SSブログ

眠くなる・・・、ルソー、ブッダ、下駄 [日記]

寝れないから、 起きている。 

寝れないからと、眠りたいと思うことはない。眠れない

体のサインは、 そうなっている、と 認めるだけ。 

まだ、異常とか決めるような重い段階ではない。

寝なくて済むのなら、よほど 嬉しいのだが、 

何万年もの習慣なのだろう、この寝るってやつは。 

今日、明日でどうにかなるものじゃなない。

1時間以内に、・・・

やはり、来た。眠くなってきた、来なくていいのに。 

自分が単体だと感じる。そういう感じはわかりにくい

人が多いのではないか。こうなって思い返せば、

なにかと一緒の感覚の中で、無意識を泳いだというか、

そういう説明をしたい、気分はそうだ。 

そういうなにかと協力したのか、隣にいたのか、それは

想像もつかないが、それがあれば海の中でも息を

していた、そういうことらしい。自分をそういうものに

持っていかれるのは、快感がある。風にあおられて

空に舞うカイトに気持ちがあるなら、そんなものかも

しれない。ここから詩に切り替えるのに、楽だったこと

・・・・・。 

不思議だ、その記憶ははっきりしているのに、・・・。



知が戻っている。知を捨てた時に、これを半眠させた

のだろう。それからの尋常ではない経過もあったから、

その神経の影響や他の軋みや揺れも伝えられて、

知がそれを捕捉するのだろう。(補足ではない)

考えることを書くのも、なかなかすっきりしていい

ものだ。どうなるかわからない、その不安(詩)を楽しむ

ことはできないが、落ち着いて書ける、というものだ。 



寝よう、・・眠い。     : 1. 15  



風邪なのだろう、喉が少し痛い。風邪と言うと、体調が

悪いのだろう、という考えを調整しようと考えている。 

実際は、悪くなりかけているよ、という警戒信号で

これは注意できるほど体が健康であるということを

反対に知ることができる。風邪をひくうちは、体が

異変(病気とか)で重症になっていないことがわかる。

重症化すると、風邪もひいてられなくなるから。

なので、僕は風邪をしょっちゅうひいている。それで

あまり気にしない。症状が強ければ、市販の風邪薬

で対処する。以前は、よほど調子が悪く、5日も回復

しなければ医者を訪れたが、今はコロナで別な判断

をするだろう。あ、風邪は1か月のうちに半月は

ひいて、調子が良くないと思う。そのよくないと思うのを、

いい加減、改善しようと今日思ったのだ。

思えば、日常でこれをわざわざ書かなくてもいい、

と思ったことはかなりたくさんある。何かと一緒なら、

それに半強制でそれに関わることが多いので、

そちらを優先するのは自然だった。そして、今、

それを書かずに済むと、なるほど書けるうちに

できるだけ書いておけ、という勢いだったのだ、と

わかる。今なら、わかる。 

今は、これを面白い文に工夫して書く、ということ

もする必要がない、という感覚になった、(なって

しまったのか?) 脚色がふつうだったが、それが

自然と出てこないし、そういう気がないのだから、 

これが自然体なのだろう。あれはあれ、これは

これだ。 

昼に、「ジャン=ジャック=ルソー問題」(カッシーラ著)

が届いた。

ナポレオンは当時話題の「人間不平等起原論」

(J・J・ルソー)を読んだが、途中で読み進められ

なくて、放り出してしまったと告白しているが、文学

にも精通していた彼が放り出すくらいだから、よほど

趣味に合わないか、肌に合わなかったのだろう。僕も

うん十年前に同じく読んでみたが、肌合いがよくない

のと、理解しきれず同じく、放り出してしまった。後年、

晩年の作ならどうだ、と「孤独な散歩者の記録」を読もう

としたが、これも感覚が合わない。そして、またうん十年、

ルソーを読もうとしている。僕は嫌いでも、なかなか

わからないものは諦めない性質(たち)だ。知識欲が感情

を上回っているのだろう、今は感覚の違いさえ、こなそう

としているらしい。

この欲が贅沢な生活や自分の名前の誇示に向けられ

たら、僕は今の貧しい僕をどう見なすのだろう? 

僕の他の欠処がなければ、地位や資産に邁進して

いただろうから、オレの人生と交換してみなよ、とは

言わないだろう。また、理解できるとも思わないだろう。 

その逆に、そんな自分を理解したいとも思わないだろう。

そうしたら、またそれを逆手に取って、理解できたら、

すべては解決するのだろうか?と考えてみる。 

すると、理解しただけでは、邪悪な手段を必要と思う

やつは、それを利用するだろう、と。知的理解では

足りない、と。気持ちの理解の足し算がないと、

協力してうまく難局を乗り越えようなどの作業・事業は

できない、と。これは頭などの記憶を入れ替えても

機能しないだろう。情報が知識である間は、その

喜びも悲しみも無縁だ。ただ他人の日記を読むのと

変わりない。僕が本を途中にして、気になった知らない

ことは、すべて著者のやったように、またはそこから

想像できるように、追体験すべく、行動した。あいつに

できたのなら、オレにもできる式の乱暴な考え方だった

が、好き嫌いははじめから眼中になかった。今では、

その好き嫌いが強い人のプライドがまたうるさいことに

気づく。ガンコとかいうのは剛情で、意地とかいうのも

剛情と負けん気が重なったように思える。 

そういう年寄り根性は蹴飛ばしても無駄だ。認知症の

人に対するように、なんでも「ああ、そうですね」と言って、

相手を否定しないことだ。そういう我慢は悔しくて、悔し

がるほど若い、という意見もあるが、・・。

今は、それもそうだが、現実の場での人の感情を

感覚する機会が減っていて、品種改良で味のうすくなった

野菜でもないが、感情経験が少なくて、その対応が

訓練されていない、知的な思考操作でそういうものも

解決する傾向・向きがどんどん増えていくんじゃないか、

と。 

セックスレスやその反動、またはレンタル家族・レンタル

彼女とかの代替はそういう現われじゃないかと、勘ぐって

いるのだが、このコロナの自粛状況でそれも確認できない

環境になってしまった。もっとよくないかも、アメリカみたい

に逆に過剰なオープンがいいと、コロナ後に展開するの

かもしれない。今の処、その兆しも感じられないのは

自粛の所為だが・・。 

そのヒントになるのは告白の文化だろう。なぜか、告白

してから恋人になったり、結婚前提のおつき合いとか、

それがわかりやすくもあり、またハードルにもなっている。 

アメリカでは恋人とか友人とかの男女関係は微妙だ。

友人でもその気になれば、セックスもありで、セックスが

あれば恋人というわけではない。気に入った相手なら、

ある程度自由に交歓するのがふつうだからだ。 

文化だから、ことの是非はないが、その行動について

はどの文化でも好悪・便利不便・それなりに問題は

生じやすい。

すると、理解の前には欲望のコントロールが問題だ、

というテーマがありそうだ。欲望を失くすのは、生きる

のを否定することになる。ブッダはそこで「飢えてはいけ

ない」、と言い出した。飢えは求めるものが与えられなく

ても起こるが、求めても求めても得たくなることでも

起こる。この過剰を制限しろ、と言うのだが自分と

切り分けられるプライドはない。

それで強引に一度欲を知るために、飢えを経験させる

のを始めた、それを修行と称する。ブッダは6年のそれ

に耐えて、そこで悟ったと言われる。

自分とプライドをそれで切り分けたのだろうが、物質

ではないので、いつでも再生可能、復活するものだから、

それを見切ることをしたはずだ。あまりうまくいかなかった

ようだ。彼はその悟性をやはり知でコントロールした。

その知の根底以外を欲に煩わさせないようにして、

非常に正常な見識となる眼・耳を持った。それは研ぎ

澄まされ、見ることが、聴くことがそのまま見識(知識へ

の流れ)となっただろう。そういうタイプの人だった。

しかし、物事には功罪がつきもので、ブッダだからと言って

人間である以上、それから自由であるとはならない。

その修行の環境や悟りの感興が、通俗にわかりやすい

死を表現していたために、世間ではそういう概念に支配

された。生を究めるのに、死をもってして、死を究める

ことで生を支配できる、とした。それが悟りの効用と

いえるシステムなのだが、白の清潔さを求めるのに、

黒のペンキをかぶらなければならない、そうしてこそ、

と言うのだが、それを個人の力量にゆだねた。

それが最も大きなネックだった。人間の知も情も、

それが心にある量をもたらしている以上、それが

根を持たずに「無」の状態に保つのは、静のある、

おだやかな自然環境が適する。それは文明と

逆方向だ。ブッダが苦労して悟っても、それが

世界視野にならないのは、世界がそもそも矛盾の

層の積み重ね型の構造になっているからで、これ

はモグラの頭たたきに似て、どこかの頭(問題)

を叩いた(解決した)ら、必ずそれに関わるどこかの

頭が問題として突き出てくる、といったものだからだ。



3000年前のインドの風土は人口も少なく、余計な

概念も発達・複雑ではなかったので現代から比べよう

もないほど、環境に恵まれていたのかもしれない。

1本の大きな木の葉の静脈をつなげると、月に届く

くらいと考えたらしく、その距離も数えられる天文学

も越える単位(億、兆、京、・・・、不可思議、・・・)

をつくったらしいが、環境破壊を知ってか知らずか、

年に一人、木を5本植えることを奨励したという。

それでもブッダは正覚者が増えれば自然に解決する、と

考えたのだろうか。大乗仏教の概念仏教が興隆して

世界に思想として広まり、不滅?とはなったが、肝心

の悟りはどこかに飛んで行ってしまって、お話ばかり

が飛び交っている。この話もそのひとつかもしれない。

仏教に理想を見る人はそう思うだろう。

これはなんとも、・・・なんとも言えない、・・話だからだ。

笑いたいが、笑えない。西郷隆盛が川を流れる下駄に

話しかけたり、僕の同僚だった営業マンが九州出身で、

やはり、公園で猫に営業したりとか、鎌倉時代の

明恵上人が島に手紙を書いた話とかに、深く関係

するが、もう知的なものはぶっ飛んでしまっている。

もちろん噂のオカルトも超能力も超常現象とかも

まったく無縁な話だ。自分が経験しなくては納得

しないだろうし、簡単に納得してはいけない話だ。



こんな面倒なことをしようとして、していたんだ、

僕は。フーンと、検めて振り返る、風が強くなって

きた午后だ。 

よく晴れているし、洗濯物もよく飛ぶだろう!?

知はなにかを意図する。それが動き方だ。それ

以外に例外はない。だから、僕らはどういう意図

か計画か、ということを見出そうとする。そして、 

どんな歴史も独裁国家も、意図して動くが、その

意図が成功したようなものはいつも部分で、結局

はどんな意図も失敗に終わる。人の手に余るもの

がいつも勝つ。

だから、見えない洗濯物が飛んでゆくんだろう、

な~に、冗談だ、洒落だ。誰かが言ったように

歴史に自浄作用があるとは思えない。それを

起こしたものが見えないから、それを歴史の上の

証拠に例えたのだろう。

例えば、僕は僕が何を言いたいのかわかるとは

思えない、それが当然のように思っている。

だから、マザーテレサ(の名言)も思考から言葉に

(思考に気をつけなさい、思考は言葉になるから、

・・以下同じに)、言葉から行動に、行動から習慣に、

習慣から性格に、性格からいつか運命に、という

意図の流れに気づいたのだろう。それは意識の

流れと言い換えてもいい。

皆、同じことをいろいろに言う。
nice!(8)  コメント(0) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。