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信じると疑う、イカとスルメ [信じる・疑う]

6月が始まったら、どうなるのか、このブログが続け 

られるのかを危ぶんでいたが、いつしか下旬になろう 

としている。こうして時は無関心に過ぎてゆくのか、

冗談なのか、過ぎたことを消してしまう、と見える。 

が、事実は何も消していない。僕らは自分の活動と 

ともに刻々と時を追うことは出来ない。同時には 

できない。意識のスィッチはそうなっていて、体の右左

二つは同時に動かせる人はいるが、二つの意識を 

同時に持つことは出来ない。僕もできるのは、フラッシュ 

バックの時に感じる瞬間の感覚で、半自意識と半無意識 

とが交互に入れ替わっているだろう、という想像だ。 

厳密に半自意識もなければ、半無意識もない。それは 

どちらも同じになる、そういう意識構造になるだろうが、

それは自然でない。「半」というのは、そのくらいの意味、 

ということで、僕らは実際には瞬間を感じるには、1秒の 

5万分の1という生物の限界がある。だから、瞬間も 

実際の瞬間よりもほんのわずか長く感じてしまう。自意識 

としてはぶれて、半自意識に感じても不思議ではない。

それを確認はできない。確認するのも意識だからだ。 

片方で確認して、もう片方で意識を交互に切り替えて 

確かめる芸当は不可能だ。それは鏡で自分の顔を見て 

いて、素早く横を向いて、元に戻せば、自分の横顔が  

鏡に残っているその残像が見えるだろう、と考える 

ようなことだ。光より速く、振り向けるはずがない。 

だから、僕の二重の意識というのは、同時に成したもの 

ではなく、瞬間の意識の交換がそうだろう、という多くの 

事例からの想像の産物だ。しかし、他に考えようがない、 

今のところ。 

僕は底の浅い、今流行の人格入れ替わり恋愛ドラマを観て 

いて、ふつうに思い出して感動していた。その切なさは

底の浅さを問題にしないで、変わらないものだった。 

何も変わっていないはずはないが、逢いたいという気持ちと 

ともに愛に理想を見出そうという、気持ちも何も変わらない 

ようだった。 

ドラマの最後もその矛盾を知っていて、それを曝け出して 

いた。「彼は私のいない世界で生きることを学ばなければ 

ならない」、と言いながら、あの世から抽選に当たって、また

彼の処へ一時、蘇るというもの。そして、二人はお互いを 

感じ取って、「おかえり」と言うが、それは一時の気休めに 

過ぎない。また、帰ってくるというが、それは視聴者への 

サービスで実際にそうなってくり返すようだったら、もう 

漫画の世界で、バカバカしいだけだ。

しかし、どんなに、なにが、どうなってその悲恋や失恋を 

カバーする出来事が起こっても、その想いは変わらない。 

そして、相手が死なずに生きていて、ふつうに結婚して 

いたら、あまりにふつーに、つまらない物語だったろうし、 

物語にもならず、いろいろあったというそれなりの生活に 

落ち着いているはずだ。 

そのことの全体を考えると、一つの仮説が浮かぶ。 

そういう仮説は一つではないからだが、その反対方向の 

仮説も成り立つということを認めたうえで、敢えてその仮説 

を展開すると、僕らはそのことについて変わらない、という 

ことだ。この想いはどの時代でも、いつでも初めから矛盾を 

孕んでいて、この僕らの動かない想いを中心に展開され 

ている。そして、それを歴史的に見ても、人類史でそれが 

変わらずに綿々と続いているのは、すぐにわかる。これは 

一千年前の源氏物語が世界最古の長編小説である事実 

を見てもわかる。

これは感情の創生とその時期とともに、古くて新しい問題 

だろう。それは自分の拠り所を’多数’や、’自分自身という 

自己撞着’に求めざるを得ないもので、我らはどこから来て、 

どこへ行くかという知の性向である洒落ではない。それ 

はデカルトのコギトの別な例であって、自分を安定させ 

ようとする高級な洒落以外の何物でもない。 

真実はどうあれ、どうして愛は永遠をほうふつとさせる 

のか? 誰もがその創生の権利も心も体も持ちながら、 

それを自由にコントロールして、創造できないのか?

それらのことは、実は本当には何を意味するのか? 

信じることができる、というのはそれは実は、信じると 

いうことではない。それは承知だろうか? 

だから、僕たちは信じるということと、疑うということ 

とを混同してしまう。それは二つを取り違えることを 

いうのではない。信じるということから、疑うことは 

できない、これが一つの意味合い。疑うという処から 

信じることはできない、というもう一つの意味合い。 

僕らが取り違えるのはこの二つの意味合いを取り 

違えてしまう、ということ。 同列に並べられない 

ものを並べて、イカとスルメを扱ってしまっている、 

ということ。 


この混同が続く限り、僕らの悩みはこの迷いにある 

気がする。これらの混同から解放されると、僕らは 

信じて、そのうえで疑うということをする。イカの刺身 

も、スルメもその食材に応じて楽しむ。こだわりなく、 

それをなんとなくするようになる。それが自然の営み 

に溶け込んで、信じるに踏み越えることなく、疑うに 

不必要にならない、という行動をするようになる。 

僕が個人的に思うに、ここからでないと、愛について 

どうこう言っても、すべて小さな誤解がからんで、 

ついには極端な考えに走る、ということが起こるようだ。 

愛は恐怖であるという言葉のいわくは知らないが、 

愛はそういう意味では非情を指すのだと思う。 

相手を許すにしても、相手の罪に罰を与えずに 

許すのは、相手は贖罪の機会を失う。まじめな人は 

それを心か、体で償おうという自己虐待の誘惑に誘わ 

れる。 甘えの人はそれで許された気になって、甘え 

切るのもいいのだ、といずれ道を誤ることになる。 

責任は社会の規則や約束に思われるが、自らが 

不用意に信じてしまった結果によって起きる場合もあり、 

それは一人にではなく、二人、あるいは多数に多少複雑 

な責任の配分が生じる。この責任を排除するのは至難だ。 

生まれてから刷り込まれた強制観念だから。  

僕らは水を飲まなければ、また呼吸しなければ、また 

太陽から体や食べ物にエネルギーを吸収しなければ、 

生き続けられないように、愛も夢も貨幣も現実に必要に 

なる。だが、それぞれの役割分担があり、それぞれの 

効果や慰撫も方向、手助けがある。それについての 

信じるも、疑うも同じ部品のような行為である。だから、 

部品の正否を言ってもしかたのないことだ。信頼や 

裏切り行為にしても、自分のことにしても相手側の 

ことにしても簡単に決めないで、それぞれを役立てる 

手だてがあるはずだ。 

つまり、愛はすべてではない、夢はすべてではない、 

貨幣はもっとちいさな自由を交換できる部品だ、僕ら 

は自分よりも大きい、広い、果てないものに接すると、 

それがすべてだと思う。その考えは正しいが、それだけ 

ではすべてを網羅していない、少しも。自分が外れて、 

価値が外れて、その元の知が外れると、すべて、と 

いうのはまあ、想像もつけられない化け物・真実だと 

思う。

僕らはいろいろなものを必要としている。悪だから 

排除する、という一遍通りのようなことでは通じない 

現実がある。 その悪だって、人により異なると 

なれば、悪ってなによ? となってしまう。そうなると、

つまらない議論の開始だ。(これは裁判や法律の話 

ではない、僕らが心の中で決めた話だ) 



横浜駅の東口から面接に向かったが、万里橋から 

下の川を覗いて、驚いた。大きな魚が向かってきた。 

40cm級で川なら鯉がよくいるが、そうではなかった。 

見ていると、大きいのが7,8匹と集まってきた。なぜ 

集まって来たかと言うと、僕の前まで来ると、方向を 

翻して、散開してしまうからだ。これが近所の川なら、 

エサをもらうのを習慣にして、そういうエサやり人の気 

を読み取るのをおぼえてしまったのだろう、で終わるが、 

そうではないようだった。どうもチヌとかクロダイの大きい 

やつだったからだ。見ていると、向うの川岸には 

若い鯛が20匹も群れで泳いでいる。すぐに海に 

繋がっているからそれはわかるが、なにせ相手は 

鯛だ。彼らは回遊しないで、そのあたりに住み着く。 

それでこの数だから、驚くわ。 

西口からもよく川を眺めて職場に通った2,3年前 

だったが、鯛は一度もお目にかからなかった。 

東口のほうが、海に断然、近いからだった。

釣りたいと、下心が見え見えだ。 

会社訪問をしていると、今回はたまたま本社に来て 

くれと言われたので、本社だったのだが、社史が 

パネル化されていて、見るとずいぶん、いろいろ 

紆余曲折している。介護事業に乗り出したのは 

2008年というから、13年前。その頃から、また 

その前からも情報産業や障害児福祉事業に着手 

しているが、既成の事業にからんで、新しい事業に 

拡大させようという試みをしているらしい。カンボジア

にもなにか事業を始めたが、撤退したとか。 

僕にも、最近は事業の方式が外注中心になり、その 

外注を取っ掛かりにして新事業に化けようとする 

進化系の試みが多くなっているのではないか、と 

感じる。 その会社を訪問すると、その従業員の態度 

や応対で大体のことはわかってしまう。はじめは今更 

バイトは嫌だったのだが、今の時代の空気がちゃんと 

あって、考えていた昔のようではないことに、興味が 

わくようになった。 

実際に動いて接することで、時代が確実に動いて 

変化しているのがわかるのは面白い。 

今は面接の合否は気にしない。それよりも話して 

暇つぶしができるのが楽しい。長崎の佐世保市で 

3,4年前にも就活して、狭い地域社会やくだらない 

天下りも見て来たので、そういう発見をするのが癖に 

なったのかもしれない。



午前は引継ぎのちょい仕事があったが、非常に 

スムーズで実際の代行仕事でも、楽になりそう 

だった。鯛を発見してからは、運を引き寄せている 

感じ(心地よい錯覚)があった。それは自分の空気 

を感じることでもある。どうもライフワーク、もう少し 

行けそうだ、と。 

鯛の他にも、60cm級の茶色の魚を2匹見た。 

なにしろ、こういうのはその時がすべてで、もう一度 

と思って、わざわざ行っても影も形もない、ということ

が往々にあるものなのだ。 受け流して進む。 

もしかすると、事業で新しい方向性が見つかるの 

かもしれない。と言っても、そこまでやる余裕はない 

だろうな。

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ガラスの希望でも絶望でもない臨床的な意識 [心理]

(これは、メモである)

例えば、量子力学は僕らの現実に及ぼす物理的・物質の影響力 

というものは微々たるものだ。学問として微細な世界の物理的 

追求がこれに代わるものがないために、現代では花形だが、 

未来社会ではともかく、現代社会では法則ひとつ決め切れない 

矛盾を抱えていて、ガラスのように固形に見えるが、厳密には 

ガラスと同じでしっかりとした固形物になってはいない。ガラスは 

溶けた物質が結晶化することなく固まったもので、それを非常に 

粘度の高い液体と呼ぶことができ、定義が難しい。半液体の 

半固体の統一体というようなもので、量子力学もそういう学に 

なり切れないものである、と僕は言えると思う。 

今夜はどうにか自分を抑えて、どこにも逃げないようにして 

その望みを聞いてみた。

彼は始めに孤独の牙を感じて、それが近いので恐れる、と 

示した。彼特有の言い方で、大げさにドラマ化して表現したい 

のだ。それから二律背反の考えを出してきて、それらが進化 

するのに知の発達と自我の発達ではその成熟に差がある、 

と言い出した。それがどうであるにしろ、それらは自分の 

依拠できる在り方ではないこと、そしてそれから比べたら、 

しあわせというのはそれぞれの個人の依拠の工夫であって、 

ほぼ気持ちの切り替えに近いもので、なんら困難なものでは 

ないと言う。彼は3つの愛を示そうとして、その色合いは見せた 

が、説明はしなかった。さして大きな問題ではない、と言いたげ 

で。そして、彼は孤独の牙はその希望と絶望という(実は安心 

とか安全とかを前提にした場合に心にできる)要素を越えて 

はるかな絶望・無がある。そこで彼の「孤独の牙」は消えて 

しまう。彼はそのカードを別な呼び方をする。その絶望には  

自由を感じると言う。規定できない巨大さの前に、僕らは 

何もできない、それはこの世的には(自分から尺度を測る 

から)絶望なのだろうが、現世的な絶望なら、つらい、 

せつない、むなしい、もうどうしょうもない、で済むが(現世 

では実際それで済まないが)、それはそれが絶望したくらい 

では何も起きない、変わらない、そんな絶望は無駄だと、 

親切に?教えてくれる。 

まったくそれらが僕ら人間だ、ということにすべて還元させ 

られてしまい、僕らはふつうに言葉を失う。どうしようもなくて 

使う「言葉を失う」というフレーズが嫌でも浮かんでしまう。 



彼が内心で言うのは、肝心なのはそのことは知ることができ 

ないから、こう書いたのを理解することは役に立たない、だから、 

こう書いたのを読んでもあまり意味はない、それよりもこの事態 

が他の緊急な自分自身の事態と比較出来て、その場面に 

自分を置けるか?ということだ、と。それができることが前提で 

その時に、その立ち位置でこれが何を示すかが想像できる。 

そして、それから初めて、これについて無駄にならない想像 

の思考を働かせることになる。 

そうしたら、次に言うことがなにを示そうとしたのかを、我が事 

として理解される。それが不毛に見える、知と無の対決である。 

戦いではない、人間の知と無限の無では比較にもならない。 

現実に地球の大きさは太陽の130万分の1だとしても、その 

地球から太陽に「太陽」と名付けても、近づくことも、中を 

直接調べることもできない。この距離のまま、この距離を 

保ちながら対峙するしかない。それと似たように、無は 

巨大で、必要十分に感覚できないから暗黒世界だ。 

だが、意識を失った時の感覚で?そこに存在していると、 

感じることだけできる。なぜか、そういう感覚と比較すること 

で僕らは一度死んで復活したように、この世を別な比較の 

眼で見ることができる。それがその経験の内在の感覚が 

芯となって支えている、とこれが彼が説明したことだ。 

彼の意志は、相変わらず変わらない。歴史始まって以来の 

同じテーマ、自分の存在意義だ。社会テーマで見ると、 

我らは何で、どこから来て、どこへ行くのか、という。 



ここで僕は登場することにしよう。今までは混乱を避けるため 

統一して書いていたが、はっきり彼(自分)と僕を分けよう。 

僕は彼と同一体で経験を共にするから、かなり彼の言うことが 

わかる。これは想像するより、意外に当然なことではない。 

彼のプライドはまっとうに生きているし、彼の感動が僕を 

生かすエネルギーでもあるからだ。彼を完全支配できるとは 

思ったことはないが、ある程度、時には全面的にコントロール 

できるとは思っていた。残念ながらそのあたりの事情は、 

特別で僕は意識を失って、そういうコントロールをする 

らしく(いつもではないが)、その瞬間が空白で、どういう 

具合にするのかがわからない。気づいたら、意識が飛ばされ 

ていた、と。 



19世紀から20世紀へ、無意識の発見から、精神分析は 

始まったが、心理も小手先ではなく、心全体の感受性が必要で、

関わっていて、十分に解明されていないばかりか、深い誤解が 

ある、と僕は危惧している。 彼(自分)が思うのは自分が自分に 

思う意義だが、それにもう一つ輪をかけるように、僕は僕と自分 

をひっくるめて、この状態の二人全体を模索している。どこまで 

行っても新しい状態が続くとは言えるが、それでは人間は死ぬ 

まで生きる、というのと同じことを言っている。芸がない。 

せいぜい、僕という液体でもなく、自分という個体でもない、 

ガラスのような半固体、 ・・・・・・・。



:― と、ここまでメモを残しておく。 

スクリーンショット2234 (2).png


太陽と海王星: 比は適当。太陽の22,500分の1くらい。

素粒子の寿命はどれくらいか。電子は長い。数十億年と言っても 

想像を絶する。ヒッグス粒子は短く、1兆×1000万分の1秒(たぶん)。 

どちらも僕らの日常に影響はなさそうだ。僕の臨床意識も似た 

ようなもの、なのかもしれない。


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憂いと夏のカス [もの憂い]

この身を 寄せたいものは   憂いのシーツ、だろうか 

誰かが 読んでくれた   心慰める、詩句を 

思い出す  夜の橋架の  下で  

街灯が  まばゆい  

自分を 信じるなど   できない  (自分という標本)

自分を 立ち上げないで  生きることも  

できない  (自意識)

さ迷い  選べないことが  何かの名前を  (善、信仰、

神、正義、友愛、・・)     闇雲に 信じて

安心を 得ることではないにせよ  

しあわせではない、 というのでもないことを 

知っている      揺れる、安定

その 企まない   この 境遇は  

どこへ ゆくんだろう? 

どこかに 向かっているのだろうか?  

苦しまずに  得られるものは  価値がないとか 

そういう似非(えせ)論旨  には  

興味もないし   一理あるとかないとか  

ほっとけば、 と 言いたいが 

僕らは  まったく意味のないことには  耐えられない 

だから  まったく  意味のないことも  起こらない、 

のではないか?  

それが ああ、  自己矛盾しているかどうかが  

わからない   それは答えを 先送りしなくては ならない、 

そういう、疑いだから  

自分のために  罠を こしらえて  

自分で  落ち込んでしまう  

そういうものは  説明を 聞いても  

ますます  混乱してしまう 性質を  

内に からめ、含んでいる  

どうにか  現実に  這い出そうとしている ではないか 

と  思うのだが  

これらの  迷妄した現実の、 全体が 

何かのためでないと したら、  

目的も  行先もないとしたら、  

その場の  イレギュラーな  賭けだとしたら、  

僕は  もう  考えを   止めよう  

ここが  なんであるのかを  

確かめるために  

裸の 自分になろう、  そして  

それを 確かめてから   自分を離れよう  

間違いも 不正も  錯覚も  わからなくなる だろう  

バスルームに  ひし形に  くり返す  

光の  軌線、   白い 靄(もや)  

コントロールが  浮かんでいる  

僕の 人生に   戻れない!  

言葉が  無駄に  響いている  
 

誰も 支配できない世界は  不気味でもある  

どこかに  人間のかけらは  落ちているだろうか、と  

なぜか  別なことに  注目しようとする  



ここは R i g h t 

右に決めたから、  そうではないとわかる、 

右も 左もない、  という  

右。   それは 本当に「右」 なの?  

どうして  詭弁が  それに近い 形を  

もたらすのか?  

理を 背後にするのでなく、  溺れるために  

藁(わら)に捕まれ、 と  捕まることではないのか? 

そこでも  求める理があれば  それは 

あがくことではないのか  

必死に もがいて  ますます  水中に  

沈んでしまう ことではないのか?  

まだ、 

体の力を抜いて  自分ではない、それに  

任せてしまったほうが  水に浮くのでは?  

物理では、 プールでは 正しいが、  

精神では、  孤独の状態でも  それは  

正しいのだろうか?  

誰でも  水に浮くのだろうか?  

迷いから  浮かべるのだろうか?  

力を抜いたら  水に沈んでしまう、という  

常識な考えは  ちがうのだろうか?  

始めは 少し、 沈んでしまう  

そこで 慌てて あがくと  

本格に 沈む  

助かるためには  助からない方法を  

試すべきなの  だろうか?  



どうやって  プールで浮かんだのか、  

遠い昔で  忘れてしまった  



眠くは ならない  

起きている けだるさ は  

ゴビ砂漠のよう   ごみ溜めの よう  

ため息の 視界と   不快な 敷布の よう  

そこと  ここ   ここ かしこに  

夏の  野菜、   ビ、  ハイ、  

夏の  葉、   フィー リング、  

僕の  青春を  返して、くれ 

ドライブに  誘われて、   夢のよう  

80kmって、 スピードの王様に  思えたよ  

どこも かしこも  知らない土地は  

冒険で  横断している   都市国家とか  

牧羊の  城塞都市、  だった  

フィフ ティーン、   19の  夜まで  

は  みたよ  

長袖の シャツを  また、着たよ  

袖を   まくってさ  

歯医者も  行ったよ  

海も 山も  見えない 診療室で  

おお、  口を 開けていたよ  

なにが  不満なのか  

それを  見つけるには  

自分を 探して、  鬱の穴に 腕を  

突っ込まなくては  

アゥ  アゥ アゥ アゥ、  

手の届く しあわせに   首を  傾げても  

しわせは   逃げない  

アスファルトは  木琴の 音色は しない 

ヤァ、 プリンセスは   冗談が 好き?  

ロング スカートの しわは  気にならない? 



君は  なにに  属しているのさ?  

鬱っぽさ の 同盟?  

しあわせ の  割引優待?  

どうして  選ぼうとするのか、  

聞かれても いないよ  お、おう  

そうは うまくいかない 「日常全集」 がある  

まだ、 読んでいないんだろ?  

そう、読むものだと 思ったこともない?  

しかり、  フムフム、  そうなんだ、 

自然の 太陽とか  月の 神秘に  

照らされていたら、  「日常全集」 は  

読まなくていい   その時が  

それを=それは、読まなくていいものと  

リアルが  転換する    

その後  炭坑や ブラック企業で  

一週間、働いて  夢の実を  育てよう  

この世の  棲み分けは   まず  

自分が  自由で  自在でないと  

選ばないこと さえ   できない  

紙ヒコーキを 飛ばして  それを  

眺めていけば いい  

ともかく  どこかへ  飛んで  

考えて  ぼやっとして  

無意味に  蟻の群れの 後を  つけて  

ともかく  どこかへ   走って 

考えて  ぼやっとして  

晴れるや  雨ルヤ    ハレルヤ、  

この  自由 よ  

この  ブラックレイン よ    

許せよ、  この  喜びを  

この  憂鬱を  

誰にも  なんにも  依存されない  

頼られない  無責任を  



僕は  嬉しい 

ガムでも 噛むように  

夏の カスを   そっと  

吸い込んで みる  



スクリーンショット133.png


なぜ自我は発達する運命なのか? 
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夏休みらしさと雨のアプローチ [観察]

まだ決まらない。決まっていたのだが、いざ書く段になると、 

異なった道筋から書きたい気がしている。 

少しだけ書いておこう。子供が幼稚園だったから、僕は 

30代後半だったろう。息子のクラスに乱暴な子がいて、 

どうしようかというような話だったと思う。すかさず、やっち 

まうしかないな、と息子をけしかけた。まだ子供の頃は 

それを見過ごさずに、直接相手と対決・対話することが 

必要だとは知っていたので、子供の頃は喧嘩が手っ取り 

早かった。今ほど確信していたのではなかったが、 

プライドが発達する前に暴力を経験することは大事なこと 

だと感じていた。勝っても負けても、そこは子供なのだ。 

いずれ、自分で修正する。息子は喧嘩に勝ったらしい。 

呼び出されたのは母親だろう、僕にその記憶はないから。 

クラスの周囲からはよくやった、みたいな声があったらしい、 

と聞いた。そして、その子と仲直りした。それで息子は 

もう喧嘩はしないと決めたのだろう。それは成功に見えたが、 

副作用もあった。父親の僕を恐れはじめたらしい。喧嘩を 

推奨したからだろう。それは時間に修正されたが、ある時、 

なにかは忘れたが、息子をその時小学生だったか、激しく 

叱責したことがあった。漱石のように短気だったが、明治の 

時代ではない、すぐに度が過ぎていたと反省した、謝らなけ 

ればと思った。すぐに謝らなければ、たぶんもう謝る機会は 

なくなるだろう、と。 

それで気が変わる前に、取って返して、息子に謝った。と、 

事実はそうだが、この謝るには大きな葛藤があった。父親が 

謝ることはないというプライドが立ちはだかったのだ。 

それを押しのけての謝罪で、その瞬間の強い葛藤は家族の 

誰かは感じたのかもしれない。が、僕にはわからない。その 

きつさだけが記憶に残っているからだ。謝るのって、簡単じゃ 

なかった。 



知識というのは学問の匂いがするが、その特定の分野で 

人の知らない知識を持っていることはあっても、知識が 

すべて学問的で、専門的であるという人はいない。 

僕はそう考えてみて、自分の知識が相対で中学生レベル 

ではないか、と思った。知識のほぼすべては派生したもの

で、枝葉末葉が膨大にあるといった、その根本・芯は 

わずかであるのが通常だ。だから、理想の空想じみたこと 

を言えば、物事の根本とそれらの関係性が理解できれば、 

それはすべてが因果に見える。そこからすべてが説明 

できるはずだ。これは知的な想像ごとで、実際にはその 

バージョンとかバラエティとか、バリエイション次第で、 

それを固定させることができないから、T.P.O.(時間・場所・ 

場合)という現実の現象・事象の様相に合わせて、知識を 

活用することが求められる。昨日は晴れていたが、今日は 

雨だとか、昨日は社長はご機嫌だったが、今日は機嫌が 

悪いといったようなことの、もう少し込み入って複雑な 

複層・階層の諸事情を勘案した様相のことだ。 

それらは枝葉末葉の知識を動員しても解決しない。ただ 

混乱を増やすだけだ。そこにどの知識を動員して、いかに 

活用するかを判断するための、統合の知恵が要る。 

それは経験を重ねた熟練者が必要だということで、有体 

に言えば、失敗を多く経験して、それを肥やしにしてきた 

という経験だ。つまり、知識を正しく適応させて使うため 

には、そのために失敗の経験の積み重ねとそれを活かす 

ための努力をすることを怠らないことが必須になる。 

だから、今のうちに自己保身の姿勢が固まらないうちに 

できないと考えていることでも、どんどんやって経験を 

積むのが早道で役立つ。それはその時の自分の限界を 

知ることが、それこそが自分を知る王道だから。 

まず、失敗してその位置を確かめることで、その後に 

ステップアップをする時に、自分の成長の刻み方が 

わかるし、成長した結果を受け止めることができる。 



今日は曇り空の下、図書館の隣で盆地になった広い 

公園に行った。樹木が多いので、すり鉢を円に沿うよう 

に下りの道が整備されていて、渦巻きを描くように 

一周して、底にあたる池まで下りる分かれ道がいくつか 

ある。ブナを食べる虫がいるらしく、カバーで養生して 

いたり、虫殺しの液体に誘い込むトラップが仕掛けられ 

ている。一本に10のトラップがあったが、その虫は 

写真が貼られていたが、一匹もいなかった。 

そういう養生を見ると、自分の動植物・昆虫に関する 

知識はいかに貧しいかがわかる。僕の想像は食い 

意地の張ったもので、ある特定の大きな葉の低葉木 

が隣の無被害な葉と比べて、ほぼ大きな穴だらけで 

食われているのを見て、その葉の区別がまったくでき 

ないのを知る。それよりも、その穴からイモ虫がその 

葉が大好物だったのでは、と思い、そいつはどれ 

くらいうまいと思いながら、その葉を食ったのだろう、 

と今度は自分もあく抜きをして、その葉を食べて 

みようかと、食欲を煽るのである。うまかんべぇ。 



シダ類の葉だろう、ネムリソウに似た葉に、丸まった 

広葉樹の葉がついている。これは知識が邪魔した。 

すぐに中にサナギが入っているのだろう、と。そっと 

していたら、それが間違いだとは気づかなかった。 

ちょっと吹いてみたら、葉はひっくり返って、裏側が 

見えた、何もいなかった。しかも、サナギが丸めた 

のではなく、自然に枯れて丸まったものだと。 



歩いているうちに雨がシトシト降り出してきた。頭上 

に樹木の葉があるうちはいいが、下まで行くと、休憩所 

までは濡れるだろうな、と。トイレに行く都合から、それ 

もしかたない。屋根のある池周辺の休憩小屋では 

家族連れやぶらぶら歩きの近隣の人が雨宿りを 

して、にぎわっている。 

民俗資料館のような古民家が建っていて、そこが 

公園で一番大きい建物だ。隣に公衆トイレ、その隣に 

なにやら道具や装具が入れてある、倉庫がある。 

よく繁った樹木の下の、木の根を模(かたど)った 

椅子の座っていると、隣の古民家の前で雨宿りを 

している婦人の話声が聞こえてくる。どうやら蛍が 

ここで見られるそうで、わぁ、私も見たいわ、という 

話だ。(実は急いで書いていて、これまでの話でも、 

端折っている。その感想を書いていたら、最後の話 

にとうてい行き着かない。ここも続けない) 



こんな公園でも一周歩くと20分か30分かはかかる。 

道も間違えると、反対方向に歩いていたりする。それで 

また池のほうへ戻ってきてしまった。雨が小やみになって 

休憩所を出てきたのだが、また降り出してきたので、屋根 

のある小屋でベンチに座った。隣り合わせのベンチに、 

もう一人婦人が坐った。そこへ小さな子供3人、一人は 

若い父親が前に抱えている、家族連れが来た。しばらく 

屋根の下にいたが、少し離れたベンチがあり、樹木の下 

なので父親がそちらへ移動した。上の男の子二人は 

雨も気にしないので、3段下がった扇形の踊り場へ出たり 

して、母親に注意されている。まだ驟雨は続く。 

10分もしたろうか、また小止みになってきた。そこで 

家族連れは移動し始めた。それと入れ替わるように 

何が来たかと言うと、飛んでいた。ヤンマだ。トンボの 

7,8の群れが飛び交っていた。そして、二匹で番(つがい) 

になって飛んでいるのが一組いた。その他のヤンマも 

塩ヤンマ、通称塩辛トンボでうす青い胴体が特徴だ。 

番の相手は黒に白い腹の模様だった。

この雨止み待ちが自然との扉を開いた。僕ら知的動物は 

この公園に目的をもってやって来る。子供のための 

家族サービスや、歩いて運動しての健康目的や、日曜の 

コロナ自粛の気晴らしとか。雨が降るまで休憩小屋は 

どこも無人だったに違いない。皆、せっせと自分の仕事

をしているのだ。

僕も歩きに来ている。自然のことは忘れて。人間の気は 

彼ら動植物・昆虫にとって殺気と同じである。残念ながら、 

これは事実だ。人間が考える時、意思決定する時、気を 

放つ。これは意識が飛ぶのですぐに感知できるらしい。 

新横浜の川べりを歩いていて、5m先でドボンッという音 

がしたら、それはカメが日光浴をしていて、人間が近づ 

いて来たのを察知して、川に飛び込んだのだ。まだ姿 

も見えていなかっただろう。 



シオカラトンボは2mまで近づいた。何度か来て、近づいて 

ホバリングしてからは、また飛び去るが、また来る。 

なんのことか?想像だが、警戒しているのだ。なにに? 

実はさっきから、番のメスが相手から分離して、一匹で 

卵を生みつける動作をしている。そのすぐ周りで飛んで、 

気遣っているようにも見えるのは、シオカラのオスだろう。 

その大事な作業に邪魔が入らないように他のオスの 

役目で人間の監視に当たっている、というのが僕の 

自然での経験から学んだ知識、そこからの推測だ。 

そして、驚くことにその場で謎が一つできた。その 

メスは踊り場の板の上の水たまりに卵を生みつけて 

いるのだ。たぶん、50回以上は移動して、生みつけ 

ただろう。これはどういうことか?そこは人間が歩き、 

踏む場所で水たまりも晴れれば、あっという間に乾いて 

卵は死んでしまうだろうに。 

初めに気づいたのは、雨が上がるだろう、ということだった。 

大雨になるのだったら、彼らはこの作業をしなかっただろう。 

天候については彼らはほぼ100%間違えないはずだから。 

あとは、今夜か明日の朝には雨が多量に降り、卵を池に 

踊り場の板の上から押し流すだろう、という推測だった。 

どうしてもトンボがこのやり方を最初からしていたとは 

思えなかった。雨が卵を流すという計算がなければ、 

この産卵行動は不可解だった。それとも1日や一晩で 

ある程度幼虫になり、池に流されても卵のままでいるよりは 

他の魚や昆虫に食べられてしまう危険性が低くできるの 

だろうか? 憶測はこれくらいだが、偶然だろうか、雨が 

止んで、薄日が見えた。 帰宅して天気予報は明日も 

雨模様だった。推測は正しいのかもしれない。しかし、 

それを早朝、見届けようというほどの、自然観察の好事家 

ではない。 



傘は車に置いてきたが、それがかえってよかった。自然と 

出会うにはどうしても、向うが隠れて警戒している防御を 

解除するまで待たなければならない。僕らは昆虫採集に、 

魚獲りに、植物・野鳥観察に、と殺気を発散して森や林に 

向かう。その目的のために静かにするのを学ぶが、それが 

どういうことなのかを学ぶことはない。学校でも聞いたこと 

はない。それで僕らは自然はそこにあると思っているが、 

そこにあるのは人間を察知していち早く姿を隠した、異常な、 

自然の営みのない自然の状態なのだ。逃げるもの、隠れた 

ものを追いかけていることを知らないのだ。彼らがいつもの 

活動をするのは、皮肉なことに人間が人間であってはなら 

ない、そういう儀式を必要とする。 

そうしてそれを知った者はそこには新しいことが頻繁に 

起こり、退屈しそうもない千変万化の世界だというのを 

わかってしまうのだ。大抵は動植物・昆虫の一分野で 

マニアになって、偏向してしまうのが惜しい。 



雨は今度はぶり返して降ることはなく、傘はいらなかった。 

市役所の駐車場までと、また家の近くの駐車場で車を置いて 

からもついに降らなかった。



公園で拾ってきたもの ::

IMGP0005.JPG
カラスの羽。

IMGP000455.JPG

バッタの踏まれてぺったんこ。 


::

6.15 に追加。 

人の殺意と気がほかの生物にとって同じというのは、 

僕らは普段、そういう生物に出会わない。僕らは自然の 

中にはいない。 

公園を自然とは呼ばないように、野生の豹と家の猫は 

明らかに違って、家猫には人の気は慣れて、エサを 

くれる主人であって、猫の気質次第で友になってくれる 

こともある。池や川で人にエサをもらった経験の魚も 

野生ではない。もう殺気も忘れているかもしれない。

自然と社会の境界が、日本の場合、あいまいで区切りを 

いうのは難しい。
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まだ未熟なのだろうか なにが? [未熟]

悲しみに 心寄せている時、 

僕は  悲しかったろうか? 

それは心に  水を流すように  

気持ち よかった  

泣けるような  雨に濡れる  感触が 

なにかを  掴んでいたから? 

過去という  きれいな パラフィン 

セピアという  なつかしの  ため息 

そういう、小道具で  遊べたから? 

曲が 終わるまでの  げっぷをした、後悔 

もう それが  憧れに  

変わってしまっていた な 

悲しむというのは  誰のでもない、 

自分のでもないし、  コーラを  

すっきり、  飲み干すようなものだった 

そうではないか、と  

口癖で  聞いてしまうが、  

僕は  答える気も  ないだろう  

少しは  やさしく  語らなければ、 と 

反省を  促してみるが  

無関心と いう  腕時計が 

古い  長針を  探しているのだ

そう  言葉が  人を 傷つけている 

僕の  むなしい  居留地からの 

心 凍らす  殻のピーナッツ? 

そういう 想いを  

ただ  弄んでいるのだろうか? 

今日から  あしたを  

歌うことでしか  訴えられない 

虐げられた 子供たちがいて  

ヘブライの神を  歌う  

黒人霊歌の   ゴスペル 

それは 奴隷の 集会から  始まっている ::

詩興、ではなくなったようだ。黒人の奴隷社会は 

解放を求めて、神に祈った。そのゴスペルは音楽 

の社会に強い影響を及ぼして、ロックなどの分野 

も生み出した。

宗教はなぜ祈りなのか?悲痛さをこらえながら、 

それが押し殺された祈念になる。どうして他に 

助けを求めなければならないのか、それはなぜ 

疑問ではなかったのか? 

と疑問を呈しているのが、もう嫌になってきた。 

それよりも新しく、その答えのランディングを求め、 

少し読書に専念したほうがいいのではないか、と 

考えるようになったからだ。  

そう言いながらも、自分にとってはそれがレシピを 

知っておいたほうがいい、というまあ教養にも近い 

むずかしいことをする、とは思っている。 

世界に知らない料理がある。だからそれを知ることが 

役に立つし、面白くもあるだろう。だが、今、好きな 

料理を献立には困らないほどに、作れるのだったら、 

知らない料理を敢えて知るだけの必然の理由などは 

ない、と思うのだ。必然じゃないから、偶然を待つのだ。 

あるいは偶然を装うように、自分に吹き込むのだ。 

若い耳には聞こえる周波数も、年とともに聞こえない、 

という。それは息子が家にいた時にやり取りで事実だった。 

言われて、聞こうとして、やっと音を捉えられた。 

もしも、若い感受性がまともなこの世の事実だったとしたら、 

最近のヒット曲を聴いて、心の琴線に響いたが、彼が映画 

で狂った殺人鬼の役で出演したのだが、紹介の番組を見て 

いてどうも幼児っぽい、未熟さを感じていたら、あとで彼は 

精神病院に入院したことがあって、何か月かで退院してきた 

時に、なにをしでかすかわからないから、バンドでもやらせ 

ようとして結成したバンドの歌がヒットしたのだそうだ。 

それで少し前にヒットした、子供にも流行った曲が別な 

若者の曲だったが、彼も自閉症から立ち直ってからの 

ことだったのを思い出して、精神を病みかけた者の感受性 

が受け入れられるのは、ただしく狂気の基底音が現代に 

流れているのでは、と何年振りかで思い出した。 

もう高齢の世代には聞こえない音なのかもしれない。 

どうだろう?聞こえるだろうか? 

僕はそういう知的障害・精神障害の環境(職場)を2年ほど 

渡ってきたから、気にならないくらい当たり前に思ってきた。 

彼らの揺れる精神もまだ儚いが、まだ神を祈ることはなさ 

そうだ。 やはり、その狂気を受け止めない限り、どんな 

セラピーも教説も届かないだろう、ということを思ってしまう。 

僕には居心地のいい境地とか、悟りとかいうものはまだ、 

信じる余裕がない。内容の見当がつくこと(見晴らし)と、 

その内実で実行・行動することとはまったく別なことを扱う 

ことだ。 

僕の性質という運命がそこに沿って流れている以上、避けて 

通るというのは、思ってみるだけで、できないことなのだと

思う。これは好きか嫌いで進めることじゃないと、僕も 

わかっているから。 

サボテン(2).png

2019年の画像だが、今日も一輪サボテンの花が咲いた。 

蕾がもう一つあるから、それは明日の夕刻から咲き始め 

るだろう。
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 休むひと時に、意外に時を超える時 [時]

なにかが 変わるような、 予感、  いや 

予感でなくても いい 

ハムスターの 小刻みな  口の動きに 

解放の 歌が  見える  

そういう 自在な感じが  くれば いいじゃん 

この 数える  歩幅の   リズムに 

押し寄せる ヒタヒタ、 波の  

はるかな 彼方に  国は 浮かぶのか 

海水を  煮詰めて  

はるかな 島に  塩とニガリを 生成する 

君らは  笑う  

僕は  カメラで  撮影されている  

この 紫っぽい 部屋で   雨を  眺める  

なんの つながりもない、 ここで 

なにかが  つながっているのでは ないか 

その 想いだけが  

境目のない  川のように  

流れ 続ける 


風も 

人 も 

木々や  柵も 

答えない 

夜になり 

暗い 地表も 

なにも  答えぬ 

言いたいことや  弁解が 

泡(あぶく)のように  浮かんでは  

消える  

遠くまで  聞こえるように  

声を 上げたい気も、 するが  

それは 影絵や  童話のように  

語り 聞かせる、  そんな気を  

なくす 

沁みて   沁みて   

薬が 効くようだ  

なにも  なくなって  

後悔は  いつもなく 

それも  反省さえ   なくなって  

ようやっと  気分も  おさまって  

自分を  引き取ろうと  

友の  肩を  抱くようだ  



沁みて   沁みて   

薬が 効くように  

夜が  また  

僕を  運んでゆく  



我、 

自分と ともに 

あらん  

長く 逢おうとしなかった  

君は  実験動物のように  

ハムスター だった 

自分を  愛してもいい、 と  

やっと   思えるように  

なった  

君にも  その居場所が  

そこに  あるべき  


気が つかなかった  

君も  家族だとは  

気づかなかった 

ああ 気づかなんだ 





:: 
自分を見つめる僕が主人公で、対象の自分は 

まったく観察対象という剥製にすぎず、時たまに 

自分の苦しみを知るのはぼくだけ、という意味で 

その同伴期間を哀れみから好きだと思いやる 

ことはあったが、意識というスウィッチから出したり

消したりできるピエロには違いなかった。それくらい 

にしか思っていなかったし、それは意識の外だった。 

J・クリシュナムルティは僕が通過してきた少ない師 

の一人だが、孤独を必要とする時、また原点に戻ろう 

とした時に、開く本だ。そして、なんとはなしに読んで 

いて、いつもと同じに明晰・明瞭、まったく文句がつけ 

ようがない。そして、同様に退屈な文。それは時間が 

止まっている視点から(彼の瞑想で現実の異様な世界 

を経験している)見ているからそうなのだ、といつもの 

ように思った。

そうではなかった。その感覚がこれまでよりもわかった。 

そして、それが彼の個性にあるのが感じられた。 

彼が絶対を見ているからそうなのだ、と思っていたが、 

そうではなかった。クリシュナムルティの個性なのだ、 

その視点なのだ、それは。 

なぜ退屈で、つまらないか(それは絶対の瞑想世界だから、 

否定してはならないと思っていた)、そこには社会のぬくもり 

が抜け落ちているからだ。自然の生活の美というが、それを 

表現はしない。社会も個人が虐げられる視点だけから語られ 

ていて、それが人間の営みのダイナミックさ、そういう温かさ 

を彼は述べない。彼は極端な精神の革命を求めるのだ。 

彼は明瞭に世界を見ている。それから逃れられない世界に 

自分を知ることから始めるために、既知の物事を捨てる 

ことからを推奨する。僕は彼の影響下にあった。同じことを 

言って、促していた。まさかと思った師の位置が垣間見る 

ことができた。ブッダが見え始めた時のように、彼の人間が 

見え始めた。 

彼の文が退屈なのは時間が止まっているばかりではなく、 

死にピントが合っているからだ。だから、自然の美しさに 

ついても、美だ、美しい、と言われても、何も感じない。 

事務的に言葉だけに聞こえるからだ。それだけ彼は瞑想 

の印象に着地して、少しも動かないで居られるらしい。 

聖者の動きというのは、ここから発せられているのか、 

と気づいた次第だ。その明瞭・明晰さにではなく、その 

瞑「層」の世界の匂いに誘われて、自分を取り戻そうと 

して彼の本にやって来たのだ、ということを知った。 

どうやら、父の頑固さからは脱したようだ。 父の 

不愉快は僕の晩年の不愉快にはならないだろう。



清明さ、という言葉は以前には水の清らかさのように 

イメージしていたが、この清明さはちがう。黒曜石の 

ように気品で黒光りしているが、底抜けに透明だ。 

明晰だが、透明だ。先を見通すことがいらない。 

見通すまでもなく、透過しているからだ。そういう 

空気の宝石のような、清明さがある。 

宗教や神秘好きな人は、これを奇跡の命の泉と呼んで 

しまうかもしれない。そういう僕らの既知や社会性を 

かぶせた部分が憧れや依存の広義の精神性であり、 

一概に誤解とも呼べないあいまいさなのだろう。 

そして、今の僕の精神性と呼べばいいのか、わからない 

ものであるが、また一段進んだという感覚は、勝利を 

感じさせる。勝つも負けるもないが、僕のできる方向を 

また推し進めることができた。自分では久しぶりに、 

やった、という。 

ま、それだけだが、 ・・・・・・。

Iクリシュナ.JPG

J(ジッドゥ)・クリシュナムルティ のインド国家の切手。(Wikipediaより)


誰かに似ている。皆、誰かに似ている。 

左上のINDIAの英字はインディア、だが、上のナーガリー 

文字はバッ(フ)ハラットと発音する。日本は英字でジャパン、 

日本人は自国を「にほん・ニッポン」と発音する。 

(フ)は気音で日本語にはないが、無音で息を入れる。
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知的頓挫と常識的な理想 [知の思考]

 P・G・ハマトンの「知的生活」は渡部昇一・下谷和幸訳で、 

日本で再発見のようにブームになり、自己啓発の古典・ 

名著と言われている、そうだ。渡部について書くので、まず 

渡部はハマトンに大いに啓発されて、一部原文を暗記する

ほど読んだ、とそれほど傾倒した。 

はじめに断ってしまうが、これは渡部やハマトンという知的 

人間への半ば批判であり、その知的形態の説明である。 

「知的生活」という言葉に、はまる。なんと響きのいい言葉 

だろうか。自然の中で知的環境に囲まれて悠々自適な 

生活が出来たら、なんと素敵なことだろう、と僕も昔、 

夢見た。それこそ理想を絵に描いたようなものだ。 

そして、本を手に入れて、あとがきを読んだら、あとは 

放り出してしまった。まさか、今頃それをまた手に取るとは 

思っていなかった。 

僕の現実的な志向・嗜好はハマトンがどれほどにせよ、 

そういう生活を実現したものと疑わなかった。自分の 

経験からそのエッセンスを書いたのだろう、と想像した 

から。 それはほぼ山での自給自足をした「森の生活」を 

書いたソローの影響だろう。

が、ちがった。彼は今でいうHSPで、感受性が強く、病的で 

特に汽車ノイローゼだったという。夜行の鈍行にしか乗れ 

ない。それでも発作が来て、途中下車したそうだ。だから、 

彼に非はないだろうが、彼は普通の生活ができる人に憧れ 

はしたのだろう。 

それは始め大量の詩を書いたが、まとめられず、失敗した 

らしい。それがどういうことなのか、またどうして失敗なのか 

わからない。本人は知的人間によくある完全主義者だったの 

かもしれない。が、19世紀末である。そういう知識は流行って 

いなかっただろう、彼に非はない。 

そこで彼は画家を目指して変身し、画家としては写生ばかりで 

個性がなく大成しなかったが、美術雑誌の編集責任者となって 

成功した。評論や論文も掲載して、当時の文筆家として有名に 

なった。 

それで、というわけではないが、彼を決算すると、人々の好み 

に合わせたものを書くことに長けた教養人だった、ということだ 

と思う。だから、雑誌は売れただろう、また「知的生活」はそう 

いう本だった。第1章で知的生活における肉体的基礎、と題を 

打っているが、若い作家へ、学生へ、若者へと小見出しが並ぶ 

が、自分のノイローゼはひとまず置いて、書いたのだろう。 

そして、第2章ではその精神的基礎、として並べて書いている 

が、内容は歯を食いしばるような努力の礼賛で、人が思うような 

想像がまことしやかにそれらしく書かれていて、読者はそうだろう、 

私が思った通りを丁寧に語っているよ、と言いそうな記述。歯を 

食いしばるというのは僕の表現で、彼はそれを「たいへんつらい 

骨の折れる」というソフトな表現をしている。ちょっと乙にかまえて。 

彼が運動を奨励しているように、その道のセミプロにでもなったか、 

と思うが、晩年、痛風の症状が出たらしく、その予防をするために 

戸外運動というから、マラソンでもしたのだろうか、やり過ぎて心臓 

を悪くしたという。自分の体をよくは知らなかったようで、精通には 

ほど遠い。 当時は栄養状態も良くはなく、知識も不足がちだった 

のだろうか。 

ハマトンは田舎に引っ込んだのは自然を愛好するというよりも、 

人と付き合わず、静かな環境を選びたかったからだと思う。 

晩年は、60で亡くなったが、奥さんとの会話も知的興奮のある 

というものではなかったようで、知が伝染せず、奥さんは耳が 

聴こえなくなっている。子供も独立し、巣立ち、二人だけであまり 

に静かで寂しくて耐えられなくなり、山から郊外に引っ越して 

いる。彼はソローにもなれなかっただろう。 

僕は非常に早くその理想もどきに気づいて、山が好きだし、山の 

生活に憧れもしたが、長くは続かないだろう、とその気がある 

うちに山へは1年に1回行くくらいで、滞在も長くて3ヵ月くらい 

でいい、あとは郊外や都会で暮らしたくなる、と思っていた。 

そして、山へも都会へも行ける、やや郊外を居住地に選んで 

いる。 当時は田園も残っていたが、今はもう市街地になって 

しまった。 

ハマトンは世間通で教養人だった。決して知的巨人というような 

個性は持ち合わせていない。とても仕事に協力的な奥さんと 

しあわせに過ごしたようだ。それを感謝しているが、彼の夢は 

知的人として社交生活をすることにあったような気がしている。 

だからこそ、人がふつうに何を考え何を望むのかわかり、そこに 

自分の夢を教養文にして重ねて載せた、そんなように見える。 

一般的な人生だろう、編集者として成功して、山へ籠って 

家族で暮らしただろうし、自分の感受性にもさして煩わされ 

なかった。晩年の不幸はそれでか、次男がフランスの国立大の 

教授資格を取ったらしいが、自殺している。そして、ハマトン夫人 

の耳の不自由、自分の通風、と不幸が重なった。ルーブル博物館 

から帰って、心臓病で亡くなった。当時としては60歳、大往生 

だろう。現代では似たように成功した人が晩年、突如として半身 

不随になっている。 


そういうハマトンの教養としての知的生活に同じ理想を抱いた 

であろう、渡部昇一(ここでデジャブ。この場面、見たことある、 

いや、経験している)が登場する。 彼の「魂はあるか?」という 

本を知って、ほぼ最後に書かれたので少し、死についての体験 

を期待(予想)したけれども、もう一つの予想である、誤解の 

混ぜ物では、のほうが当たっていた。 副題の「死ぬこと」に 

ついての考察、もなんもない。死についてはその周辺ばかりで、 

死そのものについては、なんもない。ただダーウィンとウォレス 

の発見が断定で書かれていたので、ここを調べて見たいと 

思わせた、すでに本は所有している。 

僕が死についてまた?書くの?となったのは、人は自分の 

体験が重い時には、その体験で人生が左右されるし、それで 

あるからこそ、そこからの結論を絶対として信じやすい。 

信じるのは結構だが、それひとつだと、信じるのはそれは 

自分だけを信じるのと同じだから、いつも検討できる時には 

思いつきにせよ、他人の経験にせよ、それなりに敬意を払って、 

検討し直さなければならない、と最近、再度考えていることだ。 

特に僕の場合は次からくる経験がその一度目の体験を 

裏書で応用・証明・保証するものだったので、疑う機会は 

なかったといえる。生ま新しかったので、新しい表現を考え 

なければそれについては1行もままならなかった。いまだそれ 

を否定する材料は現れない。 

しかし、それだけがすべてではないのは、いかになんでも 

気がつかずにはおかない。そのほうがいいのだ、比較できる

から、こちらのテーマが強められるか、怪しげかが感じられる 

ようになる。そのどちらでもない場合、別な世界解釈の可能性 

が現れた、ということだろう。 なんにしても面白いではないか。 
                                  
とは言え、」  6. 1- 2 




日を空けると(1日半)、書き続けた想念の流れも切れてしまう 

ことがある。 最近は特に、重要なことを書いているという意識 

がないせいか、途切れた時の想念を思い出せない。また初め 

から書けばいいではないかという、その場主義だからだろう。

渡部昇一については、新しいことはなかった。想像したまんま 

で、少し前に書いたパスカルの神を信じたほうがお得である、 

という確率を渡部はそのまま守って、あの世まである、と何の 

検討も加えずに、「だからこそ私は、シニア世代には特に、この 

賭けのことについて考えてみてはどうかと勧めたいのです。 

無に帰して風にさまようくらいなら、一歩踏み出すくらい何でも 

ないはずです、なにせ、負けることのない、必ず勝つ賭けなの 

ですから」 と、最後を締めくくっている。 

彼の主張は一理ある。わからないことを考えたり、疑っている 

よりも、しあわせに生きるほうがいい、そういう精神状態をつくる 

には神とか、魂とか、無作為に信じるほうが健康にいい、という。 

そういうことを言っている。 

だから、まぜっかえすようで理屈に誤解されるだろうが、彼は 

自分が期待し、憧れることをそのまま信じたほうが利口だ、と 

言っている。それはそれが真だとか、正解だということではない。 

わからないことを悩むよりも、まだ信じてしまったほうが楽だから 

精神的に得だ、利益があるという。これは拡大解釈すれば、どの 

宗教でもいい、好きな宗教を信じて、幸福でありさえすれば、 

その先を考えるのは損だという立場で、なにか社会学者の話した 

結婚とは収入のパフォーマンスだ、と断定するのに、似ている。 

それはどういうことか、突きつめることができる。人生、楽できる 

なら、それでいいじゃないか、という人情に合った思想である。 

思想としては未熟で危ういが、現実には一理ある。生まれて 

から恵まれて、幸せに育ち、人生順調に進んだのなら、それこそ 

理想的で素晴らしいではないか、という考えだが、実際には 

不幸に襲われない人生はないので、理想の考えも嫌でも不幸に 

修正されるから、その理想の実現が責務ではないか、そのため 

にそのゆるい思想が奨励されても、さほど不都合ではない、の 

ではないか、というものだ。 

僕はそれを強く否定する気にはなれない。世間を慮(おもんばか) 

ってのことではない。そういう夢もある程度は役に立つし、小さな

ことでは大いに使ったほうがいいからだ。明日、講演を控えて 

いて、その前の晩に急に憂鬱になって眠れない、とかになった時、 

「大丈夫、うまくいく」と、自分を安心させるのは大事なことだ。 

この時、講演がうまくいくかどうかは関係ないことはわかるだろう、 

その前に不安を緩和しなければならない。僕も慣れたせいか、 

自分を落ち着かせるのに、不安な理由を思い浮かべ、それを 

潰してゆくという方法を以前に取っていたが、今は、自分が 

不安を感じているのを察知したら、すぐに「大丈夫、うまくいく」 

と3回くらい唱えると、なにもしなくても2,3分で落ち着いてしまう。 

不安は必ず、自分が招くものだ。それを消して、うまくいく場面に 

遭遇させれば、または、成功して喜ぶその後の場面を起こして 

やる。そもそも不安はない、とわかる。 

渡部にとって、魂の存在も、死後の世界を信じるのも、それは神を 

信じるのと同じ範疇にあって、一緒くたなのだ。神があれば、魂も 

あるし、死後の世界もある、と。 

僕は、おいおい、と大丈夫かよ、とオタついてしまうが、彼は専門の 

英語文法学ではドイツの大学で哲学博士を授与されているようだ。 

英語や言葉の本が18冊くらい、(社会における)生き方や処世法の 

著作も多いが、主に歴史と政治・社会の方面で200冊近く、共著を 

含めると、300は超えるだろう、そして、翻訳も100冊くらいの、 

それで知の巨人と言われるらしいが形而上学、経済や宗教、心理に 

ついては書いていない。 

それで人生の最後は賭けることで満足して終えた、のだから、なに 

を批判せにゃいかん、ということで、極貧の少年時代から出発した 

ので後半、しっぺ返しもなく、大往生。彼は彼の人生を生きた、とそう 

締めくくっていい。 

僕について書くのは、興を失くしてしまった。僕の死の経験はそれ 

のみで構成され、それを信じてきたのではない。突きつめられない 

神秘と実感の入り混じったことや、確実に自己の崩壊だと後で 

分かった経験など、数々の新しい追体験が起こり、それを解題 

することで、次第に初めの体験が補足され、強固になるという 

流れを追ってきたので、僕の体験を崩す事実が現れなかった 

以上、自分の実感を信じないわけにはいかない。 

僕はこれでやって行く、ということで渡部のような賭けは児戯 

じみたように感じられるが、書いたように無下に否定する気 

にもなれない。僕らには、社会的にも心理的にも、それぞれ 

の納得する思想が用意されていて、その選択はその人に 

任されている、それが僕が信じることだからだ。どう信じるか 

というのは、信じるのを恐れてなにも信じないよりは、幾千倍 

もマシなことだ。敗れて、また荒野に戻ったら、新しいことを 

信じてまた始めからやり直す。今、それをする、今、そう 

考え直す、という行為が大事だ。そういうことであって、 

前もってそれが正しいとわかるようなことは、起こらない。 

僕らが生きることを信じている前提がなければ、なにも 

起きないし、起こらない。すでに信じている処から始まって 

いるのが、僕らの生だ。これだけは、疑えない。その他は 

いくらでも解釈が可能だ。 これは神を信じることに賭ける、 

という知的立場ではないが、信じることの重要さでは同じ 

炎がともっている。

生きよう、ただ生き延びるために、他人の協力ではない 

犠牲を強いるような卑怯な手段でも許すように、ではなく、

自分の、これが人間の一匹の生き方である、と主張 

できる、そういう生き方をしよう。



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ザクロにはギリシヤ神話から仏教、イスラム・キリスト、どの宗教 

にも逸話があり、紹介しきれない。 

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太陽とピエロの選択 2. [選択]

海浜で砂の山をつくって遊んだことが誰でもあるだろう。 

見れば、波が打ち寄せている処は、ここから遠い。 

まだしばらくは波は来ない。だからと言うわけではないが、 

砂の山を崩すのだ。その形はあった。だから、今はない、 

というのだろう。そうなれば、なんでもありだ。そうして 

崩してしまえば、なんでもなくなってしまう。だが、そうならない 

のは、それを記憶したり、記録に残すからだろう。 大昔は 

石に刻んだので、それは数千年でもそのまま残った。 

今はそれよりも大容量に残すことができるICチップがある。 

これはすごい革命で発明品なのだが、ちょっと待てよ、と。 

ICチップは数千年も残るだろうか?たとえ残ったとしても 

記憶媒体として残るだけで、それを開くためには機器がいる。 

機器は数千年も耐久するだろうか、そして、その機器は当然、 

電気を必要とする。つまり、石の媒体は数千年でもそのまま 

残るだろうが、ICチップはだいぶ心もとない。それはこの先 

人類がいなくなったとしたら、と考えるとはっきりする。 

ICチップはただのガラクタで、ゴミだ。片や、石の碑は貴重な 

人類の記憶を刻んだ遺産になるだろう。と言っても、宇宙人 

くらいにしか役に立たないだろうが、 ・・・。 

僕らがこれからどれほどの発見や貴重な知識を蓄えたとしても、 

それは自分たちが自分たちのために役立てるだけになるの 

だろう。他の生物が万が一、曲りなりに(これは絶対そうなる) 

理解したとしても、僕らがステーキを食べるために蓄えた 

牛の知識と同等の扱いになるだろう。僕らのプライドは僕ら 

のもので、地球上の動物がプライドを理解しないように、 

僕らが期待するようにはならないだろう。 

どうして僕らはプライドを礎(いしづえ)のように感じるのだろう。 

それは礎が僕らを大地に立たせるように、バックボーンとなって 

僕らが石ころのように心無いつまらないものではない、というもの 

だからだろう。それはそのまま、僕らが「僕らが自分がつまらない 

ものである」ことを恐れている。ということではないだろうか? 

僕らがそのまま礎をしっかり、心に体に感じていれば、恐れる 

ことはないだろう。これは知が心に作用して、精神を形作る 

処からも、その裏計画(無意識)から推測できるのではない 

だろうか? 

心を何かにあてはめなければ、不安になるのは、(知は自分でも 

あるように)心に精神という自分という(擬態)ものに似せたものを 

必要としたのだろう。それは儚いものだと知っていたはずだ。 

だが、それを知りたくないし、知られてもならない。だから、無礼にも 

その点を指摘されると、僕らは怒り、プライドを守ろうとする。ムキに 

なるのはそんな理由ではないか。 プライドはだから、その一面で 

案山子のようなもので、つまらなくてもそう明かしてはいけないし、 

なくてはいけないものとして、そこに立たせている。 

悲しいね。プライドは嬉しいものだが、どこかに救う面はない 

ものだろうか。そう思ってしまうのも、精神がすべてを概念で  

囲ってしまって、宇宙も真理もわかってしまっているというような 

気分を味合わせるからだが、そういうマイナスの俯瞰もあるの 

だろう。それは哲学以前の白けた、ニヒリズムの伝統なのだ。 

こうして僕らは迷いの回廊に嵌ってゆく。ただ、この回廊から外に 

出るだけで、何事もなくなってしまう。 猫を抱いて、気持ちが動けば、 

とか。恐らく、僕らが悩むことは迷うことではない。考えることを 

必要以上に信頼したり、考える以上に感情が思考を振り回したり、 

感覚に囚われたりしているだけで、それに気づいて、それを一時 

停止させて、そこから出てくるだけでいい。 

外の空気を散歩するだけで、気分も変わる。まだ、考えている? 

それでは外というものさえ、感じられない。気づいて、そこに。 



明日を描くのは、気持ちのことで、考えてはいけない。そういう 

ものなのだ。難しくしているのは、自分だ。いっ時忘れる技術、 

感覚、決意というもの、それらが必要かも。 

明日を思い描くのは、気持ちいい。そこには憧れも生まれるけれど、 

気持ちのことだ、期待までしては、進みすぎ。 だ。 

ほんのりと、思い描く。

プライドが人をまとめて、統一するときに力になる、そういう象徴を 

鼓舞することができる。僕らはまとまって何かするのにも、大義を 

持つことで、正当さを信じれるという伝統がある。それが個人的 

にも有効なのなのだろう。まるで僕らの心理構造をなぞるように 

憧れを保証させて、安心を与えるようだ。全員一致ではない 

だろうが、まとめる人数が多くなれば、最も使われる方法だろう。 

これは政治的な力であって、目的のために手段を択ばず、という 

皮相な結果にもなりやすい。そうなると、誰を、また何を信じれば 

いいのか、わからなくなる。 

そういう集団が集まり、力関係で抗争・交流するようならば、僕らは 

一人でいられるだろうか。そういう力の流れは生半可な意見では、 

まず意見というものではそこから出られないだろう。 

僕らは孤立するのか、従属するのかを選ぶのだろうか。太陽と 

ピエロのように。 その他に道を探すのなら、もっと強い力が 

必要だ、それ以上のものを求めるのなら。それはほんとうに 

新しさを希求することだから。

初めに支配しよう、従属しよう、と経験を重んじるのだろうか。 

それらを知って、体験するなかで、それらは見失われてしまう。 

大きい力は僕らを確実に巻き込んでしまう。 

僕らは生活ではなくて、それぞれの対外での看板・象徴・大義・ 

もしくは正義に密着してしまう。意外なことだが、いつもそこで 

決死の決断が迫られることだ。その時に、家族や周囲への 

心配や言い訳など、そういうしがらみに言及される。だから、 

どう生きるか、という抽象的なことが、重要な決定となって 

自分が把握していないと、迷い始めてしまう。それは自分 

とは何か、と問うのと同じことだからだ。どう生きるか、聞かれ 

なくても、自然に行動するまでに身についてなければ、僕らは 

まずピエロを選ばざるを得ないのだ。望むこととは関係なく、 

そういうことが予想されていない時点で、僕らはそれを 

知らずに選んでいることになってしまう、ということなのだ。 

家族や正義という看板・評判を、それは僕らのプライドに 

他ならないだろう、刺激されて、プライドを守ることが 

暴力でもあることを、知るのではないだろうか。 

そこから抜け出るとは、どういうことかを、僕は問うている、 

これはそういう次第なのだ。 

気持ちだけで片付く世界はない。知だけで解ける世界はない。 

センスだけで世界が変えられるわけではない。それは混沌 

としているが、僕らの情熱がそれらを一気に押し流す。

その時に、見せかけではない、利益のためではない、そういう 

よこしまな策謀に対抗するには、それだけの胆力が必要になる。 

それにはどういうプライドが必要になるんだろう? 

猫や馬に聞いてもわからないだろう。冗談ではない、誰かに 

聞いている暇はないだろう。できる時にできるだけのことを 

するのに遅いはない。

準備をしておこう。 まったく眠りにくい世の中になったものだ。

そうは言っても、長い歴史があった、あったからだろう。 

人々の意識の違いは時代ごとにあるが、いつも心と体には生き 

死にのやり取りのために、プライドにしのぎを削った、闘い、戦闘 

があった。それを越えられないために、僕らの涙は乾いてゆく。 

どこに救いがあるんだ?と嘆く。 

この巨大なサイクルを見てみるといい。見つめて理解してみると 

いい。壁に耳をつけて聞こえる者は、そうしてみるといい。 

僕らの想いを見つけてみると、いい。 どうやって歩くのか、それが 

生活に密着するように、自分の問題になるまで。 


太陽 (2).png

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太陽とピエロの選択 [選択]

スクリーンショット2234 (2).png

太陽 3D素材から構成: 


聖なる、という言葉が   なんという  

なつかしさ、 なのだろう  

それに 憧れていた 時代よ  

君らが  それらに  取り囲まれて  

輝くと  思うから  輝いている  

だから   ダカラ   ダカラこそ  

それは 思ってはいけない  

記憶の くり返しに   身を まかせるのが 

うまい  生き方なのだろう  

あると思うものに  祈りを 捧げて  

自分は  燃える鳥に  なるのさ  

ふるえる  涙、   はち切れる  体温、 

静寂な  動悸、   獰猛な  空腹よ 

この夜を  あの日照りを   凍結しながら 

生き抜いた、   雪の日々よ 

なんと  なにがなんでも  

それが なんでもよかった  そのままで  

それが  僕らの理由になった、  聖なる、 ・・・ 

ああ  聖なるものは   僕らよりほかにない  

君らより  他にない   

でも  そのままでは  僕らは  泥人形、 

でも そのままでは  君らは  ハエ取り紙、 

なにかに  身を寄せなければ  なににもなれない 

自分を  ピエロに  思うのさ  

可哀そうな  自分に囚われる  人というピエロ 

精神の反射でしか  鏡に  写してみるしかない、 

聖なる、 ・・・を  求めて止まない 

もう  75億になった  妄想、 

いくら分散しても  それは 大きな力に  なるのかい? 

他の 哀しみが分かち合える のならば   それが  

君らの  勝利に  なるのかい?  

ひとつの噓が  怖いから  

75億に  増やしたからって  それが 

君らの  拠りどころに  なるのかい? 



太陽に  なりなよ  


太陽なら、  迷いようがない 

自分から  燃えて  

自分が  世界の象徴に なって 

汚れもない、 すべてを 燃やすから 

嘘もない、  すべてを 照らすから 

そして、君に 憧れるものも  やがては 

燃やし尽くして しまう  

君に  追随する者は  いない 

それでも  迷いはない  

初めから ひとりで  終わりまで 

ひとり だから 

太陽に なりなよ  

ピエロじゃなく、  太陽に 



誰も  触れることさえ  叶わない 

孤高の 存在というのは  どんな 

気持ちなの だろう? 

精神が  影や 木陰を  つくって  

小さな疑問が  僕らピエロを  迷わせる  

迷わされているのは  僕ら?  なのに  

僕らは  疑問を製造するのを  止めない  

体のギャップ、 こころの隙間、  体と心の 

食い違いが  期待を奪って ゆくよ   

希望を  踏みつぶして  ゆくよ 

ああ  あなたといたいのに  許されないのは 

なぜ? 

子供のままだったら  この迷いはなかったのに  

どうして  迷うようになったのか?  

どうして  こう選択するように なってしまったのか? 

学んだからと言って  なにが  解決したのか? 

僕らがした  このチョイスは   何なのか? 

僕らは  ピエロに  なりたかったのか? 

センチに  泣きたかっただけ  なのだろうか? 

自分を  落とし穴に  落とすのが自分とは 

そういう 自分を   虐げたがる だけ、 なのだろうか? 



心に  溶けてゆく   君の 愛が、 ・・・ 

君の愛を  遠ざけてしまったのは   やはり、 

僕なの だろうか? 



線路を 見つめて歩く  聖なる、夜が  あったよ 

数千の  星屑が  線路に敷きつめられて  

あの瞬間が  迫っていた  

ほんとうに  迫っていたんだよ  

聖なる、 ・・・・ 

ああ  思い出させないでくれ、  

聖なる、 ・・・ 



太陽は  ダメ、だろう  

ピエロは  嫌、だろう  

支配ではなく、  自分で自分を笑う のでもなく、 

他の 道が    ある、はずだ 

そう、 突然に、  気づくよ 



ピエロにならなければ  思出せない、精神  

太陽にならなければ  陶冶できない、 精神 

それは 心の一部なのに  

どうしてこうも   幅を きかせるのだろう  

もうちょっと  小さくなれよ 

遠慮して  弁当でも つくっていなよ 

なにか  大事なものが  あるはずだ  

僕らが  知らなくても  

わかっていると  感じるもの 

それを わかっているとも  思わないで 

すでに  そこに  生きているもの  

時に  愛が 手を貸してくれるけれど  

その奥に  燦然として  ・・・  

それは、   そうなのだな、 ・・・ 

僕らが  君らが  名づけたもの、  

そして、誤解するものとして  されるものとして  

永劫の パンの  匂いをさせて  

ああ  僕らは   生かされている  

もう、それが  僕らにだとか、 誰かにだとかは  

意味も何もない  そういうものだという、 

体が  拒めない、  心が 拒めない、  

精神が 拒もうとする、 ほんものは認識できない 

精神という 鏡だから、 

戦慄が  走るよ、 

喜びに! 

この  なつかしさに  

君は  

君は、 

もう 言葉にしたくない  

君は 生きていた  

思わず、  僕は  

感謝して  しまったよ  

ありがとう、  それだけでいい  

わからなくても、 いい  

君が  

生きていて  くれさえ、いたら 

君を  

いつか  

抱きしめ られるだろう 

視界に  雪が  降りしきる  

バラバラ、と 

白い 紙の 断片のように  

降り、 しきる ・・・  

数え切れない  重なる  空の、うろこ 

手の平に  すぐに 

水に なってしまう、 

その 舞い散る 白が  

終わらない、 

生きていてさえ  

いてくれたら、 

響いてくる、 ・・・   

それが   心に 響いて  

この 曇り空にも  

なれるの だろう、 



あなたと   このまま に 


それが   心に 響いて  

終わらない、 

それが  はじめから  

僕の  祈りだったの だろう  

ふと、  そういう想いが  

窓の外を  

過(よぎ)ったように感じた  



蛍だった、 のだろうか ・・



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