SSブログ

人間と人という運命 :概知の~探る6. [思考]

いろいろと糸(意図)をたぐってゆくと、さまざまなものがひっかかる。そのなかで

やはり、気になる重要事項があって、予備知識や思考準備として書いておきたいと

思う。その時思いついたことを、先になって思い出せるものでもないので、多少

時機としては早いが、それよりも忘れてしまわないうちに、ということで。


少し強引だが、人と人間の線引きをしたい。”人”は生物的な時のもの言いで、”人間”は

社会的・心理的なもの言いで使う言葉、だと。

そこで「生命」というと、どちらかというと、これは人に対して行われる方向だ。

学者が人の生命に関心を持つとは、人文学者ではなく、化学・科学者だろう。

人文学者なら、生命ではなく、その生死や生死観について述べようとするから。

人は「ヒト」であり、生命を扱う上で即物的に扱われるが、人間は生死という場合、

生きるのはなぜか、とか、どう生きれば、とか、それは心の問題として、また

社会との関係の上での問題で扱われることが多い。

この時、僕らは大抵、どちらかの見方をしている。ものを考えようとする時に

自分の専門であったり、共感した知識(本)であったり、経験から学んだ曖昧な

感覚を言葉にしたものであったり、それらは勉強量や経験量に数や受けたショック

の深度にも依っているが、僕らはそれらの凸凹の認識(考え)を持っている。

それはこういうことが言える。

僕らは物事に相対する時に、自分の考えを鏡のようにして、その眼の前の事実に

照らして写そうとする時には、そこでもうすでに事実からある規範(考え)によって

取捨選択がされていることだ。これはこう、あれはあれ、とういう大まかだが

分別がされてしまっている。

例えば人が倒れていて、血が流れ出している時に、救急車を呼んでから、あなたが

考えたとして、生命から考える人は血の流れた分量から、助かるとか、助からない

とか考え始めるかもしれない。別の多くの人は、どうしてこんなところで倒れたのか、

ひき逃げにでも会ったのか、と考え始めるだろう。原因と結果について考えている

のだが、双方の隔たりは大きい。

ある評論家の本で見かけたが、海外の革命が起こった騒乱の群衆が流れる眼の前を

記事にしていたが、隣の記者も記事にしていた。それを読んだ時、まったく自分とは

正反対の意見を述べていたので、事実は眼の前にあるのに、と記事を書く気を失って

しまった、と。その評論家と同じに、僕も面白いと思った。

僕らは考えたことでしか、行動できない。車に乗っていても2分くらい走ったあそこ

のコンビニに寄ろう、と考えると、すぐ別のコンビニが現れても、停車せずに、まず

想像で予定したコンビニまで車を走らせてしまう。

これが信念にも近い人生観とか価値観とかになると、妥協はほぼない。だから、自分

の考えというものは、行動を決める指針になっていて、見たもの事を瞬間で選別して

いる。これを生活で想定してみるなら、これが運命だと言っても差し支えないのでは

ないか。僕らがあいまいな考えしか持っていないならば、あいまいな行動しか取れ

ないのだから、それはあいまいな人生を送るしかない。それは考えだけではなく、

ブレない人は考えに昇華していなくても、経験から体が動く。ただ、それは違う、

と感覚・感情的にわかっても、言葉にできないだけ。

これは僕らが眼の前のことの対して、自分の考え(つまりは、自分)から、初め

から判断しようとすると、その時に次の行動への指針はすでに方向・傾向が定め

られてしまっているということだ。これを運命は自分で決めていると言わずに、

なんて言おうか?

つまり、僕らはそういう時はすでに偏見・先入観・差別に囚われているのだが、

少なくともテリトリー(縄張り)・カテゴリー(ある範囲)から捉えているので

あるが、自分ではそうは思っていない、自分は正しいと思っている。

本当にそうかどうかは、個別に確かめる必要がある。それは他人にはそれが

わからないからだ。でも、僕らは自分が正しいと「わかっている」から、それは

必要ないと考えている。ここで意地を張ると喧嘩になる。ほんとに正しければ、

そのことはそうようになるのだから、喧嘩せずに見ていればいいのだが・・。

話が反れた。

運命を変えるというのは、つまりは自分を変えるということだ。ここはひとりで

考えてもらえばいい。運命はそういう自分というものと、外側から来る予想も

つかない運命もある。リストラに遭ったとか、勤めている会社が倒産したとか、

自分ではどうしようもできない。これにもパターンがあるのだが、人それぞれ

なので人の外的運命は、というように一括では説明できない。

せいぜい大波といくつかの小さい波がそれぞれ複合してくる、といった言い方で

〆るしかないのだが、僕の人生経験では10年の浮きと沈みは、程度も違うが

誰にでもあるような気がする。そんな統計は誰も持っていない。自分で作るしか

ないだろう。

でも、この時に自分の命運について或る確信があるのならば、流されるボートに

用意された一本のオールくらいの役割は果たしてくれると思う。平穏なところ

まで行き着くのに、ある程度のしのぎでコントロールしてくれるだろう。


まとめよう。

人は自分の考えや信条を持っていると考える。それは通常のことで問題はない。

問題は眼の前のことをすべてそれに「初めから」照らし合わせて、判断して

しまうことだ。子どもが悪さをしたら、どうしてそういう事態になったのか

子どもに尋ねもしないで、手をあげる母親・父親に似ている。当然、子どもに

謝ることができない親になる。または頑固じじいになる、しかも人の意見を

理解しないし、無視する、めんどくさいタイプの。

自分は子どもの時の意見があり、少年・青年時代の意見があり、中年・老齢の

考えがある。それらは変遷して身に付けたもので、過去が幼く、歳を取るほど

年の功がある、と思いがちだが、大間違いである。それはあなたの時代でだけの

話なのだ。

経験によって心から動かすことができないものが、必ず考えの芯になる。だが、

その正しさは言葉にならないもので、ほんものほど言葉になりにくいので、

その見極めは他人には困難。しかも、そういう堅固な信念もその過ごした時代の

傾向を反映していて、それから自由にはなれない。

着物は日本人の発明したものだが、和服で過ごした長い年代よりも、この150年

のほうがよほど短い。僕らは最近、洋服に着替えたことを忘れている。平安時代に

母音が8つもあったらしいが、そんな言葉を使う日本人はもういない。昔の言葉で、

立派な日本語だったものも、今では古文として授業で習っている。

というわけで、身に危険が迫るというような事態ではない限り、僕らは今起こった

ことに対して、実に謙虚な態度が求められている。

つまり、”初めは考えるな”、ということが。

僕らは学校教育によって、ある程度心を搾取されている。なにが奪われているかと

いうと、感覚による受容だ。これには自然な防衛と知性の独占的拡張があって、

一長一短がある。これは社会自体がすでに言葉によって方向理念を備えているので、

やさしく言おう、社会が役立つ人材に育つように、ものを区切って、名前をつけて

覚えるように、言葉・数字・時間という人間の発明品でそこから頭に世界を形成

するように強制(教育)するからである。

これはやや正しい。それはすでに産業革命期を経て、僕らは爆発的にそういう知識

で生産してきたものに囲まれ切っているからだ。人間が人間のために人間によって

生産したものでないものを、日常生活で探すのは難しい。あなたの眼の前に自然の

ものを今、見つけられるだろうか。安心して、あなたのサボテンは人工ではない。

猫も。でも、家ネコのメスは去勢手術はしたほうがいい。

あなたが愛猫王になりたいのでなければ・・。

僕らは知的知識なしには、就活もできない。収入も望めないのだから、資格とか、

四角ではない、おかしなものが出てくる。

看護師でも資格はあるのに、患者に寄り添えない者は患者への不始末を犯しやすい。

それは資格を、四角にしたほうがいい。(ここは意味はないので・・)

世界で車の車検があるのは、日本だけとか。昔はディラ―が車検で交換する必要の

ない部品を交換して儲けたり、虐げられた部品メーカーの下支えになったり、はては

世界で故障のきわめて少ない信頼を得て、中古車が売れに売れたり、とかこもごも。

功罪はすべてにつきもの。

話が反れた。

脳は体のすべてをほぼコントロールする知的中心(センター)だというのは、もう

古い。体の骨や筋肉、脊髄、皮膚、脂肪などがそれぞれ化学的な信号で満腹を伝えて

「腹いっぱい」を出すように指示(脂肪から出る化学物質)したり、その他はあり

過ぎて忘れたが、脳はその場合、ただの交通整理のおまわりさんの役割しかして

いない。整理係なのだ。

それでか、眼の前の現実から受け取った感覚情報のほとんどを体中にばらまいて

しまう(この部分は、僕の想像)。体を絞る運動をすると、高校時代とかの感覚

(細胞に記憶?)が甦るのはそういうことだとの、僕の感じ・仮説。

体と脳というのは思ったよりも全体で機能を分け合っている、一体なもの。


もうひとつは、知識教育によって僕らの感覚は(感情は古いし、脳の根幹にある

せいか、まだ強い)衰退しがちだと考えられる。まずは、考えずに眼の前を見る

ということ。何があるか、起こっているか、その形、色、色合い、風味、風情、

その光と影、そのそれぞれの関係、どう動いたか、どう変化したか、どこに

違和感があったか。そういう感覚をひとかたまりにして一旦心にとどめ、後から

それを、数秒後でも、概念化=考えてほしい。その時も、自分の気持ちや考えで

選別してしまうのはタブーだ。見事に流れや地図に整理できたら、さて、自分は

これをどう思うか、どう判断するか、というそこであなたの出番だ。

あなたは「人間は」考えるとも、「人」は考えるとも思っていない。確かなのは

「自分が」考える、ということだ。逸脱する、僭越する「自分」にご用心!


IMGP0003 (640x479).jpg
nice!(23)  コメント(0) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。