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漱石のパリ [漱石]

夏目漱石の第1稿を書こうと思うが、それは下の「漱石の 

パリ日記」が届いたからだ。以前に書いたのは、漱石に 

重要な転機を与えたのは、ロンドンはそうだが、その前に 

立ち寄ったフランスのパリ万博の1週間が大きいという 

ことを言った。その資料は見つからなかったが、ある処から 

この本が出ているのを知って、取り寄せたら、なかなか有望 

だという気がする、楽しんで読むつもりもなく、200頁なので、 

ほぼ1頁2秒ペースで資料読みで読んでしまった。全頁を 

通して、気になる処だけ注意して詳しく読んだが、このほうが 

楽だった。1時間もかからない。

漱石のパリ日記2.JPG


あとから、付箋を眺めてみると、意外に多かった。16か所に

なった。ここは書いてしまわなければと思うくらいに、不調で、

頭がはっきりしない。 不調と言っても書けない不調もあれば、 

気を入れて書ける不調もある。 

最近は明治期に集中することが多いので、2階のトイレに 

入ろうとして、明治の空気の匂いを感じて、しばし、明治に 

いるようだった。そして、意識の分析をすると、こうだった。 

瞬間、明治のなんらかの写真とか風俗絵の記憶に触れたが、 

それを1,2秒の記憶に引き伸ばした。瞬間はほぼ記憶に 

ならない。それでその1,2秒を捉えて、その匂いをさらに 

余韻として伸ばした。かくして、1分弱は明治にいるような 

錯覚に浸れたということである。これは思い出すことと 

ずいぶん違う。思い出は感情に結び付いているので、それ 

に浸ると長くなるが、僕のは匂う記憶、というようなもので、 

長くは引き延ばせない。明治はすぐに消えた。 

そのあとで、ポストに「漱石のパリ日記」を見つけたので、 

やっつけてしまう気になった、という経過だ。 

この頃の漱石は英文学に迷っている。自分の仕事として 

それに一生を捧げる意義を見出せないからだ。この英国 

留学にしても、はじめは断りに行っている。確か、英語の 

ためではわからないから遠慮する、とかで固く考えないで 

いい、というので、自己流に英文学と受け取ってもいいの 

だろう、とそれなら断る理由もなくなるので、引き受けた、 

と言った次第だと記憶している。その個所を探したが、 

見つからない。 

渡欧の前に、親友の正岡子規のところに病床見舞いに 

寺田寅彦と行く。その時、談笑したようなことが書いて 

あるが、それはないだろう。明治29年から子規は病状 

が重くなるのに苦しめられている。激痛に泣いている。 

漱石も人相も変わってしまったであろう子規に世間話 

でもなかっただろう。 

現にこの9か月後には日本洋画家の中村不折が渡欧 

する前に来たが、もうこれきりとわかるくらい衰弱して 

いたらしい。二人は言葉を交わさないまま、別れたという。 

ミイラのようだったと、他にも記述がある。 

不思議なのは、そういう子規への評論の扱いである。 

僕は偶然、ネットで漱石の「京へ着ける夕」を、短文だが、 

読んで、子規と漱石はふつうではないと感ぜざるを得な 

かった。

「あの赤い下品な肉太にくぶとな字を見ると、京都を稲妻いなずま

の迅すみやかなる閃ひらめきのうちに思い出す。同時に――ああ

子規は死んでしまった。糸瓜へちまのごとく干枯ひからびて死ん

でしまった。」(京へ着ける夕)


子規は結核菌が脊椎カリエスを起こしたとか、なんとか 

だったらしいが、強靭な精神力で喀血しながら、最後まで 

書や絵、俳句を書いていた。帰省する折だろうか、奈良 

に遊び、そこで発句した、<柿くヘば 鐘が鳴るなり 法隆寺>  

が有名で、よく知られている。 

その子規だが、漱石は「ああ子規は死んでしまった」と 

いうようには書かない人間だ。それをそう書いたの 

だから、そこにどんな慟哭があったか、と僕は思ったの 

だが、文豪も京都は寒いとか、そんな感想文が目立って 

いる。評論家も同じだ。 最後の文章が寒さの極めつけ 

で決まっているからだ。その文章もすごいが、それは 

子規を思い出す背景に重なっている。 

どうもこう書いていても、いまだパリが西欧の第一印象 

で、それが重要な作用を及ぼしたはずだ、までしか 

言えない。そこだけ書いておこう。 

パリの日本公使館に二等書記官である安達峰一郎 

がいて、彼は仏語に堪能で、イタリア語も英語も 

できた。漱石は彼との会話で刺激を受けたらしく、 

「僕は順に行けば来年の十月末もしくは十一月 

初めに帰朝するのだが少し仏蘭西に行っていたい。 

どうも仏蘭西語が出来んと不都合だ。せっかく洋行 

のついでにやって行きたいが四ヵ月か五ヵ月で 

いいが留学延期をして仏蘭西に行くことは出来まい 

か。狩野君から上田君に話してもらいたい」と、 

翌年の2月に手紙を書いている。長い、ロンドン生活 

について綴った後に、である。

パリ万博や「巴里の繁華と堕落は驚くべきものなり」 

と日記に書いた漱石がそこまでフランス語にこだわった 

のはどんな理由だったか。

帰朝して、その後、男の子が二人生まれ、彼らにも 

フランス語を習わそうとしている。明治四十年、四十一 

年に生まれた子らである。鏡子夫人の「漱石の思い出」 

に、学校は「暁星」がいい、と言ったそうだ。その理由は 

「まず小学校でフランス語をやる。中学へ行ってそれに 

英語が加わる。しかしほかの中学よりは程度が落ちる 

というから、中学へ行ったら英語は自分が教える。それ 

から高等学校へ行ったらドイツ語を教わる。すると大学 

へ行ったころには英仏独三か国語に通じることができる」 

というもので、それから暁星から帰ってきた二人に自分で 

フランス語の復習をさせた。「それを隣の部屋できいて 

ますと、莫迦野郎、莫迦野郎の連発で、とうとうしまいには 

男の子が泣き泣き書斎から出てくる」と、なったらしい。 

これには、可笑しくて爆笑してしまったが、漱石の西欧の 

文明文化への強烈な関心は、そのまま日本の文明開化 

への疑心という裏返しであった気がする。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                             

 
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その前にパリ万博の規模や性格とロンドンでの生活を 

調べる必要があるだろう。

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