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君の嘆きと誓い [誓い]

君の 嘆きというのは  

僕には  なんだったん だろうか ?  

何も 解決しなくても  ただ  

聴いてもらうだけで  楽になる、  

そういうパターンだった  のかもしれない  

人を 励ますと いうことで  

自分が しっかりするのが  わかる、  と  

そういうことは  ある   

これは  お互いが  お互いの必要という  

そういう関係が  必要だと  

ひとりになって  

まったく  傍らに  人っ子一人  

見なくなって   

それが   はっきりする  

誰か  一人は  いなくては  

自分を  支えられ ない  

それを  歌う人も  いる  

歌は  自分の ために 歌うのだ  

その  流れゆく  情感が  

ある 確かなものを   見せつける  

君は  一人では ない、 という時  

それは  同時に  自分への  

子守歌にも   聞こえる  

慰めるより  勇気づけたい  

でも 

それは  僕と  君の間で  

慰めと  勇気を  交換するように  

見えるのだが、  ・・・  

君に 勇気づけを  して  

それが  僕を慰めて  いるように  

パンを  ちぎって  分け与えているように  

そういう行為に  感じられて ならない  

その時  君はそれを  信頼として  

僕に 与え  

その代償を  僕に  甘えとして  

受け取る  

君は それを自分のもの にして  

どうするん だろう?  

ここには  深い 溝がある   

僕のプライドは  その甘えに気づかず  

自分の 誇りとして  

君への 優越を  密かに  

喜ばなかった だろうか?  

僕が 気づいたのは  それだよ  

君が  甘えを  与えられた分だけ  

僕は  自分を 甘やかす結果に  

陥ると  知らなかった  

プライドは  満足したから  

これは  取り引き なのか?  

お互いに  最初はそうじゃなかった  

しかし、  関係性が  それを  求めた  

僕が  君の 甘えを 気がつかずでも  

感じなければ  動かなかった   

それは  僕も  君と同じように  

甘えを  求めていた、  そういう  

嫉妬や  プライドが あった  という、  

それが 事実だったからだろう   

だから  気づかずに  君の それを  

許したのだろう  

そういうもの だと 思った  

腐れ縁でも  なんでもいい、  

長い付き合いを  分析することはなかったし  

流れに 任せるものだと  

それが  付き合いだと  

知ったような 顔をして   

それは  微妙な問題だ  

君が 気がつかないまま  それは 事実には  

ならない  

僕が  気まぐれを  起こしただけだ、 と  

人は  本人が 気がつかない それを  

どうやって  指摘するんだろう?  

ただの  微妙な 心理の  いざこざではないか  

言わなければ  何も  変わらない  

今が  そこにある  

僕は  歩いて ゆく  

今は  耐えるだけなのか  

一人芝居の  無観客に  

時折、  自分は   未来に  

いるのではないか、 という  

錯覚の  嵐に  見舞われる  

聴こえるのは  私も  ひとりの荒野を  

歩いている、 という声  

なにか サインを 見逃すまいと  

むなしく 眼をこらして  

黄色に舞う 砂塵に   眼を 閉じる  



君の  嘆きが わからない  

わかるのは  いつも  僕の 解釈だから  

僕の 俎上の経験に  過ぎないから  

僕らは  僕らの解決を  すぐに  

絶対という 俎上に 乗せる  

似たような事情を  そういう経験則 で 

相手に  わからせるのが  

アドバイスで  解決だと  信じるから  

多くは  聴いてくれた 礼を言うだけだ  

知的感覚と  情的な感覚は  

ずいぶん 違う  

しかも、 

それは同じ 位置にいて  同じ立場で  

語られていない  

あらゆる  あいまいな  勘違いだらけの 

理解が  通じるほどなのは  

僕らの  そういう程度差に  合っているから  

あいまいさは  そのあいまいさの 違いに  

どうやって  きづけないと  気づけばいいのか? 

なにが  自分の信頼する  中心になる 感覚  

なのか?    


微妙さを  分析で明らかにしても  

明確さに  変わるわけではなく、  

ただ  細かくなり  そのままでは  混乱を招く  

という 次第なのだ      

知的な 課題というのは  お互いに  

結果を 見出しても   溝を見出すだけで  

喜べないのなら  

なにも しないほうが  ましだ  

僕らはそうして  あいまいさを  持続させ  

守ることで  それがいい加減さを  守る  

だから  社会や世間を  批判するのは  

簡単だが、   それを 蒸留するように  

透明な理解に   澄ませるには  

まったく  別な 努力・工夫 が  いる   



これらが  まったく女性的なことだと  

考える  

男は もうだめだろう  

これは男にも、 女にも  不幸なことだが  

そうして  僕らは  陰にこもり  

陰湿になり  暴力さえ  失うのだろう

殴り合うのが  健康でもあるという  思想は  

もう 通じなくなったの だろう  

政治は  それで 良くなる部分が   相当  

あるだろう、  が   

僕らは  戦わなくなるだろう  

知らずに  病気になり   突然、 機械が  

溶けだして   電気や水道、道路の 

インフラが   破壊される  

腐った 戦いが  繰り広げられた のだ  

見えない 生物  無生物  ミニ機械が  

地球を  席巻する   

最大の技術が  たった一人で  すべての  

中心になる ソフトやハードを  いくらでも  

破壊できることだ  改造銃を 製造するように  

フレア爆発が  核が  個人的に  装填される 

なにも 機能しなくなるでは ないか 

文明と  文化の基礎が  失われてしまう 

誰も  助からないではないか  

ひとりも  救えないではないか  

― 考えれば、  

すべては 起きてみなければ  

暗号資産が  ほぼ 一人の手で  開発されたように 

今、 それを  止めることが  できない  

できてしまうと  それは  僕らの世界の  

仲間の 一員になる   

誰が  インターネットを   止められるの だろう  

低周波が  無分別に  電波に乗せられたら  

僕らは  その武器が できるまで  

待って いるのだろう  

核は  使われていない  

自分たちの陣営も  危ないからだ  

金融を持つ  利益国は  そう判断するから  

が、  個人は?  

狂人的な  天才個人は?  

自分のことなんか かまわない  危ないやつだったら?  

ますます  僕らは  防衛本能を 刺激されて   

自分を 囲うだろう   

文明も  文化も   音楽のように アニメのように  

ますます  女性化するだろう   

世界は  フラット化しない、   細分化して  

混乱を 起こすのが怖くて  言い出せない  

後回しにして   実は  混乱を  深める  

1年 おいて 復帰すると思われた 東京オリンピックも 

対策尽きたまま、  誰も止められず   ・・・  

その混乱が  そのままであるのに  

ワクチンが  誰かが  止めてくれると、  

それが  一時的に  効いて  

止まったとしても  この混乱を生む  流れは  

変わらないだろう     

大きなものの中で  それを  考えても  

何も ならない  

それと  僕らの生活は   別々に  

動いて  歴史を 働かせているからだ  

それは  いつもそうだった   

ぼくらは  そのために  今の 生活を  

無駄や  犠牲に する必要は  ない   

例え、  明日死ぬのが  僕らの劇場だったとしても  

それは  僕の劇であり  君の  あなたの劇だ  

彗星が 地球に 衝突するのを  心配して  

いないように、    僕らは  それに 従うのが  

まともで  自然だ   

あと 1か月で  最後の学期が 終わるから  

遊んで  過ごしてしまおう、というのは  違う  

ほんとうに 大きな出来事は  僕らの夢と  

同じで   現実に 否定して 拒否してしまえるほど  

幻想に 見える   



君の 嘆きが  どこにあるのか  

僕には   わからない  

こうして  生きているのに   

君が  孤独で  むなしいから  

君が  絶望さえしたい 世界に  

甘えるというのは   どういう了見なのだろう?  

しっかり してくれ   

眼の前を  見てくれ   

問題は  そこにあるのだろうか?  

その二つを  僕らは  どうやって  処理するつもりだろう?  

一枚岩を  登っているんじゃないの だろう  

空の上から  自分が  見えるだろうか?  

ダイビングして  地上の自分に  抱きつけるだろうか?  

いつも  二つを  ひとつひとつ こなす  

順番に やって  

何が 起きるか    それ次第   

その時  なにをすべきか わかることも  

僕らは  毎年  初めての自分を  

抱えなくてはならない  

誰もが  初めての 少年少女を  

初めての社会人を   初めての30代を  

中高年を   つまり、いつまでも  

僕らは  初めての自分に遭い  

彼らを  創造して いかなくてはならない  

時計は  エネルギーがあるだけ  数字や  

針を進めるだけ  

時は  進まない  

もしも  そうだったら、  時が時には  

戻ってもいいはずだ     それが  

長い 人類史で  そんなことで 残った  

資料も  痕跡もない、 一度も  

恐竜は  自然に   蘇らなかった     

だから、  休むなら  今  休む

やるなら、  そう  今、という  

明日は  そういうことで  無いんだ  

大気というのは  やさしくない  

僕らが  耐えられるように  体ができて  

生まれるから  両肩に乗る  

象の五頭分の  空気の  重さに  

耐えられている   

初めから  最後まで   亡骸になるまで  

僕らは  空気を 運ぶ   

そうして  ここに  立っている    

今  僕らは  

立っているだけで  働かなくては  

ならないように   どうも  できている      

それを  嘆いても    おかしいよ   

僕らは  お互いだ   

それだけじゃない   やはり、  

ひとりなんだ    

それは  それで  いいんだ  

どちらかに  決めたいのは  なにかから  

逃げることにならない だろうか?    

ひとりで  生き、  

お互いに  生きよう、   と   

僕は  

どこかで  

誓ったような  気がする   

それが  君との   約束だったのか、    

今は   覚えていない が 、 ・・・・・・・・・・・

それを 

はるかに  

はるかに  

はるかに  隔たってしまった としても 



今 、   


誓うよ      


君へ          



             7.14
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自分を応援すること [応援]

休みに入り、気持ちにも余裕が出てくると、 

つまりはブログを書く理由が対外への理由による 

ものではない、心に直結したものだと、言われた 

ような気が、  。 


心はいつも意外な答えを持っている。それは心が 

所有しているのではないけれど、僕らが万華鏡の 

ように同じ細かな素材を組み合わせると、無限の 

組み合わせの美しい模様ができるように、予想を 

させないものだ。

ところが、万華鏡にまかせればいいものを、やたら 

知識が豊富だと過去の例や考え方に合わせようと 

して、組み合わせの解釈に夢中になってしまう。 

組み合わせの統一理論があるのじゃないかと、 

次の組み合わせを予想する数字にのめり込む。 

それも一時期では必要だが、無限の前ではやがて 

衰退する。それなら、美しい模様に注意を傾けても 

損はしないはずだ。 

僕の場合は少し違って、なにか根源的なものを感じる。 

それが語りかけるのなら、そのことを聴き取ることが 

大事になる。それは通常の思考や社会感覚の形を 

していないから、独自に表現する工夫を必要とする。 

なんでもいいが、僕の場合は、長く付き合った言葉の 

組み合わせなのだろう。   

ブログはその発露だ。それで僕はブログをそのように 

利用している。僕がその表現の工夫に転換を考えて 

いるなら、それに従って、ブログの方向も転換させたく 

なった、ということだと思う。  

題名を決めて書きだすのは、いつもの逆でできそうもない。 

書いてしまってから、題を決定することがほとんどだから、 

やりながら、題が決まるだろうというのが筋道になる。 

そのうちに決まるだろう、書いているうちに、題が浮かぶ 

だろう、というのが正直なところだ。 

この流れを僕が決めるわけではないから、それは仕方 

ないのだろう。これはやり方というよりも要領だと考える。 

僕は考えたものを書くというよりも、書きながら考える。 

頭の流れは一切確認がないから、書いてからでないと 

冷静に考えたことはない。反省などしない。推敲もない。 

基本な間違いをその場で正すくらいで、どんどん書いて 

しまう。あとで直せばいい。書ききるまで、考えずに、書き 

きる。だから、こう表現するにはどの言葉を選択すれば 

いいか、という考えはしょっちゅう起こっている。それで 

書いて、「よかったか」、という反省・確認をしないだけ。 

前にも書いたが、ピッチャーを育てるコーチの言い分だ。 

とにかく速い球を投げさせる。ノーコントロールでいい。 

どこへ行くかわからなくていい。思い切り投げさせる。 

その合理的な速い球のフォームができてきたら、初めて  

少しずつ、コントロールを教え始める。少しずつフォームを 

変える。・・それまでは思い切り投げることに集中する。 

それだ、思い切り書ききることに集中する。才能がある 

人はそうやっているんだろう。コーチはそれを知っている。 

僕はコーチではない。偶然、無意識に飛び込んでから、 

それができた。ロマン・ロラン(フランスの大作家)の言葉 

もあった。言葉が浮かばなかったら、同じ言葉で書け、言い 

回しがわからなかったら、そのままくり返せ、ということが 

書いてあり、僕はそうか、それでもいいんだ、と勇気をもらい  

それが教訓として生きた。考えながら書く苦しみから解放 

されて、ともかく人が眼の前にいるように、しゃべるように 

書くようになった。頭のつっかえや予防線に頼って、それに 

邪魔されずに書けるようになった。 

コントロールは要らない、まず大量に書ければいいんだ、と。 

その通りだった。還暦までに40万字(以上?)は書いたのでは 

ないか。小説だった、思考の作文も。詩は少ない、1,2編か。



考えるのは普段、一人の時に静かに黙ってぼんやりしながら 

ただ考えを巡らせている。時々、重要な発見があって、それを 

メモするので中断される。多くはない。いつもぼんやりしている。 

いちいちメモする必要はない、長い思考や、過去に中断された 

思考が思いもかけずに結論づけられた時だけだ。 

僕が書くことで苦しんでいた時に、していたのはこういうことを 

どう現わしたらいいのか、ということでずいぶん悩んだ。ところが、 

今はそれが肥やし(言葉の選択)になって、いくらでも利用させて 

もらっている。長い数十年だったが、もうやめようと思っていた時 

に無意識に飛び込むことになったから、役に立たないはずの 

ものが、役に立った。そんなものだろう、どんな努力も後になって 

みないと役に立つかどうかはわからない。人生半ばだったら、 

いや、その後でも今、携わっていることは一生懸命にやって 

おいて損はない。よほど生活のコントロールを捻じ曲げて、悪く 

させていない限りは、すべて役立つ。僕らがいいと思うものは、 

狭く考えられ、判断されたもので、そのうちにすべてをやりたい 

ことに結び付けることさえできるようになる。年齢はまったく関係 

なく、生活はそうできている。人との比較ができるうちは、まだ 

自分の道に入っていない。そればかりしているようだったら、 

どうしてそう自信がないのか、自分に尋ねるのが先だろう。  

わからなかったら、かまわない、ともかくこれらしいことを、 

考えずに続ける。これではないとわかるか、まったく向いて 

いないとはっきりするか(自分の考えや気持ちではなく)までは、 

ただやればいい。疲れて、倒れて、からだ、反省するのは。 

今、気がついたが、これ、自分を応援しているんだな、 

過去をもう一度出してきて、これまでの道のりを思い出させ 

ているんだな、と。つまり、次の課題へ向けて助走が始まった、 

そういうことなのだろう。   (僕は僕を応援する)



あれは 鉄道工事の  一環だったろう 

両手の幅の  重機を持たされ  

梯子段で、 地下に降りた   

とんでもない  持てる重さではなかった  

腕が 抜けるのが  わかった  

重機と ともに  梯子から 落ちた   

落ちなかった、  何とか支えて  

下まで 降ろした  

凄まじい 重さに  声で 助けが呼べなかった  

持つだけで 筋肉以上、 体がすべて  反応した  

あれは なんだったんだろう?  

持てないはずの 鉄の塊を  

落とすか  落とさないかの スピードで  

追いつく感じで  下に  

あれは  あり得たのか?  

落とせば  重機よりも  

人間が  どうなったか?  

下まで  3mは あったはずだ  

腰は  持って行かれ、  腕は抜けた  

下へ着いてから、  無理です! は 

おかしいだろ  

がたいの いかつい班長が  軽く  

一人で 運んだが、 

二度と、  二度と、  できるもんじゃない 

火事場の バカぢから、  とか言うが、  

そんな余裕は   なかった  

死ぬかと  思った  

夜の  鉄道が すっかり止まってからの  

仕事だった   朝の4時には  

線路を  試運転の 箱が  走る  

笛が 鳴って    線路から  

離れるよう  指示される

走る箱、 それを見ながら、  この仕事は 

終わりだな、  そう思った、
 

いい 夜明けだった

空気の  しみじみして 




そう、30代前だったろうか、 そんな時代だった。 

肉体で生活費を稼ぐ。出世とか、割のいい仕事とか、 

そんなことを知るのは、もう少し先だった、あの頃。

人間はなぜ生きるのか、その難問が地球ごと、僕の 

前に立ち塞がっていた。その壁に向かって、つるはし 

のひと振りを下した頃。

無謀だった。  

それに気づかない、うらやむくらいに、できないことは 

なにもない、と。  

インドから帰っても、それは変わらなかった。ひとりで 

できないことはある、とおもったぐらいだから、あきれる 

ほどに楽天の塊だった。

それでよかった。

僕は  それだったから。  

あきれるほどに、 ・・・・。
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僕の運命において [運命]

次のテーマを考えてみたが、決まる感じはするが、 

具体的に何のヒントもないのは、そうしたものか、と 

思案する。 

まだ体の芯に疲れがある。書こうとすると、急に 

眠気が来るのでわかる。一瞬、閃いた考えは  

どんなものだったろう?  

自分以外に気兼ねせず、と言っても自分の中にも 

想定読者は居る。そこにも最低限の礼儀はある 

だろう。 そして、自分の方向以外には気を取られ 

ない。と言うと、これは今まで通りか、と。また、 

実験、発想、妄想、観察、直感などにもう少し、 

関連付けを後からしてもいいのではないか、とも。 

今までは、書くと言って、先延ばし、その取りこぼし 

が多く、残されたテーマは数多いのではないか、 

という気が反省を誘っている。それをまともにやって 

みようという気は、持っていないのがそもそも、まとも 

ではないのだが、新しい世界を開きそうで、それは 

興奮・高揚することではあるが、ふつうに怖い気もする。 

それに立ち向かうのが怖いのではなく、それが大きな 

テーマで新発見ともなれば、志なかばになってしまうのが 

怖いのだ。つまらない取り越し苦労なのだが、まず感じて 

から通過するものだ。目の前にあるから、取り組むしか 

ないが、することはすっきりする。が、それを予想している、 

緩い段階では、緊張が足りないので、不安が席を求める 

余裕がある、という・・・。  

僕が望む限り、そういうことに終わりは来ない。僕にとって  

これほど確かなことはない。安心したりはできないが、そう 

いう展開が適時、適切に僕を訪れた。だから、僕はいつも 

見守られているという感覚を手放すことはできない。それは 

僕の意向・意志とは無関係だから。  

僕の想いが続く限り、この運命が続く。たかが人の寿命だ。 

知れている、そんな時間で確かなものなど知れている、と。 

それは知っている。が、それは他人の想像だ。それがどう 

いうように僕にタッチしてきて、僕が何を受け取ったかに 

ついては伝える手段がない。言葉で間接的に、不十分に 

想像してもらうのみだ。不満だが、そういう事情は、自然の 

事情だから、人間に、今の僕にどうこうできるものではない。 

そうやってできた僕の頭の世界が100%完全でなく、せいぜい 

70%なら満足するしかないという客観化する定理も知っている。 

だが、それは最後にできてきたものだが、崩れはしなかった。 

信頼はそこにあった。また繰り返してしまうが、僕が捨てるべき、 

と思ったものも、その完成品だ。この世と世界という見取り図も、 

内容の多様性も、すべてを初めから見直す、否定するつもりで 

新しく対応していこうということで、これまでに思いもかけない 

効果があった。完成とかいうものが、いかに僕らの儚い夢に 

過ぎないかが、改めて認められた次第だった。自分のものが  

失くしてしまうことで、がっかりどころか、満足するのもこのこと 

の特徴でもある。

なぜ、僕らは終わらないことに満足するのか、喜びを感じる 

のか。法隆寺が建築の柱の一本を逆さに設置することで 

自ら完成を拒み、永劫に完成を拒むことで、反対に永劫を 

願ったのは、僕も意識せず同じことをしているのかもしれない。 

その意味でなら、心理的歴史はくり返すのだろう。  

体は疲れている。が、僕はなんと疲れていないのだろう。 

流れるように書ける。思ったまま書けばいいだけだ。  

感性の新鮮さを感じる。これは気持ちいい。音楽に感謝 

するバージョンだ。気持ちよく、リードされたい。 

僕らは、・・なんて、・・ ここに、 いるんだろう!  

ここにいることの、  ‥ 素晴らしさ!!  


生がこれほどまでに、踊り、光り輝くものとは、 、 、 

僕は  生とともに   ここにいる。 。  。  。  

この感興を、  人々は  ’永遠’に例えたかったのだろう。 

他に  たとえようがないではないか、 と   ああ、  



 ・・ 思ったことだろう。  


ここに坐りながら、  すべての宇宙が、  

見知らぬものばかりが    集まり、  

僕の  周りを  回るのだ 

そんな想像が   喜びに   変わる  

そこになにもの か、  僕のすべてという 

空想が  

透過して ゆく   

海の上を  果てなく   滑ってゆくようだ  

その  快適さ、  心地よさ  

これには  逆らえない、  そう  逆らえなかった!  

だから、  これは   そう   

答えなんだ  

僕というものの  中の。   

僕は 宇宙に従属することに  深い満足を覚える   

そして、      

同時に  宇宙は  僕のものだと   感じる   

これこそ、   答えではないか!  

自我は  プライドを  発生させる!!  

それは  従属と  所有という  折り合わない  

二つの 様相から   成り立っている  

もとから  それが  成立要因であり  要素だった  

だから、  

!  

プライドは  扱いにくい  僕らの  

生命の 始動からの   根幹だった   

否定 できないはずだ  

愛は  それと  対立するように見える  

従属も  所有も  認めない  

ただただ  公平  平等に  扱い  

僕らを  まったく  差別しない  

そのために  究極の 弱さも   抱擁してしまって  

しかし、 それのない世界は  

まったく 考えられない  

泣けない世界など  生きているとは   言えない  

これが  

半世紀で  つかまえた  

僕という  根本の  その性質という  

答えなのだろうか  

少なくとも   ’僕には’ 真実であることがわかる  

それは  その人のものだから  

万人の 真実?  そんなものは  

たぶん、  ない   

愛でさえ  僕を最初から  

エコひいき   したではないか  

僕が  ほんとうに  死に損なったから?



同じ 実感を 伴うだろうが   

その人だけが  それぞれ  

たどり着くべき  ものがある、 なにかがある   

それが  この世の 実相だと  

僕には     見える   

僕の 運命に おいて   ・・  






:::

僕の聴いていた頭の中のシンフォニーは、これ 

だった。これだったんだと。自分が自分である間は、 

決して明らかにしてくれない。わからないというより、 

気がつくことが不可能なのだ。自分が青いサングラス 

なら、目の前の青色は、決して見ることができない 

ように。

50年もかかるとは、鈍いのか、よかったのか。 

 ・・・ 笑えない。   (笑)
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イエスでもノーでも、それは答えではない [イエス]

来る者は拒まず、依頼される仕事も拒まず、 

思うようになる、というのはまったく見事な矛盾じゃ 

ないか、と思う。自分の意志を行使しないで、 

自分の思い通りになんかできない。それが 

常識、とか良識、当たり前の論理だろう。 

僕はそのしのぎに遭っていた。仕事は 

できる限りは、無理なければ、多少無理か、 

と、が、やってみなくてはわからない、という 

その程度なら、仕事を引き受けた。 

とんでもなかった。家に辿り着けるかくらいに、 

背中と腰に来た。それでも引き受けた。

休日は4日取ってあったから、そこまで耐えれば 

どうにかなる、と思ったからだ。  

体も慣れてきて、昨日あたりから、ただ疲れて帰り道を、 

という感じに変わってきた。足を止めたらもう歩くのが 

嫌になるだろうから、帰れなくなる、という極度な疲労は 

峠を越えたらしく、それに懲りて、最近は自転車を駅に 

停めている。途中で買い物もしたくなかったのも、今では 

買い物をしてくるくらいに余裕だ。そして、目いっぱい 

入った最近の仕事が3日と2日で、5日間増えたのが、 

急遽、相手の気が変わってキャンセルになった。 

これなら数日の仕事が追加しても余裕だった。 

そして、また僕が直接になにもしなくても、流れが 

僕を休ませる。僕ができるなら、仕事が来る。 

できないなら、こうやってキャンセルされる。だから、 

自分からは動かなくていい。そんなバカな話は、と 

思うだろうが、運命の船に乗るとこれが当たり前に 

思える。なぜか、と問うことが愚かしくさえ思える。 

という不思議さなのだ。  

まったく山の教訓通りに生きるとは、そこまでバランス

力(りょく)があるとは想像もしていなかったが、様々な 

運命パターンの、それほどいいとは言えないパターンが 

今のものなのだ。思い通りになりながら、これがベスト 

ではない。凄いのは、そういうことが前もって、わかる 

ことだ。教訓はこういうことだ、逆らってもいいが、それは 

散々やってきた。損ばかりだった。この運命をうまく使う 

には、うまい従い方がある。向き合うことだ。あのマザー・ 

テレサのように現実の事実から目を離さないことだ。 

嘘の勇気や、体裁で、自分の恐れを隠そうとしないことだ。 

と言っても、それができれば、もう半分人生に勝利したも 

同じだ。人によってそれぞれ、何に勝ちたいかが違う。 

僕が勝ったものに縁がなければ、それに価値を見出さ 

ない人はいるだろう。

しかし、僕は大きなパターンを掴んでいる。雑多なもの 

ではない、人の生き方が集約された、ある一つの生き方、  

という。ここまでくると、悩みはもうすでにない。自分の 

バランスはほんとうにこれでいいのか、という迷いの 

選択が延々と続く限りだ。僕らは過去のパターンを 

辿ることはできない。だから、常に新しい事態を迎え、 

経験豊富でも迷わざるを得ない、そういう選択を迫られる。 

それは勝負や賭けの要素に雰囲気は似ている。が、 

いい加減な向き合い方さえしなければ、同じパターンに 

同流する。それがわかっているから、常にこれでいいか、と 

感覚的に尋ねるのだ。センスで決めるようなものだ。 

そして、常に合流して、古い自分は残り、新しく歩く、 

という感覚がある。それが実に深い喜びなのだ。 

なぜなら、そこに自分の人生という絵図ばかりでなく、 

自分が主人公であり、脇役であり、傍観者でもある、 

舞台の役者から、脚本から、演出までしているのが 

如実に感じる、わかるからだ。これほどに実人生を 

生きているという実感はない。人それぞれ違うだろうが、 

この実感は同じだろう。そういう体験は人を傲慢から  

解き放ち、しみじみと人間という不思議さを感じさせる。 

決して理解はさせない。そういう知的なものではなく、 

納得という心的な音楽、シンフォニーなのだ。そういう  

フィーリングでわかる(理解)のだ。

理屈では主観と客観が出会うとか、生と死は同じだとか、 

わかったように言えるが、やはり、違う。そういう小手先 

の知恵はいらない。 そういう不安は要らないのだ。 

不安がなければ、そういうことがわかる。ただただ眼の前 

のことに集中して生きていける。先のことを気にするのと、 

その仕事をするのにどんな準備が必要か、というのは

別々のことだ。5万もの選択肢が用意される未来に対して 

僕らは5万もの(実際には100万を超えるだろう)不確定 

なものに対応ができるはずがない。できる準備をする 

だけだ。 

その時に、夏の匂いを嗅ぐ。暑い草いきれという、野生 

の匂い。僕の血は騒ぎ、そこに進むべき何かが待っている、 

と自然に思う。それはすでに準備されていたように、それ 

こそが望んだものだと言わされてしまう、そういうものなのだ。 

僕の中から育ったものでありながら、僕の先を行く。だから、 

思わず、「君は」と言ってしまう、そういうものなのだ。区別が  

あって、区別できない、自分たちの個性。自由。  

皆が切れ切れなパターンを追いかけて、それが途中で  

千切れてしまう。自分の個性や自由を信じるのは、その 

通り、難しいことだ。まず、嫌いなことだからやらないという 

基本的な壁が立ちふさがる。すべてのことは、実際に 

やってみて決まる。人格や体を壊してしまうようなことは 

現実的な想像に任せる。それが働かせられる、最低限の 

経験をする。人殺しは問題外だが、しかし、その替わりに 

カエルを殺してみることはあるかもしれない。病気の 

人格でなければ、ふつうに悲しいはずだ。なんでもかんでも 

経験が絶対ではない。むしろ、ミケランジェロやダヴィンチの 

ように死体を解剖したほうが健康的だろう。 死はそうやって 

経験する必要がある。初めて解剖する医学生たちは 

非常に興奮する。それで冗談言いながら、笑って解剖して 

いる。奇妙な場面に見える。それが非常な緊張を示している。 

山でもそうだった。3000mくらいでも危険な岩場のルートを 

通って山を降りて松本まで来ると、皆興奮して、いろいろ 

しゃべりだした。僕にはその時、よくわからなかったが、一個の 

岩の両側は崖下100mとかという所で、鎖が一本渡してある 

だけだ。僕には庭だったが、彼らには大冒険だったのだ。死を 

今、感じていたのだろう、と。 僕まで心の秘密じみたことを話さ 

ないといけないのかな、とまでの彼らの興奮の話しぶり。 



なんか、 気分は  詩  なのだが、  

そこまでは  回復していない  

君が  ダンスに  誘って  

無理やり  リードするのは  

どうなんだろう、  

気持ちいい 半面、  うっとうしさも ある  

音楽に  似ている  

僕の  相性は   そういう感謝と  

リードされるのを  嫌う  

中途な 笑い顔に   あるようだ  

なんか  すっきりした主張を  したいと、  

そう 意固地に思ったのは   もう  

昔の ことに   なってしまった  

すべては  陶冶される  

僕らは  試され、  そこからでないと  

成長しない、  育たないように  

感じるのだ  

時には  思い切り  不機嫌になって  

それを  相手に  示すのだ  

面白いよ、  相手は  初めてで  

たぶん、  面食らう よ  

それで  離れる人は  放って  

おいて  かまわない  

やがて  戻るにしても、  

焦って  呼び戻さないほうが  いい
 

それは  自立の問題、だからだ  

なぜ   

僕らは  自立しなくては  いけないのか?  

イエス、か  ノー、というのは  

この 答えではない  

あなたが  問うようになるか

または

関心を  もたないか、  だからだ  

いずれ  選ぶだろう  





:::: 帰る場所は 空飛ぶ馬車の中 :::::


いいではないか  

この世は  ズルズル、だ  

心の  入れ替えが   必要だろうか?  

なにか  理解するとか、  めんどうだし  

この世は  からっぽ、 だ  

ひずみは  

辞書の たわみのように  

地層を 見えない力で  引っ張るだろう  

僕らの 弱さは  それを知っている  

知りながら   ひずみが 弾けるのを  

知らないふりで  

待っているから   

いいではないか  

この世は  あてにならない  

旅に出ても  

どこへ行っても  同じだ、 と  

思う  3ヵ月後の   馬車の中  

hizumi (2).jpg


リニアの次は  馬車に 

名前を  変えるらしい  

たぶん、

空も  飛べるのだろう  


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不便な便利、考えない自治体 21.7.8 [自治体]

どうも微熱があるか、体内で炎症を起こしているようだ、と。 

20行も書いて、誤って後半を消してしまう。残り前半も

読み直して、削除してしまう。  

天気図を観ていて、山崩れとか、土石流は当然だと 

思った。もともとから日本は山国で、急峻な山岳が多い。 

それで多雨なのだ。地球は今、気圧が変わりやすく、 

異常気象と騒ぐが、地球自身はそう思っていないはずだ。 

30億年に達しているのかどうか、それが星の運命として

太陽に影響されるから、76億年後に燃え尽きるらしい。 

それもあてにならない話だ。小惑星が衝突するだけで 

地球の生物環境は破壊されて、真っ暗な世界が何年 

続くのか、恐竜が滅びたように人類も少数が残る限り 

だろう。長雨と日照りがくり返し、作物は育たないから、 

生存は厳しい。それを考えるのは無駄だと、皆知っている  

のだろう。

日本がそういう地形だから、雨に恵まれ、農業は可能で 

やり方次第で有望なのだ。第1次産業とかではなく、 

生存にまず必要な作業なのだ。全員が泥棒になったら、 

すぐに食料が枯渇して、あとは野生動物、昆虫、雑草、 

そして最後は人間同士で共食いするしかない。 

そんな悲惨でもなく、東北では飢餓から子供に懇願されて

子を食う親の愛情物語が残っているのは「遠野物語」に 

詳しい。  

それよりも熱海で盛り土をするのに違反があったらしいが、 

それによってなにも危機の予知がされても周知されない 

ことだ。今までと雨の降り方が変わり、異常な雨量を前提に

国土を自治体が見守っていかなければいけない事態に 

なっているのだろう。だから、僕らが土砂崩れ、土石流を 

まるで珍しいものでも見るような気になることが、まず、 

おかしい。これまでに集中豪雨というものの毎年の積み重ね 

にもかかわらず、新しく抜本的に国土地理対策を打つべき 

時期に来ているのだろう。僕らは珍しいことのように、まだ 

自然災害ニュースを見ている。 

2階に避難、山の崖から離れた部屋で、というのはなんて 

呑気な警告だろう、まるで認知症の高齢者向けではないか、 

と思う。

それでまた、わかる気もする。海外から帰った時に思うのは 

「英語を勉強しよう」と強く思うことだ。飛行機のタラップを 

降りるまでは。ところが、待っているのは日本の空気だ。 

仕事でまた海外出張するのでもなければ、英会話の 

勉強をする人はいない。夢とかモチベーションがなければ、 

無理なのだ。それは少し、海外で普遍化しかけた意識が、 

戻ってきてからは、日本人化してしまうから。 それは 

島国根性とかいうのではない、厳しい風雪から、ぬくい

湯船に帰って来れたからだ。そうなれば、おちょこで 

一杯となってもいい、あとは野となれ、山となれ、だ。 



あまりに問題が山積みで行政は疲弊しているのだろう。 

だから、手つかずの問題は発見しても見過ごされるし、 

それでなくても増え続けるのが問題だ。島の役場に 

参席したことがあるが、問題の羅列の報告。100くらい 

だったか。その場その場のやっつけ対策。それが解決を 

見込める対策なら、大したものだが、オウム返しのような 

応急処置、どこかの真似ばかり。そして、税金を多く払う 

企業のお偉方が出席していて、町長と並んで座っている。

問題は過疎化一本に絞れるのだが、よそ者の言うことは

聞きそうもないのが地方らしい。郷に入れば郷に従う、のが 

今も地方に流れているのだ。東京や都会にいても、そこらは 

変わっていない部分(地域)がある。テレビで地方をとり 

上げる番組が、コロナで扱う機会が増えたので、それでよく 

なったか。それとも知らない人はやはり他人だから、よくなった 

のは有名人だけか、なんとも。 テレビでの日本人の”和”の 

精神は見事である。それは立派に機能している。が、

信じすぎている。どこまでをそれで信じ、どこからかは 

疑うべきを知らない。やがて、わかる。

全体で、マスコミも気象庁も予報の仕事をきっちりやろうと 

している、と見える。 

住民、国民に笑顔をむける気づかいばかりで、気持ちは 

少しも向いていないのではないか。どうして現代では、 

昔もかもしれないが、仕事を楽しむ人が少ないのだろう。 

仕事を切り分ければ、お金(一応、生活費)や名誉より 

も、疲れるくらいの運動、必要な神経の明るい使い方、 

うまい食事という健康に欠かせない比重のほうが大きい 

のだが、それが反対になっている。仕事が幸せだという 

感情が見られなくなっている。その点、農業の年収は低い 

にもかかわらず、自然を相手にしているので、見えない 

恩恵にあずかっているせいか、変に田園生活の甘い夢

などもたなければ、農業をやめる人は少ない。後継者が 

途絶えるのが問題なのだ。 

解決には一、自然な、人間工学(的)とかの方法で、二、複雑 

でなく、直感的で、三、さいごに安くできること、だろう。それが 

ベタなこと、提案だが、ほんとうはそういうことに関心が向く 

ような意識改革が先だろう。すると、そういう教育者をまず 

育てる処からだろうから、誰が頭を叩かれて、気づくだろうか、 

というそこからだ。  

問題が見えないから、しあわせも見つけられない、と言ったら  

言い過ぎになるんだろうな。  全部、 眼の前。

まず、その気になる。それも別に展開が必要になるのだろう。 

では、小休止。 






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不安を解消する体と心 [不安]

1階から2階へ、夕食後1時間か、暗い階段を上る。  

照明を点けないから暗いだけだが、経済効果を  

気にしてというのではない。そして、3階へ暗いまま  

辿り着いて、パソコンのある部屋に入る。この時まで  

自分が書くつもりなのはわかっている。が、なぜ  

また書くんだろう?とも感じている。毎回似たような  

もので、書けるとも、書けないとも、またなにか 

書こうとも考えていない。まったく。  それで  

わずかに不安じみた気持ちを感じているくらい。 

そして、99%は書くことになるのだが、一度も  

いつも書いているのだから、また書ける、と思った  

ことはない。  

それが当然だと思っている。この「当然だと  

思っている」のを考えてみれば統計的には不思議  

なのだが、確かに何を書くのかわからない、と  

いうのは一種の出たとこ勝負と同じで、自分では  

いつもどう生きたらいいかわからない、そういう風  

に前を向いているのだろう、向いているつもりなの  

かもしれない。そう考えると、この不安じみた気に  

しない気がかりは、健全な不安なのかも。  

もしかすると、これが「今」ってやつの正体なのかも。  

そして、こういう前書きを終えて、またどうしようもなく  

書けるの?という疑問になる。極力考えずに、ただ  

平常心を装う。平常心などというものはない、と僕  

は思っている。実際にそうなった時は、自分は 

どんな状態かなどと考えずに、なにか集中した  

ような、呆然としたような、になる。それを待って  

いるのではないか。 そう言えば、それで30分  

くらい坐ったままという時もあったのを思い出す。



食後にスイカを食べたので、腹がいっぱいでも、  

スイカで腹がいっぱいのような気になる。胃には  

スイカしか入っていないのを頭が勝手に想像する。  

そして、そう短絡に体の感覚を決める頭を、 

バカだなぁ、と思う自分は何なのだろう。もう一つ  

の頭ということはないだろうから、初めの感覚が、  

それをキャッチした頭のその感覚(満腹)の説明で、  

それをバカにしたほうが本来の頭の働きかもしれ  

ない。初めが感覚の判断で、次にその判断を頭が  

反省したのだろう。頭は体が考えたことを反省抜き  

で説明に翻訳する機能がある、ということ。これ  

なら矛盾なく、矛盾した考えを説明できる。  

この分別は役に立っている、と気がつく。なぜなら、 

脳をだますというのは、矛盾した事柄だが、実際に  

僕らは脳をだますからだ。子供が軽い打ち身を  

した時など、痛いの痛いの飛んでけぇ、と親は 

よく言うから。 

痛いのが現実に飛ぶ?が、飛ぶのだ。子供は  

親が自分の真実だと感じているから、疑いを  

知らない。それで痛いのはいなくなった、と真剣  

に思ってしまう。それで痛みは発生しても、意識  

に散らされてしまう。  

また、病院などで死にそうな家族が、もうだめだ、  

と言うと、そんなことないです、大丈夫、治りますよ。  

とか言って慰めるが、これは実際にわずかだが、  

病人の気を楽にさせる。それを感じて(当人は知ら  

ないかもしれないが)「やさしいね」とか「ありがとう」  

とかお礼を言う。これは僕らの意識を転換させること  

で、現実に蓋をする技術だろう。無駄な慰め、気休め 

といったものではないのだ。だから、体と脳の思考  

を分別して、それを応用、利用することで僕らは  

自分の暗い気分や暗い予想を転換させられると  

いうのは、かなり可能性があることで、僕の自由な  

雰囲気はそれを実践している処から来ているの 

だろう。  



ヨガの呼吸は大事なもので、本格的に勉強をしたことは  

ないのだが、鼻の呼吸*で右か左かだけでもすこぶる  

役に立つ。あがり症の人がいるが、なにが上がるかと  

言えば、「気」があがるのだ。だから、あがったら、気を  

降ろしてやればいい。  

まず呼吸だが、右の穴だけで呼吸して、左の穴が  

つまっているようだったら、ひどい時は眠くなってしまう。 

活動停止を促す呼吸状態だからだ。起きて活発に  

活動したいなら、左の穴を空気を通過させなくては。 

あがり症の場合は逆に右の穴が詰まっている場合が  

多い。この状態だと、頭が活発だから、まず眠れない。  

右の穴を通過させて、気を落ち着かせることだ。  

穴を通過させるのに、無理をすることはないのだが、 

初めての時はガンコな場合がある。その時は 

綿棒を先を緩くカーブさせて、鼻の奥に入れてやる。  

鼻腔を刺激させればいいので、そっと少しだけ  

さするだけでいい。強くやると、粘膜なので傷つい  

てしまう。後で多少ヒリヒリするとしても、治りは  

早い。 

一度トライしたら、時間を置く。体が判断して、 

自然に通じる。10分しても通じなかったら、  

左の鼻を抑えて、右だけで吸い込むトライ。 

また時間を置く。その時に、必ず気をその  

鼻の穴に向けること。考えると言っても、 

近いからいいかも。鼻の穴の中に気を  

向けて、綿棒なり、抑えて呼吸なりをする。  

職場で昼間眠くなった時も応用できる。  

左の穴が詰まり気味のはずである。  



そして、次は肩から上に上がった気を降ろす  

ことだが、これは腹の下におろす感じで、  

肩を揺らして、少し降りたら腹筋を揺らせる。 

気は見えないし、感じもない。あるものと 

見なして、それを降ろしていると思い込む 

しかない。やっているうちには、1週間から 

3か月で慣れる。  

気は降りればそれまでの、やたら不安だった  

のが、軽くなるからわかる。あとは、自分が  

それと向かう気持ちができているかで、

それがあれば不安はほぼ解消する。  



なにか問題が持ち上がったら、まず体調を  

整える必要があるか、体に聞く、尋ねる。 

心に尋ねるのはその次。  

まず、体。双方は影響を及ぼしあっているから  

体から、そして心へと気を回す。そのやり方が  

すべて”の問題への第1前提であり、前準備と  

いうもの。 

お忘れなきよう。この世に対する、自分に対する  

すべての前提は、体にある。考えるのは、その後。  

僕らはどんぶりに乗った一寸法師のように、川に  

流されたまま、うまく考えることができると、思って  

しまっている。船酔いするだけ。それは十分な  

考えじゃない。まず、陸(おか)に上がって。  

体が体幹を十分に保てる環境にして、始めることが  

肝心。下痢でも、便秘でも、よい考えは生まれない。  

不思議だが、体がそういうようにできている。これ、  

真理の基本かもしれないなぁ。

(としか思えない。) ― と、一人うなづく。 ウン。 




* 鼻の右左だが、自分の後頭部から鼻を見る位置 

でふつうに右と左。静と動。静が詰まれば、動が活発に。  

動が詰まれば、沈滞に。日常では双方必要なので、  

鼻呼吸は双方、楽なのがいい。  


追加:: 

何度も書いたので、止めたが、この鼻呼吸で僕が一命を  

取りとめた事実だけは報告しておきたい。ヨガの呼吸には  

細く長く呼吸を行う方法もあって、僕はそれができたので  

喘息の初めての大発作で、気道が炎症でほぼ塞がった時 

にこの細い呼吸をして、50分後に気道が回復して、  

助かった。助けは呼べなかった。動くと、呼吸ができなくなり、  

窒息してしまう状態だった。冷静だった。人には乗り越えられ  

ない試練は与えられない、という言葉を思い出した、一瞬。 

後はどうするかで精一杯だった。わずかに、しているかして  

いないかの呼吸をするのは、50分、苦行だった。それで  

よかったのだろう。どんな時も運は開けた。向かい合いさえ  

すれば。
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本当の自分じゃなくて、今の自分 [自分]

お年寄りの転換・切り替えの断面は仕事に出ると 

今日も見ることになった。しかし、時代の断面は 

どうも見えない。もう目の前で展開しているはず 

なのだが、小器用な仕事への対応が目立つだけで、 

それが新機軸の事業というものには、お目にかから  

ない。 

少子高齢化のなるほど、という展開・影響がまだよく 

見えないのだ。 もう少し、経営の動きの中枢部 

という範囲に足を突っ込まなければ見えないの 

かもしれない。 体の回復が早まるのがわかった 

から、コロナ後の楽しみを考える気になっている。 

メモを残さないと、あまりにしたいことがあるので、 

一つしているうちに、他を忘れそうな具合だ。 

メモで大事なのは、することそのものではなくて、 

それをするのに、どうワクワクしているかを残して 

おけば、またその気になれる。ただの言葉のメモ 

だったら、時間とともに気分も消える。今、どんな 

具合にやりたいか、その高揚を思い出せる言葉が 

必要なのだ。 

思い出した。スェーデンボルグだった。彼の霊界に 

ついての著作は西洋でも一代の奇書として扱われ 

ている。これほどまでに天界?のことを詳しく、語った 

者は今まで一人もいなかったし、彼以降にも現れて 

いないからだ。なので、どうしても珍品扱いをされて 

しまうのだ。天才はそれを芸術として、社会に認め 

られた形で現すからいいが、霊界といういかがわしいと 

思われがちな世界を夢物語をつづるように、ここまで 

書いたのは、それが彼の経験という心理事実だった 

からだろう。 

カントは彼と同時代の人で、すぐに遠隔地のテレパシー 

現象を実際に現地に調査したか、させたかしたらしい。 

20世紀までいろいろな作家や芸術に影響を与えたが、 

それは至極当然、というやつだろう。 

カントは「形而上学の夢によって解明された視霊者の夢」 

というのを書いて、スェーデンボルグを精神病者の夢と 

したらしいが、その経緯はまだ読んでいない。この著書は 

重要で、ここから理性批判の3部作への幕開けになる 

からだ。だから、純粋理性批判は特に、「形而上学の夢に 

よって解明された視霊者の夢」に深く関連しているはず 

である。 

僕の立場ははっきりとは、まだ決まっているわけでは 

ないが、カントに近い。書き始めれば、しっかりしてくる 

だろう。それによって、前に書いた「あの世」についての 

意見をまた蒸し返すだろう。 改めて思えば、幽霊に 

ついても、あの世についてもその意見で矛盾を見出せ

ない。スェーデンボルグが見た事実を、カントは否定した。 

僕は、その事実を認めながらも、それが真実ではない 

という仮説を述べるつもりだ。カントと同じ方向だが、 

拠って立つところが、少し違うだけだ。  要は幻惑は 

夢だが、夢を見たのは事実だ、ということだ。その塩梅

がうまく説明できなければならない。どういう秘密や真実 

がそこに潜んでいたか、云々である。 

7月の中旬以降にならないと、余裕がないから、そこら 

辺りから始まるか? 



事実と向き合うのは難しい。夢を見ていれば、現実は 

考慮しないものだ。恋人に夢中なら、家族の冷静な 

意見はまったく耳に入らない。聞く耳持たない、という 

やつなのだが、恋に恋する時もあるし、そういう憧れに 

弱い時期もある。そこに理想を見出しているのだから、 

認めるべきも、そうは見えない。自分の意識に入って 

来ないからだ。どんな事実も、自分の憧れに都合がいい 

ように解釈する。抵抗が挟まれば、余計にそれを信じ 

ようとする気持ちが強まる。それも社会体験の一部なの 

だろうが、’夢’も正しい、’夢破れ’、も正しい。そして、 

夢破れ現実を知るは、正しくもあるが正しくもない。溺れる 

ほどでは何事も行きすぎだということだが、その程よい 

加減が決まっているのでもないから、気持ちは突っ走り 

たいし、理知は熟していれば止めようとする、その葛藤が 

そのまま、いかに事実に向き合うかの難しさを示している。 

僕らは気持ちに任してしまいたいし、理知の正しさを信じ 

ようとするが、本当の処は、そのどちらでもない。 

皆が同じ天秤秤を心に備えているのではないからだ。 

天秤秤は千差万別、好き嫌いの激しさから、正否の 

判断の多様さからそれらの絡み合いの仕様から

異なっているから、相性というなんだかわからない、 

気の合う、合わないという理解と誤解の隙間に嵌って 

しまうことにもなる。どちらかではない、理解の部分と 

誤解の部分がごちゃ混ぜになっているのが、ふつーの 

現象だ。僕らはそういう風にできているから、そういう風に 

生きている。理屈に合っている、好きも嫌いも多様に、 

万華鏡を覗くように、景色が無限に変化するわけだ。 

それが一面、自由さを楽しむことでもある。 

そうすると、わけがわからなくなってくる、それこそが 

もともとわかることができないものに近づいたこと。 

なぜなら、’自分’もその一つだから。その’自分’も 

昨日までの自分は死んだ、新しく復活する、とかの 

台詞を言うことがある。いつの自分が本当の自分だ、 

というのはない。小学生も、大学生の頃も、あれも 

これも自分だと考え始めたら、もう考える使い方を  

逸している。言葉の中で迷うだけだ。 



自分、 今、 そこにいるじゃん。 


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明るい記憶の自分と檻に入った隷属類の自分 [自分]

人生、という言葉  

そこに横たわる 困難というのは  

それだけで  詩的だ  

それに 立ち向かう、という シチュエイション 

思うだけで   意気が 上がる  

よくぞ  答えてくれた、 と  

僕の  ストーリーに  必要だったもの  

体が  ボロボロに なる、  という  想定は  

実際に  来てみると  

どうしようもなく  感じる  

大したことで  なくても  

重たいのは   体だ  



ちょっと 立ち止まって  

僕は なんだったのか、と  

過去という  慰労碑を  前にしてみる  

思えば、  戦うことではなく  

闘える 自分であること、  それが 

よかったのだ 

自分は ここで 終わりじゃない  

まだ 進むべき  景色がある  

その 原色のような 光景、  それが 

見えるのだ  

その時、  肩が 外れてしまうように  

なにかが  爆発している  

それが  無駄とか、  バカげたとか、  

たぶん  そういうものでも  かまわないのだ  

食いちぎれそうもない  縄を  

食いちぎるのでも  いいのだ  

なにかすれば  それは  

Nothing  ではない  

僕らが  方向に  勘違いしなければ  

それを  いつでも  完遂させることは   できる  

それが  十年前は 簡単なことだった  

そういうことでも いい  

今 なにができるかが   大事だ  

人それぞれで  23歳で 平均 筋肉は  

衰えを 開始する  というが、 

僕は 27歳まで  自分が死ぬとは  

考えられなかった  

だから  インドへ行ってみた  

インドという  大陸の一部を  

ひっくり返せると  思っていた  

避暑地は  雨で   ホテルは ひどかった 

カーテンは風に  あおられ  

破れた窓から  雨が 入ってきていた  

ひどい 下痢に  憔悴しきった体で  

ベッドに 横たえながら  

初めて、  死を思った  

自分が  死ぬかもしれないという  

翌朝を  迎えられない  気持ちに  

沈んだ  

誰一人  知る者のいない  異国の地で  

僕の 骨は  どこへ行くのだろう  

ガンジスは 遠い  

誰が  焼いてくれるのだろう?  

不安は  小さいものだったが  

それより  寒く  冷たい  部屋だった  

いつ 寝つかれたのか、  朝に  

眼を  覚ますと  日の光が窓から  差し込んでいた  

両親と  すき焼きを食べている 夢を見ていた  

こんな 状況でも  

親は  親なんだ、 と  そう思った  

不可能なんて  なにもなかった  

だから、  負けるとは  思っていなかった  

インドを 理解するために  多くのことが  

不勉強なままだ、  そのまま 来てしまった  

その想いが  強かった  

それは やがて  日本へと開かれる 呼吸だと  

その時は   知らなかった  

半世紀も  経ってみなければ  わからないことだった  

することが  あり、  

それに  掴まらない  

生活は  目的に変えられる ものではない  

ライフワークが  なんだと  言うんだろう?  

そのために  必死で頑張るというのが  

僕には  わからない  

今、 生活は  ここにあるじゃ ないか  

生きることは  目的を 果たすためじゃない  

読書も  ブログも   仕事も  

二義的、という 衣装をかぶっている  

本質は  あまりに 単純で  

僕らの 知性は  その単純さに  耐えられない  

退屈してしまう  

必要なことだけを しなさいと 言われても  

それだけでは  足りなくなってしまう  

どうして  必要以上に  僕らは 食べるんだろう  

どうして  余分に  夢を拡大させようと  するんだろう  

自分の夢を  叶えるのに  

イルカの ノイローゼを  必要と するんだろう

チンパンジーの  ヒステリーを  引き起こすのだろう  

飼育員は  動物の  高度のストレスに  

気づいていない  人間とのやりとりに  長けた  

高度の 感受性に  養われて 

自分たちの飼育に  安心してしまっている

僕は  最近、  動物園へ行って  

彼らの ストレスに  懲りてしまった  

もう  行かないだろう  子供と一緒でなければ  

彼らは  僕だから  訴えたかったのか?  

わからない  あの厩舎に 戻ってからの  

(なぜ 観客から 隠れて  厩舎に行ったのか)

異常な 叫び声、  連れの子も  

キーッ キーッ、  鳴いていた

見つめなければ よかった、  

行かなければ よかった  

同情など  していなかった  

君たちは  どうして ここに いるんだ?  

どこから  連れてこられたんだ?

伝わったとしたら、  そういうメッセージ、だったろう  

彼らは  観客に  演じて表情を  見せることを  

飼育員とともに  学ぶのだ  

そういうことは  すぐに学んでしまう  

牛や 馬は いい  

人間との長い 共同作業が あったから  

その収穫の喜びを  共にすることができたから  

動物園の  見世物は  どんな喜びがあるだろう?  

犬のように  人間に合わせること自体を  

喜べる種が  いたのだろうか?  

統合失調症の人は  おそらく、  

動物園には  行かないのだろう  

行かないのだろう、  その 檻が 怖くて  

動物に  感情論を  持ってくるのは  

やめようよ  

そんなのは  問題を  表面で  

扱って 終わってしまう  

可哀そうだ、じゃなくて  

彼らと  共に生きる道は  ないのかと

考えるのは  不可能なのだろうか?  

なぜ  僕らは  生き物を  心底、 

必要とする のだろう?  



真摯な問題 などない、 と思ってみる 

軽薄な 問題など  存在しない、と言ってみる  

さまざまな  レベルで  

さまざまな  問題が  浮かぶ  

泡に過ぎないものは  やがて  破れ、消える  

気を 塞ぐものは  やがて  症状を 発する 



コロナは 真摯な問題か? 

軽薄な問題とか、  陰謀論か? 

それを示すように  それに対応した  

年齢層や 職業意識が  自己保身を して  

それぞれに  分かれる  

それぞれが  恐れるものが  

それではないと したら?  

ということも  考えはしないだろう  

ほんとうの 問題は  どこに あるのか? 

個別に そのことに 当たっていては  

埒が 明かない  

本質に  僕らは  一つのことを  

ほんとうに  知らない  

死を  知らない  

わからないものを  真摯に 恐れる  

軽薄に  恐れ、 恐れないフリを する  

死を 恐れなかったら、  きっと  

スーパーマン だらけの  国が 出来上がる  

それは  きっと  困ることだろう 

社会は  無意識に  必然に  支配と隷属を  

必要とする  それは内部に  協調と和合を 

強制的に  含むのが 自然だ  

そういう結論は  危険だろうか?  

でも、 そういう面を  見つめ直す ことでしか  

この 閉鎖状態は  いずれ  

乗り切れないの ではないか?

そういう考えは  夢、 だろうか?  

あまりに 広げ過ぎた  見果てぬ 夢 だろうか? 

ハワイの 火山だったろうか  発見された 

微生物は  2000℃の中で  生きている  

数億年前に  5000℃の世界だった  

地球で  生きていた微生物が  生きていなくても  

合理的だろう、  なにしろ  

もうそんな環境は  残されていないから  

わずかにも  生き残っていない  

大きな 進化は 彼らが光合成で  

エネルギーを  作り出すことを  見つけたこと 

ここから  植物は  固まった陸へと 進出 

植物に  慈悲はない  

彼らには  毒も 薬もない  

生きるのに必要な  対応があった  

花はなぜ、 これほどに 美しいのか? 

色盲のように 暗い色で  統一されなかった  

この美しさだけで  人に  感動を  

与え続けることが できる  

この  累々とした 生物たちは  

何をして、 そのしたことで  どれだけのものを  

地球で  支えているのか?  

僕らは  都合よく  まだ知らない、それらに  

名前づけしただけで  

一体、 何を知っているのか?  

僕らは  捕食と 棲み分けしか  していないのか 

棲み分け という共存に  捕食が加わっているのか  

弱肉強食に  棲み分けの ゾーンがあるだけ 

なのか  

17年ゼミ という  素数に当たる年に生まれる  

セミたちは  その他の偶数年に 生まれるセミよりも  

捕食される 可能性が低いと、  知っている  

捕食者が生まれる年を、  素数のために  

避けているからだ  

素数とか、 セミが 知っているはずがない 

しかし、17年は  数える方法を  

体が  知っている   僕らは  

感心だけ  している  

1週間とか、  2週間くらいを 生きるために  

彼らは  17年を  土の中で  

だから  彼らに  生きる長さの  損得は  

ないだろうし、  生きる意味も 生きがいも  

ないだろう  

理由のために生きるのは  僕ら  だけなのだろうか?  

理由は  それほど  大事なものだろうか? 

そう考えて  うまくいく、だろうか?  

僕らは、  ああ、  なぜ 考える  



朝と  夜は  あるのだろうか?  

それは  太陽と 地球のそれぞれの  

回転運動から  起きる  光の祭典と 影  

朝があったら  それは 朝にはならない  

いつまでも 明るい昼間だろう  

夜がなければ、  夜が明けるのでなければ  

朝は  来ない  朝に ならない  

それは  光の加減の ことで  

いつまでも  マスコットのように  

形を 変えずに  ある朝は  ない  

僕らは  言葉の内容を  知っているからこそ  

その内容に  感動したりするが、 

化学記号に 感動する  化学者のように  

記号に  特別な感情は  持たない  


言葉は  呼び覚ます キーかもしれないが 

そこに あるものでは ない  

生き物では  ない、  鉱物では ない

だから  残るものではない  

人類の後に  誰が  それに興味を  

示すだろう?  

生き残った人間だけが  それを  認める  

それは  暗い  沈滞した記憶ではないだろう  

明るい記憶にするには  僕らが  

そこに  経験の標識を  立てなくては  

体と  心の  汗が 必要だ  

考えただけでは  記憶にならない、  

子孫へと  伝わる 明るい記憶に 

ならない  

迷う必要が ある 

いろいろ 思いめぐらす 必要がある  

考えるのは  最後だ  

相手の 気持ちになって  立場になって  

どういう行動が  必要か、 現実的な想像が  

必要になる  

あの時、  どうして  そうなったのか  

細かく  しっかり  思い出す必要が  ある  

自分の  見たこと  聴いたことを  

キャッチする  

そうしないと、  その場で  立ち止まってしまうことに  

なる、  そうなって しまう  



僕らは  困難を 発見しない  

困難の可能を  発見し、  または  作り出しさえ する  

困難には  突き当らない  

困難という 窒息空間の 中で  

そこで  どこから 崩すのか  見渡している  

もう  困難が  分解されるのを  予期している  

側には  窒息の鬼が いるのを 感じながら  

すでに  勝つことを  予期している  

そこに  困難の 喜びがある 

それが  金字塔に 見える  



こういう  なにもかもが  

これからの  物語に  感じられる  

微生物の 記憶までは  たどり着けないだろう  

けれど、 

知の 発端の機会までは  ・・・  

ゴリラの 気持ちにまでは  ・・・  

オランウータン(森の人)の  気持ちに までは  ・・・  

夜空の 小さな光が  星だったと  

知った 最初の 驚きまでは  ・・・  



行ってみたい  

君を  活かして みたい  

遠い  僕だった、  遥かな 僕と     

話してみたい   ・・・



君よ、   

僕は  君に   

あこがれる  

僕は  なんだったのか

君は  僕を  知ってる?  ・・・  




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yokohama の 野毛山動物公園で、 檻にいれられた

自分。
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何も信じないがなにかを奇妙に途轍もなく信じている [信じる・疑う]

空はいい。   十分に広い。  

でも、 星空は 違うように感じる。  空を超えて、 

その向こうに宇宙を 感じる。  それが 星々の 

効果、だろう。 

このこと、 僕ら人間が  星を見上げて  

遥かなるものに  想いを寄せる、 ということ  

そのことが  非常に 単純に思える。 

あまりに、 そのまんまなので  そのまま、・・・ 

なにも いらないのだ、  思うのは  

考えることじゃない。 

青い空を見ていて、  すがすがしい気持ちにはなるが、 

夜の空のように   そこに吸い込まれそうで 

向うから  見られているとさえ、  感じることが  

できる。 (文章では: できない)

見る、 というのは 不思議で  

見ることができなくなると、  向うに 行ってしまう。 

そして、 今度は 向うから  僕を 

見始める。  そんな気がするのは、  

いつも    どうしてだろう、と  思う。  

ひとつの  個という存在を  抱き込んでしまう。  

抱き込まれてしまうから、    そんな気に  

なるのだ。 

遥かに、  という言葉が もどかしい。 

遥かに、  といくら思っても  それでは  

足りない、   力不足だ、  と。  

この 宇宙を  抱こうとして  

遥かに  抱き込まれる。  

そして、  そうなのだ、と思う。 

これで、  いい、   そう思う。  

なぜか、  それでいい のが わかる。 

わかる、

わかる、  

わからないのに  わかるから  

不思議だ。  

わからないのに、  。  



君に わかるのか、  この気持ちが、  。  

泣きたいのに  泣けない。  

泣いても  叫んでも、  この気持ちは  

どうにも  ならない。  

この  遥かな、  広く  続きすぎる  

情感は、・・・。  

情感なのか?  これは。  

もう ちょっとで   僕は  

風船のように  割れてしまうそうだ。  

この気持ちを  保ち続けることなど、     できない!  

それでは  自滅して、しまう。  

それが  わかっているのに  わからない、 

それが  やめられない!  

僕は  僕であることが  

やめられない よ!  

これほどに  僕が  人間であると、 

感じたことがあるだろうか?

自分は  ’にんげん’ なんだよ、 と  

まるで  神みたいに  思ったことが、  ・・・・。  



幾千もの  夜 があって、   

幾万もの   星、 を 数えたろう。  

それは  僕の  シンフォニー   

夜の  大音楽!  

心、 引き裂かれ  

息、  荒れ、 乱れ  

体  震え、  痺れ  

その洪水に  抱(いだ)かれたか!  



まるで  歩くようだよ、 

すべてに 満たされた  道を。  

そうなのだ、  僕は  ここに いて  

僕を  抱くことが できる  

君を  抱擁する ことが できる  

一緒に  先も わからない 道で  

天気のように  雲行きが  変わりやすい  道で 

なにかを  知っているのではなく、  

目的が  あるのでもなく、  

そこにいるのが   嬉しい。 

一緒であるのが  温かく  感じる。  

お互いが  何であるか、 知らない。  

お互いに  どこへ行こうかと、  思っていない。  

ただ  一緒に  いられるだけ。  

それが  なにかであると、  知っている。  

それが  大切だと、  信頼している。  

それが  すべてではないと、  知っている。  

それで  問題は  解決しない、   そう、  

知っているよ、  でも、  そうじゃない。  

そういうことを  求めているんじゃないから、  ・・・   

そういう形を  残そうと言うん じゃないから、 ・・・  



気がついたんだ、などとは  言わない。  

それは また  そうではないと、 

気がつく  サイン。  

遥かに、  

遥かに、  

思い出したんだ。  

僕が  なんであるか、 を。 

生きてるじゃないか、  と。 

なんて ことを  してくれたという 

喜び ! 

なに やってんだか、  という  

祝福 !  

すべてなんて  求めるものじゃ ないんだよ  

ありのまま、とか  気にするなよ !  

そのままなんか、  誰も  知らないよ !  

僕らは  変わり 続ける、  

なにを  どう  がんばったって  

大人になり、  肉体は   死ぬ。  

それについて  アリバイを  求めすぎる。  

そんなに  安心して   どうするの?  

安心して、  それで  終わりじゃ ないだろ。 

それで  すべてが  終わるわけじゃない。  



なにも  終わらない。 

どうして? と  尋ねてみたが、  

なにかを  期待したのでは なかった。  

答えは  聴く必要が  なかった。  

なかったのだ、  もう  わかっていた。  

そんな気が  もう、 していたから。  

答えは、  ない。  

それが答えだと、  わかる前から、  

それを 感じていた。  

すでに  出ていた答え だったからだろう。  

僕らは  何度も  その答えに  たどり着き、  

そして、  また始めから、  知らなかったように  

時代を  くり返すのだ。  

その  完全に  知ることが、最初から  

できないことの 範疇にある、  それを! 



すべては  変化する。  

すべては  無限大へ、 そして  

逆行して  初めという ”始” に もどる。 

すべてが  異なった始まりと   異なる、 終わり。  

僕らに  何が  介在できたのか?  

僕らは  ぼくらのことしか  できない。 

だから、  常に  それを 生み出してきた、  

新しく 創造するほかに  僕らは  

僕らで  あることが できない。  

ひとり ひとりが  それぞれの見方で  

それぞれの 言い方をする、  思想する、 

行動する、   守る。  

その 営みをさせるもの、  

その  努力をさせるもの、 

その  困難に 立ち向かわせるもの、  

その中に、  

僕らの  生きるという、  何か が ある。  

僕らの  営為、が ある。 

僕らの  プライドが ある。  

僕らの  理由が  ある。  

求めても  得られない、  それが答えである、という  

僕らの  永遠の  練習が   ある。  

自分が  一回の  くり返さないゲームが、  ある。  



遥かな、  

遥かな、  

この  遥かな、もの。  



朝、  起きて 顔を洗います、 

歯を  磨きます、 と作文に  書いた。  

それが  荘厳な 行為だったとは  言わない。  

でも、それは  難民キャンプの 

出来事だろうか?  

平和とは  そういうこと以外を  

指している のではない。  

それを  良いとも言わない。  

そういうことでは、   ないから。  

そういうことではない、と  言っても  

それは  大きな壁のように  感じられて、  

暗いシンフォニー の響きのように  

黒い雲が  恐怖を  満たすように  

大きく  目の前に  広がり続け、  

まるで  すべてを  覆ってしまうようだ。 



それらは  僕らの心を 介して  

世界に  届けられる。 

それらは  僕らの  知っているもので  

それらは  新しい恐怖であり、  

新しい  祝福である。  

いずれ  時代が 解釈する。  

僕らは  すべての現象を  心得ている。 

未知のことが 起こるとさえ 知っている。  

そして、 既知のこと、対策 しか  なす術がない。  

僕らは どうして、  なぜ   それらを  

持っていないのか?  

捨てたのか?  

まるで  海中の魚たちが  

陸上の  動物の話を  しているようだ、  

陸の上を  歩いたこともないのに。 

耳で  音を  聴いたこともないのに。  

魚は  陸に出て、  一度死ぬだろう。  

運よく  助かって、 海に戻った時、  

海中で 話していた話を  くり返すだろうか?  



僕に 向かってくる 動物や 魚の現象は  

続いている。  

彼らが  哀れだ。  

僕には  なにも  わからないからだ。 

それに どう対処していいのか?  



遥かに、  

遥かに、  

まさか、  彼らも  感じるのだろうか?  

彼らに  共通な なにかを  僕に  

感じることが  できるのだろうか?  

僕は  どうして  こんなに  死に損なったのだろう?  

心で  死んだのは  数知れず。  

からだが  事故にあったのも  20回以上。  

山では  もっと微妙な瞬間が、  幾度も。  

それでも  運は信じられなかった、 

運は  僕の 生きる態度にある、 と見えた。 

その方向でなら、 死にそうもないと  経験論が。 

ちょっと 邪悪な念で  すぐに 怪我を。 

隙など あったものではなかった。 

未だに  ただ謎だけの   ここまでの 道のり。 


ひとりで  歩きたい、 と思った。  

気楽に  気兼ねなく  やっつけたい と。  

それは現実で 叶えても、  夢では  

叶えることは できなかった。


ひとりに  なれなかった。 

どんなに真っ暗闇で、  山奥でも  

動物が  息づいていて、  

自然が  胎動するように  包んでいた。  

それを  呼吸するように なると、 

都会が  なつかしかった。 

風呂とか トイレが  文明であり、  

文化だと  如実に  わかった。  

教科書や  店員には  この「如実に」 という 

内容が  なかった。  

風呂に 浸かることで  雨の中の、 下山、  

あの びしょ濡れの 帰り道が  

思い出すことで、  嬉しかったこと!  

あの  みじめな寒い、 自分が  

どれほど  嬉しかったことか !  

そうやって  雨の 降りしきる 中を  

歩いた!  あるいた、 

歩いた ことだった。  

何も  考えて いなかった。  

なにも  思わず、   ただ、  

風呂に  入りたかった!  

ああ、  入りたかった。  

もう それだけで  文明も、文化も  

十分じゃん。  生き返るよ!  

それだけだ、   生意気に、  

生きるって、  それだけでいいじゃん。  

そう 思えた。  鼻の先まで、  雨の滴が  

滴り落ちる  その 無言の歩行で。  

山が  けぶっていた、  

紅葉が  ポツンポツンと、 

セーターの 柄のように  

山が  けぶっていた。 

ああ、 けぶっていたよ。  

僕の  青春だった。  

なんでも しておくべきだった。  

そうしてきた、 つもりだったのに、  

やはり、  隙は  あった。  

ついに  エベレストは  逃してしまった。  

地球の 箱庭を 登るつもりでいた。 

8000m を知らなかった。

誰か日本人が  登った。  悔しくもなかった。  

ただ  自分が  悔やまれた、  

悔やまれて、会見のテレビ、の前で  

泣いた。  

自分が 泣いているとは 知らなかった。  

ウッ ウッ、 という 嗚咽が  

自分からだとは  思わなかった。  

それから  声を上げて  泣いた。  

子供の時以来に  声を 上げて。  

こんなにも  登りたかったのだ、  と  

自分を  気の毒に  思いながら、  

泣いた。

子供のように  泣いた、  

恥ずかしくなるまで、  

泣いた。  



地球は  箱庭だと、  

自分の家の 庭だと、  ・・・  

そう思っていた のに、  ・・・  

僕らは  自分を  知らない。  

僕は  君を  信じない。  

世界を  信じない。

僕は  自分を  信じない、  ・・・ 

そんなこと、  

必要では  なかった、  ・・・

そういう 生き方が  必要だった、  そこに  

僕の  チョイスは  いらなかった。  

自分の方向に  向いているなら、  

もう 前もって  選択されているから  

改めて  迷うことも  ない。

泣きたいときに  また なったら、  

泣けば  いい。  



どうして  

こんなに  

気持ち  いいんだろう?  

世界は  そこに  ある。  

それ以上に  なにを  望む? と

僕が  自分に  言っている。  

僕は  僕だ、  

これ以上に  僕について、成功は  ないだろう。  

そして、  

僕は  変わる。  

また  僕になる、  

また  僕は 言える。



僕は  ボク だ。   



また、 ・・・・・・ 

棕櫚の木の 下で   会おうよ、  

地球の  箱庭で、  ・・・
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