  ああ  この悲しみは ああ  この悲しみは  ああ  この悲しみは 
ああ  この悲しみは  ああ  この悲しみは ああ  この悲しみは  ああ  この悲しみは 
ああ  この悲しみは  ああ  この悲しみは ああ  この悲しみは  ああ  この悲しみは 
ああ  この悲しみは  ああ  この悲しみは ああ  この悲しみは  ああ  この悲しみは 
ああ  この悲しみは  ああ  この悲しみは ああ  この悲しみは  ああ  この悲しみは 
ああ  この悲しみは  ああ  この悲しみは ああ  この悲しみは  ああ  この悲しみは 
ああ  この悲しみは  ああ  この悲しみは ああ  この悲しみは  ああ  この悲しみは 
ああ  この悲しみは  ああ  この悲しみは ああ  この悲しみは  ああ  この悲しみは 
ああ  この悲しみは  ああ  この悲しみは ああ  この悲しみは  ああ  この悲しみは 
ああ  この悲しみは  ああ  この悲しみは 
ああ  この悲しみは  ああ  この悲しみは 
ああ  この悲しみは  ああ  この悲しみは 






**
沖縄戦で父を失ったもの 自分は理解されないと孤立するもの

世の中に敗れたと挫折するもの 津波で家族を失ったもの 

この悲しみを絶対に理解したくないものたち、 ・・ものたち  

終わらせないために  そのわからず屋の  悲しみが、 ・・。
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わかるものとわかりにくいもの [しゃべり]

わかりやすい説明というのはごく普通にありふれている。

極力わかりにくく説明する理由というのは、あまり思い

当たらないだろう。ところが、その中には多く、わかり

やすいから、なんの説明にもなっていないものも含まれる。

僕らは日本語を使っているつもりだが、日本語にも文法

があって、その法則らしきものもあるのが通例である。

それと日常の会話文とは区別されている。要は文法どおり

に使う例はあまりないので、会話は規定できないよ、という

ことなのだが、学というのは権威を重んずるので、日本語

の研究の方がレベルが上だと世間が認めるように地位が

あるという立場を作って、そこから発言するようにしてきた。

科学的思考にはその資格があるが、文科系の学は寿命が

やや短い。古典文法は現代日本語の文法とはまったく

異なるものだ。それは言葉そのものが干渉を受けやすくて、

その時に合わせて新語も登場するし、解釈が変われば

正反対の意味で使う人が増えたりする。その勢いや

持続性でその言葉の音や意味、使われ方も変化して

しまう。高校の古典の授業では「源氏物語」で


 「いづれの御時にか、女御、更衣あまたさぶらひ

  たまひけるなかに、いとやむごとなき際には

 あらぬが、 すぐれて時めきたまふありけり。」と


いきなり出てきて、なんのこっちゃとなった。何語?日本語?

というのが初めの感想だ。そう、もう千と十数年前に現れた

ものだ。言葉がその間にずいぶんと変遷してきたことが文献

で確かめられる。

一方、科学はニュートンの「自然哲学の数学的諸原理」、

いわゆるプリンキピアによって皮切りとなっている。初刊

から三百と三十数年が経っているが、地球上のことなら

この原理は現役で計算されている。よくもったもので、

この美しい統合に皆が憧れた。知を崇拝する者なら、

数式の単純な形を求めて、その姿にうっとりするのだ。

カントも自身の理性批判にはすでに16歳の時に大学で

クヌッツエン教授の影響のもとにニュートンを学んでいる。

この美しい統合に合わせて、純粋理性批判、実践理性

批判、判断力批判と3部作にしたようである。もっとも

数学・物理学・天文学の統合というようにはいかなかった

だろうが、・・・他に動物・植物・地理など造詣があり、博識

の論文を書いていて、学の全体を目指したことが伺われる。

アリストテレスも学問の全体を目指したので、秘かにそこを

目標に入れたのかもしれない。 

なので、言葉のように毎年、流行語大賞が選ばれるほど

科学の法則が頻繁に生まれることはない。地球の引力は

太古の昔から(それほど)変わっていない。 

北極星の位置がエジプト文明の頃からは、ピラミッドで

わかるので、ズレていて王の墓?からの穴の位置から

見えなくなっていることがわかっている。当時は太陽

信仰と星信仰が対立していたということで、このクフ王

の大ピラミッドでは星信仰が有力だったのかもしれ

ない。それくらいには引力も影響を受けているだろう。

月もわずかだが、少しずつ地球から離れているという。

僕らの人類時間では遠心力でどこかへ行ってしまう

まではどんなに頑張っても到底届かない。安心して

いい。月は未来永劫ではないが、人類と共には一緒で

人類より早く消え去ることはない。      3.11、 12


それ自身が逆説的であったり、超感覚的であることは

説明の仕方が難しいので、工夫がいる。生まれてから

耳の完全に不自由な人に、音を教えるようなもので

見えるものを説明するように言葉・記号を並べても

伝わらないのは明らかだ。ところが世間ではそういう

種類のことなのに、普通の社会言語の言い方でそれ

を説明している媒体やその著者・報告者は多い。

まるでわかりやすく説明すれば、子供にも恋愛のドキドキ

感が伝えられる、その不安や喜びがわかると思って

いるようである。

僕が最初にぶつかった難問もそこにあって、未経験の

特殊な事実をどうやって、そういうこと・ものがともかく

心理的錯覚や神秘・幻惑の要素をできるだけ取り除いて

事実として存在するんだ、ということを伝える手法だった、

探ったのは。ありもしないのだが、近似のものはあるので、

それが詩の言葉の飛躍という、直感から直感へ綱渡りを

するような、読み手には忍耐と、表現から直感するという

要求がされる、あまり流行りそうもない手法で、ほぼ自分

で開発する手のものだった。 

僕が変わると、文も変わるのは摂理だったが、自分の眼

からはその変遷が読み取れて面白い。それは無意識の

範囲と自意識の範囲とのバランスが変わってしまう

過渡期を抜け始めてから言えることだった。

精神の変容が間断なく訪れる僕のように気まぐれな性格

だとそういう手法を編み出すのには向いていただろう。 

僕らがお互いに”わかる”というのは常に相対のもので、

絶対な”わかる”は人間では単純な要素が組み合わさり、

それが半無限なので、不可能になる。昔は十人十色とか

現わしたが、現在は人口が増えたから、億人億色だろう。

一般にわかる、というお互いが認めた時がそれが絶対の

何%かそれぞれだが、実は正しくそれで全部なのだ。

社会的にわかる、とか絆的にわかる、ということなのだが、

それが僕らの「お互いにわかる」のすべてなのだ。100%

でないのを悲観するなら、そういう人は自分が神様になる

のを願望している、そういうことを言っているのだ、という

ことを知らない。そんな神も人もいない。 

しかし、無意識の探究ではそういうこの世の常識範囲では

済まない。結局どこかで人間を超える世界に触れなくては

ならないから、精神的に臨機応変の防御やまたはまったく

防御しないこと、死に向き合い、時には瞬間に気絶したり

とか、知的発想を無謀に働かせたり、というトリッキーな

対応が求められた。

と言っても、それらはすべて回想できるようになってから

自分が何をしてきたかが反省させられたにすぎないが、・・。 

なので、それは生き残れたが、すべて適切な対応だったか

はわからない。生き残るのに適切だったかもしれないが、

それが最善だったということはないだろう。でも、それ

でもそこから学べることがあって、それらはふつうに

「・対・策」なのだが、実際には「・体・策」であって、体が

考えて身に着けたものだということもわかるようになった。

体が頭を通さずにやったことなのだ。

それについては進化論はどうもアルフレッド・ウォーレス

(一応、ダーウィンとの同時=進化論発見者となっている

探検博物学者)が真の理論の発見者らしい、という稿で

書こうと思う。  =(進化論はダーウィンじゃない!?)


ともかくこの世の歴史の事項であてになるもの・ことの

少ないこと、少ないこと。調べると、いかにいい加減か、と

言って少しも遜色ないくらいいい加減なのに驚かされて

しまう。例えば、論語という書物は書かれていることが

素晴らしいのであって、それの成立を考えてはいけない。

学者の研究では、論語は後世の編者が寄せ集めたもので

時代もバラバラで、中には孔子が述べていない創作も

含まれている可能性があるとか。確かに、論語はまた

文が一節毎で短いので、解釈もかなり多様になっている。

それらは漢字の成り立ちから、当時には使われていない、

まだできていない漢字が使われたりして、怪しいとわかる

そうだ。そこまで疑っていたら、論語で孔子のものと残る

のはどれくらいになるのか、それは気がつかない方が良い

ようだ。だから、全部ほんものです、という雰囲気で教科書

は教える、載せられている。

まぁ、それでいいのだろう。すべからく世の中、適当な

部分が潤滑油にならないと、回らない。


アストラゼネカ(英)のコロナワクチンが接種後の30人に

血栓症を起こしたらしく、死者も出てデンマーク、ノルウェー、

アイスランド、イタリアで一時接種を止め、控えている。

すぐに関連はわからないだろうが、包丁で指を切る

可能性があるからと言って、包丁やナイフが販売禁止には

ならないように、調べてわからなくてもまたワクチン続行、

顕著な関連の証拠はないとして、(続行)されるのだろう。

こういうのを社会(潤滑油)の摂理と名づけてもいいの

ではないか? 

コロナの変異株がこれからも変異をくり返す以上、まだ

「感染と死者の増加」と「免疫獲得のシーソーゲームに

なるワクチン」との追いかけっこは始まったばかりなの

だろう。

ま、皮肉は皮肉だが、情緒は情緒だ。

「徒然草」(源氏も)のどこかの章の冒頭でも出てくると、

この頃では意味内容はどうでもよく、その言葉の転がし方

から匂う雰囲気が好きになる。いや、もうはまっているのだ、

とつくづく観念する。説明はともかく、わかる、というのは

そういうこと、とかは感じていたりする。

「はべりしに」なんかは、いい。

「来栖野(くるすの)という処を過ぎて、ある山里にたづね

いることはべりしに」は、もうたまらないくらい、ころころと

転がる語感が気持ちいい。語り民謡を聴くようだ。英語

にはない、とプライドで自慢したくなる。
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I'm so Tired [疲労]

今日あったことを思い出して、その時、なにかが

起こっていたと思うことはないだろうか?今、東京に

行った昼間を思いながら、その映像や自分がどう

行動したかを意識で紡ぎ出すように思い浮かべると、

そこはもう遠い世界になっている、という夢じみた

ことがよく起こっている。 

なんでも他愛ないことが起きているだけで、注目する

ようなことはない、自分とは関係のないことだと感じ

ている、そういう自分の映像を見る、それは貝殻の

中が空洞である時に、多く起こるのだろうか。

そこに哀れさを感じるのは気まぐれだろうか。

迷ってはいない、迷わないと確信しながら、それを

確信してしまっていいのだろうかと、小さな疑いを

かける。それが迷いになっているのが、哀れなのだ。 

すると僕は、なにかスロープのようなものにくくり

つけられたその紐を解かれる。するりと紐が解け、

落ちて解き放たれるというのが順序なのだが、

その解き放たれてからというその世界がない。 

それはどこにも固定されてはいないのに、そも

そも固定されてしまった状態というもので、紐が

捉えていたから自由であったのかも、という 

詭弁の匂いもするルーチンワークを描く。 


そこにどうやって孤独を感じればいいんだろう?

なぜならそれは孤独や絶望を感じてしまう心の

傾きに不安を感じるようなことだから。

今は光もない。登場させる感性がないのか、もと

もと光は想像上の灯りだったのか、空気もない

空間に凍ってしまったかのようだ。 

この虚無感から唯物論とかの欺瞞を編み出した

のではないかと、思えるほどの乾燥した心。 

道がないとわかる道なき道。そういうものは心でしか

編成できないのだろうが、そこでは佇みながら、立ち

尽くしながら、この体の感覚の範囲の全体がそのまま

ひとつのかたまりになって進んでしまう、そういう気が

する。押し出されているだけになる。  


わからないのは、この死の上で僕が何も感じることが

できない、ということ。ひとは落ち込む時があるのが

ふつうであるようには、これを言葉に定着させることが

できない。これに平衡していて同じ状態を保っているから

と考える方向になるだろう。

どうやって死んでいられるのか。死んでいるから、孤独も

絶望も感じる義理も必要もない。そんなことができるのか?

できるからこうなのか? いや、やはりおかしい、できない

だろう。これは自己の強力な防御だと考えたほうが腑に

落ちる。死を受け入れないために、自身を死と化す。

だから、これは一時の仮死状態を整備することなのだ。

こういう動きを心理でみると、大変な複雑さに見えるが、

要は生活語に訳せば、なんのことはないのだ、騙されまい、

ここまで描いたことを一言で表す言葉がある、

― それは 「疲れた」、だ。 (自嘲笑)

答えは出た。ふつうに書こう、久しぶりに歩き回って、電車や

乗り換えの階段を上り下りして、疲れた。疲れて考えるのも、

まともに今を受け取るのも嫌なので、感じたくない。それが

今日だった。



**
1年ぶりに東京に出かけた。パンデミックは変異で勢力範囲を

再開拓して、歴史をくり返している。では次は何か。

明日考えよう。ゴーッ、布団へ (笑)。
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アウンサンスーチーの髪飾り [政治]

感慨してしまっている。書くことが思いつかず、 

過去の思い出に頼ろうとしているからだ。 

今現在の心理を書く気には、なれない。 

内面は安定している。外側がとても騒がしい。 

関心はコロナよりも、世界のことになる。 

やはり、なんとか外へ出たい、と考える。 

ミャンマーに現地支社がある会社の許可で

仮出張の形でミャンマーに行けないだろうか、

と空想したり、 ・・・。 

しかし、現代ビルマ語を少しは知らないと、

話にならない。そこでもう躓いてしまう。 

なにか他の方法で現地の生の情報が入ら

ないかと。  (ミャンマー放送もダメなようだ)

ミャンマー(ビルマ)へ入ったことはない。

旅行に半月で疲れてしまって、タイから帰国

のためにマレイシアに飛んだので、隣まで

行ったことになるが、初めから予定に入って

いなかった。飛行機を使わず、陸の移動で

予約をしないその場の場当たり旅行をして、

初めてだったので、ダウン寸前、三日はホテル

で食う寝る以外はしないで過ごすか、と思った

が、年末になっていたので帰国を選択した。 



アウンサンスーチーはどうなのだろう?

ロヒンギャの処遇に対して、全然手を打てず、

ダメだと思った記憶がある。この人の書いた

「自由」という本を開いてみた。今、読む時間

もないので、30%理解の資料読みで、かい

つまんで理解してみた。他に、ミャンマーに

27年住んで取材した朝日の記者の記事

などを参照したが、十分ではないのを承知

で勝手なことを書きたい。


まず、彼女は信念の人ではない。その意味

合いでノーベル平和賞を受けたそうだが、

彼女の信念は、父のアウンサン将軍の理想

的信念だ。彼女はそれを自分のベースにして、

それを借りた形で、行動したらしいが、もともと

政治的ではない。文学的、外交的な人物で父に

乗っかる形で政治に参加している。損しか見え

ない忍耐や現実的に汚いことが嫌いで、そういう

面での実行力がないために、肝心の政治手腕

が問われてしまう。いつも髪に大きなきれいな

花飾りをつけているのに違和感を覚えていたが、

彼女は美しいものが好きなのだ。だから、贅沢も

好む。そして、そういうものが与えられる環境に

恵まれたようだ。書いたり、話したりは得意だろう。

また、人気があるので、実際の頑固さが信念の

強さに見える。全体として、彼女は政治のリーダー

向きではない。父のためにミャンマーを民主化しよう

としているお嬢さん。僕には、そう見えた。政治で

汚れるのをよしとしない人だ。人気があるのが仇に

なっている。

これだけの規模のデモになっているので、民衆の

軍政に対する長い憎悪は明らかだろう。しかし、

アウンサンスーチーでは民主化しても、グローバ

リズムに対抗して大国相手に国を運営してゆく

のは困難だろう。 


同じアジアなのに寂しい話だ。アジアはひとつ、

と岡倉天心は言った。まさにそう言いたい気がする。


**
以上、2月上旬の記事だが、まだミャンマーはストで

死者も出て荒れている。民衆は民主主義の夢を見て

取り戻したい。軍部はアウンサンスーチーがどこへ

行くのか、中国寄りにもなったらしく、現実的に

任せておけなくなった。欧米と疎遠の今、ことを

起こしたという。軍部も政治のプロパガンダを理解

しないから、腕力を頼りすぎ。落ち着きどころは

どこにあるのだろう。
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新しい答えを創造することと、 と? [新しい]

ムンバイ、 

訪れたことは ない 

どこか 中東の都市だろう  

蠅 ではない  

ハエなら、 ムンバエだろう。 

なにか ひと言もらすと、 そのまま 

それが 伝えることを  いう、 

言葉が知識を 定着させるのは  偶然ではなく

また 言霊とか  意味深に呼ばれるのも 

たまたま、ではない  

言葉の形は 文字として 一定だが、 

そのものは  動態として  ある。  

当然ながら、  読まれる相手を  人間と  

初めから  決めている。  

静止した 言葉など  どこにもない、 

相手を呼びかけるのに  初めに発した 声も 

言葉だったのだ。  

オイッ、 が アゥーだったかもしれないが ・・ 

その発する者が いたことを  示すのに  

「自」と 思った。  

それは 誰かではなく、 ここからだ、と  

その方向が  「自ら」だった。 

それはまだ  文字がない頃、 

自分は まず最初は  ただ ここからだ、と 

私の体を 指し示しながら、  自らが発信するという

方向で  認められた。  「自らを」、 と「自ら」の

逆向きで 二方向である。

オレの獲物、とか、 オレが獲った、とか。 

もうすでに  所有の観念が  兆している。 

漢字が 始まってからの 自分は、 自らの力量を 

「自分」といったそうだ。  分は 本分の、分。

本分は 本来備わっている性質のことで、

「自」を指す方向の、その性質を いうのだろう。 

「鼻」にも 「自」がついている。顔の真ん中だから、

「自」は自然に 人の中心にあるものを 意味する、 

となっても 不思議ではない。 

それは中心の 象徴ともなる定めだったのだろう。 

心は そこへ動き、  そこに 坐った。  

そして、誰もが 見習った。 それが自然に 相応しく

思えたからだろう。  

そうなると、そこに 私の情報を詰め込む袋 みたいに 

なるのは  時間の問題で  それは高等な意識で

あるかのように  伝播したのだろう、  というのが  

「自」の成立の 流れに意識から 考えられる 

仮説である。  

ネアンデルタール人は  1万年も ホモ・サピエンスと

共存していたのに、  環境変化で  滅びてしまった。

サピエンスは 偶然、生き残ってしまったわけだが、 

どういう想いだったろう。  わずかにネアンの遺伝子を

受け継いでいるので  少ないが、 種の交配はあった。 

ネアンと 結婚していたサピエンスは 一緒に

亡くなったのだろう。  

生き別れていたら、探しただろうに、 ・・。 

ネアンとはかなり 顔の骨、体格など違っていたから、 

いきなりどこにも  隣人が いなくなったようなもの、 

そのうちに  ネアンに会えず、 俺たちしかいない、 

オレ達だけ、 ・・・。  

なにか 考えただろうか。 考え込んだとしたら、 

そいつの「自」 が 低かったレベルの 知を 

結合して  動物よりも 進化させた 「心」を 

発生させたのかもしれない。 

それは今の コロナと似たような状況で、 

穴倉で 自粛中だったろう、 まだ  環境が

遠くへの探検を  許さなかった。

それが 可能性に過ぎない 心の発見の

仮説だ。  



これをどう言って いいものか、 

言えば、 自らピエロを 自称するようなものかも、と

そういう 人の声を 気にしたりする。  

昨日から  思考のパターンが 新しく感じる。 

無から 有を生む、 くらいに 考えていないものを

考えている、その瞬間に  新たに見つける、  

そういうことが 起こっている という感じ。 

思考で  こういう自在感を  味わうのは 初めて。 

心と  体の  それぞれの気流に  沿って、 

または 乗って、  その"もの"と"こと" との あり方に

従えば、 ・・どんな答えも 出てくる、 といった雰囲気。 

それは その時に 直感が与えられたのでもなく、 

概念を 積み木細工にして、  組み立てた時に 

できたという、 形(答え)でもなく、  ただ  心のまま 

体の命ずるまま、のその感じに沿って  考えるだけでいい。 

もしも、  これが完成体で  それが僕のうちに  

完成されたのなら、 なお、いい。* 1. 

十全に 戻った知性に  磨きがかかっていた、 

ということなのだろうか?  

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・、   ま、 いいか。  

考える問題じゃ ない、まだ。  今は。 

ここで 復習に持って行ってもいいのだが、  まだ 

何かある気が する。 

仮説というのは、夢を語るのに似ている。特に、 

知性が優位な概念問題を話すとなると、 俄然、 

楽しくなる。  科学が文明の青写真を設計図として 

描くようになった今日、 その地位は全自動洗濯機の

ように堅固になった。 

構造主義が現代の花形らしいが、主義というより、

構造的な数的考え方と言ったほうが、当て嵌まりそうだ。 

現象学が捉えどころが難しかったので、一時流行したが、

今は下火だ。この流行がほんとうの処で、考え方の

応用をどうしたか、というのがそれぞれ話題になっている。 

構造主義のサングラスをかけたら、数学はどう見える?

言語学はどう見える?生物学はどう見える?精神分析学

はどう見える?文化人類学はどう見える?社会学は

どう見える?ということのオン・パレードだ。 

仮説の夢を語るのと、さして変わりがあるのではない。 

それらに必要なのは、考え方を披露することではなくて、

社会的に実証できるかにある。それがある事実を説明

して解き明かすか、にある。それがなければ、ひも理論

と同じで、事実はどうあれ、ともかく合理的に説明納得が

いく、仮説という辻褄合わせの考えに過ぎないだろう。 

そういうことで、僕は僕の仮説を擁護するなら、心の

成立を、または自己の成立を、またまた知の成立を

実証できるとは思わない。それは夢の話であって、

できるだけ現実的な想像での抽象思考の中に登場

する概念で説明するだけだろう。実証という観点からは

実に危ない地盤である。原人のどの個体が初めて、

言語を意識して声を発したかというのは、わからないし、

わかると仮定としても実証の仕様がない。傍証で固めて、

それを例題の事実で比較で仮立証するしかない。 

だから、それにこだわらずに、気楽にやればいい。

どこまで迫るかが大事で、どこまで明らかにできたか、

という結果云々の問題ではない。それはあなたの

祖父が2歳の時のことでこんなことがあったのですが、

なにか親からそんなことを聞いたのを覚えていますか?

と問われたのに似ている。

僕なら、質問者に疑いの目を向けて言うだろう、自分の

2歳の頃でさえ覚えていないのに、父のそのまた父の

幼少など覚えてもいないだろうし、そういう話って、親が

します?(おかしいでしょ)

と、なる。 

だから積極的に、またはポジティブに仮説の夢はそれで

いいのだ。ちょうど、これは知ではわからないとわかった

時に、それを「わからないもの」として心に収めた、という

ように仮説の夢とは、例えば小説を書くように結果に

こだわる必要はない、というものだ。 小説は読んで

面白ければいい、仮説は実証的に信ぴょう性があれば

いい。この場合での信ぴょう性が、つまり夢だ、という

ことだ。 しかし、楽しさの快楽を求めてではない。

体裁は過去の(太古も含め)事実を求めて、になる。

だが、結果は似たようなものになる、または見えて

しまうものだということ。

構造主義が台頭したのは、レヴィ・ストロースが文化

人類学でムルンギン族の婚姻体系を数学の群論から

導き出してからのことで、数学の群論を応用すれば

他の社会現象や精神現象などを説明できるのでは、

と広まったものだ。

前にも指摘したが、事実から論にたどり着けるが、論

から事実にたどり着いたのなら、それは偶然の一致の

例だ、と。ムルンギン族がそこにたどり着いたのは、

長い婚姻の歴史の上で、それぞれのグループがそれ

ぞれ、どことこと婚姻が可能なグループ、またどこと

どことはできないグループにそれぞれ分けられたのは、

自然な交配のくり返しの結果であって、彼らが数の理論

通りに分けられているからと言って、他の物事が群論的に

同じように区別できるとは想像しがたい。

ただ考え方をその方向に合わせるために、いくらでも

考え方を応用はできるので、言い方で事実を曲げる

ことになってしまうこともある。そこまで検証されて

いるのか? 

そこまで僕も構造主義の実証という事実を求めて

進むべき?それこそ無駄だし、難問も予想されるなぁ。

それよりもこれまでの基礎的な考え方の基本になった

もの・歴史を検証したい。

でも、遠回りでもあるが、いずれ検討だけは一度して

みよう。




* 1.
「ただ  心のまま 

体の命ずるまま、のその感じに沿って  考えるだけでいい。 

もしも、  これが完成体で  それが僕のうちに  

完成されたのなら、 なお、いい。」」

ここが読み直した後に、気になった。「完成体」とかエヴァン 

ゲリオンでもあるまいに、書いた時にもかすかに意識があって、

「完成?」と感じた。完成とは完全を意識した言葉で、なにか

を理想化しようとしたときに使いたくなる言葉だ。この場合も

その危惧が若干ある。若干は、それを希望出来たら、という

使い方なので、断言したわけでなく、使用の許容範囲に

あるだろう。 

(以下は、その部分の反省・追加思考)

が、内容を辿れたので、それを話すと、どうも無意識から

の答えが出る、ポンッは弱い。もうないのかもしれない。

でも、こちらから準備をして潜ると、それらを取り出せる

状態ではある。今までの双方向から、一方方向になり

つつあるのかも、という感じも見受けられる。過渡期も

コロナの緊急事態宣言の解除も、見極めるのは

なかなか、ということらしい。 

無意識とか、潜在意識とか言葉はあっても、それとの

交流は僕らの大多数が未経験のことなので、どこまでが

新しいとか、以前からあったとか、自意識との境界は

どうなのか、不明なことが多過ぎる。それでも、理屈

を書いていても、それが全開なら、指の押し間違いや

送り仮名が飛んだりとか、明確にイージーミスがある

だけで、他の重要な文章に関して、訂正はする必要が

なかった。見直すことさえしなかった。そして、数日後

に見直しても、それでよかったのを確認した。


それに恐れ入るのだ、僕は。尋常ではない、そういう

ことなのだと認めざるを得ない。だから、天才の仕事

の90%以上は、そういうものだと評価されてきたの

だろう。

これはまだ秘密のままだ。その真似事ができたのに、

秘密のままだ。僕にも、わからない。

                           2.3




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