SSブログ

感覚は環境に心は知に支配されるについて [支配]

見るということを、時においてくり返し同じことを書いて 

きたが、どうしても理解されているとは思えなくて、また 

書くためにどう工夫しようか、と考えたりする。 

道元などを読むと、彼が仏教哲学の肝のような中心概念 

を見据えているのがわかる。生半可の考察である書き方を 

していないからだ。 しかし、どうもそれについて道元ものを 

書いた評論というものは、そこに肝に達しているかどうかは、 

まず達していないことがわかる。 禅、ということになるの  

だろうが、この禅問答が頓智じみていて海外でその飛躍した 

センスが人気が出たのだろう、それが疑似的な悟りの代表 

みたいになってしまった感がある。  

道元の仏教哲学観は見事なもので、それはよく整えられた 

哲学のようにも読むことができる。そして、多くがそれをそう 

読んでしまっているのだ。それは一般論でこういう考えだと 

言っているようなもので、そこに肝があるのなら、それをどう 

表現するかで言い方に工夫をせざるを得ない。だから、その 

意味では道元が実際に悟った人かどうだったかというのは、 

わからないことだ。わからないとなっていなければ、道元を 

どう読むことも可能だろう。ブッダが知恵の人だったので、そこら  

辺りは仏教では実にあいまいである。そうならざるを得ないからだ。 

好き好んで難解を標榜したり、装ったりしているわけではない。 

その点で、美を例に挙げて、見ることを説いた小林(英雄)は 

適切だったと思う。  見ているものが、コップはコップに見えて  

薬缶はヤカンに見えているのではだめなのだ。これを聞いて 

え?なんでと思ったのなら、あなたはまだ「見える」ということ  

を実経験していないのだ。その時が来るまで、それはなんのことか 

わからない。が、一度その一般的にただ見る、ということが突破 

されると、一瞬で理解する。ああ、見えていなかった、と。  

人情でも、自分が親になると、初めて子への愛情がどういうものか 

わかる。人情はその立場になってみればわかりやすいことであるが、 

見るや聴く、肌で感じる、ということは実は言葉にならない肝を 

含んでいるのだが、僕らはそれを見ない。なぜなら、言葉で世界を 

入れ替えてしまう教育ばかりで、なにが肝なのかもわからなくなって 

しまっているからだ。それでも、その人の感受性や、仕事柄直感が 

働いたりして、それぞれその一部分では感じている。むしろ、ノウハウ 

やコツとして獲得したり、覚えているかもしれない。 それも脳で処理 

しているという意味で、見えていないのだ。  

僕らはものを見続けていると、自然にそれを認識しづらくなる。時には 

見ているモノだけがそこに中心でだけ見えて、その周囲が真っ黒に 

なったりする。集中してみていると、これは自然に起こる。例えば 

浮き出て3Dで立体的に見えるようにデザインされた図があるが、 

あれは眼の焦点距離を変えることで、浮き出て見える。そして、 

焦点距離を変えたまま、今までの世界を見ると、狂ったデッサンを 

見ているように見えるので、慌てて焦点をもとに戻す。 

それは形を変えた例だが、そのように実際には僕らは見ているものは 

一方通行で融通性のない日常視点で見るのに慣れ切ってしまっている。 

だから、なにかに美を発見してそういう絵ばかりを死ぬまで描き続ける 

という行為がわからない。そういう画家は実際にいたわけだから、残された 

絵画がその画家がその美を見続けたという証拠なのだが、現代絵画は 

子供のイタズラ描きに見える。つまり、そう見えるのは僕らがそこに美を 

発見できない証左なのだが、僕らはそこで自分が「見えていない」とは 

とてもとても認めることはない。一瞬、それが通過するかもしれないが、 

気に留めることはない。それが気にかかる人だけがその世界に入って 

ゆく。これは感情的な解釈で、どの絵が好きかとか、どの音楽が好きか 

という選別とは、まったく違うことを言っている。 

そこでは肝の発見というものにおいては、一般論という分野は存在して 

いない。それは人々が陥るところの社交術のようなものだ。  

「君の言っているのは一般論に過ぎない」という批判は暗に、君はわかって 

いないと言い表すようなものだが、それはとても失礼になると知っている。 

論は思考に属し、思考は知のものだ。知には自分と同じく、プライドが 

強く働く。頭から否定・批判したら、相手のプライドが傷つくのを知っている 

から、論理的な物言いになる。 

僕らがそういう社交術を気にしては、肝を発見するのは覚束ないだろう。 

自分で出会った、また発見した肝は人生の中心を占めるようになる。 

わかればわかるほど、わからなくなるからだ。

見るのも、初めは見れば見るほど見える気がするが、次第に見るほどに 

見えなくなってくる。「それ」に達するまでは。 

狼と一時生活を共にしていた子供は、人間になれなかった。自分の思春期 

もわからず、単語も数語しか覚えられず、夜の森のかすかな物音には 

非常に敏感に反応して唸ったりしたが、近くで銃を発砲しても聞こえなかった 

らしく、反応なしで平気だったという。 

今でもアフリカの原住民は2㎞の先の動物が見えるが、遠くを見ることを 

忘れてしまった僕らは、1㎞先でも見分けられないだろう。僕らは無限の 

可能性とか言いながら、非常に狭い範囲でのものごとにしか反応しない 

ような生活に追いやられている。それは感覚器官の事実だけを言って 

いるのではなく、心の夢や自由においても、平等とか平和、愛についても  

その在り方について、わからなくなるまでに、わかっていない。 

見えていない。  



*知は素晴らしいと、僕は思う。僕が気に入らないのは、現代は 

知だけが優先され、知だけが脅威になっていた。そして、自然の 

脅威がやってきた。が、そのコロナ後でさえ知で、AIやITで解決を 

図ろうとしているくらいに、頭まで偏向してしまっている。その 

傾向が顕著であり過ぎる。 

札束で腹は満たせないと、書いたことがあるが、数日はそれでも 

食えるだろう。煮炊きの燃焼材料にはなる。だが、電子マネーは 

まったく食えない。 電気や電波を利用したのは知の文明だが、 

そもそも電気や電波は自然のものだ。そして、その性質には 

詳しくなったが、電気はそもそも何?電波は何?光は何?という肝は 

そもそもなにもわかっていない。わからないものは、肝だから、わから  

ないものなのだ。

電気は電気だ。それはこうだ。言葉でわかるわけがない。電池の実験 

などで小さく感電して、指を少し火傷した時に知るだろう、電気はあの 

「ビリッ」だ、と。それこそが肝だ。ウナギの肝の話じゃない。 

その「ビリッ」の向こうのどこから来るのか、子供が想像するようなら、 

そのうちに電気の正体も明かされる日が来るかもしれない。 
nice!(14)  コメント(0) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。